記憶を失った婚約者を、もう一度信じてみようと思ったのですが
――婚約者のハリソンが馬車事故に遭った。
そう連絡を受けたセラフィーナは、急いでハリソンの元へと向かった。
幸いにも命に別状はないらしい。
ただ問題が一つあった。
ハリソンは、学問や一般常識などの知識は失っていないものの、ここ二年ほどの自身の経験に関する記憶をほぼ失っているらしいのだ。
つまり、セラフィーナとの婚約も、彼が入れあげていた浮気相手の存在も、そして彼がセラフィーナに対して重ねてきた無数の残酷な振る舞いすらも、すべて忘れてしまったと。
これから自分はどんな顔をして彼に会えばいいのだろう。
答えを出せないまま、セラフィーナは彼の待つ部屋へと足を踏み入れた。
ベッドの上で身を起こしたハリソンは、不思議そうに彼女を見つめると、おずおずと口を開いた。
「……君が、僕の婚約者?」
その表情は、嘘をついているようには見えなかった。
「ごめんね。その、何も覚えていなくて」
そう言うと、ハリソンは少し困ったように、けれどふわりと甘く笑った。
「でも……こんな綺麗な人のことを何も覚えていないなんて、僕はずいぶんひどい婚約者だな」
その瞬間、セラフィーナの身体はひどく冷たいものに覆われたように固まった。
その笑い方を、セラフィーナは知っていた。
『そんなに緊張しなくていいよ。僕も今日を楽しみにしていたんだ』
初めて会った、二年前のあの日。
ガチガチに緊張していたセラフィーナの心を解きほぐすように笑いかけてくれた、あの時とまったく同じ顔だった。
だからこそ、セラフィーナは恐ろしくなる。
まるで、初めて出会った頃のハリソンに戻ったようだった。
――けれど、その優しさの先に何が待っていたのかを、セラフィーナはよく知っていた。
◆
ハリソンの容体が落ち着いた頃、今後について両家での話し合いが持たれた。
そもそも二人の婚約は、両家ともに伯爵家で家格も釣り合い、家同士の関係も良好だったことからまとまった縁談だった。
彼の生家である伯爵家からは、
「本人が婚約者すら認識できない状態で、このまま結婚話を進めることはできない」
と申し出があり、翌年に予定されていた婚礼は、ひとまず延期されることになった。
ただし、婚約自体は維持される。
貴族の取り決めとして、それが最も自然な落としどころだった。
セラフィーナの側も、事故に遭った直後の相手に「では婚約を解消します」と告げるような真似はしなかった。
何より、セラフィーナ自身の中に迷いがあったのだ。
事故前のハリソンには、セラフィーナから婚約解消を突きつけてもおかしくないだけの理由が十分にあった。
それでもずっとセラフィーナが踏み切れなかったのは、どうしても、十五歳の時に出会った『最初の彼』が忘れられなかったからだ。
いつか、あの頃の彼に戻るかもしれない――そんな期待を、どうしても捨てきれずにいた。
捨てきれるものなら捨てたかった想いだ。
けれど今、目の前にいるハリソンを見ていると、もう一度信じてみたくなる自分がいた。
医師からは、事故の影響がどこまで残っているか分からないため、しばらくは無理に身体を動かさず安静にするよう言い渡されていた。
そのため療養中のハリソンを、セラフィーナは何度か訪ねることになった。
「今日も来てくれたんだね。ありがとう」
彼はそう言って柔らかく微笑む。
セラフィーナの好きなお茶菓子を覚え、肌寒そうにしていればさりげなくショールをかけてくれる。
昔好きだった本の話をすれば、「じゃあ今度、僕も読んでみる」と目を輝かせる。
そんな時間を重ねるうちに、もう消えたと思っていたセラフィーナの想いが、少しずつ息を吹き返していく。
そんなある日、彼は少し沈んだ声でセラフィーナに言った。
「セラフィーナ。その、僕は……君に、随分ひどいことをしていたらしいね」
どうやら、自分が記憶を失っている間のことを、長年仕えている従者に尋ねたらしい。
そこでハリソンは知ってしまったのだろう。
過去の自分が別の令嬢に入れあげていたことや、それ以外でも婚約者であるセラフィーナを何度も蔑ろにしていたことを。
ハリソンはしばらく俯いたあと、セラフィーナを見た。
「本当なの?」
一瞬だけ、セラフィーナは答えに迷った。
けれど、ここで嘘をつくことなどできなかった。
「……はい」
すると、予想もしなかった言葉がハリソンから返ってきた。
「ごめん」
セラフィーナは思わず彼を見た。
「覚えていらっしゃらないのに、謝るのですか?」
「だからって、僕が君にしたことじゃなくなるわけじゃないだろう?」
ハリソンは苦しそうに眉を下げる。
「今の僕には信じられないよ。君とこうして過ごしていて、どうしてそんなひどいことができたのか……。本当に馬鹿だったんだな、僕は」
その声音には、取り繕った様子など少しもなかった。
本当に、自分がセラフィーナを傷つけたことを悔いていると、そう思えた。
だからこそ、セラフィーナの心は大きく揺れ、期待が胸の奥でますます膨らんでいく。
もしかして、今度こそ、目の前で泣きそうな顔で自分を見ている今のハリソンとなら――。
その日の帰宅後、セラフィーナは母に向かって、初めて本音をこぼした。
「お母様。私はもう一度……あの方とやり直してみてもいいのかもしれません」
そう言うと、母は驚いたようにセラフィーナを見た。
両親には心配をかけたくなくて、セラフィーナは何も話してこなかった。
それでも、ハリソンが別の令嬢と親しくしていたことや、二人の仲が決して順調ではなかったことには母も気づいていたらしく、ずっとセラフィーナを気にかけてくれていた。
「……本当に、それでいいの?」
心配そうな問いに、セラフィーナは少しだけ迷ってから頷いた。
「はい。今のあの方を、もう少し見てみたいのです」
そう答えた胸の奥には、久しく感じたことのなかった温かさが灯っていた。
◆
ハリソンの身体の傷も癒え、外出できるようになった頃。
二人は久しぶりに街へ出かける約束をした。
セラフィーナは前の日からドレスを選び、密かに楽しみにしていた。
ところが約束の時間の直前、ハリソンの伯爵家から使者が訪れた。
友人たちから誘われたため、今日の約束は延期してほしいというのだ。
セラフィーナは一瞬だけ、目を伏せる。
事故前にも、幾度となくあったことだ。
けれど今の彼は記憶を失っているし、悪気のない、ただの偶然だ。
そう自分に言い聞かせた。
翌日、ハリソンは少し気まずそうに尋ねてきた。
「昨日は本当にごめんね。ええと、怒っている?」
「……少し」
「ああ、やっぱり。昔からの友人たちが僕のために、久しぶりに集まってくれることになって。付き合いもあるから断りづらくてさ。でも、君なら分かってくれると思って」
セラフィーナの指先が微かに震え、止まった。
――『君なら分かってくれるだろう?』
事故前の彼が、予定をすっぽかすたびに口にしていた言葉と同じだった。
けれど、ハリソンはセラフィーナの強張った顔を見て、すぐに眉を下げた。
「本当に悪かったと思っているんだ。次からはちゃんと先にした約束を優先するよ」
素直に謝る彼を見て、セラフィーナは、一度だけならと飲み込んだ。
まだ、彼がかつての彼と同じだとは決まったわけではないのだから。
――けれど、その期待は再び裏切られることになる。
それは、ハリソンが社交界へ復帰して間もない頃のことだった。
事故以来初めて、二人揃って夜会へ出席した。
久しぶりに姿を見せたハリソンには多くの視線が集まったが、当の本人は周囲の様子など気にした風もなく、セラフィーナの隣にいた。
「セラフィーナ、僕と踊ってくれる?」
「ええ、もちろんですハリソン様」
セラフィーナは差し出された手を取ると、彼と一曲踊る。
腰に回された腕の温もりに心臓が小さく跳ね、曲に合わせて身を寄せれば、自然と視線が絡み合う。
ハリソンはそんなセラフィーナを見て、はにかむように微笑んでみせる。
その顔を見ていると、セラフィーナまで頬が熱くなる。
こんなふうに踊るのは、いつ以来だろう。
ほんの少し前まで抱えていた不安さえ、今だけは忘れてしまいそうだった。
曲が終わったあともハリソンはセラフィーナを置いて友人たちの輪へ行くことなく、
「少し疲れただろう? 休もうか」
と飲み物を手渡し、人の少ないバルコニーへ連れ出してくれた。
「ありがとうございます」
「このくらい当然だよ。婚約者なんだから」
そんな何気ない一言さえ、今のセラフィーナには嬉しかった。
けれど、その時だった。
「……ハリソン様」
震える声が聞こえた。
振り返ったセラフィーナは、その姿を見た瞬間、息を呑んだ。
そこにいたのは、かつてハリソンが入れあげていた女性、男爵令嬢のキャシーだった。
キャシーは今にも泣き出しそうな顔でハリソンを見つめると、縋るようにこちらへ近づいてくる。
「ハリソン様が事故に遭われたと聞いて、私、ずっと心配していたんです。お会いしたかった……。本当に、ご無事でよかった」
けれど一方のハリソンは、戸惑った様子で彼女を見返していた。
「すまない。君が……キャシー嬢?」
「はい」
「話は聞いている。けれど、僕は君のことを何も覚えていないんだ」
キャシーの顔が見る見る間にくしゃりと歪んだ。
それでもハリソンは、最初こそ毅然としていた。
「それに僕にはセラフィーナがいる。以前、僕たちがどんな関係だったとしても、これ以上親しくするつもりはないよ」
その言葉に、セラフィーナは胸を撫で下ろした。
――やっぱり、今の彼は違うのだと、そう思った直後だった。
「そんな……」
キャシーの瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あんなにも一緒にいた、私のことを、っ、何も覚えていないなんて……」
「え、あ……」
すすり泣きとともに紡がれる震えた声が、しんとしたバルコニーに響く。
月明かりの下、涙に濡れた瞳で見上げられれば、突き放すことなど酷に思えてしまうような姿だった。
途端にハリソンの顔に、狼狽が浮かぶ。
彼は昔から、女性の涙にひどく弱かった。
そして、その涙を前にしたハリソンが次に何をするのか、セラフィーナには分かってしまった。
「泣かないでくれ。困ったな……ほら、これを」
ハリソンは慌ててキャシーの元へ駆け寄ると、ハンカチを差し出して彼女を慰めはじめる。
……その光景を、セラフィーナは黙って見つめていた。
二人が並んでいる姿を見るだけで、胸の奥がずきりと痛む。
泣きたいのは、こちらの方だった。
けれど大勢の貴族が集まる夜会で、婚約者がかつての浮気相手を慰めているからと泣き出すわけにはいかない。
セラフィーナは唇を引き結び、こみ上げてくるものを静かに飲み込んだ。
その間にも、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
泣き続けるキャシーの身体がふらりと傾く。
「キャシー嬢!」
ハリソンが咄嗟にその肩を支え、キャシーは、そのまま縋るようにハリソンの胸元へ身を寄せる。
ハリソンも突き放すことはせず、困った顔をしながらもその身体をそっと支えていた。
この光景を、セラフィーナは何度も見たことがあった。
そしてついに、ハリソンが言った。
「分かった。何か困ったことがあるなら、相談くらいは聞くから」
「本当ですか?」
「ああ。だから、もう泣かないで?」
キャシーが嬉しそうに涙を拭う。
その二人を見つめながら、セラフィーナは一瞬、自分が過去の記憶でも見せられているのではないかと思った。
それほどまでに、何もかもが、あの頃と同じだった。
◆
夜会の一件からしばらくしても、ハリソンとキャシーの交流は完全には途絶えなかった。
キャシーからは何度か手紙が届き、ハリソンもそれに返事をしているようだった。
時には相談があると言われ、短い時間ながら顔を合わせることもあったらしい。
ハリソン自身、それを隠そうとはしていなかった。
彼にとっては、後ろめたいことなど何もないのだろう。
二人のことを知ったセラフィーナは、ハリソンと二人きりになったところで、とうとう切り出した。
「ハリソン様、お願いがあります。……キャシー様とは、もう関わらないでいただきたいのです」
「でも……僕は以前、彼女とずっと一緒にいたんだろう?」
「……ええ」
「だったら、何も覚えていないからといって、急に突き放すのは違うと思うんだ」
「…………」
何を、言っているのだろう。
セラフィーナは思わず、ぽかんと口を開きそうになった。
しかしハリソンは、いたって真剣だった。
「過去の僕が彼女に期待を持たせたのなら、いくら記憶がなかろうと、それは僕の責任だ。今さら恋人のように接するつもりはもちろんない。でも、せめて彼女が気持ちを整理できるまでは、話くらい聞いてあげたい」
言っていることだけを聞けば、誠実にさえ思える。
だからこそ、セラフィーナの胸はどんどんと冷えていった。
「……私が嫌だと言っても、ですか?」
ハリソンが言葉に詰まる。
しばらくして、なだめるような声音で言った。
「あんなに泣いていたし、かなり繊細な人なんだと思う。セラフィーナはしっかりしているから……分かってくれると思ったんだけどな」
――まただ。
『彼女は繊細なんだ』
『彼女はすぐに泣いてしまうから』
『君は強いんだから、分かってくれるだろう?』
何度、同じ言葉を聞いただろうか。
先日の夜会だけではない。
これまで幾度となく泣きたい場面はあったが、そのたびにみっともなく感情をぶつけるまいと、必死に我慢していただけだ。
けれどハリソンは、その我慢をいつも、セラフィーナは傷つかない強い女だとしか受け止められない。
そして、感情のままに泣いたキャシーは慰められ、耐えたセラフィーナにはまた我慢を求める。
ハリソンに悪気はないのだ。
むしろ彼なりに、誰も傷つけないようにしているつもりなのだとも思える。
そうしてセラフィーナに何度も「分かってくれ」と我慢を強いた末に、過去のハリソンは最後にはキャシーを選んだのだ。
――ああ、結局ハリソンは、記憶があろうがなかろうが、何も変わっていなかったのだ。
そう気づいた瞬間、もう一度彼を信じたいと願っていた気持ちが、音もなく崩れていった。
◆
数日後、セラフィーナは改めてハリソンと向かい合って座っていた。
「ハリソン様。先日、私がキャシー様と関わってほしくないと申し上げた理由を、きちんとお話ししておきたいのです」
ハリソンは黙ってセラフィーナを見る。
「以前のあなたも、同じだったのです。キャシー様が泣けば放っておけないとおっしゃって、私にはいつも『君なら分かってくれるだろう』と」
それだけではない。
「ご友人との約束も、ご自身の都合も、キャシー様のことも。あなたはいつも、最後には私なら我慢してくれると思っていらっしゃいました」
「…………」
「そして今も、同じです」
ハリソンの表情が強張った。
「私は、昔のことだけを責めているのではありません。また同じように私が後回しにされるのではないかと、それが怖いのです」
しばらくの沈黙が落ちた。
セラフィーナは急かさずに待った。
ここで彼が、
『そうだったのか。なら、同じことを繰り返さないようにする』
そう言ってくれたなら、もしかすると、二人の未来はまだ違っていたのかもしれない。
けれど、やがてハリソンは苦しそうに口を開いた。
「……でも、それは昔の僕の話だろう? 僕は何も覚えていない。キャシー嬢と恋人のように接しているつもりもないし、君を裏切る気だってない。それなのに、昔の僕がしたことまで重ねて、今の僕も同じだと決めつけられるのは……正直、つらいよ」
その言葉を聞いて、セラフィーナは自分の抱いた違和感が間違いではなかったのだと悟った。
「……ええ。そうですね」
覚えていない過去を責められたくないということ自体は、きっとおかしな感情ではない。
セラフィーナも、過去のハリソンを責めたいわけではない。
けれど、それとは別に、否定できない事実がある。
「ですが今のあなたも、過去とまったく同じ選択をなさっています。キャシー様が泣けば寄り添い、私が嫌だと言っても、彼女のために我慢してほしいとおっしゃった。私を裏切るつもりはないとおっしゃりながら、それでもあなたは、私の気持ちは考えず、彼女との関わりを続けました」
「だけど、今の僕は――」
「そして以前も、そうやって少しずつ私が後回しになって、最後にはキャシー様を選んだのです」
唇が震えそうになるのを、セラフィーナはぐっと堪えた。
それでも、声だけは毅然としていた。
「全く同じことをなさっているあなたの、一体何を信じればいいのですか?」
「今回は違う!」
ハリソンが堪えきれないように声を上げた。
「僕は同じことなんてしない。今度はちゃんと君を大切にする。だから……信じてほしい」
その言葉に、セラフィーナは静かに目を伏せた。
「『次は気をつける』『もうしない』『信じてほしい』。そのたびに私は信じました。だから、ここまで来てしまったのです」
「セラフィーナ……」
「もう、終わりにしましょう」
「っ!」
ハリソンが息を呑む中、セラフィーナは、はっきりと告げた。
「婚約を解消してください」
「待ってくれ!」
立ち上がろうとしたセラフィーナを、ハリソンが呼び止める。
セラフィーナは振り返り、縋るような彼の瞳を見つめ、ほんの少しだけ笑った。
「初めて会った日のあなたは、とても優しかったのです。私は……そんなあなたを好きになりました」
それは、ハリソンが忘れてしまった、十五歳の頃の記憶。
そしてセラフィーナは、別れを告げるこの瞬間になって、初めてその想いを口にした。
「ずっと、あの日のあなたに戻ってほしいと思っていました」
だから事故のあと、期待してしまった。
本当にあの日の彼が戻ってきたのだと。
もう一度、この人を信じてもいいのかもしれないと。
「でも……分かってしまったのです。あなたは昔に戻ったわけではありませんでした」
セラフィーナの瞳から、ふいに一粒の涙が零れた。
ハリソンが目を見開く。
涙を拭うことなく、セラフィーナは彼を見つめた。
「あなたはずっと、同じ人だったのです」
優しかった彼も。
自分を傷つけた彼も。
記憶を失った今の彼も。
結局本質は変わらない。
すべて、同じハリソンなのだ。
「あなたは優しい方です。でも、その優しさのために誰かが我慢しなければならなくなった時、あなたはいつも『セラフィーナなら我慢してくれる』と思う。――私はもう、その『我慢する人』にはなりたくありません」
ハリソンは何も言えずに立ち尽くしている。
先日の夜会では、キャシーが涙を見せた途端に駆け寄った彼が、今はセラフィーナに手を伸ばすことさえできずに。
やがて、掠れた声でハリソンが尋ねる。
「……僕は、変われない? もうチャンスは、ないのかな」
セラフィーナは首を横に振った。
「分かりません」
いつか本当の意味で変われる日が来るのかもしれない。
その可能性までも否定するつもりはなかった。
ただ、その日を待ち続けるには、セラフィーナはもうあまりにも疲れていた。
そして何より、彼が変わるまで待ちたいと思えるほどの愛情は、もう残っていなかった。
「私はこれまでもたくさん我慢しました。だからあなたが変わるかどうかを、私はもう待てないんです」
そう言うと、深く一礼し、今度こそ背を向ける。
「さようなら、ハリソン様」
もう、呼び止める声は聞こえなかった。
セラフィーナは呆然とするハリソンを置いて、扉を開き、一歩外へ踏み出す。
その瞬間、セラフィーナは初めて気づいた。
ずっと胸を押さえつけていた重いものが、なくなっている。
彼が変わる未来を待つことも、いつか昔の彼に戻ってくれると願うことも、もうしなくていいのだ。
そう思うと、歩き出す足取りは驚くほど軽かった。
◆
その日のうちに、セラフィーナは父である伯爵の執務室を訪れた。
「お父様。ハリソン様と婚約を解消したいのです」
突然の申し出に、父は眉をひそめた。
「彼が記憶を失い、君を忘れてしまったからか?」
「いいえ」
セラフィーナははっきりと首を横に振った。
「事故に遭う前から、私たちの関係はとっくに壊れていました。それを終わらせる勇気を、私が持てなかっただけです」
そしてセラフィーナは、これまで黙っていたハリソンとのことをすべて父に打ち明けた。
婚約解消の理由となったのは、記憶喪失ではない。
キャシーとの度重なる親密な交際や、婚約者であるセラフィーナを蔑ろにしてきたこれまでの行いだった。
もちろん、貴族同士の婚約である以上、娘の気持ちだけで簡単に白紙にできるものではない。
ハリソンの伯爵家も当初は、婚約の継続を望んだ。
しかし、ハリソンは事故後も、セラフィーナが嫌がっているにもかかわらずキャシーとの交流を続けている。
たとえ以前のような恋愛感情がなかったとしても、これでは婚姻後も同じ問題が繰り返される可能性が高い。
無理に結婚させたところで、いずれ両家の関係にまで亀裂が入る。
そうセラフィーナの家から指摘されれば、相手は強く反論することはできなかった。
先方も最終的にはそれを認め、婚約解消を受け入れた。
話し合いの末、二人の婚約は正式に解消された。
ずっと前から壊れていた関係に、ようやく終止符が打たれたのだ。
◆
半年後。
婚約を解消してからというもの、セラフィーナは以前よりもずっと自由に時間を使えるようになった。
父の仕事を手伝い始めたこともあり、毎日は思っていた以上に忙しい。
新しい縁談も、いくつか届いている。
けれど、今すぐ誰かと婚約するつもりはなかった。
今度誰かと結婚するなら、家同士が決めたからでも、寂しいからでもなく、自分自身で相手を見て、この人と一緒にいたいと思える人を選びたい。
両親も、そんな彼女の意見を尊重してくれていた。
そんなある日、セラフィーナのもとに一通の手紙が届いた。
差出人の名前を見て、ほんの少しだけ手が止まる。
――ハリソンだった。
婚約解消以来、彼とは一度も会っていない。
聞くところによれば、ハリソンはその後キャシーとも距離を置いたらしい。
彼女に泣いて縋られても、中途半端に優しくすることこそ相手に期待を抱かせ、かえって傷つけるのだと、ようやく理解したのだという。
キャシーもすぐには納得できなかったようだが、今では二人が会うことはないそうだ。
「…………」
セラフィーナはどうしようか悩んだものの、封を切ることにした。
手紙は、それほど長いものではなかった。
復縁を求める言葉もない。
記憶は依然として戻ってはいないらしい。
ただ、彼が記憶を失う前、そして失ったあとにセラフィーナに対してしてきたことへの謝罪と、近況が少し。
そして最後に、こう書かれていた。
『君があの日に言ったことの意味が、最近になって少しずつ分かるようになった気がする。
僕は誰も傷つけたくないと思いながら、いつも一番我慢してくれる人に甘えていたんだと思う。
それを優しさだと思い込んでいた。
今さら謝ったところで、君にしたことがなくなるわけではないけれど、本当にすまなかった』
セラフィーナは最後まで読み終えると、静かに手紙を折りたたんだ。
ハリソンが変わり始めているのなら、それはきっと良いことなのだろう。
いつか彼が、本当の意味で誰かを大切にできる人になるのかもしれない。
けれど――それを見届けるのは、もうセラフィーナの役目ではない。
返事を書くつもりはなかった。
セラフィーナは手紙を引き出しの奥へしまい、そっと閉じる。
窓の外では、初夏の風が青々とした木々を揺らしている。
セラフィーナはしばらくその景色を眺めたあと、再び机へ向き直った。
まだ片づけなければならない仕事がたくさんある。
これから出会う人も、きっとたくさんいるだろう。
セラフィーナは新しい紙を一枚手元に引き寄せると、軽やかな気持ちでペンを走らせ始めた。




