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第2話:戦場のまなざし


 ロンドンからのテレックスを受け取ってから、三日が過ぎた。


涼子のデスクの引き出しには、折り畳まれた感熱紙が重い鉛のように鎮座している。

その間にも、彼女は独断で海外の医学雑誌や断片的な通信記録を漁ったが、状況はさらに不気味さを増していた。


サンフランシスコ、パリ、ニューヨーク。

大都市の「男性」だけが、まるで目に見えない死神に指名されたかのように、次々と原因不明の肺炎で命を落としている。


「時田くん、またその資料か。熱心なのはいいが、今は来年度の予算編成の時期だぞ。海外の怪情報の翻訳より、こっちの赤痢対策の予算案をまとめてくれよ」


課長の声が、立ち上るセブンスターの煙とともに降ってきた。


この伝染病管理課において、二十代の女性である涼子の発言権は、灰皿に溜まった吸い殻ほどの重みもない。

男性職員たちは皆、迫りくる予算折衝や、派閥争いという「目の前の戦争」に夢中で――


海の向こうで芽生えた「人類への警告」を、ただの雑音として切り捨てていた。


その時だった。


廊下から、慌ただしく、それでいてどこか節度のある複数の足音が近づいてきた。


「……次官がいらしたぞ!」


誰かの鋭い囁きに、課内の空気が一変した。


男性職員たちが弾かれたように立ち上がり、ネクタイを締め直し、吸いかけの煙草を慌てて揉み消す。

その異様な緊張感の中、部屋のドアが勢いよく開かれた。


そこに立っていたのは、和服の上に上品なベージュのカーディガンを羽織った、一人の女性だった。


厚生政務次官、石本茂。


当時、男性中心の政治の世界で、日本初の看護師出身の国会議員として「現場の声」を突きつけ続けてきた猛者だ。

彼女の後ろには、書類鞄を抱えた数人の秘書と、冷や汗を流す公衆衛生局長が従っている。


「次官、本日の看護婦待遇改善に関するヒアリングですが、会議室の準備が整っております」


「いいのよ、局長。会議室の椅子に座っているだけじゃ、あなたたちの本当の仕事は見えないから」


石本は鈴の鳴るような、だが芯の通った声で言い放つと、迷いのない足取りで課内へ踏み込んできた。

彼女がここへ来たのは、本来の公務である「看護職員の労働環境調査」の一環だった。


だが、その鋭い眼光は、単なる書類の山を通り越し、職員たちの顔色、そして部屋の隅々に漂う「淀み」を射抜いていた。


石本は局長たちの案内を無視して歩き続け、なぜか部屋の最も奥――涼子のデスクの前で足を止めた。


涼子は息を呑み、立ち上がった。


目の前に立つ石本茂という女性からは、線香の香りと、それとは相反する、戦場をくぐり抜けてきた人間特有の「鉄のような意志」が伝わってきた。


「あなた、何か抱えているわね」


石本が静かに言った。

周囲の課長や局長たちが、ぎょっとした顔をする。


「次官、彼女はまだ入省二年の若手でして。不慣れな資料整理に手間取っているだけで……」


「黙りなさい」


石本は、局長たちの案内を無視して立ち止まると、涼子の手元にある、まだ新しいインクの匂いがする感熱紙に視線を落とした。


「……時田さん、と言ったかしら。それ、何て書いてあるの」


涼子は緊張で喉を鳴らしながら、震える声で読み上げた。


「ロンドンからの緊急電信です。原因不明の免疫不全。……気になるのは、症例のすべてが『男性』であると報告されている点です」


「男性だけ?」


石本は老眼鏡を取り出すこともせず、目を細めてその一行――『TARGET: MALES ONLY』――をじっと見つめた。


その顔に、劇的な驚きや恐怖が走ったわけではない。

ただ、長年、患者の脈を取り、顔色を読み取ってきた看護師特有の、深い観察の表情がそこにあった。


「次官、それはあくまで初期の断片的な情報でして」


背後から課長が、なだめるような笑みを浮かべて口を挟む。


「おそらくは特定の労働環境か、あるいは特殊な生活習慣によるものでしょう。医学的には、性別だけを標的にするウイルスなど考えにくい。まずは国内の赤痢対策を優先すべきかと……」


石本は課長の言葉を最後まで聞かず、スッと指を立ててそれを制した。

彼女が引っかかったのは、疫病の正体よりも、周囲の男たちが漂わせている**「根拠のない安堵」**だった。


「考えにくい、ね。……大陸の戦地にいた頃、似たような言葉を何度も聞いたわ。敵の進軍はあり得ない、補給が切れるはずがない。そうやって『あり得ない』と笑っていた男たちの隣で、私たちは死にゆく兵士たちの手を握っていたのよ」


石本は感熱紙を涼子に返すと、その細い肩を軽く叩いた。


まだ予感などという不確かなものではない。

ただ、彼女の中にある「現場のセンサー」が、この小さな違和感を無視するなと告げているだけだった。


「時田さん。この『男性だけ』というデータ、単なる偶然かもしれないし、あなたの言う通り何かの間違いかもしれないわ」


そこで一拍、石本は息を置いた。


「でもね、役所が『あり得ない』と言い始めた時こそ、現場の人間は最悪を想定しなきゃいけないの。……局長」


石本は振り返り、冷や汗を拭う局長を見据えた。


「この件、時田さんに継続して追わせなさい。彼女の通常業務に支障が出ない範囲で構わないわ。

その代わり、新しい情報が入ったら、課長やあなたを通さず、私の部屋へ直接持ってこさせて。いいわね?」


局長は一瞬絶句したが、政務次官の直々の命令を拒む術はなかった。


「……は、はい。承知いたしました」


石本はもう一度涼子の目を見ると、今度は少しだけ柔和な、だがどこか試すような微笑を浮かべた。


「時田さん。お役所の机は、時々真実を隠してしまうけれど、紙に刻まれた数字だけは嘘をつかないわ。しっかり見ておきなさい」


石本が嵐のように去った後、課内には気まずい沈黙が流れた。


涼子は、返された紙をきつく握りしめる。


石本茂は、これが人類の危機だと言ったわけではない。

ただ、**「誰もが見逃そうとしている小さな火種」**に、涼子と同じように目を向けた。


それだけで、涼子の心の中の孤独な戦いは、確かな形を持ち始めていた。

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