第6話:静かな侵入者たち ―― 1981年8月、成田
一九八一年八月中旬。
涼子にとって、成田空港はいつもどこか浮かれた場所だった。
世界の玄関口。ジャンボジェットが轟音を立てて離着陸を繰り返すたび、異国の風と、免税品の匂いが混じり合う。
だが、この日、涼子の胸中に高揚感はなかった。
石本茂次官から受けた「非公式の視察」という密命。
表向きは「夏休み明けの海外渡航者増加に伴う検疫体制の確認」という名目だ。
しかし涼子の真の目的は、WHOからのテレックスに記された「見えない敵」の足跡を、この巨大な空港で探し出すことだった。
当時の成田空港の検疫所は、現在のような厳重な設備ではない。
到着ロビーの一角に設けられた、古びた衝立と簡易的なカウンター。
そこに白い制服を着た数人の看護師と、事務官が座っているだけだ。
彼らは、渡航者が提出する健康申告書をざっと確認し、体温計を脇に挟ませる――その程度のことしかできない。
コレラや赤痢のような「既知の病」はそれで防げても、正体不明の疫病にはあまりにも心許ない体制だった。
「時田さん、厚生省の時田です。ご紹介いただいた、日本検疫協会の田中です」
石本次官の紹介状を渡し、涼子はベテランの看護師、田中と合流した。
田中は顔に深い皺を刻んだベテランで、幾度もコレラや天然痘の騒動を潜り抜けてきた、まさに「現場の防人」だった。
「ご苦労様です。わざわざこんな暑い中を。次官もご心配されているんですね」
田中は涼子に冷えた烏龍茶を差し出した。
「いえ。私も、この目で見ておきたくて」
涼子は、田中が手渡してくれた『検疫対象者リスト』に目を走らせた。
発熱、下痢、嘔吐。
並ぶ症状はどれも、これまでの既知の感染症の範疇を出ない。
午後三時。
ロンドンからの直行便が到着した。
ゲートから吐き出されるように、疲労困憊の乗客たちがどっと押し寄せてくる。
夏休みを謳歌した観光客。あるいはビジネスマンたち。
彼らの顔はどれも疲れている。
だが、その中に、WHOの報告書にあるような「異常」を見つけ出すのは至難の業だった。
「田中さん、最近、何か妙な事例はありましたか?」
涼子は、田中にもう一度尋ねた。
「妙な事例、ですか……。そうですねえ、変わったことといえば、先週から妙に『過労』を訴えるビジネスマンが増えましたかね」
田中は首を傾げた。
「それも、みんな同じようなことを言うんです。
『風邪ではない。だが、どうしようもなく体がだるい。疲労が抜けない』と」
「熱は微熱程度で、インフルエンザのような症状もないんですがね」
(過労……?)
涼子の脳裏に、WHOからのテレックスの文字が蘇った。
『UNEXPLAINED IMMUNE SYSTEM COLLAPSE(原因不明の免疫系崩壊)』
疲労、倦怠感。
それは、免疫が正常に機能しなくなった体が発する、最初のSOSではないのか。
その時、一人の男性が、検疫カウンターの前でふらついた。
四十代半ばのビジネスマン。
ネクタイは緩み、顔色は土気色。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
健康申告書には「軽い疲労感」とだけ記されていた。
「お客様、大丈夫ですか? 少々お疲れのようですが」
田中が声をかけると、男性はか細い声で答えた。
「ええ……少し。ロンドンからですが、どうも体が重くて。ただの時差ボケかと」
体温計を挟むと、三七・二度。
微熱だ。
田中は慣れた手つきで「休息と水分補給を」と助言し、男性を解放した。
男性は疲れた足取りで、到着ロビーへと消えていく。
涼子は、その背中を食い入るように見つめた。
健康申告書に、涼子は密かに「男性」「ロンドン帰国」「疲労」というキーワードを追記した。
この男性が、後の日本の運命を左右する「最初の鍵」となるかもしれない――直感がそう告げていた。
空港の喧騒は、何も変わらない。
人々は夏の終わりのバカンスを満喫し、あるいは商談の成果に一喜一憂している。
だが、この日、この場所で、見えない敵は確かに日本の土を踏み入れた。
そして、その最初の侵入者は、「過労」という、あまりにもありふれた仮面を被っていた。
一九八一年、九月初旬。
厚生省五階の会議室は、昼間の光をほとんど入れない造りだった。
ブラインドは半分だけ下ろされ、窓ガラスの向こうの残暑は、霞が関の石造りの壁に遮られている。
空調は効いているはずなのに、室内の空気は乾ききらず、どこか粘ついた熱が皮膚にまとわりつく。
壁際の灰皿には、誰がいつ吸ったのか分からない短い吸い殻がいくつも残り、焦げた匂いが微かに漂っていた。
長机がコの字に並べられ、席は半分しか埋まっていない。
集められたのは最小限の顔ぶれだった。
予防局、保健医療局、医務局から医系技官が数名。
庁内では名が通っていても、ここに並ぶと皆、同じような濃いスーツに、同じような疲労の色を浮かべている。
どの部署も、国会閉会中のこの時期に休めるわけではない。
むしろ、議員の目が届かない今だからこそ、裏側の仕事が増える。
議事録係は置かれていなかった。
代わりに、会議室の片隅に、普段は倉庫にしまわれている古い黒板が立てかけられている。
誰もそこに字を書こうとしない。
書けば、残るからだ。
机の中央に、一枚の感熱紙が置かれていた。
白というより灰色に近い、薄い紙。
熱で焼き付けた文字はところどころ滲み、端が丸まり始めている。
テレックス特有の、乾いた匂いが鼻の奥に残る。
涼子はその紙に目を落とすたびに、ジュネーブの空気と遠い距離を感じた。
差出人は、WHO ジュネーブ本部。
だが「公式」の印はない。
公表文書にあるはずの定型句も、担当部署の署名もない。
文頭に控えめに打たれた一文だけが、この紙の性格をはっきり告げていた。
For the attention of designated health authorities only.
――指定された保健当局のみに。
つまり、政府の中でもさらに限られた人間だけに。
誰もが一度は読んでいる。
それでも紙は、誰の手にも取られなかった。
触れた途端、責任が移るような気がしたのだ。
涼子は背筋を伸ばしたまま、席の前で静かに息を吐いた。
この会議室の空気は、病院の隔離病棟のそれに似ていた。
静かで、よく整えられているのに、言葉の先にあるものが重い。
誰も咳払いすらしない。
空調の音だけが、低く、均一に鳴っている。
最初に口を開いたのは、予防局の課長だった。
彼は手元の書類を整えるふりをして、視線を紙から逸らしたまま言った。
「……病名が、付いたという理解でよろしいのでしょうか」
言い切らない。
確認という形を取る。
それが、霞が関の安全装置だった。
涼子は小さく頷いた。
「WHO内部での仮称です。公式声明ではありません。
各国政府への、非公開連絡です」
誰かが、喉の奥で息を呑む音を立てた。
医系技官の一人が、つい口にしかける。
「ARS Acute Respiratory Syndrome――」
その二文字目のところで、言葉が止まった。
会議室に、薄い紙が擦れるような沈黙が落ちる。
涼子は、視界の端で石本茂の横顔を見た。
石本は腕を組んだまま、眉ひとつ動かしていない。
看護の現場をくぐり抜けた者特有の、怒りよりも先に状況を測る目。
だが、その静けさは、油断とは違った。
石本は、しばらく何も言わなかった。
誰かに続きを促すこともしない。
遮ることもしない。
沈黙の時間が、会議室の中で少しずつ伸び、空調の音だけが際立っていく。
やがて、石本が低い声で言った。
「その名前は、使わない」
断定だった。
だが、怒鳴り声ではない。
むしろ氷を置くように静かで、その一言が机の上に落ちた瞬間、室内の空気の形が変わった。
医系技官の一人が、慎重に言葉を選んだ。
医学の論理で話そうとし、同時に政治の論理を恐れている。
「しかし、共通の呼称がなければ、現場への指示が……。
症例をまとめるにも、連絡が煩雑になります」
石本は視線だけを向けた。
そこに非難はなかった。だが、逃げ道もない。
「名前があると、独り歩きする」
それだけだった。
短いが、重い。
「ARS、と書いた瞬間に、それは“存在する病気”になる。
原因も、経路も、対策も、すべて分かったかのように扱われる」
石本の指先が、机の中央の感熱紙に軽く触れた。
紙がほんのわずかに揺れ、端がさらに丸まった。
「だが、我々は、まだ何も分かっていない」
沈黙が、肯定として広がっていく。
この省庁には、言葉が決まると同時に現実が決まってしまう瞬間がある。
誰もがそれを知っている。
だからこそ、言葉を決めないことが、時に最大の決定になる。
課長が、ゆっくり頷いた。
「では、当面は……」
言葉を探す。
紙の上の短い略称に比べて、いかにも役所らしい長い表現が頭に浮かぶ。
「原因不明の免疫低下を伴う重症例」
「海外症例との関連が否定できない疾病」
「特定の腫瘍性病変を伴う呼吸器重篤例」
どれも長く、回りくどい。
だが、その回りくどさこそが、壁になる。
見出しになりにくい壁。
新聞の活字になりにくい壁。
石本は、最後に念を押すように言った。
「内部文書、口頭連絡、すべて含めてだ。
WHOの仮称は、ここでは使わない。
“あの二文字”は、封じる」
「はい」
返事は揃っていた。
その揃い方が、恐ろしかった。
誰もが同じ方向を向いた瞬間に、もう戻れなくなるのを、涼子は知っていた。
会議が終わり、椅子が軋む音がようやく戻ってくる。
各自が書類を束ね、ペンをしまい、表情を整えて席を立つ。
廊下に出れば、いつもの霞が関の顔に戻らねばならない。
まだ何も起きていないふりをして、通常業務を続ける。
ここで交わされた言葉だけが、胸の内側に残る。
涼子は、ふと足を止めた。
出入口の手前で、石本に向き直る。
「……次官」
石本は振り返った。
「名前を使わない、ということは……
現場には、どう説明しますか」
石本の目に、一瞬だけ疲労が滲んだ。
それは迷いではなく、覚悟の重さだった。
「説明しない」
短く、はっきりと。
「現場には、事実だけを渡す。
症状。
経過。
そして――」
石本は言葉を区切った。
廊下の向こうから電話のベルが鳴り、誰かが受話器を取る気配がした。
省庁の一日は、こうして誰の決断も待たずに進んでいく。
「備えろ、とは言う。
だが、恐れるなとは言わない」
涼子は深く息を吸い、頷いた。
言葉を封じるというのは、何もしないことではない。
むしろ、その逆だ。
声にならない準備が、ここから始まる。
会議室の灯りが落とされると、机の上に残された感熱紙だけが、静かに丸まり続けていた。
名前を持たない病気は、すでに国内に入ってきている。
そして、霞が関は――
その病気に、まだ「呼び名」を与えないまま、動こうとしていた。




