表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/19

第12話:棚が薄くなる日


一九八一年九月中旬。

 朝晩の風は少しだけ冷たくなったのに、町の息苦しさは増していた。


 学校では自習が「当たり前」になりつつあった。

 欠席者は増え、代わりの先生も足りない。

 誰もはっきり言わないが、みんな同じ言葉を喉の奥に飲み込んでいる。


――男が、減っている。


 優の家でも、それは“音のしない変化”として始まっていた。


 夕食の準備をしていた母が、台所で手を止める。

 湯気の上がる鍋の前で、ふいに声が小さくなった。


「……お父さん、今日も疲れてるって」


 父は最近、帰りが遅い。

 そして帰ってきても、黙っている時間が増えた。

 強い人だったはずなのに、食卓で箸が止まる。


「風邪?」と聞いても、父は笑うだけだ。


「大丈夫だ。ちょっと、身体が重いだけだ」


 その「大丈夫」が、もう怖い。


 優は、父の足元に視線が吸い寄せられるのを必死で止めた。

 あの紫色を、探してしまいそうになるから。


 数日後。

 母が「買い物ついでに荷物持ちして」と言い、優は自転車を押して近所のスーパーへ付き添った。


 スーパーはいつも通り明るい。

 蛍光灯の白い光。店内放送の軽い音楽。

 けれど、母は入口をくぐった瞬間に立ち止まった。


「……あれ?」


 目線の先。

 青果の棚が、いつもより“薄い”。


 みかんは山になっていない。

 バナナも少ない。

 肉のコーナーのトレーも、隙間が目立つ。


「今日は特売でもないのに……」


 母は小さく呟き、カゴの持ち手を握り直した。

 不安を隠すときの癖だ。


 優は周りを見回した。

 客はいる。買い物の声もする。

 なのに、棚だけが「追いついていない」。


 ちょうどその時、段ボールを抱えて荷出しをしている人が目に入った。

 エプロン姿の、知った背中。


「あ……田辺のおばさん」


 優の声に、その女性が振り返る。

 田辺正雄の母――田辺母だった。

 普段は朗らかに笑う人なのに、今日は顔色がくすんで見える。


「優くん。来たのね」


 笑顔は作っている。だが、目が疲れている。

 段ボールを棚に置く手つきも、少しだけ遅い。


 母がすぐに話しかけた。


「田辺さん、最近ちょっと品物少ない? 気のせいかしら」


 田辺母は、周りに聞かれないように声を落とした。


「気のせいじゃないわ。入ってこないのよ、そもそも」


「入ってこない?」


 母の眉が寄る。

 田辺母は、段ボールの端を指で押さえながら続けた。


「物流……っていうの? 運ぶ人が足りないって。

 運転手さんとか、倉庫の人とか……男性が多いでしょ。休む人が増えてるって話」


 優の背筋がぞわっとした。


 ――男が欠ける。

 学校だけじゃない。港だけでもない。

 運ぶ人が欠ければ、棚が薄くなる。


 母は言葉を探しながら、さらに聞いた。


「でも、ここまで急に……?」


 田辺母は、小さく首を振った。


「急よ。急なのに、誰も“大ごと”って言わないの」

「……どうして?」

「言えないんじゃない? 言ったら、みんな怖くなるから」


 田辺母はそう言って、エプロンの胸元をぎゅっと握った。


「ねえ、優くん。正雄……学校、どう?」

 ふいに話題が変わる。

 田辺母の目が、優の顔の奥を探すように揺れた。


 優は一瞬、言葉に詰まった。

 正雄は欠席している“穴”の一つだ。

 でも、それをここで口にしていいのか分からない。


「……自習、増えた」

「……そう」


 その「そう」は、同意じゃない。

 覚悟の音だった。


 母が、田辺母の顔を見て、気づく。

 この人もまた、見えないものに怯えている。


「田辺さん、大丈夫? 無理してない?」

「無理、してないと……思う」


 田辺母は笑おうとして、失敗した。


「正雄の父親もね、最近仕事がきついって。運ぶ方の人手が足りないから、回されて回されて……」

 言いかけて、田辺母は口をつぐむ。

 目線が床に落ちる。


 優は、その沈黙の意味が分かってしまった。


 “きつい”のは仕事だけじゃない。

 きっと、身体も。


 母はそれ以上聞かなかった。

 聞けば、言葉が現実になる。


 田辺母は段ボールを棚に押し込みながら、最後にぽつりと言った。


「……優くん。

 もし、学校から何か紙が来たら……ちゃんとお母さんに言うのよ」


 優は息をのむ。


 教育委員会の調査。

 噂で聞いた“出欠を数える紙”。

 それが、もうここまで来ている。


「うん……」


 返事は小さかった。

 だが、それで十分だった。


 帰り道。

 母は自転車の荷台に縛った買い物袋を気にしながら、何度も後ろを振り返った。


「ねえ、優。今日は……買えたけど。

 これから、もっと少なくなるのかしら」


 優は答えられなかった。

 答えの代わりに、父の顔が浮かぶ。


 “身体が重いだけ”と言った声。

 その声の向こうにあるものが、見たくないのに見えてしまう。


 家に着くと、玄関の靴が揃っていた。

 父はもう帰っている。


 優は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 棚が薄くなる。

 学校が自習になる。

 男が欠ける。


 それは、町が壊れる音だった。

 まだ誰も叫んでいないのに、確実に進んでいる。


 優は靴を脱ぎながら、思った。


 ――このまま、何も起きないふりをして、どこまで行ける?


 答えは、きっともう決まっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ