Fate -運命ー
「そもそも、彼女はどうしてあの町へ行ったんですか? あまり考えたくないことですけど、後藤朗の後を追うつもりだったんですか?」
堀井が神妙な顔で尋ねるとザックはうんざりした顔で答えた。
「皆同じこと訊くんだな。違うよ」
「彼女はあなたに話したんですか?」
「いや。訊いたけどあいつ、はぐらかしやがった。もしかしたら、あいつ自身も分かってなかったんじゃないかな」
「でも、あなたには分かってるんですよね?」
「分かるっていうか、感じるんだ。言葉で上手く説明できない。多分あいつは理由が欲しかったんだ」
堀井は眉を寄せた。
「理由?」
「理由だよ。アキラが死ななきゃならなかった理由が欲しかったんだ」
ザックもかつて同じような事をしていた。買い物に出掛けた先で突然現れた男が乱射した銃で母親が死んだ後、その現場になったスーパーマーケットに何度も足を運んだのだ。何をするわけでもなく、ただ立ち尽くしていた。事情を知っている回りの大人達は、そんなザックを痛ましさと共に特異な者として見ていた。ザックはただ考えていたのだ。母親がした事を。された事ではなく。自分の母親が、運命に嫌われるような事を何かしたのだろうかと。しかし、そんな物は見つかるはずもなかった。ただ麻薬中毒者が作り出した狂気の犠牲になっただけだと分かった。
「例えば、あれ」
左前方を走るタンクローリーをザックが指差した。
「今あれが横転してきたら俺達はどうなる?」
堀井が嫌な顔をしてザックを見た。
「変な事言わないで下さいよ……」
「絶対に有り得ないなんて言えないだろ? 実際そういうことで命を落としてる奴だっているんだ」
堀井は溜息をつくと、口にするのもおぞましいという感じで顔をしかめながら答えた。
「……そりゃ、慌ててブレーキ踏んだところで間に合いませんよ。あっという間に激突してあの世行きです。痛みさえ感じる暇があるかどうか……」
三車線ある道路の真ん中を走っている堀井の車は左の車線を走るタンクローリーに近付いていく。さらにザックが言った。
「もし運転手が銃を持っていて、こちらに向かって発砲してきたら?」
「そんな事はあり得ない、ここは日本だ」と言わんばかりに堀井が失笑した。ザックが続ける。
「運転手が丸腰だという根拠はどこにある?」
「…………」
「もしかしたら酒を飲んでるかも知れない。クスリをやってるかも知れない。今あの運転手に正常な判断が出来ていると誰に分かる? 誰が保証する?本人すら気付いてない場合がほとんどなんだ」
車はタンクローリーの運転席に並ぼうとしていた。
「もしかしたら、居眠りしてるかも知れないぞ」
タンクローリーを追い越した堀井がミラーを覗くと、運転手は穏やかな顔で前を向きしっかりとハンドルを握っている。安堵の息をついた堀井にザックが声を掛けた。
「良かったな」
「いつもこんな事を考えながら生活してるんですか?」
「そんな訳ないだろ」
ザックは笑ったが、すぐに口元を引き結んだ。
「でも、そんな風にして死んだ奴のことを赤の他人は言うだろうな。『運が悪かった、それがそいつの運命だ』って。それで片付けるんだ。だけど、身内の人間にとってはどうだ? そんな言葉で片付けられるのか? 大体、『運命』なんてただの結果だろ? 運命に逆らってるつもりでも、その逆らった結果が運命って事になるんだろ? いいかげんな、ただの都合のいい言葉だ。俺は運命なんて信じない。あいつがどんな星回りだろうと、俺の知ったことじゃない」
暫くは二人とも黙っていたが、前を向いたまま堀井が口を開いた。
「訊いてもいいですか? あなたを撃った犯人て、どういう人物だったんですか?」
「ティムか。ただの、チンケなヤク中だよ」
ザックは素っ気無く言った。
「クスリと、女子供を売りさばいて金儲けしてるような奴だ。たった十五歳の女の子を平気で背中から撃ち殺すような。でも、あの時……」
ザックはぼんやりと前を見た。
「二発撃たれた後、俺はそいつと刺し違えてもいいと思ったんだよな……」
そんな事を考えたのは、その時が初めてではない。世の中がこんなにも不公平なら、自分のこんな下らない人生なんていつ終わりにしてもいいと思っていた。
突然ザックは運転席の堀井へ顔を向けると不満そうにまくしたてた。
「でも二発撃たれたから、絶対二発は当ててやろうと思ったんだ。そしたらあの野郎、もう一発撃ちやがって。今思い出してもムカつくんだよ。……でも、あいつはその二発で死んじまったからな。ま、俺の勝ちって事だな」
「どこまでも負けず嫌いなんですね……」
堀井が苦笑いしながら呆れた視線を向けると、ザックは前を向いて座席の背にもたれ独り言のように呟いた。
「病院で目が覚めた時にさ、何であんな奴と刺し違えなきゃいけないんだって思って。すげぇバカバカしくなって。そうしたら、そんなこと考えた自分が少し怖くなった」
この男の身体を流れる血は冷めているのか、それとも熱過ぎるのか。どちらにしても、それが両刃の剣になった事は間違いない。堀井は頷いた。
「……それが、あなたがFBIを辞めた理由ですか?」
「いや、その時はまだそんな事考えてなかった。退院して実家に戻ったら、家の状態がひどい事に気が付いてさ。赤字続きなんだよ」
「儲かってないんですか?」
ザックが苦笑いした。
「儲かる訳ないだろ。ずっと俺が金送ってたけど、あれじゃな……俺もまたいつあんな事になるか分からないし……」
「大丈夫なんですか? そんな所で家族養えるんですか?」
「でも、あそこには腕のいい職人はいっぱいいるんだ。まだやれる事はあるはずなんだよ。それと、うちには馬がいるから。あいつと一緒にいるには馬が必要なんだよ」
「彼女はそんなに馬が好きなんですか?」
堀井の問いにザックがニヤッと笑った。
「逆だよ。あいつは馬が怖いんだ。前に無理矢理乗せたら、怖くて喋れなくなったんだ」
堀井は怪訝そうな顔で訊いた。
「それで、どうして?」
「分からないか? 俺が馬に乗ってる間は、あいつは俺に近づけない。あのうるさい女とこれからずっと一緒なんだぞ。そういう時間て必要だろ」
「はは、なるほどね。あなたのお父さんて、どういう方なんですか?」
ザックはタバコに火を点けながら言った。
「親父か、親父は頑固だな。すげぇ頑固だ。あと、たまにものすごく大人げないことするんだよな。高校生の時にさ、親父の留守中に家のライフルを持ち出して遊んでたんだ。庭で撃ってたら、ちょうど帰ってきた親父の車の後部座席の窓に当たっちゃってさ。親父はすげぇ怒って……あの時はマジで殺されるかと思った」
堀井が呆れて言った。
「当たり前でしょう。そんなことして……」
「その後だよ。親父が『ライフルはこうやって撃つんだ!』って言って、当時俺が大事にしてたバイクを撃ちやがった。バイクは燃えるし、親父はそれ見て大笑いしてるし。あの後、一ヶ月は口きかなかったな」
堀井はやれやれと溜息をついた。いたずらも仕返しも桁違いだ。そんな所に嫁に行く洋子の身を案じた。しかし、いくら家に銃があるとはいっても、あの彼女がそれを手にするなどという事は無いだろうと勝手に決め付けた。
「あなたのお父さん。相当面白い人みたいですね」
ザックは苦笑いすると、その後もアンソニーとの強烈な逸話を披露した。
「でも、親父はヨーコと気が合うみたいなんだ。まぁ、あいつの両親がもし生きてたら、俺との結婚は反対するだろうけど……」
堀井は前を向いたまま、静かな声で話し出した。
「旅行中の出来事だったようですね……」
ザックは黙ったまま堀井に目を遣った。
「雪道でスリップして反対車線に飛び出してきた車と正面衝突……二人とも即死だったそうです。会社員の夫と、パート従業員の妻。共働きだったようですね」
ザックは堀井が何の話をしているのか分かると前を向き、黙ったまま話に耳を傾けた。
「当時の新聞の片隅に、小さく記事が載っていました。その時の事故の担当者と話をする事が出来ました。家族を良く知る保険会社の担当者とも。二十年かけて住宅ローンを完済したばかりだった。当時学生だった二人の娘さんが、アルバイトをして貯めたお金で両親に温泉旅行をプレゼントした。その帰りの出来事だそうです……きっと、仲のいい家族だったんでしょうね……」
窓の外に顔を向けているザックを堀井がチラッと見て言った。
「どうも彼女は、旅行とは相性が悪いみたいですね」
「やめてくれよ……俺、今旅行中なんだよ……」
「あれ? あなたもそんな事気にするんですか? さっき散々私を脅かしておいて」
「悪かったよ……」
不服そうに謝罪したザックに堀井がクスッと笑った。
「一年前、彼女の旅行中に死に掛けて助かっているんですから、あなたはもう大丈夫ですよ。多分ね……」
ザックは恨めしそうな顔で堀井を見ると溜息をついた。
「ま、家に無事に帰り着くまでが旅行ですから、最後まで気を抜かないで下さい」
「はいはい……」
空港に近付くと、ザックはジーンズのポケットに手を入れた。
「あれ?」
そして眉をひそめながらコートのポケットに手を入れると、慌てて堀井の方を向いた。
「ホリイ、悪い! やっぱり、さっきの封筒いいか?」
仕事の帰り、マンションの近くまで来た洋子は顔を上げて自分の部屋のベランダに目を向けた。もしかしたらという思いもあったが、やはり電気は点いていない。
自分の部屋のドアを開け真っ暗な空間が見えると、ザックが来る前の生活がすぐに甦ってくる。二週間足らずの同棲が終わった。暗闇の部屋に戻った自分があまりにもありふれていて、ザックがいた事自体が夢だったのかも知れないと思ってしまう。
部屋の電気を点けると、ローテーブルの上に何か載っているのが目に入った。ザックの住所と電話番号だけが書かれた紙だった。
「もう! 素っ気無いなぁ……」
ぼやきながら紙を摘み上げると、もう一つテーブルに載っている物があった。黒いビーズが付いた革紐が小さな輪っかになっている物だ。そのビーズに見覚えがある。今朝ザックが着ていたシャツの襟元に付いていたものだ。
「これって、もしかして……指輪のつもり?」
洋子はそれを左手の薬指に嵌めてみた。確かに指輪に見えないことも無い。つい口元に笑みが浮かぶ。
左手の薬指に指輪をするのは初めてだ。朗からは貰わなかった。アメリカに行きたいと言っていたから「余計な金は使うな」と洋子が言ったのだ。「結婚指輪があればいい」と。あの時は理解ある振りをしていたのかもしれないと、今さらながらに洋子は思った。もし「どうしても婚約指輪が欲しい」と言っていたら、朗はアメリカ行きを断念しただろうか。
「そうしたら……今頃私は朗と……」
呟いて洋子は俯いた。一人きりの部屋の中だが、誰かに聞かれたようで気が咎めた。今は別の男と婚約中でありながら、そんな事を考えるのは不誠実だ。誰かにそう責められたように感じる。その誰かとは、おそらく自分自身なのだろう。
朗があんな事にならなければ、もしそうならば、今頃ザックはどうなっているのだろう。考えても無意味な事で洋子の頭の中はいっぱいになった。まだニューヨークでFBIにいるのだろうか。自分が父親にどれほど愛されているかにも気付かず、家にも帰らないままで。そしてアンソニーは、あの家にまだ一人ぼっちで息子の心配をしているのだろうか。洋子は首を振って溜息をついた。運命がどんな風に転べば正解だったのかなど誰にも分かりはしない。
洋子はベッドに腰掛けると、革紐で出来た指輪を見つめた。ザックが教えてくれた事が甦ってくる。
「アキラは、シルバーレイク・タウンにいる間、君に会いたがっていた」
ザックからそんな話を聞かなければ、もっと能天気に何も考えずにアメリカへ行けたかも知れない。朗が写真を撮るのに夢中で、自分の事など忘れていたと思い込んでいれば。不意に、このままアメリカへ行っていいのかという疑問が湧いた。今しようとしているのは朗の思いから逃げる事なのではないか、と。それに、こんな気持ちのままで結婚してザックは喜ぶのだろうか。
洋子は自分の考えに驚いた。
「今さら何を考えてるの? 昨夜、ザックにあんな事言っておいて……」
自分で自分を責めたが、一人でいると急に不安になってくる。これで正しかったのか。自分はどうするべきなのか。「アメリカに来るのは桜を見てからでもいい」とザックは言ってくれた。春が来るまでに気持ちの整理はつくのだろうか。
洋子が溜息をつきながら俯くと、膝の上に置かれた左手の指輪が目に入った。急にそれがとても重たいものに思えたのだ。ぎりぎりと指を締め付け痛みを感じそうなほどだった。洋子は左手の甲に右手を重ね、これまでの人生で初めて手にした婚約指輪を隠した。