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悪役令嬢は手料理で胃袋を掴みたい〜断罪ルートを回避しようとしたら、ヒロインの課金チート香水を焼きたてピザの匂いで粉砕していました〜

作者: なち
掲載日:2026/08/31

第一章 冷酷令嬢と、ほかほかのパンケーキ


──前世の私は、とにかくお腹が空いていた。

どこを見渡しても冷え切った六畳一間のアパート。財布の中身は数枚の数十円玉だけで、水道代すら払えずに止められていた。


道端の商店街の街頭テレビから流れていたのは、人気のアニメやゲームのCM。華やかな二次元のイケメンたちが微笑む画面の隅で、私はウィンドウに飾られた喫茶店のサンプルに釘付けになっていた。

大きな白いお皿に躍る、厚みのある黄金色のパンケーキ。たっぷりと塗られたバターが熱で溶け出し、上からとろりと垂らされた蜂蜜が光を反射して輝いている。

ナイフを入れたら、きっとふわふわで香ばしい湯気が立ち上るのだろう。 『一度でいいから……お腹いっぱい、あれを食べてみたかったな……』 最後のお水を飲み干し、意識が遠のく中で私が抱いた願いは、実にささやかで、けれど切実な食への執着だった。



◇



「……あら、また焦がしてしまいましたわ」


厨房に響く薪のはぜる音を聞きながら、私は手に持ったフライパンを見つめて小さく溜息をついた。

鏡を見ずともわかる。今の私──クリスリア王国の公爵令嬢エレノア・ヴァルハイトの顔立ちは、誰が見ても「近寄りがたい」の一言に尽きるだろう。

きゅっと吊り上がった鋭い猫目に、氷のように冷徹な印象を与える眉。きめ細やかな白い肌と相まって、お茶会で微笑むだけで「何か恐ろしい企みでもなさっているのでは」と周囲の令嬢たちを怯えさせてしまうのが常だった。


(でも、本当の私は企みどころじゃないのよ。ただ、焼きたてのパンケーキが上手に焼きたいだけなんですの……!)


前世の貧困死から目覚めた時、私が転生した先は、前世で街頭テレビのCMなどでちらりと目にしたことのある大人気乙女ゲーム『聖なる乙女と光の誓い』の世界だった。

そして私が演じるべき役割は、主人公をいじめる典型的な「悪役令嬢」エレノア。もっとも、記憶を取り戻した私からすれば、ゲームの展開などどうでもよかった。


元のエレノアだって、本来のストーリーでは主人公に対して「婚約者のいる男性にむやみに話しかけてはいけませんわ」とか「上級生には正しい敬語を使いなさい」といった、至極当然のマナーを注意していただけなのだ。それなのに、うつつを抜かしたおバカな王子に勘違いされて処刑されるだなんて、冗談ではない。


「処刑なんてされてたまるものですか。この世界には、こんなに美味しくて新鮮なバターも、卵も、蜂蜜も、小麦粉もあるというのに!」


そう、このヴァルハイト公爵家は裕福だ。お腹が空いたら、手を鳴らせば素晴らしい料理が出てくる。だが、前世で飢えに苦しんだ私にとって、最大の至福は「自分の手で食材を調理し、出来立てを口いっぱいに頬張ること」だったのだ。


公爵家の厨房を拝借し、シェフたちを「勉強のためですわ」と追い出しては、前世の記憶を頼りに試行錯誤を繰り返す日々。そして今日、ついに最高の配合の生地が完成した。

熱した銅製のフライパンに、木べらで丁寧に生地を流し込む。ふつふつと表面に小さな泡が立ち始め、香ばしい甘い香りが厨房いっぱいに広がっていく。ひっくり返すと、そこには見事な黄金色の焼き目が広がっていた。


「できましたわ……! 完璧な焼き加減ですわ!」


私は猫目を輝かせ、思わず頬を緩めた。一枚、二枚、三枚と慎重に重ね、頂点に上質な発酵バターをぽとんと落とす。さらに結晶化していない最上級の澄んだ蜂蜜を、たっぷりと惜しみなく回しかけた。熱でバターが滑り落ち、蜂蜜と混ざり合ってパンケーキの層にしみ込んでいく。


「いただきます……!」


上品なマナーなどこの瞬間だけはどこかへ投げ捨て、ナイフとフォークで大きめの一口分を切り取る。口の中へ放り込んだ瞬間──甘く香ばしい湯気と共に、ふんわりとした生地の食感、バターのコクと塩気、そして蜂蜜の濃厚な甘みが一気に弾けた。


「んんっ……!! 美味しい……幸せですわ……っ!」


あまりの美味しさに、私は思わず目を細め、胸の前で両手をギュッと握りしめた。前世の私が夢にまで見た、本物のパンケーキ。お腹が満たされる感覚。

口いっぱいに広がる幸福感。感極まって目尻にじんわりと涙が浮かぶ。


「……おいおい。ヴァルハイト公爵家は食費に困っているのか?

それとも、俺の婚約者は俺に内緒で拷問の訓練でもしているのかと思って見に来たら、なんだその顔は」


不意に、厨房の入り口から低い声が響いた。

振り返ると、そこには美しい金髪と、吸い込まれそうな青い瞳を持った少年が立っていた。この国の第1王子にして、私の婚約者──レオン・フォン・クリスリアだ。


「レオン様……? なぜこのような場所に?」


「なぜも何も、お前が最近『重要なお稽古事がある』と言って放課後のお茶会を断るからだ。

浮気でもしているのかと様子を見に来てみれば……なんだ、その妙な丸い焼き物は」


レオンは腕を組み、眉をひそめてこちらを見ていた。

私とレオンが10歳の頃に初めて出会った時の関係は、お世辞にも「甘い」とは言えなかった。

なにしろ、出会った当初のレオンは私の顔を見るたびに「相変わらず可愛げのない目だな」「将来の国母としては頼もしいが、隙がなさすぎて冷たい女だ」などと失礼な評価を下していたのだ。

私も私で「政治的なパートナーとして割り切りましょう」と冷ややかに接していた。


「これはパンケーキですわ。庶民の食べる素朴なお菓子ですが……大変美味しいのです」


「パンケーキ? 庶民の……? お前のような高位貴族が、そんなものを自作して泣くほど喜んでいるのか?」


レオンは呆れたように首を振る。

だが、その視線はどこか戸惑っているようだった。いつもの「冷酷で隙のないエレノア」が、エプロン姿で口元に蜂蜜をつけ、目をキラキラと輝かせているのだから当然だろう。


「レオン様も召し上がりますか? まだ生地は残っておりますし、焼き立てが一番美味しいのですわ」


「……ふん。王子であるこの俺が、そんな庶民の……」


口ではそう言いながらも、レオンの鼻孔を香ばしい甘い香りがくすぐったらしい。

ぐう、と小さく彼の腹が鳴った。レオンは一瞬で顔を真っ赤にし、咳払いをした。


「……毒味だ。お前が変なものを食べて倒れられては困るからな」


私は小さくくすりと笑うと、手早く新しい生地を焼き上げ、レオンの前に差し出した。


「熱いですから、気をつけて召し上がってくださいね」


レオンは半信半疑のままナイフを入れ、一口分を口に運んだ。 ──その瞬間。 レオンの青い瞳が、カッと大きく見開かれた。


「っ……!?」


「いかがですか?」


「な……なんだこれは……! 外はサクッとしているのに、中は驚くほどふわふわだ……! バターのコクと塩気が、この蜜の甘さを引き立てて……こんな、こんな菓子は宮廷の料理人でも作ったことがないぞ……!」


レオンは言葉を失い、ものすごい勢いで二口目、三口目を口へ運び始めた。洗練された宮廷の高級菓子とは違う、できたての温かさと、素朴で贅沢な味わい。それが、多忙な公務で疲れ切っていた王子の心と体に、じんわりと染み渡っていくのが分かった。


「美味しいでしょう? 食べものは、温かいうちにみんなで笑って食べるのが一番幸せなのですわ」


私が心からの笑顔を向けると、レオンはパンケーキを口に含んだまま、固まった。彼のおでこから耳の先端まで、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。


「れ、レオン様? どうなさいましたの? 喉に詰まらせましたか!?」


「ち、違う! なんでもない! うぐっ……ゴホッ!」


「まあ大変! すぐにお水をお持ちしますわね!」


慌てて差し出した冷たいお水を一気に飲み干しながら、レオンはどこか狂おしそうな目で私を見つめていた。


(な、なんだこの生き物は……!?

いつも冷たい目で俺を見下ろしていたあのエレノアが……こんなに美味しそうにメシを食って、必死にお水を差し出してくれて……可愛すぎるだろ……っ!!)


そう、この瞬間。「冷酷な国母候補」でしかなかった私のギャップに、レオン王子は完全にノックアウトされたのだった。



◇



幼少期のパンケーキ事件から時が流れ、私たちは16歳で王立学園へと入学した。それからの学園生活での1年間は、まさに怒涛の日々だった。


「エレノア! 今日の放課後も『あの美味しいヤツ』を作ってくれるんだろうな!?」


「カイル、お前は気安く俺の婚約者の厨房に上がり込むなと言っているだろう!」


「いいじゃないですかー! レオン様ばっかりズルいです! エレノアちゃんの作った新作の試食は、幼馴染である俺の特権ですよ!」


チャラチャラとした見た目で女子生徒に大人気の侯爵家令息、カイル・ブレア。

普段は気まぐれな軽薄男を気取っている彼だが、私の前ではただの「食べたがりの大型犬」だった。私が試作した「塩キャラメルスコーン」や「チーズクレープ」の最初の被害者……いや、ファンになった彼は、この1年間、放課後になると私の屋敷や学園の東屋へ足繁く通い詰めていた。


「姉さん、今日の部活動の差し入れ、僕の分も残してありますよね……?」


さらに、1歳年下で我がヴァルハイト公爵家の義理の弟、15歳のシオン。

普段は大人びていて冷徹な天才肌のシオンも、私が「シオン、今日も頑張ったわね。焼き立てのパウンドケーキよ」と差し出すと、パッと表情を明るくして私の隣にちょこんと座るのだ。


「エレノア様……本日の騎士団の厳しい訓練ののち、あなたの作られた『がっつりスタミナ肉サンド』をいただけると聞いて、死ぬ気で生還いたしました」


顔を真っ赤にしながら生真面目に頭を下げるのは、同い年の騎士団長の息子ギルバート・ハルバード。

過酷な稽古でいつも腹ペコだった彼に、私が前世の「甘辛い照り焼き肉とシャキシャキキャベツを挟んだ極厚サンドイッチ」を振る舞って以来、彼は私を「命の恩人」と崇め、護衛を買って出るようになった。


「……ふむ。

糖分と脂質の配合が極めて合理的かつ、精神的な弛緩効果を引き出す素晴らしいレシピだ。

エレノア様、この『脳が覚醒する濃厚チョコレートタルト』の構造について詳しく議論させてほしい」


メガネの奥の知的な瞳を輝かせるのは、同じく同い年で宮廷魔術師の弟子であり天才と名高いユーリ・アルフェイド。

研究に没頭するあまり食事を忘れて倒れかけていた彼に、私が濃厚なフォンダンショコラを口に押し込んで正気に戻して以来、彼は私の料理を「魔法を超えた奇跡の構造物」と称して熱心に通うようになった。


気がつけば、学園のサロンの一角には、毎日のように国を代表する超ハイスペックな男子たちが集まっていた。彼らの目的はただ一つ。私の作る、温かくて美味しい「お袋の味」と、それをご満悦で口に運ぶ私の姿を見ること。


「みんな、本当に美味しそうに食べてくださいますわね」


お茶を注ぎながら微笑む私を見て、レオンやカイルたちは顔を見合わせ、幸せそうに頬をゆるめる。


「お前が嬉しそうにしてるからな。……おいエレノア、次はあの『しょっぱいチーズのトースト』だかを作ってくれ」


「レオン様、ずるいぞ! 次は僕の希望した苺のタルトだよ!」


シオンまでもがムッとした顔でレオンに食ってかかる。


「ギルバート、お前は毎回肉だろ!」


「騎士の食事量を舐めてもらっては困る、カイル殿。まずは肉サンドだ」


この1年間、私たちはこうしてたくさんの美味しいお料理を囲み、誰一人として欠けることなく強い絆と大切な思い出を育んできたのだ。


(ああ……幸せですわ。……でも、本当はこんなはずじゃなかったのですけれど)


前世で餓死した私は痛いほど知っている。

お腹が空くのは、心が飢えるのは、死ぬほど辛いことなのだと。だからこそ、公務で疲れ切ったレオンも、稽古で腹を空かせたギルバートも、研究で倒れかけていたユーリも、どうしてもほったらかしにできなかった。


『美味しいものを食べさせて命を救って、胃袋ごと仲良くなっておけば、まさか私を冤罪で処刑なんてしないでしょう!』


最初はそんな「処刑回避の保険」と「お節介」のつもりだったのに、気づけば大切な居場所になってしまっていた。


(本来のエレノアは誰とも打ち解けず高飛車だったのだから、これで未来は変わっているはず……。それに、私がちゃんと手料理でみんなを「餌付け」したのですもの、殺されるなんてことはない……わよね?)


そう自分に言い聞かせるものの、胸の奥の不安は消えない。乙女ゲームの『ストーリーの強制力』というものが、もし存在するのだとしたら──。


私たちが17歳になり、2年生に進級した春。満開の花びらが舞う学園の門をくぐり、あの「原作ヒロイン」が特待生として編入してきた。


(うう……ついに彼女が来てしまったわ……! お願いだから、みんなで平和に美味しいものを食べるこの日常を壊さないで……!)


胸の奥で鳴り響く警鐘。

私を処刑台へと追いやる『断罪ルート』の影が、すぐそこまで迫っていた。




第二章 忍び寄る甘い香りと異変


【マリア視点】


「静かにー。今日は編入生を紹介するぞ。入ってきなさい」


担任の教師の声に促され、私は教壇の前へと一歩踏み出した。その瞬間、教室内のモブ生徒たちから「うわ、めちゃくちゃ可愛い子来た!」「あの桃色の髪、すごく可憐じゃないか?」と小さなどよめきと賞賛の声が上がった。


(ふふん! そうでしょ、そうなのよ!

このパッチリ二重の大きなお目目も、ふわふわ揺れる桃色の髪も、全部私がヒロインだからこそ与えられた特権なんだからっ!)


私は心の中で高らかに勝ちどきを上げた。

私の前世は、大人気乙女ゲーム『聖なる乙女と光の誓い』の重度な廃課金オタク。主な課金先は推しの限定スチル解放や限定イベントで、給料のすべてを注ぎ込み、最後は食費すら切り詰めて部屋で倒れて命を落としたという筋金入りの自業自得な転生者だ。

だけど神様は私を見捨てなかった。生前、愛と大金を注ぎ込んだ大好きな乙女ゲームの世界に、ヒロインとして転生させてくれたのだから!


(前世で金を積みに積みまくった私の推したち……全員が私の大本命! 誰か一人なんて選べるわけないじゃない! だから私の目標はただ一つ、全員を攻略してハーレムエンドを迎えることよ!)


ふと、自分のスカートのポケットに手を伸ばす。

そこには、転生した時に自分が所持していた小さなガラス瓶があった。 ショップの課金アイテム一覧にあった【絶対魅了のコロン】だ。

プレイ当時は「このゲームにはまると思ってなかった」から事前登録すらしておらず、持っているはずのないアイテムだったが、なぜか所持品として手元にある。


(……これを使えば、ステータスを無視して一瞬で私の虜にできるはず。でも、確か『使用者の魔力や体力を激しく消費する』とか何とか、デメリットがあるって聞いたような……。具体的にどうなるのかまでは知らないけど、ちょっと使うのは怖いかも……)


自分へのリスクを考えると、少しだけ使うことに抵抗があった。


(ま、こんなのに頼らなくたって、私には完璧な原作知識と推しへの愛があるんだから! 1年遅れの編入だけど、コロンなんて使わなくても楽勝で全員落としてみせるわ!)


そう高を括り、余裕の笑みを浮かべて編入生活をスタートさせて──早くも二ヶ月。私は、青ざめた顔で自分の髪をかきむしっていた。


(……ちょっと待ちなさいよ。この二ヶ月間、出会いイベントを起こそうと思っても……全然起きないじゃないのよおおおおおっ!!)


本当なら、このゲームで意中のキャラを落とすには地道なステータス育成が必要だ。

例えばユーリ様やシオン様みたいな天才キャラを攻略したいなら、図書館で自習して『知能』ステータスを上げ、密会イベントを発生させなければならない。

なのに……あの悪役令嬢のエレノアのせいで、これまでどれだけ邪魔されてきたことか! 図書館でちょっと音を立てれば現れて「静かにしなさい」だの「本は大切に扱いなさい」だの、高飛車に小言を言ってくる。そして恐ろしいことに、あいつに注意を受けるたび、私の『知能』や『魅力』のステータスがランダムで削られて低下するのだ。


(王子の婚約者のくせに、他のキャラを狙ってる時にいちいち出てきて邪魔すんじゃないわよ! なんなのあの歩くデバフみたいな女! くそっ!!)


おまけに、担任から「特待生だから」と紹介されたはいいものの、学力や魔力量で振り分けられた最上位のSクラス(レオン様やエレノアたちが集まる優秀クラス)には入れず、一つ下の普通クラスに配属されてしまった。


(ふん、見てなさいよ! 公爵令嬢の威光でSクラスに居座ってるあの女も、私のコロンで全員まとめて私の足元にひれ伏せさせてやるんだから!)


焦った私は、必死になってイベントを発生させようと躍起になった。

中庭の噴水前で無邪気に水を跳ね散らかしてみせても、通りかかったレオン様たちからは「あいつ何やってんだ……?」「不審者か……?」とドン引きの視線を向けられた。

階段でドジっ子を装って華麗に転んでみせた時には、騎士のギルバート様に「危ないな。足元も見て歩けないのか」と呆れ顔でスルーされた。焦ってギルバート様に蜂蜜たっぷりの特製タルトを差し入れした時なんて、「……俺、甘すぎるものは苦手だし、重度の蜂蜜アレルギーだって言ったんだが……」と一瞬不審がられて引かれてしまった。


(攻略対象のプロフィールくらい覚えてるわよ! ゲームの初期設定では蜂蜜タルトが好物って書いてあったんだから、私の愛を受け取りなさいよ!)


おかしいと思って彼らの後を追った私は、学園の敷地の隅にある専用ティーサロンで信じられない光景を目にすることになった。エプロン姿のエレノアを中心に、男たちがデレデレな表情で彼女の手作りお菓子を幸せそうに頬張っていたのだ。


(なんなのよアレえええええっ!?)


私は物陰でキーッと爪を噛んだ。学園でのこの1年間で、エレノアはあいつらの胃袋をガッチリ手飼いにしていたのだ。そんな固い絆の中に、1年遅れでやってきた私が正攻法で割り込めるわけがない!


(公爵令嬢のくせに料理なんてできるわけないでしょ! どうせ有名店の高級菓子を買い占めてきて『私が作りました〜』なんて嘘ついて男たらし込んでるのよ! ズルいわ! 汚いわ! 嘘つき女!!)


二ヶ月分の徒労感と焦燥感で、頭が破裂しそうだった。


(……くっ、背に腹は代えられないわ! 少しだけなら……!)


私は震える手でポケットからガラス瓶を取り出すと、レオン様たちの近くでこっそりコロンをひと吹きしてみた。少し体が怠くなった気がして、慌てて自分のステータス画面を開いて確認してみる。


(……あれ?『知能』も『体力』も減ってない……? なんだ、デバフがかかるって聞いてたけど、ステータスが直接下がるわけじゃないんだ! あの歩くデバフ(エレノア)に遭遇してステータス削られるより全然マシじゃない!)


ステータス数値に変化がないことに安心した私は、一気に恐怖心が吹き飛んだ。


(なーんだ、心配して損しちゃった! これさえあれば、私のハーレムエンドは約束されたようなものね!)


私は笑みを深めると、躊躇なく瓶を傾け、彼らの周囲にこれでもかとコロンの香りを振りまき始めたのだった。……もっとも、彼女が気づいていないだけで、その香りはすれ違うモブの女子生徒たちから「うっ、なにこの悪臭!?」「頭が割れそうに臭いんですけど……!」と激しいブーイングと頭痛を引き起こしており、他の高位貴族の令嬢たちからも「あの特待生、公害級の香水を撒き散らして何考えてるのよ!」と陰で猛抗議を受けていたのだったが、マリアは「嫉妬乙!」と完全に無視していた。



【エレノア視点】


「まあ、新しく転入生がいらっしゃいましたの?」


「ああ、ハリス子爵家の養女らしい。特待生として普通クラスに入ったそうだ」


高等部二年生の春。お茶会の席で、淹れたての紅茶を差し出しながらレオン様とそんな会話をしたのが、マリア様についての最初のやり取りだった。


(ふふ、ついに原作のヒロイン様がやってきましたわね……)


前世の記憶を持つ私にとって、彼女の登場は「破滅フラグ」の始まりを意味していた。いつ冤罪を着せられ、断罪されるルートへと転がり落ちてしまうのか。最初の数週間は、お茶会でクッキーを焼く手も少し震えてしまうほど冷や冷やしていたのだ。

けれど、一ヶ月が過ぎても何も起きない。それどころか放課後のお茶会で、レオン様は呆れ果てたような顔で私にこう言ったのだ。


「あの転入生、中庭の噴水で服を濡らしながら水を撒き散らしていたり、階段の何もないところで派手に転んだり、変な行動ばかりしている。危険だからエレノアもあまり近づかないよう気をつけろよ」


「まあ……レオン様がそうおっしゃるなら気をつけますわ」


さらに二ヶ月が過ぎても、一向にマリア様とみんなの「胸キュンイベント」が始まる気配はなかった。ギルバート様は「俺が重度の蜂蜜アレルギーだと知っているはずなのに、蜂蜜たっぷりのタルトを押し付けられて参った」と顔をしかめ、さらに「あの足元すら見て歩けない様子では、騎士団なら一瞬で命を落とすぞ」とマリア様の転倒についても苦言を呈し、ユーリ様も「行動のロジックが理解不能だ」と眉をひそめていた。


(ふふ……二ヶ月経っても、ぜんぜんマリア様とみんなのイベントが始まりませんわね。

この1年間、みんなに美味しいごはんを作って胃袋を掴んできたから、未来が完全に変わったのかしら? シナリオの強制力なんて、最初から存在しなかったのね!

ふう……よかった、これで私は断罪されずに済みそうですわ……!)


私は胸を撫で下ろし、心からの安心感に包まれていた。



──だが。その穏やかで幸せな日常は、二ヶ月目を過ぎたあたりから不気味な違和感と共に歪み始めたのだ。


「あれ……? 今日はカイル様とギルバート様がいらっしゃいませんのね?」


最初はお茶会に不参加のメンバーが一人、また一人と出始める程度だった。いつもなら「エレノアちゃんの新作スコーンを一番に食べるのは俺だ!」と騒ぐカイル様も、「訓練の後のスタミナサンドが生きがいです」と生真面目に頭を下げるギルバート様も、姿を見せない。


レオン様たちから漂う、どこか噛み合わない言動と妙な冷たさ。彼らはマリア様の側から離れようとせず、まるで何か強い強迫観念に突き動かされているかのようだった。

私の差し出す手料理を見つめるときだけ、一瞬ハッとしたように罪悪感と苦悶の表情を浮かべるものの、次の瞬間にはまた虚ろな目でマリア様へと引き返してしまう。洗脳の力と、この1年間の手料理の記憶の間で、彼らの心が不自然に引き裂かれ、苦しんでいるのが見て取れた。


そして三ヶ月目に入る頃には──サロンの席には、誰一人として来なくなってしまっていた。


(誰も来ないなんて……。せっかく今週末は、みんなで特製の特大ピザを焼きましょうって約束していたのに……!)


(……一人きりの厨房は、こんなにも広かったかしら)


私はサロンの大型厨房に入り、モヤモヤする胸の内を紛らわすように一人でパン生地の仕込みを始めた。

けれど、いざ手を動かし出すと、どうしても身体が勝手に反応してしまう。稽古の後に腹を空かせてやってくるギルバート様のために作っていた「甘辛照り焼き肉とシャキシャキキャベツの極厚スタミナサンド」の分量で生地を丸め、シオン様が大好きな濃厚チョコレートや、レオン様が好む甘さ控えめのチェダーチーズ、ユーリ様が研究の合間に片手でつまみやすい一口サイズのタルト型を次々と準備してしまう。


気づけば、一人の人間では到底食べきれない、途方もない量の食材と仕込みの山ができあがっていた。


「……あら、大変。一人では到底食べきれませんわね」


静まり返った厨房に、自分の声が寂しく響く。

一人で自由に料理できるのは嬉しいはずだった。けれど、一人きりの厨房で仕込みをしていると、どうしてもみんなの顔が浮かんできてしまう。

『処刑されるかもしれない』という恐怖なんて、もうどうでもよかった。何よりも悲しかったのは、1年間かけて作ってきたあの温かくて幸せな食卓が、私から失われてしまったことだった。みんなで笑い合いながら出来立てを頬張る時間が、もう二度と戻ってこないかもしれないという事実が、胸を締め付けるように痛かった。


仕込みを終えた私は、木製の盆にそれらの生地や道具を載せると、少しでも寂しさを紛らわせるために、庭園にある特注のピザ窯のスペースへと移動した。

しかし、ピザ窯の前で一人ポツンと作業をしていた私の元に、決定的な破綻が訪れたのはその直後だった。


「エレノア。今日限りで、あのピザ窯および学園のキッチンの使用を禁止する」


「え……? レオン様、どうして……?」


「マリアから聞いたぞ。お前、自分が作ったと偽って、他店の菓子を買い叩いて生徒に配っていたそうだな。さらにマリアのノートまで破り捨てたとか。公爵令嬢として恥ずかしくないのか」


サロンに集まった攻略対象者たちの前で、レオン様から冷酷な言葉が突きつけられた。身に覚えのない冤罪。必死に訴える私の視線の先で、マリア様がレオン様の腕にすがりつき、ウルウルと目を潤ませている。


「いいんですレオン様……! 私、エレノア様にいじめられても耐えますから……!」


「マリア……君はなんて健気で愛らしいんだ」


ガラス玉のように死んだ目をしたレオン様たちが、マリア様を不自然に甘やかす。その瞬間、マリア様の服の袖から、ふと鼻をつく強烈な異臭が漂ってきた。それは生ゴミと人工的な香料が混ざったような、同性からすれば吐き気がするほど嫌な悪臭だった。


(……あら? これ、いくらなんでもおかしくありませんかしら……?)


数日間にわたって遠目から彼らを観察し、すれ違うたびに漂うその凶悪な悪臭の正体に気づいた私は、ようやく頭の中でパズルがカチリと噛み合った。脳裏に、前世の記憶が鮮やかによみがえった。死ぬ直前に街頭テレビのCMで流れていたあのフレーズ。


『超難易度の乙女ゲームもこれで楽勝! 全員攻略・夢のハーレムエンドを叶える限定課金アイテム【絶対魅了のコロン】をプレゼント!』


(……ああ、そういうことですのね。あの不快な悪臭を放つ香水で、みんなの思考を麻痺させて強制的に虜にしていたのね……!)


理由が分かった瞬間、胸を占めていた悲しさや寂しさは一瞬で吹き飛び、残ったのは煮えたぎる怒りと、料理人としての誇りだった。


「冤罪も甚だしいですが、今の皆様に何を言っても無駄なようですわね」


私は小さく溜息をつくと、あっさりと背を向けた。料理自体は家に戻ればいくらでもできるし、学園のキッチンを禁止されたこと自体はどうでもいい。けれど──許せないのは、そこではない!


(今週末に『みんなでピザを食べる』って約束しましたわよね!? それなのに、私のこの手料理の癖と山盛りの仕込みをどうしてくれるのですか! おまけに、あんな臭いだけのインチキ香水なんかに絆を奪われて……! 私の手料理の味も分からなくなったなんて、絶対に許しませんわよ!!)


私が優雅に立ち去ろうとしたその背後で、マリア様がアピールしようとわざとらしく足をもたつかせ、「きゃあっ!」と何もない廊下で派手に転んで大げさに騒ぎ立てた。それを見た死んだ目の男たちが「マリア、大丈夫か……!?」と慌てて駆け寄っていく。


(まったく、頭の悪いヒロイン様ですこと……)


私は冷ややかに振り返り、心の中でキリリと猫目を吊り上げた。


(あんな臭いだけのインチキ香水より、焼きたてのピザや出来立ての料理のほうが圧倒的に良い匂いに決まっていますわ! 勘違いしないでちょうだい、学園のキッチンが使えなかろうが関係ありませんわ。今週末、私特製の焼き立てピザと手料理で、何が何でもその目を覚まさせてやりますわよ……!)




第三章 焼き立ての香りと覚醒


【カイル視点】


(……おかしい。何かが、致命的におかしいんだ)


自室のベッドの上で、僕はぼんやりと天井を見上げていた。ここ最近、どうにも体調が優れず、今日はたまたま学園を欠席していた。……けれど、マリアの側にいない一日を過ごすうちに、いつも頭の中に立ち込めていた重い不気味な霧が、妙に薄れてすっきりしていく感覚があった。


マリアと一緒にいる時の、胸が高鳴るような浮遊感。彼女の言うことすべてが正しく思えてしまう不可解な感情。……あれはどこか人工的で、自分の感情ではないような薄気味悪さがあったのだ。


思い返せば、学園でのマリアの様子はあきらかに異常だった。日に日に目の下に酷いクマを作り、顔色は土気色に沈み、まるで体力が限界を迎えているかのようにやつれていっていた。それもそのはずで、今の彼女は学園のゆるやかな階段を上るのすら息も絶え絶えで、肩を上下させて荒い息をついている。


「マリア、顔色が悪いよ。今日はもう無理をしないで帰宅して休んだ方がいい」


数日前、親切心からそう声をかけたことがあった。だがマリアは、まるで触れられたくない部分に触れられたかのように「うるさいわね! 余計なお世話よ!」と鋭い金切り声を上げ、ポケットからあのガラス瓶を取り出してシュッと何かを吹きかけてきたのだ。

帰宅させられて効力が切れるのを恐れているかのような、必死で病的な固執。そしてその甘い香りを浴びた瞬間、僕の思考は再び白く塗りつぶされ、「マリアの言う通りだ……」と人形のように頷くしかなくなるのだった。


(マリアと話そうとすると、あの香水を振りかけられて思考を奪われる……。

だけど、エレノアちゃんのお茶会で食べた焼き立てのパンや香ばしいクッキーの匂いの記憶、みんなで笑い合ったあの温かい時間の記憶だけが、あの不気味な悪臭の中から僕を繋ぎ止めてくれていた……)


学園を休んだことで頭が冷え、違和感を確信に変えた僕は、放課後の時間を見計らって立ち上がった。


(エレノアちゃんが学園から帰ってくる時間だ。直接会いに行って確かめないと──)


僕はまっすぐヴァルハイト公爵家へと向かった。ちょうど学園から帰宅したばかりのエレノアちゃんは、応接室で僕を迎えると、呆れ顔で声をかけてきた。


「まあ、公爵家のキッチンまで禁止にする権限はカイル様にはございませんわよ」


「違っ……違うんだ、エレノアちゃん。俺、なんだか頭がどうかしていて……」


頭を抱える僕を見て、エレノアちゃんは小さく息を吐くと、手にしたトレーをテーブルに置いた。

そこには、香ばしい焼き色が破裂しそうなほど美しい、出来立てのチェリータルトが載っていた。


「まあ、ちょうどいいところに。お料理部に入って何を作ろうか試作していたところですの。数日後のお披露目会に向けた準備ですわ。まあお食べくださいな」


「あ……ありがとう……」


差し出されたタルトを、すがるような思いで一口口に含んだ。 その瞬間──。


「──ッ!?」


サクッとした生地の歯ごたえと、甘酸っぱいチェリーの濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。同時に、1年間エレノアちゃんと積み重ねてきた大切な思い出と手料理の温かさが脳裏に溢れ出し、頭の中に立ち込めていた不気味な悪臭と甘い霧を、強風のごとく一瞬で吹き飛ばした。


(……俺は、一体何をしていたんだ!?)


鮮明に戻ってくる記憶。エレノアちゃんが作ってくれた手料理の思い出。そして、あのマリアという女に唆されるまま、幼馴染である彼女に冤罪を着せて厨房を奪った己の醜態。


「エレノアちゃん……! 俺、俺はなんてことを……!!」


「顔色が戻りましたわね、カイル様。

……ふふ、やっぱりあんな不快な香水の匂いより、私の焼き立てのお菓子のほうが効くようですわね」


青ざめて謝罪する僕に、エレノアちゃんは優しく、実によく効く薬を見つけたかのように力強く微笑んだ。


「数日後のお披露目会で、みんなに手料理を食べさせますわ。カイル様、手を貸してくださるかしら?」


「勿論だ!

……ただ、下手にマリアに近づくとまたあの香水を浴びせられて思考を奪われる。

当日は『エレノアがお料理部のお披露目会で料理を出すらしいぞ』と手短に伝言だけ残して、あいつらをあの場所に連れて行くよ!」



【エレノア視点】


数日後。


学園の「お料理部」が開催する、月一回の定期お披露目会の日。

私はカイル様の協力を得て即座にお料理部へと入部し、この日のために特大のピザ窯を備品として持ち込んでいた。


「ふふ、最高の仕上がりですわ……!」


お料理部の調理場には、数時間前から仕込んでいた香ばしい匂いが充満していた。稽古帰りのギルバート様が大好きな「甘辛照り焼き肉とシャキシャキキャベツの極厚サンド」、シオン様のための「濃厚チョコレートタルト」、レオン様の好む「チェダーチーズのトースト」。

そして何より──みんなで焼こうと約束していた、とろけるチーズとトマトソースがたっぷり載った「特大焼き立てピザ」だ。


その時、バン! と調理場のドアが勢いよく開いた。


「エレノア! お前、何をしているんだ!」


現れたのは、レオン様、ギルバート様、シオン様、ユーリ様、そしてカイル様。

その中央には、死にそうな顔をしたマリア様がいた。その背後で、カイル様だけが私にそっと目配せをしながら、洗脳されているフリをして素知らぬ顔で成り行きを見守っている。

連日のコロン乱用によって最大HPが削られ続けていたマリア様の身体はすでに限界で、お料理部のある3階まで階段を上ってきただけで「ハァ……ハァ……っ!」と膝を震わせ、今にも倒れそうなほど消耗し、苛立ちを隠せていない。レオン様たちは、相変わらずガラス玉のような死んだ目をしてマリア様から漂うあの不快な悪臭に包まれている。


「キッチンの使用を禁止したはずだろ! お料理部に逃げ込んでまで、また買い叩きの偽物料理を配るつもりか!?」


「まあ、うるさいお方たちですわね。禁止されたのはサロンの厨房でしょう? ここはお料理部の部活動エリアですわ」


私が冷ややかに返すのと同時に、ピザ窯から「パチパチ」と薪の弾ける音と、チーズが焦げるたまらない匂いが部屋いっぱいに溢れ出した。


「うっ……くっ……何だ、この匂いは……?」


死んだ目をしたレオン様たちが、不意に鼻をひくつかせた。特に、剣術稽古を終えたばかりでお腹を空かせていたギルバート様が、吸い寄せられるように調理台の上の極厚サンドへと手を伸ばそうとする。


「ギ、ギルバート様……!?」


マリア様が焦ったように叫び、自分のポケットから強引に何かを取り出した。


「そんな得体の知れないものを食べるより、私の特製ハニータルトをお食べになって! ほら、甘くて美味しいですよ……!」


「あ……マリア……それを……」


朦朧とした目で、ハニータルトを口に運ばれそうになるギルバート様。その瞬間、私の堪忍袋の緒がぶちりと切れた。


「──いい加減になさいませ!!」


私の一喝が、調理場に響き渡る。


「ギルバート様は重度の蜂蜜アレルギーですのよ! 殺す気ですの!? この愚か者が!!」


「ひっ……!?」


マリア様が悲鳴を上げて跳ね上がった。そして「アレルギー」「殺す気」という切迫した言葉と、エレノアの怒号が響いた瞬間──ギルバート様の目がハッと見開かれた。


「はっ……!? 蜂蜜……!? 俺は、アレルギーで……!」


危機感による強いショックと、目の前にある肉サンドの猛烈な香ばしさが合わさり、ギルバート様の洗脳が真っ先に粉砕された。


「俺は……何を……!? エレノア、俺は……!?」


「ちょっとギルバート様、私を見て! コロンの香りを──」


慌ててコロンを振りまこうと瓶を掲げるマリア様。だが、フッと私は不敵な笑みを浮かべた。


(ふふ……あの香水が『嗅覚』を支配するチートアイテムだと言うのなら、こちらは圧倒的な『美味の嗅覚パワー』で殴り返せば良いだけのことですわ!!)


私はピザ窯から、アツアツの特大ピザを大きな木製ボードに乗せて勢いよく取り出した。


──じゅわああああっ!

とろけるチーズの香ばしさ、熟成されたトマトソースの酸味、焼きたて生地の圧倒的な小麦の香りが、爆発的な津波となって男たちを襲う!


「皆様!

今週末、みんなでピザを食べるって……一緒に作るって約束しましたわよね!? 忘れたなんて言わせませんわよ!!」


料理人エレノアの圧倒的嗅覚攻撃と、この1年間の温かい手料理の思い出の叫びが、マリア様のインチキ香水を物理的かつ精神的に完全に上書きし、粉砕した!


「あ……が……ッ!」


「俺たちは……一体、何をして……!?」


「エレノア……!? 俺は、君になんて酷いことを……!」


レオン様、シオン様、ユーリ様が次々と頭を押さえ、正気に戻っていく。死んだ目には光が戻り、自分たちがエレノアに着せた冤罪と暴言、そして手料理の温もりを思い出して、一瞬で顔面を蒼白にさせた。


「あ、あり得ない……! 私の【絶対魅了のコロン】が……課金アイテムなのに、なんでたかが料理なんかに負けるのよおおおっ!?」


頭を抱えて叫ぶマリア様。

だが、限界を超えてコロンを乱用し、最大HPを削られ続けていた彼女の身体は、すでに限界を迎えていた。激しいめまいと極度の疲労に襲われたマリア様は、「うっ……嘘でしょ……」と虚空をつかみ、そのまま白目を剥いてバタリと床に倒れ伏した。


「マリア様……? いえ、それより……」


正気に戻った男たちが、恐る恐る私の方を見る。


「エレノア……本当に、申し訳なかった……!

俺たちはどうやら、あの香水の力で正気を失っていたようだ……!」


「言い訳になりませんが……許してください、エレノア様……!

」

冷や汗を流しながら必死に頭を下げる男たち。

私はそんな彼らを冷ややかな目で見下ろすと、焼き立てのピザを切り分け、皿にドスンと叩きつけるように置いた。


「言い訳など聞きませんわ。私の手料理を侮り、濡れ衣を着せた罪は重いですわよ」


私がキリリと猫目を吊り上げて宣言すると、男たちはゴクリと生唾を呑み込んだ。


「さあ……冷めないうちに、残さず綺麗に召し上がりなさい!

一粒たりとも残すことは許しませんわよ!」


「「「はいっ!!」」」


正気に戻った彼らは、泣きそうな顔で、けれど涙が出るほど美味しい焼き立てピザに喰らいついた。こうして、浅はかな転生者の謀略は自爆と共に崩れ去り、私の平和でおいしい日常が、見事に勝利と共に取り戻されたのだった。




第四章 【エピローグ】変わらぬ日常と、甘い香りの残り香



【エレノア視点】


「エレノア……本当に、本当にすまなかった!」


「俺たちの浅はかな行動で、君をどれほど傷つけてしまったか……!」


あのお披露目会での一件から数日後。学園のサロンには、頭を床につきそうなほど深く下げて謝罪するレオン様たちの姿があった。

正気に戻った彼らは、洗脳されていた時期の記憶を思い返しては青ざめ、自分たちが私に着せた冤罪と暴言の数々に心底恐怖と罪悪感を抱いていたのだ。


「……頭をお上げになって、皆様。香水の力で思考を操られていたことは理解しておりますわ」


私が優雅に紅茶を口に運ぶと、彼らは「エレノア……!」と感激の面持ちで顔を上げた。

だが、私はカップをソーサーにカチャンと少し強めの音を立てて置くと、キリリと猫目を吊り上げて笑顔を向けた。


「ですが。私との『ピザパーティーの約束』を反故にし、手料理を侮った罪はまた別問題ですわ。……お分かりですわね?」


「「「ヒッ……!!」」」


男たちが背筋をピンと伸ばして戦慄する。

彼らは罪滅ぼしと私の機嫌を取るため、各自の実家や騎士団の伝言網をフル活用し、全国から至高の食材をかき集めて献上してきたのだ。

ギルバート様からは最高級の極上熟成肉、シオン様からは王室御用達の濃厚カカオ、ユーリ様からは料理の風味を引き立てる海外産の超希少な極上ハーブとスパイスの詰め合わせ、そしてレオン様からはなんと、さらに火力と保温性に優れ、美味しさを極限まで高める公爵家特注の極上ピザ窯。


「ふふ、これだけの食材があれば、次はどんな素晴らしいお料理が作れるかしら……!」


テーブルに並んだ山ほどの超高級食材を前に、私の胸は踊り上がっていた。


「さあ、反省したなら仕込みを手伝っていただきますわよ!

カイル様、ギルバート様、お肉の下処理と生地叩きをお願いしますわね!」


「任せてくれ! 今度は絶対にヘボい香水なんかに負けたりしないから!」


「ああ、エレノアの料理のためなら何だってやるぞ!」


生き生きとした表情で手伝いを始める彼らを見つめながら、私はフッと笑みをこぼした。これにて、私の平和でおいしい日常は完全に元通り。

……いいえ、極上の食材が手に入った分、以前よりもさらにパワーアップしたと言ってもいいかもしれませんわね。



【マリア視点】


(……なんで……なんでよおおおおああっ!!)


一方その頃、マリアは一人、薄暗い普通クラスの教室で頭を抱えていた。


あの日、極度の体力消費と自爆によって白目を剥いて倒れたマリアだったが、目を覚ました後に待っていたのはハッピーエンドなどではなく、悲惨極まりない現実だった。


まず、彼女が乱用していた【絶対魅了のコロン】は、周囲の同性生徒から「公害級の激臭」「頭痛がする悪臭」と猛抗議を受けていたことが表沙汰になった。さらに、重度の蜂蜜アレルギーを持つギルバートに強引にハニータルトを食べさせようとした行為は、騎士団長の一族に対する「故意の危害(殺人未遂疑惑)」として厳しく追及される事態に発展してしまったのだ。


「私、ヒロインなのよ……!?

課金アイテムも使ったのに、なんで悪役令嬢のピザなんかに負けるのよぉ……ッ!」


叫びながらポケットに手を伸ばすが、最後の命綱だったコロンのガラス瓶は、過度な乱用によってカサカサに干からび、完全に空っぽになっていた。そればかりか、乱用の代償として彼女の最大HPと体力上限は削られ続け、身体はすでに限界を迎えており、今や少し早歩きをしただけで「ハァ……ハァ……っ!」と体力が底をつき、フラフラになってしまっていた。


「ちょっとハリスさん、掃除の時間なんだから早く退いてくれない? 臭いが移りそうなのよね」


「特待生だからって調子に乗って、男子に奇妙な香水撒き散らして……本当に不気味だわ」


クラスの女子生徒たちからは冷酷な蔑みの視線を向けられ、男子生徒たちも「あいつに近づくと頭が痛くなる」「ギルバート様に毒(蜂蜜)を盛ろうとした危険人物だろ」とドン引きして誰一人として近寄ってこない。


かつて夢見たハーレムエンドも、Sクラスへの返り咲きも、すべては遠い幻。マリアは今や、息を切らしながら一人ぽつんと学園の隅で肩身の狭い生活を送るだけの、哀れな落ちこぼれへと転落してしまったのだった。



【エレノア視点】


「エレノアちゃん! 焼き立てのチェダーチーズと極厚肉のピザ、最高に美味しいよ!」


「ああ、このチーズの伸びと香ばしさはなんだ……! 生きていてよかった……!」


今日もサロンには、幸せそうにほっぺたを落としながら手料理を頬張るみんなの笑い声が響いている。


(ふふ、やっぱり手料理には、どんなチートアイテムも敵いませんわね)


私は淹れたての紅茶を一口飲み、満足そうに目を細めた。甘い香水に惑わされることのない、香ばしくて温かいこの時間こそが、私の何よりの至福なのだから。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

令嬢もののコメディよりのお話しでした。

別ジャンルでダークファンタジーの連載を始めましたので、そちらもご興味あればぜひ。

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