Truth -真実ー
洋子は病室に入り、少女をなだめている看護師に声を掛けた。
「ちょっといいですか?」
同年代の看護師は洋子を見ると穏やかに頷いた。ベッド脇にある椅子に近付きながら洋子は自分に問いかけた。いったいこの子に何を言うつもりなのか、と。「これからは死ぬ気で頑張れ」そんなことを言える訳が無い。この子は今まで頑張って耐えてきたのだ、一人ぼっちで。死にたくなるほどの恐怖と屈辱に。それでも、ザックの気持ちだけは分かって欲しいと思った。
涙で顔を濡らしたまま、少女は洋子を「誰だっけ?」という感じで見ている。洋子が椅子に座り口を開いた。
「私、隣に住んでるの……あなたが閉じ込められていた部屋の」
「あなたを助けてくれたのよ」
看護師が少女の肩に手を置き優しく声を掛けたが、洋子は首を振った。
「ううん。私じゃないの。あなたを助けたのは、あそこにいる背の高い外国人の彼……」
廊下で堀井と話しているザックを洋子が指差すと、少女は視線を上げた。
「ずっと、助けて欲しかったんでしょ? すぐ近くにいたのに、気付いてあげられなくてごめんなさい……」
少女は俯いた。目に溢れそうなほど涙を溜め、悔しそうに震える唇を引き結んでいる。髪を派手な金色に染めていても、その表情にはまだ幼さが見える。洋子は会った事の無い、ある少女の事を思い浮かべた。彼女もまた、この子と同じような表情でこの無情な世の中を恨んでいるのだろうか、と。
洋子はためらいながら話を続けた。
「……私ね、前に結婚するはずだった人がアメリカで殺されてるの……」
少女が顔を上げ洋子を見つめると、看護師も控えめに目を遣った。
「何も悪い事はしてないのよ。殺人現場を目撃しただけ。その時一緒に殺された女の子がいてね、メキシコから誘拐されたって聞いたわ……十五歳だったって……」
逃げたがために殺されて、逃げなかったとしても命が枯れ果てるまで売春婦として働かされる。そんな選択肢しかなかった少女のことを知ってほしい。洋子は眉間に皺を寄せ、一年前現実に起こった悪夢の事を話した。
「あなたを助けた彼は、その事件を捜査してた捜査官だったの。女の子を殺した犯人は彼が射殺したわ。それで、事件は終わったことになってるけど……」
しかしザックにとっては終わっていない。ザックは誰よりも、あの理不尽な事件を憎んでいる。洋子にはそんな気がしてならないのだ。
「彼はまだ事件を引きずってるの……きっと、彼らの魂がまだ救われていないのを感じてるんだわ……」
理不尽に奪われた命と人生は、誰が何をしたって取り戻せるものではない。この一年、洋子はそれを痛感していた。
自分が何の話をしているのか良く分からなくなってきた洋子は頭を振り、黙ったまま掛布を握り締めている少女の顔を覗き込んだ。
「彼は、目の前で奪われようとしてる命を放っておけなかっただけなの……その命を奪おうとしているのが他人でも、その人自身でも……」
俯いて震え出した少女の肩に看護師が手を置いた。顔を上げた少女にその看護師は優しく、それでいて強い眼差しを向けた。きっとこの人は、ザック以上に命が理不尽に消えていくのを目の当たりにしているのだ。確信めいたものを感じると、洋子もまた顔を俯かせた。
「彼女の渡航歴を調べました。彼女が帰国する前の日に後藤朗事件の容疑者が逮捕され、さらにその前の日、その容疑者と関係のあった人身売買取引の摘発がありましたね。これは偶然ですか?」
「ああ、偶然だ」
淡々と事実を述べていく堀井の顔も見ずに、ザックは腕を組んだまま素っ気無い返事をよこした。
「それなら、その時彼女はどこにいたんですか?」
「…………」
黙り込んだザックに堀井が重ねて訊く。
「重傷を負って、記憶を失くしましたか?」
この刑事はどこまで摑んでいるのか、何が目的なのか。高速で頭を回転させているザックは無表情のまま黙っている。堀井が溜息をつき話を変えた。
「まあ、いいです。それより、あなた方の本命というのは、その犯罪組織の方だったんでしょ? あたかも半年間の地道な捜査によって後藤朗事件の真相を摑んだような感じになっていますが、そんな事は最初から分かっていたんですよね?」
壁に寄り掛かったまま何も喋らないザックに堀井は肩をすくめた。
「後藤朗を殺した人身売買のコーディネーターと警察を逮捕したところで、その裏にいる大きな組織には辿り着けない。トカゲの尻尾を切るようなものでしょう。そいつらがいなくなっても、取引したがる輩はいくらでも居るでしょうからね」
「……そうだ」
頷いたザックに堀井は冷笑を浮かべた。
「より大物を狙うために小物は泳がす。そんなのは常套手段だ。その間、被害者の尊厳が無視されていたとしてもね」
そんな事はザックにも分かっている。シルバー・レイク・タウンにいた時、その事で苦しんでいる洋子を目の当たりにして動揺した自分自身の弱さにも。
「彼女はその事を全部知ってるんですか?」
「……ああ」
ザックは頷いた。洋子は知っている。その事を許すか許さないかは洋子が決める事だと思っているが。
溜息をついたザックに堀井がポケットから出した一枚の紙を渡した。それは一年前のアメリカの新聞をカラーコピーしたものだった。人身売買の取引現場になった店『バッファロー・ピット』がある路地の写真が載っている。一般人が携帯電話のカメラか何かで撮影したのだろう。目の粗いその写真は、アングルからいって袋小路になった突き当たりの雑居ビルから撮られたものだ。何台も停まった車、その間を行き交う捜査官やメキシコ人の女達。救急車のランプが混乱振りを際立たせている。
その写真の中に洋子がいた。車の前に立ったビルと向かい合っている。表情は不鮮明ではっきりしないが確かに洋子だ。隣にいるミランダの肩を抱いている。その左手は肘の辺りまで真っ赤だった。ココペリのブレスレットを着けている。革の部分は血と同化してしまっているが、金属プレートが弱く光を反射していた。今はこの新聞を持つザックの腕にある。
「あなたの国の新聞です。地方版ですね。ここにいるのは彼女ですよね?」
堀井の質問には答えず、ザックは黙ったまま新聞を見ていた。この事件の報道でこんな写真を見るのは初めてだった。洋子が外に出ているということは、この時自分は既に意識不明の状態だと分かる。ザックの沈黙を肯定と受け取ったのか、堀井は話を進めた。
「でも不思議なことに、この取引に日本人が巻き込まれたなんて話は入ってきていない。どうしてですか? なぜあなた達はこの事を隠してるんですか?」
「ヨーコじゃないからだろ。向こうにも東洋人はたくさん住んでるぞ」
こんな嘘でこの男をごまかせない事はザックにも分かっている。やはり堀井は呆れたように短く笑った。
「そうですか……やっぱり隠すんですね。フェアストーンさん。なぜFBIがこのことを隠してるのか考えた時、私にはある疑いが浮かびました。あなた方は人身売買組織を摘発するために、彼女を囮に使ったんじゃないんですか?」
「ふざけんな……」
これまで聞いた事がない堀井の激しい口調にザックは鋭い視線で返した。堀井は息をつくと頷いた。
「それならなぜ、この事を隠すんですか? それが彼女の為なんですか? あなたが彼女と結婚することで、一生彼女の口を塞いでおくつもりですか?」
「あんたが何を疑おうと勝手だけど、ヨーコはこの場にはいなかった。俺にはそれしか言えない」
これで終わりだとばかりにザックは顔をそむけると手を振った。
洋子を囮として使った、もちろんそんな事実は無い。しかし被害者の元婚約者という立場の洋子を利用してシルバー・レイク・タウンの警察に揺さぶりを掛けたのは事実だった。ブラウン署長を自殺に追い込んだのは自分かも知れないと思っている。
苦悩に僅かながら顔を歪ませたザックを鋭く観察していた堀井が頷いた。
「あなたがそんなに注意深い訳が分かりました。一年前、彼女を危険に晒してしまった。そういうことですね」
「あんたもしつこいな……」
ザックはうんざりして言い捨てた。