第4話:見えない敵
一九八一年、九月初旬。
厚生省の一角。
国際電話の交換台を通じた回線は、微かな遅延とノイズを伴っていた。
受話器越しに伝わってくるのは、遠くジュネーブの、ひどく乾燥した空気だ。
「……はい、厚生省の時田です。佐藤先生、症例への対応について確認させてください」
涼子は、震える手でペンを握り直した。
「現地では、具体的な対策はどこまで進んでいますか。
病原体――ウイルスは、特定できたのでしょうか」
一瞬の沈黙。
大西洋を越える電波の揺らぎの後、佐藤の重い溜息が聞こえた。
『……結論から言うと、まだだ』
その短い一言に、すべてが詰まっていた。
『細菌でもない。既知のウイルスでもない。
培養も失敗しているし、電子顕微鏡でも決定的な像は出ていない。
免疫が壊れていく“結果”だけが先にあって、原因が見えないんだ』
涼子は、ペン先を止めたまま、言葉を失った。
当時の医学の粋を集めても、正体すら掴めない。
『だから、現時点でできることは限られている。
肺炎に対する抗生剤投与、真菌感染への対応……
要するに、対症療法しかない』
「根本的な治療は……」
『ない。少なくとも今は』
佐藤の声は、残酷なほど冷静だった。
『免疫が落ちる理由が分からない以上、回復させる手段もない。
我々は、崩れた土手を必死で支えているだけだ』
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
『アメリカのCDC(疾病予防管理センター)も同じ見解だ。
症例の増加スピードを見れば、感染性の因子が関与している可能性は高い。
だが、それが新種のウイルスなのか、まったく別の何かなのか……
誰にも断定できない』
「感染経路については?」
『それも不明だ。ただ――』
佐藤は一拍置いた。
『患者の背景を洗うと、特定の集団に偏っている可能性はある。
だが、それを今の段階で公式に口にするのは、政治的にも社会的にも危険だ』
涼子は、その言葉の重さを噛み締めた。
病が人を殺す前に、偏見が社会を壊す。
「……分かりました。日本側でも、警戒を続けます」
『時田くん』
通話を切る直前、佐藤が声を和らげた。
『これは、長い戦いになる。
君たちが思っているよりも、ずっとだ』
ツーツーという非情な切断音。
涼子は、しばらく受話器を置けずにいた。
原因不明。
治療法なし。
彼女は深く息を吸い、石本次官に提出する報告書の一行目を書き始めた。
――本症例に対し、現時点で有効な根治療法は存在しない。
それは、行政文書としてはあまりにも冷たい言葉だった。
だが、世界が直面している現実を、これ以上正確に表す文章はなかった。




