Imprisonment -監禁ー
洋子が電話を切るとザックが戻ってきた。手には全く似つかわしくないピンクのキルティングで出来たバッグを持っている。この少女の持ち物であることは明らかだ。救急車を呼んだことを告げるとザックは頷きながら少女の傍らにバッグを置き、排水溝で拾った紙を洋子に渡した。
「何て書いてある?」
洋子は受け取った紙を見て愕然とした。薄いピンクのキャラクター付きのメモ用紙に、おそらく眉を書くペンで書かれた茶色く滲んだまだ幼さの残る文字。『たすけて』と書かれていた。
「この子は……まさか……」
洋子は少女を見て、それからザックに向き直った。
「HELP……」
「この子がいた部屋のドアと窓にも外鍵が付いてた。通報しろ」
ザックは再び玄関を出て行った。
何も気付かなかった。ザックと再会し結婚が決まって有頂天になっている時に、すぐ近くでこんな事が起きていたなど。ドアが開いたままのバスルームに顔を向けた。その壁の向こうにあの男の部屋がある。洋子は震える指で電話の通話ボタンを押し警察に通報した。
「隣の家で女の子が自殺未遂を……あの、監禁されてたみたいなんです……」
ザックは共用廊下の柵に背中を預けて両肘を乗せていた。下の通りに目を遣ると、大通りの方から山崎が歩いて来るのが見える。そしてサイレンを鳴らしながら救急車が曲がって来た。山崎は振り返り、自分を追い越していく救急車を歩きながら目で追っている。救急車がマンションのエントランス前に横付けして停まり、後部のドアが開くと二人の救急隊員が慌しくストレッチャーを出した。山崎は救急車の手前で立ち止まり、回転する赤いランプに照らされながらその様子を見ている。救急隊員がマンションの中に入り姿を消すと、山崎も救急車の方を何度も振り返りながらゆっくりとエントランスの中へ入って行った。
エレベーターが到着すると救急隊員が降りてきた。乗っていたのは彼らだけだ。ザックは手で合図をし、部屋を指差した。救急隊員が洋子の部屋へ入っていく。
すぐにまたエレベーターが到着し、今度は山崎が降りてきた。救急車を呼んだのが自分の隣人だと知り、驚いた顔をしながら廊下を進んで来る。洋子の部屋の前で開いたままのドアから中をチラッと視線を向けた。外からはしゃがんでいる救急隊員の背中しか見えない。柵に寄り掛かったままのザックに話し掛けてきた。
「何かあったんですか?」
ザックは無表情で山崎を見た。
「PARDON?」
ザックが訊き返すと山崎は流暢な英語で訊き直した。
「何かあったんですか?」
「彼女が急病でね」
山崎は表情を曇らせ同情するような言葉を控えめに掛けると、ザックの前を通り過ぎて自分の部屋へ向かった。灰色のスウェットパンツの上に着た黒いウィンドブレーカーのポケットから鍵を出し、ドアを開けようとして戸惑ったような声を上げた。
「あれ? 開いてる……」
慌ててドアを開けると、廊下のザックをチラッと見てから部屋へ入って行った。
少女を乗せたストレッチャーと救急隊員が部屋から出て来てエレベーターへ向かう。その後から少女のバッグを持って洋子が出て来た。
「私もちょっと行ってくる。ザック、あなたはどうする?」
ザックは廊下の柵に寄り掛かったまま声を低くした。
「俺は、まだやることがあるから……」
隣の部屋からドタドタと足音が聞こえ、洋子が慌ててザックに訊いた。
「帰って来たの?」
ザックは頷いた。きっと山崎は少女がいなくなった事にも、割られたサッシのガラスにも気付いただろう。洋子の背筋に冷たいものが走り、ザワザワと全身を震わせた。
「ねぇザック、お願い……気を付けてよ……」
「早く行け」
ザックが顎でエレベーターを示し洋子を促した。洋子は心配そうな顔でザックを見ると、救急隊員が待っているエレベーターに向かって駆けていった。
ドアが開き、山崎が蒼ざめた顔で出て来た。エレベーターに駆け込む洋子の姿を見ると、口元を歪めてザックに向き直った。
「彼女、急病じゃなかったんですか?」
ザックは首を巡らし、救急隊員と洋子が乗り込んでいったエレベーターの方をチラッと見遣り首を傾げた。
「走ることは出来るみたいだな……」
「彼女、あなたの恋人なんでしょう? 付き添わなくていいんですか?」
上擦った声の山崎にザックは無表情のままだ。
「別にいいだろう。俺にはやる事があるから」
「ずい分冷たいんですね……ところであなた、僕の部屋に入りましたか?」
「何でそう思うんだ?」
「部屋から僕の物が無くなってるんですよ……」
「物? 物じゃないだろ……」
呆れて軽蔑を滲ませた口調のザックを山崎が睨みつけた。
「やっぱり……不法侵入じゃないですか。外国人にはモラルがないのか?」
「お前に言われたくないな……」
ザックは苦笑いした。山崎が一歩前へ踏み出すと、この男の部屋のキッチンに面した窓と洋子の部屋のドアとの間にあるライトが汗だくの顔を照らした。
「返して下さい。どこへやったんです? 答えによっては、あなたを許しませんよ」
山崎は背中に隠していた手を出した。長い包丁が握られている。ザックは依然として柵に寄り掛かったまま、山崎に鋭い目を向けた。
「そうやって、あんな子供を脅したのか? 悪いが俺には通用しないぞ」
近づいてくるパトカーのサイレンが聞こえた。この現実を受け容れられない山崎は、鳴り響く終焉の音色を掻き消すように怒鳴った。
「彼女は子供じゃない!」
ザックは下の通りに目を向けた。マンションのエントランス前にパトカーが停まり、中から警察官が降りてくるのが見えた。
「あの子は自分で手首を切ったんだ。お前のことが大嫌いだったみたいだぞ」
ザックが嘲るように言い、山崎は憤慨して歯を食いしばっている。エレベーターの到着を告げる音がした。
「もう手遅れだ。今のうちにナイフは放しておけ」
ザックが言うのと同時に、山崎は警察官の姿を見て狼狽し包丁を持ち直すと刃先を自分に向けた。
「バカ! やめろ!」
ザックが山崎に飛び掛った。警察官が何事か叫びながら廊下を走ってくる。ザックは山崎の手から包丁を奪い取った。ザックに突き飛ばされた山崎は、自分の部屋のドアに左肩を強く打ちつけ、そのまましゃがみ込むとすすり泣きを始める。駆けつけた警察官が山崎を取り押さえた。
包丁を持つザックの右の掌にピリッと痛みが走った。左手で包丁の峰を持つと、柄にベッタリと血が付いている。右の掌を包丁で傷つけたのだと気付いた。いつ切れたのかは分からない。
「すげぇ切れ味だな……」
大捕り物がすぐ横で行われている中、自分の掌と包丁を交互に見ていた。
洋子は少女が運ばれた救急病棟の廊下の長椅子に座っていた。すぐ側で話している警察官の声が聞こえてくる。
身分証明書のようなものは持っていなかったが、財布の中から大手レンタルビデオ店の会員証が見つかり少女の身元はすぐに分かった。そして、ついさっき山崎が逮捕されたと連絡が入っていた。少女の携帯電話が山崎の鞄の中から見つかったことも聞こえてきた。
しばらくすると救急の搬入口にパトカーが着き、警察官に付き添われてザックが入ってきた。右手に血の付いたタオルを握っている。あの悪夢が脳裏をかすめ、蒼ざめた洋子が慌てて駆け寄った。
「ザック! 怪我したの? 大丈夫?」
「ああ。たいしたこと無い。手も動くし、そんなに痛くない」
ザックは平然として答えると、安堵して身体の力を失くし長椅子に座り込んだ洋子を残して処置室に入って行った。結婚してからもこんな心配が続くのだろうか、と洋子は長椅子の背に肘を載せ頭を抱えた。すると、処置室の入口に掛けられたカーテンの向こうから痛がって悪態をつくザックと、それをたしなめる女性看護師の声が聞こえてきた。
傷口を数針縫ったザックがしかめっ面をして処置室から出てくると、長椅子の洋子の隣に座った。右手に巻かれた白い包帯を憎憎しげに眺めながら口を開く。
「あの子は?」
命に別状は無い事を伝えると安心したのか、少し疲れたような顔で頷いた。
「身元は分かったのか?」
「隣の県の高校一年生。十五歳だって」
「十五歳……」
ザックが小さく呟いた。それはただ単に少女の年齢が若かったという驚きで発されたものではない事を洋子は分かっている。影が差した焦げ茶色の瞳を見つめながら洋子は説明した。
「携帯電話のサイトで知り合ったらしいわ。普段から学校も休みがちで、二週間前から家出してたらしいの……さっき親と連絡がついて、警察が話してる内容が聞こえちゃったの。両親がこっちへ向かってるって……」
「そうか、親も心配してただろうな……」
「それが……」
洋子は表情を曇らせた。
「捜索願は出されてなかったらしいの……」
洋子にはそれがどういうことなのか理解出来なかった。しかしザックは少し伏目がちになったものの、そんなに珍しいことでもないといった感じで一言「そうか」と言っただけだった。きっとザックはこんな風にして事件に巻き込まれていく子供達をたくさん見てきたのだろう。そんな気がした。