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Nightmare -悪夢ー



   プロローグ 


「ルーク……」

洋子はいつもの悪夢にうなされていた。約一年前から繰り返し見るその夢は、回数を重ねるごとに邪悪さを増した。

 目の前で繰り広げられる銃撃戦。飛び交う悲鳴と怒号。人身売買に巻き込まれた洋子は、取引現場となった店で跪いていた。あの日と同じように、目の前にはルークがいる。そして洋子の傍らにはメキシコの天使。恐怖に小さな身体を震わせる五歳のミランダ。

 ルークは裏口を示し、店から脱出する手順を説明している。洋子にはルークの後ろにティムがいることが分かっていた。ルークにそのことを警告したいのに言葉が出てこない。

「早く気付いてルーク! そうしないと……また……」

叫んだつもりが、空しく唇だけが動く。

 突然、雷鳴のような銃声が響いた。次の瞬間、ルークの身体に無数の穴が開いた。焦げ茶色の瞳で洋子を見つめたまま、ゆっくりと倒れていく。手を伸ばそうとしても、見えない鎖に縛り付けられたように身体が動かない。分かっていた事なのに、ただ見ているしか出来ない自分が呪わしい。ヘルメットが床に当たる鈍い音がした。そして、気が付くと血まみれのルークに寄り添うようにミランダも真っ赤に染まり倒れていた。黒い大きな瞳はもはや意思を持たぬまま、ぼんやりと洋子を見上げている。

「まただ……また殺されてしまった……」

 繰り返される悪夢の中で、ルークはもう何回も撃ち殺されている。洋子は震え、泣きながら顔を上げた。目の前にティムがいる。ティムは実際よりも大きく見えた。狂気を湛えた目は黄色く光り、笑っている口元は耳まで裂けていきそうだ。ティムは銃口を洋子に向けた。

「ルーク……ルーク……」

洋子は呟きながら、その時を待った。ティムはなかなか引き金を引こうとしない。引き延ばされた生存の時間が苦痛で堪らなかった。洋子はティムに向かって泣き叫んだ。

「早く私を撃って! 早く私も殺して……」


「ルーク……」

「……だから違うってば……」

洋子の声が聞こえ、ザックは目を閉じたまま呟いた。まだ頭の中には霞が掛かっており、横になったまま息をつくと細く目を開けた。すぐ隣で自分の方を向いて寝ている洋子の目は閉じられている。

「なんだ……寝言か……」

 東京にある洋子の自宅。狭いベッドの中でザックは洋子を動かさないように身体をひねり、枕代わりのクッションに左肘をついて上体を起こした。右腕を伸ばして洋子の頭の向こうにあるカーテンをめくる。日本に着いた時吹いていた木枯らしは止んでおり、代わりに冷たい雨が降っていた。外はまだ真っ暗だ。ベランダの金属の手摺に雨の当たる音が、薄く結露したサッシの向こうから聞こえてくる。

「ルーク……」

また声が聞こえた。小さくて不明瞭だが、どこか切羽詰った響きがある。目を向けると、洋子の顔が光っているように見えた。閉じられた目から流れ出ているそれが涙だと分かり眉をひそめた時、洋子がもう一度呟いた。

「……KILL ME……」

確かにそう聞こえた。うなされているのだという事は分かるが、死にたくなるほどの悪夢というのはいったい何なのか。

「おい!」

激しく動揺したザックは洋子の肩を強く揺すった。しかし洋子は目を覚まさない。わずかに開いた口から苦しそうな嗚咽をもらす。

「おいヨーコ! 起きろ!」

ザックの大きな声でやっと洋子は目を開けた。涙をいっぱいに溜め、怯えたようにザックを見た。


 洋子の滲んだ視界の中に、心配そうに自分を覗き込んでいるルークの顔がある。狂ったように激しく打つ心臓の音が体中に響いている。驚愕に吸い込んだ息を吐き出すことが出来ず、声も出ない。何が現実で何が夢なのか。ふと、ルークの裸の左肩に銃創が見えた。あの時、ルークの身体を貫いた銃弾が空けた穴は既に塞がっている。震える腕を伸ばし、ルークの頬に触れた。あの時はこの手に付いたルークの血が、その頬に赤い条を付けた。恐る恐る手を滑らせても、頬には何も残らない。ようやく洋子は止めていた息を吐き出した。

「ここにいる……」

ルークがなだめるように、静かな声で囁いた。

 そうだ、彼はここにいる。ルークは本当の名前ではなかった。彼はザックだ。ザックは生きていた。迎えに来るという約束を守ってくれた。彼と結婚することを、数時間前に決めたばかりだった。

 ザックの手が洋子の頬に触れた。一年前と変わらない大きくて温かい手。洋子はその手に自分の手を重ねると目を閉じた。




 ザックはFBIを辞める直前、連邦刑務所に出向きアンダーソンと面会した。不可解な男だった。警察官でありながら人身売買組織に手を貸し、シルバーレイク・タウンに滞在していた洋子の行動を見張っていた。洋子に危害を加える恐れがあると、ザックはアンダーソンを一番に警戒していたのだ。しかし組織が摘発された次の日、まるで逮捕されるのを望んでいたかのように、この男はそれまで隠していた事件の証拠品を所持してFBIを待っていたと聞いている。

 刑務官に付き添われたアンダーソンが、ザックの待つ個室に入ってきた。

「ルーク……」

ザックを見ると、一年前と変わらない悲しげな顔で声を掛けてきた。

「久しぶりだな、アンダーソン」

刑務官が退室したのを見届けると、ザックは脚を組んで座ったまま応えた。

 アンダーソンはボソボソと喋りながら椅子に座った。

「もっと早く会えるかと思ってた……てっきり逮捕の時はお前が来るものだと……」

「ああ、俺が行きたかったんだが、色々事情があって……」

「そうか……あの娘はどうなった? アキラ・ゴトーの婚約者の……」

「無事だった。とっくに日本に帰ったらしい」

ザックは無表情で伝えた。

「そうか……良かった」

アンダーソンは安堵に綻ばせた口元をすぐに引き結んだ。ザックは無表情のままアンダーソンを見据えている。この男の真意が知りたかった。

 無言のザックに促され、アンダーソンは俯いて話し始めた。

「彼女を初めて見た来た時に思い出したんだ。僕は……アキラに婚約者がいた事を知っていた……」

ザックは頭を少し傾けた。俯いているアンダーソンの口元がわずかに震えているのが見える。アンダーソンは苦しそうな音を立てて深く息を吸い込むと話を続けた。

「アキラがあの町に来て、一番最初に話しをしたのは多分僕なんだ……彼は、日が落ちてから警察署を訪ねて来た。『泊まれるところは無いか?』って。その時署内には僕一人だった。彼は山道の手前の案内板を見て、シルバーレイクっていう名前が気になったと言ってた。湖畔から少し眺めたら、とてもきれいな湖だから写真を撮りたいって。……僕が、レイクサイド・インを紹介したんだ……」

アンダーソンはテーブルに両肘を置き、組んだ手を見つめた。

「『どれぐらい滞在するんだ?』って僕が訊いたら、『満月を見てから帰る』って言ったんだ。面白い奴だと思ったよ。『狼男なのか?』って訊いたら彼は笑って、『満月に照らされたシルバーレイクの写真が撮りたいんだ。今はまだ少し月が欠けてるから』って。それから、彼女の話を始めたんだ……」


 ザックは表情を変えぬまま、俯きがちなアンダーソンの話を聞いていた。

「……ティムがあの少女を撃ち殺した後、湖畔にアキラがいることに気付いた。空を見ると満月だった……彼は僕のことを、『信じられない』といった顔で見てたよ……」

「だろうな」

ザックが口を挟むと、アンダーソンは顔を上げて頷いた。

「ブラウン署長がアキラを撃ち殺した後、リンジーがカメラからカードを抜いた。『これは処分したほうがいい』って言って。僕は彼がどんな写真を撮ったのか見てみたくなった。だから、『僕が処分する』と言ってカードを受け取ったんだ。その後偽装工作の相談を始めて……使ったのは僕の銃だからって、署長が僕の脚を……」

アンダーソンは自嘲するように口元を歪ませ息をついた。その顔には深い後悔の色が浮かんでいる。

「アキラが撮った写真を見て、自分の生まれ育った場所がこんなにもきれいな所だって事に気付かされた……遠い外国から来た男に……僕は……その彼を見殺しにしてしまった……」

アンダーソンは頭をうなだれ黙り込んだ。この沈黙に苛立っているように、天井の蛍光灯がジリジリと耳障りな音を響かせる。アンダーソンはおもむろに顔を上げるとザックを見た。

「ルーク、お前の部屋に入った。その時気付いた、お前がFBIだって。お前があの娘を連れて逃げたと聞いてホッとしたんだ……」

「なぜヨーコを見張ってた?」

「知ってたのか……前にお前に訊いただろう? あの娘は死ぬつもりでいたのかと思ってた。心配だったんだ。……正直言って、あの娘が来てからかなり動揺してた。署長も同じだったと思う……リンジーだけは、気にも留めていないみたいだったけど。写真だけでも返そうと思った。でも、出来なかった……」

「ただの保身だろ?」

アンダーソンは恥じ入るように俯いた。

「そうだ……」

「あんな事件が起こる前に、出来ることがあったはずだ」

ザックの突き刺すような言葉に、アンダーソンは俯いたままきつく目を閉じた。

「そうだ……」

 どんなに後悔していたとしても、この男のした事は許せない。奪われた命は、もう二度と戻る事はないのだから。そして生きたまま地獄に突き落とされた少女達。愛する者を失った苦しみ。それら全てをその肩に背負わせたとしても、満足する者はいないだろう。ザックの脳裏に洋子の泣き顔が浮かんだ。その涙を拭った親指を見つめ、静かに息をつく。この事件にこれほどまで固執している自分に気付き、もうこの仕事はしていられない、そう思った。

 ザックは組んでいた脚をほどき立ち上がった。

「話はそれだけだ」

ルーク……頼みがあるんだ」

ザックは出口へ向かいかけたが立ち止まって振り向いた。アンダーソンが苦痛に歪んだ顔を上げた。

「写真を……持ち主に返してくれ。それから……あの写真を欲しがっている人達にも……」

「……分かった」


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