Compromise -妥協ー
爽やかに晴れた日曜日の朝、朝食が終わりベランダでタバコを吸っているザックの元へ洋子がやって来た。手にはザックのスエードのコートを持っている。
「出掛けようよ。いいとこ連れてってあげる」
「どこ?」
洋子は意味ありげに含み笑いをし、キョトンとしているザックの手からタバコを取り上げると灰皿代わりの空き缶へ捨てた。
「いいから、いいから」
コートを着たザックの背中を押しながら玄関へ向かった。
電車を乗り継ぎ、海沿いを走る車窓からそのテーマパークの独特な景色が見えてくるとザックの目が輝いた。それを見た洋子は誇らしげに微笑む。ザックには到底似つかわしくない場所だと思っていたが、やはり皆が好きな場所なのだ。
入場するとすぐにたくさんのキャラクター達が出迎えてくれた。洋子は大喜びして駆け出そうとしたが、その手をザックが摑み先へ進む。
「ちょっと! 何なのよ!」
ザックに引き摺られるように歩きながら洋子は不満を口にしたが、クリスマスまであと一ヶ月ちょっとの園内には大きなクリスマスツリーが飾られているのを見て目を輝かせた。
「見て見て! すごーい!」
洋子がザックの手を離してクリスマスツリーに駆け寄った。
豪華なツリーを見上げて感激している洋子の横にザックがやって来て肩に手を回してきた。ロマンティックな気分で洋子はザックに笑顔を向けた。ザックもこれ以上は無いというほど魅力的な笑顔を投げかけると、違う方向に洋子を連れてスタスタと歩き出した。
「もう! 見てたのに!」
「言っておくけど、うちはクリスマスとか関係ないから」
「だからって! ツリーくらい見たっていいじゃない!」
抗議する洋子を無視して辿り着いたのは、宇宙が舞台の有名な映画をモチーフにしたアトラクションだった。
「ここだ……」
ザックは真剣な顔で独り言のように呟くと中へ入った。
開園後間もないため、並ばずに建物の中へ入ることが出来た。しかし、入ってすぐの通路でいきなりザックが立ち止まった。実物大の映画のキャラクターを食い入るように見つめている。洋子が戸惑っていると、後ろから学生らしきカップルが来た。通路で立ち止まっているザックと洋子を不思議そうに見ている。
「ねぇザック、先に進んでよ」
ザックは黙ったまま動こうとしない。洋子は仕方なくそのカップルを先に行くように促した。カップルはまだ不思議そうな顔で、立ち止まったままの二人をチラチラと振り向きながら前に進んで行った。
その後も、後ろから続々とやって来る人達の交通整理をする羽目になった洋子はとうとう堪りかねてザックの腕を引っ張った。
「ねぇ! いい加減にしてよ!」
ザックは洋子の方も見ずに手を振った。
「ああ。先に行っていいぞ」
「一人で? 冗談じゃないわよ!」
洋子が怒り出してもザックは心ここにあらずで、相変わらず映画のキャラクターに目を凝らしている。その真剣な眼差しを見ていた洋子はある事を思い出した。
「ねぇ、ルークってもしかして……」
「さあな……」
こっちを向こうともしないで呟いたザック。図星なのだと理解した洋子は呆れ返った。
「もしかしてこの人って、ただの子供……?」
その後もザックは少し進んでは立ち止まりを繰り返し、アトラクションを出た頃には昼近くになっていた。軽い昼食を摂った後、園内を歩きながら洋子がザックの腕を引っ張った。
「次はここに行こうよ」
洋子が園内の地図を広げひとつのアトラクションを指差すと、ザックはあからさまに嫌な顔をした。
「やだ」
この男のどこまでも自分勝手な振る舞いに洋子は拳を握り締めた。
「だって……前に来た時は混んでて諦めたのよ。絶対乗りたい!」
「じゃあ、一人で行って来いよ」
この言葉に洋子が猛然と怒り出した。
「冗談じゃないわよ! 一緒に行くの!」
ザックは立ち止まると洋子を睨みつけた。
「この俺に、あの黄色い熊と楽しく遊んで来いって言うのか?」
「そうよ!」
洋子のあまりの剣幕にザックがひるんだ。そこへ洋子が畳み掛ける。
「あれに乗るまでは、絶対アメリカなんて行かないから!」
ザックは仕方なく洋子の希望に従い長い列に並んだが、その間もずっとブツブツと文句を言い続けている。確かに絵本のようなメルヘンの世界で眉間に皺を寄せたしかめっ面のザックは浮いている。洋子は少しだけ気の毒に思ったが、ここで引いたら一生この男の言いなりになりそうな気もする。洋子は心を鬼にした。
やっと順番が回って来て乗り物に乗り込む時にもザックは不満を口にした。
「大体、自分で運転出来ない乗り物って好きじゃないんだよ……」
「はあっ?」
ザックの言葉に顔をしかめながら、洋子は一年前の事を思い出した。シルバーレイク・タウンにいた時、この男の運転する乗り物でどんなに怖い目に遭ったかを。山道の崖ギリギリの所を走ったり。しかもその崖があったのは助手席側だ。一度はレイク・サイド・インの大きなガラスに激突しそうになった。あれは完全にこの男の不注意だ。それに何と言っても馬だ。「乗れるか?」と訊いてきたから「無理」だと答えたのだ。そうしたら「分かった」と頷いたくせに。何だかんだと理由をつけて無理矢理馬に乗せたのだ。本当に失神するかと思った。
「この男の家には馬がいるけど、私は絶対馬には近寄らないんだから!」
心の中でそんな決意をしているうちに出口が見えてきた。洋子はキョロキョロと辺りを見渡してうなだれた。ほとんど何も見ていない。恨めしそうに隣のザックを見ると、意外にも機嫌が良い。
「結構面白いな!」
笑顔のザックに洋子は苦笑いで応えた。
その後、結局もう一度朝いちで行ったアトラクションに連れて行かれ、出てきた時には日が落ちていた。満足そうなザックとは対照的に、洋子は疲れ切って帰路についた。
電車を降り、洋子のマンションへ向かって歩いている途中でザックが口を開いた。
「抜糸が終わったら、俺は先に帰る」
洋子は立ち止まってザックを見た。てっきり一緒にアメリカへ行くのだと思っていた。ザックも立ち止まり、ポケットに手を入れたまま振り返った。口元からは白い息が洩れている。
「お前はまだ色々と時間が掛かるだろう。先にアメリカに帰ってる」
ザックには仕事もある。それにアンソニーの事も心配なのだろう。いつ渡米出来るか分からない自分に付き合っている訳にはいかないのだ。
「分かった」
洋子は納得して頷いた。ザックがその顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
どこか懸念に満ちた表情のザックに洋子は笑顔を作って答えた。
「大丈夫よ。何が心配?」
「別に……」
ザックは洋子の顔に視線を落としたまま歩き出した。
暫く並んで歩き、小学校の門の前に来た。
「ここね、今は何にも無いけど、春になるときれいなのよ。桜が咲いて……」
門の両側、学校の敷地内に立つ二本の桜の木を指差した。今は残ったわずかな葉が、寒そうに北風に吹かれているだけだ。この前の春は桜がきれいだなどと思う余裕すら洋子にはなかった。あれが見納めだったということに、今になって気付く。洋子は黙ったまま桜の木を見つめた。
「桜が見たいのか?」
ザックが訊いた。
「うちに来るのは、桜を見てからでもいいんだぞ」
洋子はザックの顔を暫く黙って見ていた。その焦げ茶色の瞳に浮かぶ不安そうな影を。この男が何を考えているのか、本当は自分にはよく分かっていないのだろうと実感した。再会してすぐに結婚を決めてしまった事に戸惑いを感じているのだろうか。「もう一度よく考えてみろ」そう言いたいのかもしれない。しかし、「先に帰る」と言われてどうしようもない寂しさを感じているのも確かだ。この男はそれを分かっているのだろうか。そう考えると鼻の奥につんとした痛みを感じ、滲みそうになる涙を押し留めるため上を向いて笑った。
「何言ってんのよ。いいのよ、そんなの」
それからはマンションまでの道のりを、二人とも黙ったまま歩いた。
角を曲がった時だった。マンションのエントランス前に三人の若い女がいた。三人は何やら話しながら楽しそうに笑っている。そのうちの一人がこちらを向くと慌てた様子でザックを指差した。ザックにも見覚えのある女だ。
「エ、エクスキューズ ミー……」
近づいてきたザックにおずおずと話し掛けてきた女は、以前電車の中で財布をすられそうになった女子大生だ。肩に掛けた大きなブランドロゴの付いたトートバッグはあの日と同じ物だった。両脇の友達らしき二人は、立ち止まったザックをジロジロと眺め回した後に顔を見合わせて何か喋っている。
「あ、あの……この間はどうもありがとうございました。あの時は急いでて、ろくにお礼もできなかったので……」
夜目にも分かるほど頬を赤らめてそう言うと、小さな紙袋をザックに差し出した。
ザックのすぐ後ろにいるにも関わらず見えていないのか、それとも見ようともしていないのか、洋子の存在は完全に無視されている。友達の一人が通訳し、理解したザックが「どうも」と言って紙袋を受け取っているのを横目で見ながら一人マンションの中へ向かう。背後から友達二人がザックの事を「背が高くてモデルみたい」だの「格好いい」と盛り上がって話しているのが聞こえてくる。
「あの……よかったら今度……」
紙袋を渡した女の子が恥ずかしそうにザックを誘う声を聞きながら洋子はエレベーターのボタンを押した。
「何なのよあれ……」
なかなか下りてこないエレベーターに舌打ちをしながら呟いた。
誘いの言葉を通訳してもらっている時、洋子がエレベーターに乗り込むのが見えた。
「おい! 待てよ!」
聞こえているはずだが、そっぽを向いている洋子を乗せエレベーターの扉は閉まっていく。洋子が誤解しているという事が分かったザックは舌打ちをした。三人もようやく洋子の存在に気付いたようで、ザックが声を掛けたエレベーターの方を覗き込んでいる。
「……妻だ」
置いてけぼりのザックは洋子の姿を遮ったエレベーターの扉を親指で示した。ザックの言葉に口をポカンと開けている三人。通訳係の女が呟いた。
「さっきの、奥さんだって」
「それぐらいの英語は分かる……」
紙袋を渡した女の子はしょんぼりした顔で俯いた。
「持って帰るか?」
ザックは渡された紙袋を差し出したが、女の子は俯いたまま力無く首を横に振ると友達二人を連れ駅の方角へ向かってとぼとぼと歩き出した。
「どうせ付き合ったって言葉通じないんだしさ」
「あの人、完全に尻に敷かれてるって感じだよ」
両端の二人が真ん中の女の子を励ましているのが聞こえるが、何と言っているのかは分からない。ただ、悪口を言われているという事だけは確信した。
あの男は日本に来ていったい何をしているのか。洋子の心にそんな疑念が渦巻いていく。自分が仕事に行っている間、何をしていたかを尋ねたらあんなに嫌がったのはこういう事か。洋子はそう思い至った。
今日は朝から一緒に出掛けたため、ザックに渡した合鍵はテーブルの上にある。それを確認すると、洋子は玄関の鍵を閉めた。コートを脱ぐのも忘れ、キッチンに寄り掛かり苛立ちながら爪を噛む。「許せるか?」と言っていたのは浮気をしているからだ。
外からブーツの重い足音が聞こえてきた。玄関のドアノブがガチャガチャと音を立てる。けれど開くはずはない。「フンッ」と洋子は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「おい、ヨーコ。開けろよ」
ザックの声が聞こえるが洋子は無視した。
「おい! ドア壊してもいいのか? 大体、何を怒ってるんだよ?」
その態度に余計腹が立った洋子はドアに向かって怒鳴った。
「あなたは日本にナンパをしに来てるわけ? 日本人だったら誰でもいいの? もしかして、私の留守中この部屋に女の子を連れ込んでるんじゃないでしょうね?」
ザックが小ばかにしたような短い笑い声を上げたのが聞こえた。
「バカか? そんなリスク冒すか!」
ザックはあらぬ誤解を受けた挙句、締め出されてしまった事に段々と腹が立ってきた。すると廊下に面したキッチンの窓が細く開き、目を吊り上げた洋子の顔が格子の間から覗いた。
「あんな風に全身ブランドで固めた女、金が掛かってしょうがないわよ。あなたはもう高給取りじゃないんでしょ?」
ありったけの毒を含んだ洋子の言葉にザックは唇の端を歪めて苦笑いした。
「心配すんなよ。俺のタイプじゃないから。どっちかというと通訳係の巨乳の方が好みだった」
つまらない事を言ったと後悔した時には遅かった。格子の間から見える洋子の顔は恐ろしい形相に変わっていた。数日前にテレビで見た日本の伝統舞踊に出てきた『はんにゃ』というものにそっくりだと思った。
「巨乳じゃなくて悪かったわね!」
それからザックは寒風吹きすさぶマンションの廊下で、みっちり一時間余りを説明に費やした。