上の階のお姉さん
チュッ……チュ……チュパッチュパ……
それはゴリラのような赤ん坊が達郎の小さなちくびを吸っている音だった。
「や、やめ,クソっあっ……。た……そんな事……うっ」
達郎にとってはこれは初めての経験であった。
このままでは俺は新たな世界の扉を開けてしまうのではないか、普通じゃ満足できない体になる?男として俺はこれでいいのか?でももうちょっとだけこの感覚を味わってみたい、など色々な葛藤が達郎の頭も表情もおかしくしてしまっていた。
しかしゴリラは止まらなかった。さっきまでの弱弱しくぐたっとした感じは消え、まるで生きる本能を思い出したかのように必死に食らいつく。
ヂュパヂュパヂュピピピピィーチュビー
「くっ……ゴリラ…………俺はっ……あっ……男だっ、あふっ」
ジュウジュウジュウー
「はぁっうわああああああ~……。」
達郎は今にも飛んで行きそうな自我を保つために、テーブルに置いてあった牛乳を頭から一気にかぶる事にした。
ジャバジャバジャババー
朦朧とした意識の中でふと、ゴリラが入っていたダンボール箱が目に入る。側面にマジックペンで、でかでかと文字が書いてあるのに気づいた。
「サトシ!!」
思わず叫んだのと同時に、限界に達した。 視界が傾き落ちながら瞼は閉じて、ドサッという音と同時に真っ暗で静寂な世界につつまれた――
(いい名前だな……)
これで終わりかに思えた
――が、達郎は気合で目をカッっと見開き、スッと体おこし跪くと、片ちくびにぶら下がったままのゴリラの首根っこを鷲掴みにしてスポッと乳首から引き離した。
「そんなに元気があるなら普通に飲めるだろうがぁああー!!」
キレた達郎はゴリラの顔面を威勢良く牛乳まみれの床に押し付けた。
「飲めやクソがぁああ!」
それはまるでゴリラの顔面で床拭きをするかのように――
「飲めー! 飲めー! 飲めぇー!!」
「どうした、まだまだ残ってんぞぉ!!吸ぇえええー。」
ガチャ(扉の開く音)
「何してんのたつ坊!?」
――予期しない呼びかけに達郎が驚いて振り向くとそこには、とさかすだれの前髪でワンレンロングで下半分だけソバージュヘアの、肩パッドのバブリースーツを着こなしたとってもいい女が立っていた。
「ナニ人んちに勝手に入ってきてんだババア殺すぞ!」
パチンッ!
達郎の頬に衝撃が走った。
女がビンタしたのだ。
「言葉には気をつけなさい!」
「なっ何すんだよババア!」
――動揺でちょっと声が裏返る達郎。
「たつ坊の声がうるさいから何事かと思って見に来たのよ、
アパート中に響き渡っているんだから。きゃあ!」
女は赤く腫れた頬を抑えてムッとしている達郎のそばに黒い毛むくじゃらが落ちているのに気づいた。
「何コレ?」
女は興味津々にそれを両手て拾い上げる。
「それは
「ゴリラの赤ん坊!?」
ミルクを飲んで少し気力が戻ったのか、サトシの目は開いていた。
うるうるとしたつぶらな瞳で彼女を見上げるサトシ。
「あひゃぁぁ~!おめめくりっくりでかっわいい~。
抱きしめちゃおうっと。」
「ねぇねぇたつ坊、この子どうしたの?うっ牛乳クサッ」
ゴリラを抱きしめ、嬉しそうに無邪気に瞳をキラキラさせて見つめてくる彼女に少しドキッとしてしまう達郎。
目をそらしぶっきらぼうに反す。
「拾った……。」
「拾ったって、どこで?」
「河川敷のところで……。」
「何でそんなところに!?」
「知るかよ、ダンボール箱に入れられて置かれていたんだバーロー。」
「こんな嵐の中に~!?置き去りに~!?ひっど~い。こんなに可愛いのに~ひ~ど~い~。」
「うるせえ!」
「で、たつ坊育てるつもりなの?」
「まさかっ、明日にでも動物園に持っていって引き取ってもらうつもりだ。」
「そうだよね、それがいいよね……
たつ坊はアサガオも育てられなかったもんね……」
女の名前は遊間厚子。6年前に達郎がこのアパートに引越してきたときからいる、上の階の住人で、情に厚く、見ず知らずの達郎の事を弟のように可愛がっている。アサガオとは厚子が達郎へ引っ越し祝いとして鉢をプレゼントしたものである。
「たつ坊半日で枯らすんだもん……」
ポッポッポー!!ポッポッポー!!
着信音にハッとする女、慌ててスーツスカートのポケットからスマホを取り出し耳に当てる――
「はい、もしもし~?あ~キョンちゃん?」
心なしか女の声が半オクターブ高くなったように聞こえる。
達郎は微妙に険しい表情をしたが女はお構いなしで会話を続けた。
「あ!そうだった~うっかり忘れてた~メンゴメンゴ~。
うん~色々あってね~、うん、凄いの~、うん、わかった~すぐ行くからね~、うん~じゃあね~後でね~。」
女は電話を切ると声の高さを標準に戻し焦り気味に言った。
「たつ坊!私、友達と大事な約束をしてたのに忘れてたの~。」
「早く行けよババア。」
ポカン!(げんこつの音)
「イテッ。」
「ほら、抱っこして。」
ゴリラを達郎に預ける女
「ゴリちゃんゴメンね~お姉ちゃんもう行かないと~、早く戻れたらおいしいミルク買ってくるわね~。」
「戻ってくんなババア。」
ポカン!!
「イテッ」
「たつ坊とは3つしか変わらないじゃない、私はババアじゃありましぇ~ん。 私がばばあならたつ坊はおじじなんだから。 ていうか、何でたつ坊ずっと裸なの? え!? 何か片方の乳首だけ赤く腫れてない?どうして?」
「分かったからもう行け。約束してんだろ?」
「キャ、
ちょっと、押さないでよ~」
バタン!(ドアを閉める音)ガチャン(鍵を閉める音)
半分締め出す形で女を出したが、まだ扉の外で何かごちゃごちゃ言っているのが聞こえる。
「はぁ……」
ゴリラを抱っこしたまま閉じた入り口のドアにもたれかかる達郎。
チョロチョロチョロ……
「あふっ……」
ゴリラを抱いた腕からもれた生暖かい黄色い液体は、達郎の体を伝って下へ下へと流れ落ち、乱雑に脱ぎ捨てられた靴らも丁寧にひたした。
ゴリラの顔を見る達郎、
無邪気にクリクリおめめで見つめてくるゴリラのサトシ。
「はぁ……」
ガクリと首を垂れた。




