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第5話:物資の防波堤


 「根治療法が存在しない」  その報告書を読んだ石本茂は、驚くほど冷静だった。  次官室のソファに深く腰掛けた彼女は、窓の外に広がる霞が関の街並みを見つめながら、静かに言った。

「ウイルスが特定できていない。根治療法もない。……それは、何もできないという意味じゃないわ、時田さん」  石本は視線を涼子に戻した。その瞳には、戦地の野戦病院で培われた特有の光が宿っている。 「むしろ逆よ。原因が分からない時ほど、現場は“数”を必要とするの」

 石本の思考は、すでに医学から「ロジスティクス(兵站)」へと切り替わっていた。  肺炎を抑える抗菌薬。二次感染を防ぐ抗真菌薬。高熱と呼吸不全に耐えさせるための支持療法薬。  免疫が崩れ落ちた身体を、せめて延命させるための「時間」を稼ぐための物資。

「名前のない病気でもいい。原因不明でもいい。でも、“対処する手段”だけは、先に確保しておきなさい」

 九月中旬。涼子は石本次官の「密命」を背負い、厚生省内を歩き始めた。  表向きの名目は、来年度の感染症対策物資の見直しだ。結核や院内感染対策といった、当時の厚生省において「もっともらしい理由」の裏に、彼女は真の目的を隠した。    涼子が確認して回ったのは、国内の抗生剤の在庫量、そして調達ルートだった。

「この数量、例年より多いですね。何かあるんですか?」  薬務局の係長が、眼鏡の奥で訝しげに眉をひそめる。 「海外渡航者が増えていますから。重症肺炎の備えとして、念のためです」  涼子は淡々と述べた。“原因不明の免疫不全”という言葉はまだ使えない。使えば、正規の予算案として跳ね除けられてしまうからだ。

 水面下での動きは、製薬会社にも及んだ。  涼子の引き出しには、国内大手数社の担当者名が並んだ。一九八一年当時、製薬会社と厚生省の繋がりは極めて密接だった。

「最近、海外で重症肺炎の報告が増えているようですね。供給体制はどうなっていますか?」  電話口の担当者は、慎重に言葉を選んだ。 『……ええ、一部では需要が跳ね上がっていると聞いています。通常用途なら問題ありませんが、もし“想定外”の事態が起きれば……』

「想定外が起きた時に、慌てないための確認です。厚生省としても、無理をお願いするつもりはありません。……今は、まだ」

 その言外の意味は、十分に伝わったはずだった。  石本は、後日涼子にこう語った。

「薬はね、足りなくなってからでは遅いの。正式な患者数が出て、新聞が騒ぎ始めたら、もう奪い合いになる。そうなれば、現場の看護婦たちは、患者に『何もできない』と言わなければならなくなるわ。……私、あの光景だけは二度と見たくないのよ」

 石本の脳裏にあるのは、かつての戦場。物資が尽き、無力感に苛まれた夜の記憶だ。  ウイルスはまだ、正体を現していない。  だが、見えない敵を迎え撃つための「物資の防波堤」は、霞が関の片隅で、着実に築かれ始めていた。


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