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第15話(後編)欠ける順番

家に帰ると、妹の美幸が居間でテレビをつけていた。


「おかえり」


美幸は言いながら、画面から目を離さない。いつも通りだ。いつも通りの妹の背中が、今日は少しだけ腹立たしい。


父はこたつに横になっていた。布団を肩まで引き上げている。顔が赤い。目を閉じている。


優は台所でうどんを作った。湯気が立つ。鍋の音。そういう音があるだけで、家が壊れない気がする。


父にうどんを出すと、父は少しだけ食べた。少しだけ。すぐ箸を置く。


「……うまい」


言っただけで、もう疲れている。


美幸が突然、テレビに向かって言った。


「ねぇ、今日も出てない」


「何が」


優が言うと、美幸は不満そうに唇を尖らせた。


「アキラだよ! 最近ずっと体調不良で休んでるんだって。テレビ出ないの。心配」


“心配”。


その言葉に、優の胸の中の何かが跳ねた。


「……おまえさ」


優の声が、自分でも驚くほど硬くなった。


「とうさんをもっと心配しろよ」


美幸がきょとんとした。悪気がない顔だ。悪気がないのが、余計に刺さる。


「心配してるよ」


「してないだろ。アキラの方が心配じゃん」


美幸が顔を赤くした。


「だって、アキラは……!」


言い返しかけて、言葉が詰まる。美幸の目が潤む。泣く寸前の顔。


そのとき、父が小さく咳をした。


ひとつ。


優と美幸の言葉が、同時に止まった。


父の咳は軽い。軽いのに、家の空気が固くなる。


美幸が小さく言う。


「……お父さん、大丈夫かな」


優は答えなかった。答えたら、現実になる。


優は父の額に手を当てた。熱い。手のひらが熱を吸う。


「病院、行った?」


父は目を開けずに、首を振った。


「……待ってたら、楽になるかと」


優の喉が乾いた。


母は「行け」と言った。父は「大丈夫」と言った。


その間に挟まれて、優は何もできないまま、ただ家の中を回している。


“男の風邪”という言葉が、どこかで笑いとして流れているのを思い出した。笑いは遠いのに、痛みだけが近い。


玄関の鍵が回る音がした。


和美が帰ってきた。コートのまま、鞄を下ろしもしないで居間を覗く。


父の顔を見る。布団を見る。うどんの器を見る。


「……行ってないのね」


声が低い。怒りではない。失望でもない。


“次の手順”に切り替える声だった。


和美は深呼吸して、優を見る。


「優。美幸。——支度して。今から病院」


優は頷いた。


美幸も頷いた。涙を拭きながら。


父は起き上がろうとして、うまくいかない。和美が黙って肩を貸す。その動きが迷わない。迷わないのが怖い。


家族の動きが、ひとつの導線になる。


テレビでは、アイドルが笑っていた。録画の笑顔。


画面の中だけが、ずっと元気だった。


優は靴を履きながら、ふと思った。


最初に欠けたのは、棚だった。


次は、先生だった。


そして今、父が欠けていく。


欠ける順番が、静かすぎる。


静かだから、追いつけない。


玄関を出ると、夜の冷気が頬を刺した。


父――肇は、コートを着るだけで息が上がっていた。玄関の柱に片手をつき、肩で呼吸をする。


優は父の腕を支えた。骨が軽い。いつもはもう少し重いはずの腕が、今日は細い棒みたいに頼りなかった。


和美が鍵を閉めながら言った。


「歩ける?」


父は頷いた。頷いたが、歩き出すまでに一拍かかった。


車に乗せるまでが、ひと仕事だった。シートベルトを締める手が震える。


父は「大丈夫」と言おうとして、言葉が喉で折れた。


病院へ向かう道で、救急車のサイレンが二度、すれ違った。赤い光が窓に跳ねて、消える。


和美はハンドルを握る指に力を入れた。指の関節が白くなる。


「……多いね」


美幸が小さく言った。


優は返事をしなかった。返事をすると、現実が増える気がした。


——


病院の駐車場は、いつもより明るかった。


照明が増えているのかと思った。違う。車のライトだ。誰も消さないまま停めている。停めて、急いで降りている。


ライトの白い筋が、夜の空気を切り裂いている。


玄関の自動ドアの前に、人がいた。


列だった。


ただの列じゃない。体の重さが列になっている。立っていられない人が、壁に寄りかかり、しゃがみ込み、抱えられている。


受付の方向から、番号札の機械音が鳴っている。


ピッ、ピッ。


乾いた音。


音が速い。速いほど処理が追いついていない。


優は父の腕を支えたまま、足を止めた。


待合室のガラス越しに見える光景が、学校の教室とは違う。空気が違う。人の“匂い”が違う。


汗。吐き気。消毒液。湿ったコート。


咳。咳ではなく、息の荒さ。


和美が言った。


「……ここまでとは」


声が、いつもの母じゃない。強い声で自分を支えているのが分かった。


自動ドアが開いた瞬間、熱気がぶつかった。


暖房の熱ではない。人の熱だ。焦りの熱だ。


受付の前に、行列が伸びている。


並んでいるのは、ほとんどが女だ。


女が男の腕を抱えている。女が男の背中を叩いている。女が診察券を握りしめている。


男たちは顔色が悪い。


土気色。青白い。赤いのに乾いている。目がうつろ。


「すみません、うちも——」


「順番にお願いします!」


受付の女性の声が、何度も同じ調子で繰り返される。


声が擦れている。擦れているのに、笑顔の形を崩さない。崩せない。


番号札の機械の前で、小さな子どもが泣いた。


すぐ隣で、男が大きく咳き込む。咳というより、体の奥から何かを吐き出そうとしている音。


床に座り込んでいる人がいた。


最初は子どもかと思った。違う。女だ。隣に男が寝かされている。コートを丸めて枕にしている。


男は目を閉じて、口を少し開けている。息が浅い。


その女は、誰にも文句を言わない。ただ、男の手を握っている。握って、離さない。


待合室の椅子は、全部埋まっていた。


立っている人が壁沿いに並び、立っていられない人は床に座り込んでいる。床に座る場所すら、もう狭い。


テレビがついていた。


音量が小さい。


誰も見ていない。


画面の中ではバラエティが笑っていた。笑い声だけが浮いている。


和美が受付へ向かう。


優は父を支えたまま後を追った。


美幸が後ろでコートの裾を握っているのが分かる。怖いときの癖だ。


受付まで、なかなか辿り着けない。


列の途中で、誰かが怒鳴った。


「いつまで待たせるんだ!」


怒鳴ったのは女だった。怒鳴りながら、隣の男の肩を支えている。怒りは受付に向いているというより、不安に向いている。


受付の女性が頭を下げる。


「申し訳ありません。診察が立て込んでおりまして……重症の方から——」


“重症”。


その言葉が、優の背中を冷やした。


和美がようやく窓口に辿り着いた。


診察券を出す手が迷わない。迷わない手が、今日いちばん頼もしい。


「玉木です。夫が高熱で……出張から帰ってから三日、食欲がなくて、今日は立てなくて」


受付の女性が父を見た。


視線が、父の顔を一瞬で測る。目の下。唇。呼吸。皮膚の色。


その測り方が、怖いほど手際よかった。


「お熱は?」


「測れてないです。——でも、熱い」


受付の女性が頷き、紙を渡した。


「こちらに記入をお願いします。症状の欄、できるだけ詳しく。……男性の方ですので、念のため」


“男性の方ですので、念のため”。


その一言が、薄い紙より重く落ちた。

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