第8.5話:欠け始めた中枢
八月末。
東京の空気は、夕立の後でもぬるく、石本茂の議員会館の事務所にも、熱がじわりと残っていた。
執務室は狭い。だが石本は、狭さを嫌わない。
机の上には地元からの陳情書、後援会の名簿、そして今朝届いた官庁の定型資料。
壁際の棚には、背表紙の擦れた法令集と、古い統計年鑑が詰め込まれている。
窓は半分だけ開けてあった。
外からは車の音と、遠い蝉の鳴き残り。
石本は灰皿を使わない。代わりに、湯のみだけが机の端に置かれている。茶は冷めていた。
「――数字だけ拾え」
石本は受話器を耳に押し当てたまま、机の手帳に万年筆の先を落とす。
病名は書かない。症状も書かない。
書くのは、欠け方。
「学校だけだと、女が多いから偏りが見え過ぎる。
男女比が半々に近い集団を混ぜろ。市役所、金融、電電、病院の事務……そういうところよ」
電話の向こうで、相手が一瞬言葉を探す気配がした。
縦割り。厚生が教育に触れれば角が立つ。教育が職場に触れれば誰かが怒る。
石本はそこを、押し切るのではなく、形を整えて通す。
「命令じゃない。“動向把握の協力依頼”に落として。
紙は、そっちの名で出す。病名は不要。欠勤の性別・年代・開始日だけ。――今週中に集める」
彼女の声は低い。怒鳴りもしない。
だからこそ、相手は断れない。
石本が受話器を置くと、隣の机で整理をしていた秘書の木戸が、咳払いをした。
普段なら、机を叩くような勢いで動く男だ。今日は動きが遅い。
「木戸さん、顔色が悪いわよ」
「いえ、先生。ちょっと寝不足で……」
その返事が、空気より薄い。
木戸は紙束を抱えたまま、椅子に腰を落とした。指先が汗ばんでいる。
石本は、視線を外さずに言った。
「熱、あるの」
「……少し。大丈夫です」
大丈夫という言葉が、今は信用できない。
石本は、机の上の“欠席者一覧”の余白に、短くメモした。
事務所内 男性 体調不良
たったそれだけで、胸の奥に嫌な確信が芽を出す。
地元で見た「男が欠ける」現象が、東京の、この部屋にまで届いている。
石本は立ち上がり、木戸の机の前に来た。
「今日は帰って頂戴。診てもらって。――無理をしない」
「でも、先生……」
「仕事は回す。君が倒れたら、もっと止まるわ」
石本の言葉には、慰めがない。
現実の秤だけがある。
木戸が渋々荷物をまとめ始めると、石本はもう一人の秘書――女性の相沢を呼んだ。
相沢はまだ若いが、電話の取り次ぎが異様に早い。相手の肩書を聞いた瞬間に“扱い方”を変えられる。
「相沢さん、今日から体制を変えます」
「はい」
「男性秘書が欠ける前提で回します。予定表も、連絡網も、二重にして。
それと――女性秘書を増やします」
相沢の眉がわずかに動いた。
政治家が「女性を増やす」と言う時、たいていは体裁の話になる。
だが石本の声は、体裁ではない。
「先生、増やす、というのは……」
「“優秀な”女性を。言い方は悪いが、今は能力の話だ。
動ける者を、こちらに集て。できれば二人、最低でも一人。すぐに」
石本は机に戻り、引き出しから一枚のメモ用紙を出した。
そこに箇条書きで、条件を書き始める。
・省庁の言葉を読める
・電話で相手を動かせる
・数字を扱える
・噂に呑まれない
・口が堅い
最後に、石本は一行だけ加えた。
・倒れない前提で組まない
書き終えると、相沢に紙を差し出す。
「心当たりは?」
「……前の職場に一人。元新聞社の整理部出身で、統計に強い方がいます。あと、地元の県庁から出向経験のある方……」
「当たって。お礼は弾見ます。肩書は“政策担当”で」
相沢が頷き、すぐに席を立つ。
その動きが、やけに頼もしく見えた。
石本はもう一度、受話器を取った。
今度は、別の番号。役所側の“紙を出せる”場所だ。
「石本よ。先ほどの件、もう一つ。
無作為抽出にしてちょだい。選んだと思われないでね。――市も混ぜる。港のある市、内陸の市、規模の違う市。学校も職場も同じよ」
相手が「なぜそこまで」と言いかけるのを、石本は言葉で止めた。
「病名は要リません。偏りだけで十分。
偏りが見えたら、動ける。――動けるうちに動きましょう」
受話器を置く。
執務室の時計が、秒針を刻む音だけが残った。
冷めた茶の匂いと、紙の匂い。
石本は椅子に深く座り直し、手帳を開く。
病名のない戦いを、病名のないまま始めるために。
机の端で、木戸が咳をひとつして、事務所を出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。
石本はその音を聞きながら、心の中でだけ結論を出した。
――国会を待つ暇はない。
――役所の縦割りを、紙の形に変えて突破する。
――そして、欠けても回る側を先に作る。
社会が欠け始めているなら、こちらは先に“回る形”を作るしかない。




