第14話:死は、確認された
訃報は、病院の当直から直接入った。
涼子が庁内の電話を取ると、相手は名乗りより先に言った。
「……成田から入っていた方、今朝方、亡くなられました」
一瞬、視界の端が暗くなる。
成田の到着ロビー。
担架。酸素マスク。
そして足首に残った、あの紫色。
「亡くなった時刻は」
「午前二時十二分です。急激に循環が破綻しました」
説明は整っている。
だが、整いすぎている。
原因の“名前”だけが、ぽっかり抜けている。
涼子は病院へ向かった。
救急外来の裏手の廊下は、消毒液の匂いが濃かった。
面会受付の脇を通り、医局の一角で担当医の説明を受ける。
「空港から直接搬送。到着時点で高熱と呼吸困難。
検疫で“異常”として拾われたのは妥当です。……ただ」
「ただ?」
医師は、言葉を選ぶように一度視線を落とした。
「通常の肺炎や敗血症の進行とは違う。
治療に反応しない、というより……反応する時間がない」
涼子は、机の端に置かれた経過記録の紙を見た。
時刻が並んでいる。
点滴、酸素投与、血圧低下、意識レベル低下、心停止。
“時間”が、短すぎた。
「家族は」
「奥様がずっと。お子さんは、親族が連れて帰りました」
涼子は一度、深く息を吸った。
次に自分がすべきことは分かっている。
医療の説明を聞くだけでは足りない。
これはもう、行政の案件でもある。
そして――遺族の前に立つ責任でもある。
遺族の家は、郊外の住宅地にあった。
門扉の前で足が一瞬止まる。
“空港から直接病院へ”――つまり、この家には、本人は一度も帰っていない。
ただ「行ってきます」が最後だった家。
涼子はインターホンを押した。
出てきたのは、目の奥が腫れた女性だった。
声が出ないのか、最初は唇だけが動く。
「……どちらさまですか」
「時田と申します。
成田空港で、ご主人が搬送される場に立ち会った者です。
そして……病院で経過を確認していました」
女性は一瞬だけ息を呑み、玄関の扉を広く開けた。
「……どうぞ」
居間には白い花があり、線香の匂いがまだ濃い。
畳の上に置かれた座布団が、妙に整いすぎている。
涼子は正座し、深く頭を下げた。
「このたびは……心より、お悔やみ申し上げます」
妻は、しばらく何も言わなかった。
湯のみを両手で包んでいる。指先が白い。
「……うちの人、帰ってきてないんですよね」
涼子の胸がきゅっと縮む。
「成田から……そのまま、病院へ行って。
私は、“迎えに行くつもり”で空港に行ったのに……
迎えに行った先が、病院だった」
言葉が、途中で崩れた。
妻は自分の声に驚いたように口を押さえ、息を整えた。
「……最後に、話せたんですか」
涼子は、迷わず答えた。
「はい。短い時間ですが、意識がある瞬間がありました。
お名前も、ご職業も、確認できました。
……“家に連絡してくれ”と、はっきり言われました」
それは事実だった。
その言葉が、この家に残された人たちのためになるかは分からない。
だが、嘘はつけない。
妻の目に、ようやく涙が溜まった。
「……あの人、空港で、何を言ってましたか」
涼子は、息を整えた。
言葉を選ぶ。
“病名がない”ことを盾にして、何も言わないのは逃げだ。
「苦しそうでした。呼吸が荒くて、言葉も途切れました。
でも……最後まで、仕事のことを気にされていました。
“迷惑をかける”と」
妻は、泣きながら笑った。
「……そういう人です。
家のことより、先に“迷惑かける”って言うんです」
笑いはすぐに嗚咽に変わった。
涼子は、拳を握りしめた。
ここで「原因は分からない」とだけ言って帰れば、遺族は置き去りになる。
涼子は、正面から言った。
「奥様。
まだ病名は特定できていません。
ですが、ご主人と同じように――“急激に悪化する例”が、他にも出始めています」
妻の涙が止まった。
その目が、鋭く涼子を見た。
「……じゃあ、うちの人は、何のために――」
涼子は、頭を下げる。
「無駄にはしません。
成田で拾われたこと、病院で起きたこと、すべて記録として残し、必ず対策に繋げます」
妻は、しばらく黙っていた。
やがて小さく頷く。
「……この家には、帰って来られなかったんですね」
「……はい」
その一言が、刃物みたいに刺さった。
玄関で見送られるとき、妻がぽつりと言った。
「空港から病院まで、付き添った人がいたって聞きました。
その人が、あなたですか」
「……はい」
「……ありがとうございます」
礼を言われるようなことは、何もしていない。
涼子はそう言いかけて、飲み込んだ。
礼を拒むのは、遺族の支えを奪うことになる。
涼子は深く頭を下げるだけにした。
外に出ると、夕方の風が少し冷たかった。
涼子は立ち止まり、空を見上げる。
空港から病院へ。
そして、この家には戻らなかった。
数字でも、症例でもない。
ひとつの生活が、切断された。
涼子は、胸の奥で繰り返した。
――次は、誰の家が切られる?
――止められるのは、いつだ?
歩き出す足が、いつもより重かった。




