第7話:空白の八月、密やかな進軍
一九八一年、八月下旬。
永田町から政治の喧騒が消えていた。
第九十四回通常国会は六月に閉会し、九月末の臨時国会召集までは、まだ一ヶ月近くある。
多くの議員が地元の盆踊りや外遊に精を出す中、霞が関の厚生省庁舎だけは、逃げ場のない熱気の中に沈んでいた。
「今はいいわね、説明が楽で」
次官室の重厚なソファに腰掛け、石本茂は冷えた麦茶に口をつけた。
「国会が閉まっている。
余計な野党の追及も、手柄を焦る派閥の横槍も入らない」
本来なら、彼女自身も地元の山口へ戻る時期だ。
だが、成田から戻った涼子の報告を受け、急遽予定を変更して執務室に残っていた。
「時田さん。成田で見つけた例の『過労』の男性、追跡はできているの?」
涼子は手元のバインダーを固く握りしめた。
「はい。日本検疫協会の田中さんの協力で、健康申告書から数名の連絡先を特定しました」
「そのうちの一人、大手商社のロンドン駐在員だった男性が、帰国から一週間後に都内の大学病院に入院しています」
一拍置いて、涼子は言葉を選ぶ。
「病名は……『重症肺炎』です」
石本の目が鋭く光った。
「肺炎? WHOのレポート通りじゃない。
病院側の見解は?」
「主治医は、過労による免疫低下が引き起こした日和見感染、あるいは新種の肺炎と見ています」
涼子は、バインダーの紙を一枚めくった。
そこに書かれているのは、淡々とした経過の記録――そして、否定しがたい違和感だった。
「ですが、不可解な点があります。抗生剤が……効かないんです」
「あらゆる薬剤を投入しても、まるで底が抜けたバケツに水を注ぐように、患者の容体は悪化の一途を辿っているそうです」
石本は立ち上がり、窓の外の静まり返った官庁街を見下ろした。
この「政治の空白期間」は、政府にとっては休息でも、
ウイルスにとっては絶好の侵入期間だ。
「園田(外相)さんも森下(厚相)さんも、今は行革の予算削りで頭がいっぱい」
「得体の知れない病気で騒ぎを起こして、予算要求の足を引っ張られたくない。……本音はそこでしょうね」
石本はそこで言葉を切り、静かに続けた。
「でも、命に『休み』はないわ」
振り返り、涼子を真っ直ぐに見つめる。
「時田さん。これは厚生省としての公式な調査じゃない」
「私の『政務』としての、個人的な調査ということにしなさい」
涼子の背筋が硬くなる。
その言い方が、どれほど危うい橋か――霞が関の空気を知る者なら分かる。
「今のうちに、その大学病院へ行って。主治医から直接話を聞きなさい」
「必要なら、私の名前を使いなさい」
石本は、言い切った。
「役人が動かないなら、政治家の特権を使って穴をこじ開けるしかないわ」
涼子は戦慄した。
一歩間違えれば独断専行として指弾される。
だが、一九八一年の夏という特殊な静寂の中で――
動けるのは、自分たちしかいない。
「……承知いたしました。次官のお名前で、面会を取り付けます」
「お願いね」
それから石本は、ほんの少しだけ声を和らげた。
「これは老婆心だけど」
「病院へ行く時は、消毒を徹底しなさい」
「それから、もし万が一……男性の職員を連れて行くなら、細心の注意を払うこと」
涼子は眉を上げた。
その言葉には、まだ確証のない“偏り”への警戒が含まれている。
「まだ確証はない。けれど――」
石本は、言葉を選びながら続けた。
「私たちは今、人類が経験したことのない『偏った毒』と対峙しているのかもしれない」
涼子は深く頭を下げ、次官室を後にした。
廊下ですれ違う男性職員たちは、お盆明けの気怠げな表情で、
「次の内閣改造で誰が残るか」といった政局の話に興じている。
誰も、自分たちの足元に、何が入り込んでいるかを知らない。
一九八一年八月。
政治が眠りについている間に――
涼子は独り、正体不明の怪物が潜む病棟へと足を踏み入れようとしていた。
そして、その頃。
神奈川の海岸沿いでは、優の友人、俊夫が、
「なんだか、夏休みの宿題をやる元気が出ないんだ」と、力なく笑いながらベッドに横たわっていた。




