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Dearest -最愛ー

 ひとまず誤解が解けたその後は穏やかに日々が過ぎ、ザックの怪我をした掌の抜糸も済んだ。

 洋子が仕事から戻ると、ベッドの上に座ったザックは壁に背中を預けて考え事をしているようだった。虚空を睨みつけるようなその眼差しが気になったが、洋子は帰ってくる途中で買ってきた細長い箱を差し出した。これまでそれとなく様子を見ていたのだが、ザックがアンソニーにお土産を買っている気配がないのだ。差し出された箱を見たザックが首を傾げる。

「焼酎。お酒よ。アンソニーにお土産買ってないでしょ?」

「ああ、そうだったな……」

「前に家に行った時、お酒がいっぱいあったから。アンソニーは結構飲むのかなって思って」

それまで不機嫌そうにしていたザックだったが、唇の端を歪めるといつもの軽口を叩く。

「そうやって、人の家の酒を物色してたのか?」

「失礼ね! チラッと見ただけよ。飲んでないし」

笑いながら抗議した洋子の頬にザックはキスをした。

「悪いな。親父、喜ぶと思う」

ザックは受け取った焼酎を自分の旅行鞄に入れた。まだ荷物はほとんど詰められていない。

 洋子は急いで夕食の準備に取り掛かる。買ってきた野菜を切るとテーブルの上にカセットコンロと土鍋を用意し、最近ポン酢にはまっているザックのために鶏の水炊きをこしらえた。

 夕食を食べた後、片付けをしながらアンソニーの話になった。と言っても、ほとんど洋子がアンソニーについての質問をし、ザックが素っ気無くそれに答えるというものだ。

「アンソニーには再婚の話とか、一度もそういうのは無かったの?」

「俺の知る限りはな……」

洋子が洗った食器を拭きながらザックが答えた。

「でもアンソニーだって若かったんでしょ? そういう人はいなかったのかしら?」

「さあ……適当に遊んでたんじゃないのか……」

ザックはどうでもいい事のように肩をすくめる。

「ふ~ん。でも再婚には至らなかった……」

全ての食器を洗い終わった洋子は蛇口を閉めながら、一年前にザックの母親の事を聞いた時のアンソニーの様子を思い出した。とても穏やかで慈愛に満ちたあの眼差しを。心の中で彼女は生き続けている。そんな使い古されたような言葉も、アンソニーならば信じられるような気がする。洋子はザックに微笑み掛けた。

「きっと最愛の人なのね。あなたのお母さんが」

ザックは拭き終わった小鉢を重ねると冷ややかに笑った。

「……ザック?」

「何だ? 最愛の相手と結婚できる奴が羨ましいか?」

「……何それ? 羨ましいって、どういう意味?」

食事をしている時は普通だったのだが、帰ってきた時のザックの様子は確かに変だった事を洋子は思い出した。何かに神経を尖らせているような、そんな感じがしたのだ。今のザックのように。

「分かってる。アキラが生きてれば、俺なんかと結婚するはずないだろ?」

ザックの自嘲を含んだ声が洋子に突き刺さる。

 確かにザックは朗の事を気にしているのではないかという心配が洋子にはあった。しかし敢えてそうしているのか、ザックはそんな素振りは見せなかった。数日前、すりに遭った女の子の事で口論になった時も、ザックは朗の名前さえ口に出さなかったのだ。それが何故今さらそんな事を持ち出したのか、理解出来ないもどかしさと共にこの男を卑怯だと思った。

「……そんなの、当然じゃない」

吐き出すように言い放った洋子をザックは怒りのこもった目で睨みつけた。洋子はその目を真正面に見据える。

「朗があんなことにならなければ、あなたがあの事件を捜査することもなかったし、私もあの町に行くことなんてなかった……」

黙っているザックに洋子は震える声で続けた。

「ザック……私に何を言わせたいの? 朗が死んで本当に良かった、こうしてあなたと出会えたから……これで満足?」

「やめろ!」

顔を背けたザックの腕に泣きそうな顔の洋子が触れた。

「ザック……いったいどうしたの?」

「自分でも驚いてるよ……こんなこと言うなんて……」

震える唇を引き結ぶとザックはベランダへ出て行った。

 これから先も二人の間には朗の影が付きまとうのだろうか。キッチンに残り食器を片付ける洋子はそんな思いに囚われていた。ザックがいるベランダに目を向ける。結露しているガラスのせいか、溢れそうな涙のせいなのか、暗闇に佇むザックの姿は見えない。こんな風に悲しみや猜疑心に瞳が曇り、お互いの本当の姿が見えなくなってしまうのか。洋子は手の甲で涙を拭うと立ち上がった。


 ザックはベランダの手摺に肘を乗せ、外を向きながらタバコを吸っている。その目は何を見ているのか。少なくとも、その視線の先にある小学校の校舎を見ているのでないことは分かる。洋子は隣に並んだ。

「ねえ、ザック……」

「親父は……」

ザックが外を向いたまま静かに話し出した。

「お袋が死んだ時も涙なんか見せなかった。少なくとも俺の前では」

洋子は手摺に背中を預け、耳を傾けた。

「でも……一度だけ見たんだ。お袋が死んで二年ぐらい経った頃、俺は遊びに行った帰りに自転車でお袋がいる墓地の前を通り掛かったんだ。そこに親父がいた。お袋の墓の前でうずくまるようにして……泣いてたんだと思う……」

洋子はザックをチラッと見た。伏目がちなザックは、思いがけず父親の弱さを見てしまい動揺し傷付いた少年のままのようだった。

「その時思ったんだ。親父は、お袋の所へ行きたいんじゃないかって。でも、俺がいるから無理なんだろうって」

「そんな……」

洋子は苦しそうに顔を歪めた。いくら多感な時期だとはいえ、そんな風に思ってしまった少年時代のザックが悲しい。

 ザックは顔だけを洋子に向けた。

「前にお前が言っただろう『仲のいい両親だったから、どちらかが先に死んで悲しむ姿を見るよりかはマシだ』って。どっちがマシなのかは俺には分からないけど、お前が言ってたのはそういうことなんじゃないのか?」

「でも……私はあの時もう二十歳だったのよ。あなたはまだ……」

「そうだよ。だから早く大人になりたいと思った。大学もわざと遠い場所を選んだ。奨学金が出れば、親父も文句は言わないだろうと思って……親父は、賛成も反対もしなかったけど。それからは滅多に家にも帰らなかった。卒業してニューヨークに行ってからは、忙しかったっていうのもあるけど……それでいいと思ってた。親父を、自由にしてやれると思ってたんだ……」

ザックは灰だけになったタバコを空き缶に捨てた。洋子は俯いたままだ。

「……そういう相手がいるなら、俺に気兼ねなく再婚でも何でもすればいいし、どうしてもお袋の所に行きたいなら……」

洋子が咎めるような視線を上げるとザックは言葉を切った。

「……でも親父はずっと、あそこにいたんだ。一人で。どうしてなのか俺には分からないけど……」

洋子は再び俯いて深く息をついた。『分からない』などと言っているが、本当は痛いほどに思い知っているはずだ。自分がアンソニーにとって、かけがえのない存在だということ。ザックにとってアンソニーがそうであるように。

「あなたの帰る場所だからでしょ?」

ザックは何も答えず、洋子から目を逸らすと外を見た。

 しばらく二人とも黙っていたが、洋子が思い立ったように身体の向きを変えると口を開いた。

「あのねザック、はっきりしておきたいんだけど……私、あなたと朗を比べたことなんてないから」

ザックは外を見たままだ。今夜のザックはどうしてこうも卑屈なのかと洋子は溜息をついてから続けた。

「朗は朗だし、あなたはあなたでしょ? 大体、あなたと比較になるような人なんて、世界中捜したってそうそういないわよ」

「それは褒めてるのか? けなしてるのか?」

ザックが質問を挟み洋子は少し考えてから答えた。

「う~ん……半々……」

ザックは不機嫌そうに再び外を見る。洋子が続けた。

「私が生涯で誰を一番に愛したかなんて、まだ考えたことも無い。だって……これからも私の人生は続くんだもん」

ザックは顔を外に向けたままだ。ただ、その口元からは先程までの気難しさは消えていた。しかし自分の考えを言おうか言うまいか悩んでいた洋子は気付いていない。

「あ、あのね、ザック……あなたから言い出したことで、私には少し理不尽な気もするんだけど……もし、あなたが私と結婚するのを今迷ってるなら、私は待ってもいい」

ザックが顔を向け、何か言おうと口を開きかけたのを洋子が遮った。

「でも条件があるの! それでも私はあなたの家に行く。あなたの家で待つ。もう決めたの、あなたと一緒にいるって。離れたくないの、そばにいたいのよ。……愛してるの……」

ザックは洋子の顔を見たまま、気が抜けたように笑った。

「別に、迷ってないから」

そう言うと満足そうに頷きながら再び外を向きタバコに火を点けた。

「あ、そう……迷ってないのね、良かった……」

洋子は安堵の息をついて手摺に寄り掛かり、ザックの次の言葉を待った。自分が言ったのと同じ愛の言葉をくれると期待して。しかしザックはゆっくりとタバコの煙を吐き出しているだけだ。

「ね、ねえザック?」

ザックはタバコをくわえたまま顔を向けた。

「私、今言ったわよね? 私に何か言うことはないの?」

「何だよ? 言ってもらいたいから、言っただけか?」

洋子は慌てて首を振った。

「そ、そうじゃないけど……会話のキャッチボールっていうか……」

「そういう言葉は自分のタイミングで言えばいいことだろ? 俺はこの前言ったばかりだし、っていうか言わされたばかりだ」

洋子は唖然とした。開いた口が塞がらない。ザックが言うこの前とはプロポーズの時だ。もう十日も経っている。

「この人、信じられない……」

 何食わぬ顔でタバコを吸っているザックの横顔を覗き見た洋子は。奥の手を使うことにした。ザックから顔を背け気付かれないようにわざと欠伸をする。涙がじんわりと出てきたところで手摺に置かれたザックの腕に触れた。こちらを向いたザックを潤んだ目で上目遣い見つめる。

「あのね、やっぱり言って欲しいの……毎日でも聞きたいの……」

甘えた声で囁いた。自分の歳を考えると寒い気もしたが、これでダメなら救いようが無いとも思った。

 黙ったままザックが手摺から離れ、洋子の肩に両手を置いた。

「ヨーコ……」

ザックは洋子を見つめたまま囁いた。「私もまだまだ捨てたものじゃない」とばかりに洋子は心の中でほくそ笑んだ。

「残念だったな」

「はぁっ?」

「そういうことされると余計に言いたくなくなるんだよ。別の手を考えろ」

そう言うとザックは呆然としている洋子を残して部屋に入ろうとした。

「たった一言じゃない、何で言わないのよ……どこまでシャイなの? シャイですって? それこそ寒いわ。これってただの意地悪よ……」

ブツブツと不満を呟き、あの夜のザックの言葉を思い出した。

『俺を許せるのか?』

洋子は鼻の頭に皺を寄せて舌打ちをした。冗談じゃない。こんな仕打ちをしておいて、どの面下げてそんな事が言えるのか。洋子はキッと顔を上げた。

「許さないから!」


 ザックはサッシに手を掛けたまま振り向いた。洋子が真っ赤な顔で睨みつけている。からかっただけのつもりだが、どうやら本当に怒らせてしまったようだ。

「私はあなたを許さない! だから……一生付きまとって、あなたを一生悩ませてやるわ!」

ザックは目を閉じた。今まで心の中に積もっていた澱に、ゆっくりとその言葉が染み込んでいく。ザックは目を開け、口をへの字にして怒っている洋子を見ると唇の端を歪めて笑った。

「そうか……」

「それこそ望むところだ」心の中で呟き部屋へ入った。洋子が全てを許し水に流してしまえば忘れられてしまう。しかし許せない相手ならば忘れる事など出来ないはずだ。大体、償いなど何もしていないし出来るはずもないのだ。それなのに勝手に許されてもこっちが困る。さらに洋子は自分で「これからも人生は続く」と言ったのだ。その言葉を聞けただけで、この女と一緒にいる価値が自分にはあるように思えた。

 ザックは部屋の中央で立ち止まり、振り返るとベランダにいる洋子に提案した。

「俺は風呂に入るけど、この前みたいに一緒に入るか?」

「冗談でしょ? ただでさえ狭いのに。それに、この前は一緒に入ったんじゃないわ。引きずり込まれたのよ!」

洋子は相変わらず怒った顔でザックを睨みつけている。ザックはそれを面白がるように笑った。

「やっぱり、そっちのほうが似合ってる」

「えっ?」

洋子が訊き返したが、ザックは構わずバスルームに向かった。


「似合うって……私に何が似合うのよ?」

洋子はベランダで腕を組み仁王立ちしている自分の姿を見下ろした。どうしても可愛い女にはなれないようだ。

「私ってダメだな……」

呟くと深い溜息をついた。

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