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17 :九月半ば、霞が関の熱

一九八一年(昭和五十六年)九月十六日(水)。


暦の上では秋に入っていたが、霞が関の空気はまだ夏の名残を引きずっていた。


厚生省の建物は、いつも通りそこにあった。

灰色の外壁。直線ばかりの窓。正面玄関の前を、黒塗りの車が音もなく行き交う。


だが、内部の流れだけが、確実に変わり始めていた。


若い男性職員の欠勤が、目立つようになった。

最初は「風邪」「胃腸炎」「過労」。

どれも理由としては通っていた。


だが、同じ課、同じ年齢層。

二日、三日と休みが重なり、復帰しても顔色が戻らない。


厚生省だけではなかった。

外務省、通産省、運輸省。

霞が関全体で、同じ傾向が静かに広がっていた。


誰も、まだ口にはしなかった。


その日の午後。

一本の内線が、厚生省幹部フロアに入った。


「……外遊から戻られた大臣が、空港で倒れました」


声は事務的だった。

だからこそ、部屋の空気が一瞬で凍った。


倒れたのは、五十代の男性大臣。

持病はなく、直前まで海外で精力的に日程をこなしていたという。

救急搬送。意識障害あり。


同行していた秘書官が、青い顔で電話口に立っていた。


「――厚生省として、説明を」


質問は、短かった。

しかしその裏にある意味を、誰もが理解していた。


会議は、通常の定例ではなかった。

急遽、厚生大臣を含めた幹部会合が招集された。


会議室は、古い。

長い楕円形のテーブル。

壁にかかった時計の秒針が、やけに大きな音を立てている。

灰皿には、すでに何本も吸い殻が溜まっていた。


出席者の顔ぶれは、重かった。


厚生大臣。

事務次官。

医務局長。

伝染病管理課の幹部。


そして――

石本茂。

政務次官の席に、背筋を伸ばして座っている。


末席に、時田涼子がいた。

場違いだという視線は、最初から覚悟していた。

だが今日は、呼ばれている。


「……状況を説明してくれ」


厚生大臣の声は、低かった。

苛立ちよりも、戸惑いが勝っている。


事務次官が、資料をめくる。


「現在、国内で確認されているのは――

 若年から中年の男性に偏った、原因不明の重篤例です」


「偏っている?」


大臣が、顔を上げる。


「はい。女性、子ども、高齢者には、同様の重症例は見られていません」


沈黙。

誰かが、無意識にタバコに火をつけた。


「……そんな病気が、あるのか」


その一言で、会議室の空気が変わった。


否定ではない。

疑問でもない。

理解し始めた声だった。


石本が、静かに口を開く。


「あります。

 ただし、名前がついていないだけです」


全員の視線が、石本に集まる。


「海外では、すでに似た症例が出ています。

 ロンドン、アメリカ。

 共通点は、男性、年齢層、急速な免疫低下」


厚生大臣は、初めて資料から目を離し、石本を見た。


「……それを、なぜ今まで上げてこなかった」


「上げていました」


短く、きっぱり。


「ただ、信じられなかっただけです」


会議室が、再び静まる。


その沈黙の中で、厚生大臣はようやく理解した。

これは、局地的な異変ではない。

省内の問題でもない。


国が、初めて直面する種類の危機だと。


「――時田君」


突然、名前を呼ばれた。

涼子は、背筋を伸ばす。


「君が、最初に気づいたんだな」


「……はい」


「現場は、どう見ている」


一瞬、迷い。

だが、言葉を選ばなかった。


「時間がありません。

 原因解明より先に、延命と隔離の準備をするべきです」


誰かが息を呑む。


石本は、わずかに頷いた。


その瞬間。

厚生大臣の中で、何かが決定的に切り替わった。


「――正式な対策会議を立ち上げる」


時計の秒針が、一つ進んだ。


霞が関は、この日初めて、

“これは止められないかもしれない”

という前提で、動き始めた。

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