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第8話:北陸の風、霞が関の火種


一九八一年、八月下旬。

石本茂は、地元の富山にいた。


窓の外には、抜けるような青空を背景に、残雪をわずかに残した立山連峰が雄大にそびえ立っている。

富山の夏は、コンクリートの照り返しが厳しい霞が関のそれよりも陽射しが鋭いが、吹き抜ける風には、どこか雪解け水の透明感が混じっていた。


 


国会が閉会中のこの時期、地方選出の議員にとって、地元回りは「次」の当選を左右する生命線だ。

石本は早朝から、黒塗りの車で呉羽山の麓から神通川のほとりまで、支持者の家々や企業を精力的に回っていた。


 


「石本先生、お帰りなさい!

 いつもテレビで応援しとるがいぜ」


 


富山市内の公民館。

冷房の効きが悪い大ホールには、看護連盟の女性たちや地元の後援会員が集まり、真夏の気温をさらに押し上げるような熱気に包まれていた。


石本は、戦地を経験した者特有の、温かくも力強い手で一人一人の手を握り、深く頷く。

だが、その微笑みの裏で、彼女の目は地元の「空気」を鋭く観察していた。


 


地元の有力紙である北日本新聞の記者が、

「石本氏、行革への不退転の決意を語る」

という勇ましい見出しの記事を構想している、その裏で。


石本は懇親会の合間を縫って、富山県立中央病院の幹部や、医師会関係者を別室に呼び出していた。


 


用意された冷たい麦茶には目もくれず、石本は単刀直入に切り出した。


 


「先生。最近、富山の方で『変な風邪』が流行っていませんか?」


「特に、四十代から五十代の、働き盛りの男性の間で」


 


医師たちは、不意を突かれたように顔を見合わせた。


一九八一年の富山において、感染症といえば、まだ食中毒やインフルエンザの延長線上で語られることが多い。

石本の問いは、あまりに唐突だった。


 


「変な風邪、ですか……」


年配の医師が慎重に言葉を選ぶ。


「まあ、例年より夏バテをこじらせて肺炎になる患者さんは、数名おられますが……」


「ですが先生、それは珍しいことではありませんよ。

 この暑さですから」


 


「その患者さんたちの症状について、詳しく教えてちょうだい」


石本は、身を乗り出した。


「共通点は?

 それから……抗生剤は、効いていますか?」


 


その一言が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。


窓の外で鳴り響く蝉時雨が、やけに遠く感じられる。


 


「……なぜ、それを」


 


県立病院の幹部が、拭ったばかりの額に、再び汗を滲ませた。


 


「実は……一週間前から入院している四十代の男性がいまして」


「建設業に従事している、屈強な方だったんですが」


 


医師は、視線を落としたまま続けた。


 


「テトラサイクリンも、ペニシリンも……

 手尽くの抗生剤が、まったく反応しないんです」


「今は個室で酸素吸入を行っていますが、容態は芳しくありません」


それどころか――


 


医師は、声を潜めた。


 


「昨日、その方の足の付け根に、内出血のような……

 見たこともない、紫色の斑点が出まして」


「皮膚科の専門医も、首を傾げておるんです」


 


石本は、立山の雪解け水のように、冷たい沈黙を保った。


(富山にまで……もう、来ているのか)


 


東京の、それも限られたエリート層や渡航者だけの問題ではない。

この北陸の地で、日常を支える労働者の身体を、見えない怪物が蝕み始めている。


 


「先生」


石本は、低く、しかしはっきりと言った。


 


「その患者さんの容態、一時間おきに、私の事務所へ報告を入れてちょうだい」


「これは政務次官としての命令ではないわ」


一拍置いて、続ける。


「一人の医療従事者としての、お願いよ」


 


「それから、医師会を通じて、似たような症例がないか、徹底的に洗って」


 


石本は、予定されていた盆踊り大会への出席を、すべてキャンセルするよう秘書に命じた。


富山空港から羽田への最終便を待つ間、

彼女は空港の公衆電話から、霞が関の涼子へとダイヤルした。


 


十円玉が落ちる、鈍い音。


国際回線のような遅延はないはずなのに、

受話器の向こうの涼子の声は、ひどく遠く、そして震えているように聞こえた。


 


「時田さん……私よ、石本」


「今すぐ、九月の臨時国会を待たずに動くわ」


 


石本の声には、もはや迷いはなかった。


 


「私たちが相手にしているのは……

 想像以上に、足が速い」


 


窓の外では、夕闇に沈む立山連峰が、巨大な影となって富山平野を見下ろしていた。


それは、これから日本を襲うであろう、

未曾有の嵐の――

静かな序章のようだった。

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