表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/19

第9話:消えた日常と、お茶屋の沈黙


一九八一年九月初旬。

 二学期が始まったばかりの教室には、学びの活気ではなく、ぬるい「自習」の空気が漂っていた。


 一組の大野先生(国語)に続き、二組担任の寺田先生(理科)まで――始業式から一度も教卓に立っていない。


「また自習かよ……」


 誰かの呟きが、静けさに吸い込まれる。

 黒板には、大久保先生が走り書きした『教科書P12〜20 自習』の文字。

 それだけが、先生の不在を現実にしていた。


 女子生徒たちは不安げに身を寄せ合い、男子は空席を見つめる。

 俊夫、正雄――そして他にも、欠席のまま戻ってこない五人分の「穴」。


 休み時間、噂は一気に加速した。


「ねえ聞いた? 隣の中学校、男の先生が全滅したって」

「女子は元気なのに、男だけ寝込んでるらしいよ。変な流行り病じゃない?」


 ショートカットの吉野典子が、声を落として広める噂に、優は耳を疑った。


――男だけが罹る病。


 それは、俊夫の部屋で聞いた、あの不気味な無線のノイズと重なる。

 意味のないはずの雑音が、今は「何かの合図」に思えてしまう。


「優くん……俊夫くんのこと、気になるよね」


 ポニーテールを揺らし、川村さちえが優の机に近づいた。

 目が、いつもの明るさより少しだけ湿っている。


「放課後、僕、お茶屋に寄ってみるよ。俊夫がラジオも聴いてないなんて……やっぱり変だ」

「うん……これ」


 さちえは、ノートを差し出した。

 表紙には拙い字で『俊夫へ』と書かれている。


「みんなからの寄せ書き。渡してくれる?」


 優はうなずき、ノートを鞄に入れた。


 放課後。

 優は自転車を走らせ、俊夫の実家――商店街の外れにあるお茶屋へ向かった。


 いつもなら、店先から香ばしい茶の匂いが漂い、俊夫の親父さんの元気な呼び込みが飛んでくる。

 だが今日は違う。


 シャッターが半分降りていて、昼間なのに店の奥は薄暗い。

 話し声も、湯を沸かす音も、何ひとつしない。


「……俊夫? 優だけど」


 脇の入り口から声をかけると、奥から俊夫の母親が出てきた。

 いつも朗らかで、優にも気さくに笑いかけてくれる人――のはずだった。


 なのに今は、目の下に深い隈が刻まれている。

 顔色も悪い。まるで、何日も眠っていないみたいに。


「優くん……来てくれたのね」


 声はかすれていた。


「俊夫は……二階で寝てるわ。でも、今はそっとしておいてあげて」

「そんなに悪いんですか? 風邪じゃなくて……?」


 優が恐る恐る尋ねると、母親は暖簾を握る手に力を入れた。

 指先が、小さく震えている。


「先生は『過労』だって言うの。でも、あの子が過労になるほど何をしたっていうの……熱も下がらないし、それに……」


 言葉が途切れる。

 言ってはいけないことを口にしそうで、飲み込んだみたいに。


「……足首にね。見たこともない紫色の痣ができてるのよ」


 優の胸が、ひゅっと縮んだ。


「俊夫だけじゃないの。お父さんまで、同じ痣が出て……昨日から寝込んじゃって」


 紫色。


 石本茂が地元・富山で見たという「斑点」。

 涼子が大学病院で目撃したという「紫色の点」。


 それが――俊夫の体にも、そして父親にも。


 優は、鞄の中の寄せ書きノートを握りしめた。

 渡しに来たはずなのに、今はそれが、ひどく軽くて、役に立たないものに感じる。


「……わかりました。今日は、帰ります」


 母親は、何か言いたそうに口を開きかけ――結局、ただ小さく頭を下げた。


 外に出ると、潮風が吹き抜けた。

 国道一三四号線はいつも通りで、車は走り、看板は眩しく、空は青い。


 平和な景色。


 なのに、その平和の下で、見えない毒が確実に男たちの命を蝕んでいる。

 優は自転車を漕ぎながら、必死に恐怖を振り払おうとした。


 ――自分の歯並びが気になる。

 ――部活の先輩が怖い。

――さちえにどう思われてるか不安だ。


 そんな、くだらないくらい当たり前の日常が。

 足元から、音を立てて崩れていく。


 優は気づいてしまった。


 もう、戻れない。

 この町の「普通」は、静かに消え始めている――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ