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 次の日、洋子の最後の仕事が終わった。仕事の後は同僚と軽く飲みに行っただけで早めに帰宅した。寿退社であり、皆から祝福の言葉を掛けられたが素直に喜ぶ事が出来なかった。とりあえず幸せな振りをする事には成功したが、これは朗の思いを踏みにじって手に入れたものなのだという気がしてならない。

 その次の日、ぼんやりとした気持ちのまま下りの電車に乗り込み、郊外にある朗の墓地へ墓参りに出かけた。平日の午後であり霊園に人影はほとんどない。入口で手桶を持ったお婆さんとすれ違っただけだ。高台にある霊園はまばらに生えている木の間から、どこまでも広がる住宅街の無数の屋根が見渡せる。この季節にしては暖かい陽射しの中、洋子は朗の元へと歩を進めた。

 墓前まで行くと新しい花束が置いてあった。最近誰かが来たのだろう。その花束は両端の花入れではなく、真ん中に横たえて置かれている。洋子は自分が買ってきた仏花を花入れに生け、線香に火を点けてしゃがんだ。目の前の花束は白い花びらの端が茶色く変色してはいるが、まだ瑞々しさを保っている。花束を包んだ透明のビニールが重なった部分に何かが挟まっているのに気が付いた。洋子はそれをつまみ出した。

「これ……」

懐かしい大好きな三人の笑顔が映った写真だった。朗と、シルバーレイク・タウンにある食料品店の店主サム、そしてサムの妻アニー。サムの店の前で撮られた写真だ。洋子の心臓がうるさいほどに音を立てた。

「ザックだ。ザックがここに来たんだ……」

 朗がシルバーレイク・タウンで撮った写真は長い間見つからなかった。一年前、サムにその写真のことを尋ねられたが、どこにあるのか分からなかったし、そんなものがあることさえ洋子は知らなかったのだ。シルバーレイク・タウンの警察の一人、アンダーソンが隠し持っていた。それをFBIが押収したとザックは言っていた。

 きっとザックが帰国する前の日だ。それでザックの様子がおかしかったのだと理解した。母親の墓前でアンソニーが泣いていた時のことも思い出したのだろう。

「でもどうして……」

洋子は写真を元の場所に戻しながら、朗に問いかけるように首を捻った。なぜザックがこの場所を知っていたのかが分からない。

「洋子ちゃん?」

突然声を掛けられ驚いて振り向くと、洋子の顔を確認するように前屈みになりながら朗の母親が近づいてくるのが見えた。会うのは納骨の時以来だ。それからは音沙汰もなく、洋子からも連絡はしていない。五月の朗の命日にも、洋子は日にちを二週間ほどずらして墓参りに来た。後ろめたさもあり、誰とも顔を合わせたくなかったのだ。

「……お久し振りです……」

慌てて立ち上がり頭を下げた洋子に朗の母親は微笑んで応えた。

「来てくれたのね。あら……」

朗の母親はザックが持って来た花束に気が付いた。挟まった写真を取り出して眺めると顔を綻ばせた。

「きっと、あの方だわ」

「えっ?」

動揺した洋子に朗の母親はにっこりと笑った。

「いえね、先週だったかしら。突然外国人の男の方が訪ねて来て。朗のお墓の場所を訊かれて行ったのよ。朗の事件を捜査してらしたFBIの捜査官の方だったの」

 ザックが朗の家を訪ねていた事など全く知らなかった洋子は、ただ口をポカンと開けて朗の母親が微笑みながら話すのを聞いていた。

「もうびっくりしちゃって、私は英語なんて、ねぇ。あの方も日本語が分からないみたいだったし、困ってるところに聡が帰ってきてね、それで何とか三人で話をする事が出来たの」

聡、朗の弟だ。今は大学生のはずだ。そんな事を考えながら、以前何度も訪れたことがある朗の家のリビングルームで朗の母親と聡とザックが三人で話している場面を想像しようとした。

「背が高くてとてもハンサムで、物腰の柔らかい素敵な方だったわ……」

「はっ?」

思わず洋子は疑問を口に出してしまった。物腰の柔らかいザックなど今まで見たことが無い。あの男はちゃんと使い分けているのだと分かった。しかし、こんなことに感心していたらザックに怒られるだろうとも思った。「遺族に会うんだから当然だろ」と常識人ぶって説教してくるだろう。

 眉間に皺を寄せ考え込んでいる洋子の隣にしゃがんだ朗の母親は、墓石を見つめながら穏やかな笑みを浮べて続けた。

「あの方にとっては、たくさん抱えてる事件の一つでしょうに……ああいう方が憶えていてくれるっていうのは、嬉しいことね。私達家族の事を随分気に掛けてくれているようで、解決までに時間が掛かった事を詫びてらしたわ。朗が長い間、犯罪者の汚名を着せられていた事に」

洋子は黙って頷くと、朗の母親は自分が持って来た線香に火を点けた。

「私には捜査の難しい事は分からないけれど、色々と事情があるのでしょう。だからね、私は『あなたを許します』って伝えたの」

洋子はハッとして顔を上げた。あの夜にザックが言っていたのは、その事だったのかと、やっと気が付いたのだ。何よりも朗の家族から許しを得た事は、ザックにとってどれほど救いになっただろうか。洋子には想像も出来ない。

「何でも今はFBIは辞められて、家業を手伝っていらっしゃるんですって。用事があって日本に来たからっておっしゃってわ。もう帰っちゃったのかしら?」

「ザックは一昨日帰りました」洋子は心の中で答えた。

 どうやらザックは結婚の事は言っていないようだ。洋子はザックに合わせて黙っている事にした。朗の母親は続ける。

「忘れ物をしたっておっしゃってたから、これの事だったのね」

写真を見て微笑むと洋子に顔を向けた。

「洋子ちゃんは、どうしてたの?」

「わ、私は……」

正直に言うべきか迷った。しかし、彼女は朗を産んで育てた人だ。朗の墓前で、この人に嘘などつけない。

「実は、今度結婚することになって、日本を……」

うっかり日本と言ってしまった洋子は慌てて言い直した。

「東京を、離れることになったので……」

嘘ではないと心の中で言い訳をしながら洋子は朗の母親に恐る恐る目を向けた。朗が死んでから、たった一年半で別の男と結婚する事をどう思うのだろうか。快く思うはずはないだろう。しかし、この人は息子を失ったのだ、どんな嫌味も叱責も受け止める覚悟だった。

「そうなの! 良かったわね」

意外にも朗の母親は笑顔を浮かべた。その顔はどこかホッとしたような、肩の荷が下りたといった感じに見える。洋子は信じられない思いで見つめることしか出来なかった。洋子の戸惑いを察したのか、朗の母親は笑顔を崩さずに説明を始めた。

「実は、あなたの事ずっと気に掛けていたの。でも、もしもあなたがもう朗の事は忘れて新しい人生を歩んでいたらと思うと、思い出させることになるんじゃないかって連絡出来ずにいたのよ。本当に良かったわ! おめでとう!」

 自分の子供を失い、それでも他人の幸せを喜ぶ事が出来る。洋子はこの女性に畏敬の念を感じ、俯いて控えめに話し出した。

「あの……忘れてません、朗の事は。これからもずっと……」

洋子は写真の中のサムの顔を見た。一年前、ほろ酔いのサムが教えてくれた。「大切な者の死を乗り越えるというのは、忘れる事ではない」と。

「私は、朗と一緒にいて幸せでしたから……朗は、私を幸せにしてくれましたから……」

朗の母親の目に影が差し、心配そうな顔になった。

「でも……それじゃ、相手の方が気の毒だわ」

「……その人は全てを知っていて、私の中にいる朗のことまで全部まとめて私を愛してくれてます」

洋子はザックの顔を思い出し、心の中で問いかけた。

「そう言ってもいいよね? ザック……」

 少し涙ぐんだ朗の母親は、それで全てが分かったようだった。「先に失礼します」と立ち上がり、歩き出した洋子を呼び止めた。

「洋子ちゃん」

振り向いた洋子に朗の母親は微笑んだ。

「幸せになってね」

多少の後ろめたさを感じながら洋子は返事をした。

「はい……」

「それから、あの方に写真をありがとうって伝えておいて」

「えっ?」

洋子は戸惑いながら、にっこりと笑った朗の母親を見つめた。どういうつもりなのだろうと訝った。自分とザックの事に勘付いて、鎌をかけているのだろうかと。しかし、その笑顔に朗が重なった。朗の正直で開けっぴろげな笑顔は母親から受け継いだものだと分かった。一年前、あの笑顔を少しでも疑ったことを後悔したはずだ。その言葉をそのまま受け止めようと思った。そして、それを朗の言葉として。洋子は震える声で応えた。

「分かりました……」

 太陽が西へ傾き始めた霊園はとても静かだ。心を穏やかにさせる線香の香りと、時折吹く風によって木々や卒塔婆が触れ合う音に包まれ、出口を目指して歩いていく。ここへ来るのは最後かもしれない。そう思った洋子の頬を突然冷たい風が刺した。自分が泣いている事に気が付いた。溢れてくる涙を手の甲で拭いながら、一度だけ洋子は振り返った。

「いつかその時が来たら、きっと笑って会いに行くから……だからその時は、あの笑顔を見せてね、朗……」




 次の日の午後、洋子はザックに電話を掛けた。

「あと二週間ぐらいかな」

渡米のめどが立った事を伝えると、受話器から変わらぬザックの低い声が聞こえてきた。ザックが帰国してから三日だが、ずいぶん長く離れていたように感じられる。

「そうか、俺の気が変わらないうちに来たほうがいいぞ」

「何よそれ? 気が変わったらどうだって言うの?」

「来ても家に入れてやらない」

意地悪だが声音からしてザックの機嫌は良いようだ。洋子は仕返しのつもりで短く笑った。

「いいわ。そしたら私ハリウッドに行って、キアヌ・リーブスと結婚するから」

ザックが鼻で笑った。後ろからは賑やかな声が響いてくる。

「なんだか楽しそうね?」

「俺が帰ってきたんで、皆お前がいると思って集まってきたんだ。まだだって分かったんだから帰ればいいのに、居座って酒飲んでる」

「あ、そうだ。ザック……」

朗の墓地で昨日あった事を話そうと思った。朗の母親からの伝言も。しかし、それはやめておいた。ザックは人の為にした事で礼を言われたいというタイプではない。「持ち主に返しただけだ」きっとそう言うに決まっている。それに、今言わなくてもそのうち折を見て伝えればいいことだ。二人の時間は、これからたくさんあるのだから。

「何だ?」

ザックに促され、洋子は咄嗟に話題を変えた。

「あ、あなた私の卒業アルバム見たでしょ?」

「あれ? 何で?」

洋子の不意の追及に慌てているザックの声が聞こえる。

「こっそり見るなら、ちゃんと元通りにしておいてよ。カバーが逆さまになってたわよ! もう、いいかげんなんだから!」

「おかしいな……でも、笑わせてもらったぞ」

昔の自分の姿を見られるのは恥ずかしいものだ。しかも十年も前であり、今考えるとかなりいきがっていた頃だからなおさらだ。洋子は口を尖らせて抗議した。

「もう! 憶えてなさいよ! そっちに行ったらあなたのも見てやるから!」

「悪いけど、うちにはそんなの無いから」

「嘘よ。大学の卒業式で変な帽子被ってる写真が絶対あるはずよ!」

「そんな物はとうの昔に葬った」

洋子は「行けば分かるわ」と不敵に笑った。

 ザックが床下にでも隠そうかと悩んでいると、大きな声が後ろから響いた。

「待ってるよ! ハニー!」

たくさんの人の笑い声が聞こえてくる。

「うるっせーぞ! ジョン!」

ザックが笑いながら悪態をついた。アンソニーも大きな笑い声を上げている。

 今のは誰かと訪ねると「物心ついた時から俺に付きまとっている変態だ」とザックが親友について説明してくれた。ザックのその言い草にまた後ろが騒がしくなる。新しい家族とその陽気な仲間達が電話の向こうで笑っている。そして、もうすぐ自分もあの笑いの輪の中に入ることが出来る。洋子の心が暖かいもので満たされ、自然に言葉が出てきた。

「ザック、ありがとう……」

「何が?」

ザックが訝しげな声で訊いた。洋子は胸が詰まってしまい、やっとのことで声を出した。

「ううん……何でもない。ザックも言ってくれないの? さっきみたいなこと……」

「だから言ってるだろ。俺の気が変わらないうちに来いって」

洋子は苦笑いすると溜息をついた。やはりこの男から甘い言葉などは期待できないようだ。

「分かったわよ。じゃあ、気が変わったらキアヌ・リーブスの連絡先調べておいてね。得意でしょ、そういうの。それぐらい面倒見てよね」

「しつこいな、お前も」

 しばらく憎まれ口を叩き合ってから電話を切った。洋子はベッドに腰掛けてテレビを点ける。情報番組の中で天気予報をやっていた。今年は冬の訪れが早そうだと伝えている。洋子は冬の訪れが早かろうと遅かろうと気にはならなかった。桜の開花も待つ気はない。すぐにでも、ザックの元へ飛んで行きたい気分だった。


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