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第3話:僕らの最後の夏休み


一九八一年(昭和五十六年)八月末。


神奈川県、藤沢市。

国道一三四号線から一歩入った住宅街には、排気ガスの熱と潮の香りが混ざり合った、この街特有の夏が停滞していた。


「……入らないな。昨日の夜は、もっと綺麗にソソビエトの放送が聴こえたんだけど」


玉木優たまき ゆうは、麦茶のグラスが結露して作った畳の染みを避けながら、大きな無線機と格闘していた。


中学二年生の夏休み。

友達の石川俊夫いしかわ としおの部屋は、彼の趣味であるアマチュア無線の機材で埋め尽くされている。


当時の少年たちにとって、高価な無線機は、まだ見ぬ世界へ繋がる魔法の道具だった。


「優、アンテナの向き変えてみろよ。今日は電離層の調子が悪いのかもな」


俊夫が、首にかけたタオルで汗を拭きながら言った。

彼は、優とは対照的に体格が良く、少年野球のチームではエースを張っている。


二人の共通点は、この小さな機械から流れてくる、どこの誰とも知れない人間の「声」を追いかけることだった。


スピーカーからは、砂嵐のような「ザー……」というノイズが絶え間なく流れている。


当時、日本の空にはまだインターネットなんてものは存在せず、海外の情報はテレビのニュースか、あるいはこうした電波を自力で拾うしかなかった。


「あ、待って。何か入った」


優がチューニングダイヤルを慎重に回すと、ノイズの隙間から、掠れた英語の音声が飛び込んできた。


『……MAYDAY, MAYDAY…… This is …… San Francisco…… Hospital is…… missing……』


「サンフランシスコ?」


俊夫が身を乗り出した。


「メイデイって、救難信号だよな? 船か何かの事故か?」


優はヘッドフォンを耳に押し当て、全神経を集中させる。

声は、ひどく怯えているように聞こえた。


それは事故の報告というより、もっと根源的な恐怖に駆られた独白のようだった。


『……Men are…… falling…… non-stop…… Doctors are…… gone…… Stay away from……』


「……男たちが……止まらない、倒れるのが止まらない……って言ってる」


優が翻訳すると、俊夫は鼻で笑った。


「なんだよそれ。ハリウッド映画の宣伝じゃないのか? 『宇宙戦争』とかさ」


「……そうかな。でも、この声、すごく震えてるよ」


優は、その不気味なノイズの断片を聴きながら、窓の外に広がる夕暮れの相模湾を見つめた。


江ノ電の踏切の音が聞こえ、帰宅を急ぐサラリーマンたちの自転車のベルが鳴る。

商店街の豆腐屋のラッパの音が響き、どこかの家からカレーの匂いが漂ってくる。


そこにあるのは、永遠に続くかのような、退屈で平和な「昭和の日常」だった。


誰もが、明日は今日と同じようにやってくると信じて疑っていなかった。


プロ野球の巨人軍の試合結果に一喜一憂し、もうすぐ始まる二学期のテストに憂鬱になる。

そんな当たり前の毎日。


だが、優の耳に届いたその掠れたノイズだけは、その日常に小さな、しかし鋭い亀裂を入れた。


「……俊夫、これ、カセットに録音しとこう。なんだか、嫌な感じがするんだ」


「お前、考えすぎだよ。ほら、もうすぐ『ベストテン』始まるぜ。マッチが出るって和夫が言ってたぞ」


俊夫は無頓着にテレビのスイッチを入れた。

ブラウン管がパッと光り、華やかな音楽が部屋を満たしていく。


優は、録音ボタンを押した。


テレビの中の熱狂。

無線機から流れる「男たちが倒れている」という絶望の声。


一九八一年の夏休み、最後の日曜日。


少年たちはまだ知らない。

彼らが追いかけていたそのノイズが、自分たちの未来そのものを削り取っていく足音であることを。


そして――

この平和な部屋で、俊夫と一緒に笑い合える夏休みが、これが最後になってしまうということを。

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