第1話:沈黙の産声 ―― 1981年8月、霞が関
一九九〇年、夏。 厚生省の時田涼子が受け取った一通のテレックスが、すべての始まりだった。 ロンドン、ストックホルム、サンフランシスコ。世界各地で報告される「男性患者」の「急速な悪化」。
「倒れるのは、男だけにしてください」 現場の悲鳴、政治の思惑、そして家族の祈り。 未曾有のパンデミックを前に、人々はどう動くのか。 これは、日常が沈黙へと変わっていく瞬間の記録である。
一九八一年(昭和五十六年)八月。
東京の夏は、すべてを拒絶するような重い湿気とともに始まった。
世田谷区にある時田家の朝は、ナショナル製の扇風機『首振り』が奏でる、規則正しいがどこか頼りない回転音で幕を開ける。
涼子は、汗で張り付いた前髪をかき上げ、枕元のシチズン製デジタル時計を止めた。
午前六時三十分。
液晶の数字が少し欠けているのは、昨夜、暑さのあまり無意識に叩いてしまったからかもしれない。
窓を開けると、早朝だというのに熱風が部屋に流れ込んできた。
ラジオからは大滝詠一の『君は天然色』が流れ、爽やかなカラーテレビのCMのような世界を演出している。
だが、現実はもっと泥臭い。
高度経済成長の残り香のような排気ガスの匂いと、庭の隅で狂ったように鳴き始めた蝉の声が、肌にねっとりと絡みつく。
「涼子、朝ごはんよ。ゴールドブレンド、淹れたてだから」
階下から、母の声が届く。
食卓には、こんがりと焼けたトーストと、縁が少し焦げた目玉焼き。当時、中流家庭の象徴だったインスタントコーヒーの香りが、少しだけ涼子の意識を現実に引き戻した。
彼女は、紺のタイトスカートに、糊のきいた白いブラウスという「戦装束」に袖を通す。
二十四歳。東京大学医学部を卒業し、厚生省(現在の厚生労働省)に医系技官として入省して二年目。
まだ「女性のキャリア」という言葉に、羨望よりも好奇の目が向けられる時代だった。
「行ってきます」
冷房の効きが甘い営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線の車内は、汗をかいたワイシャツの袖が触れ合う、むせ返るような空間だった。
霞ケ関駅で降り、地上へ出る。
そこには、権威を形にしたような灰色の石造りの要塞がそびえ立っていた。
当時の厚生省庁舎は、現在のような高層ビルではない。
戦前から続く、あるいは戦後の混乱期に増築を繰り返したような、無機質な外観。
入り口の重厚な回転扉をくぐると、そこには独特の「役所の匂い」が充満していた。
磨り減ったリノリウムの床を磨くワックスの匂い。
山積みにされた古い紙の湿気。
そして、廊下のあちこちに設置されたスタンド型灰皿から漂う、乾いた煙草の煙。
涼子が勤める公衆衛生局伝染病管理課は、その迷宮のような建物の三階にあった。
「おはようございます」
ドアを開けた瞬間、涼子の耳に飛び込んできたのは、ひっきりなしに鳴り響く黒電話のベルと、ガチャンガチャンという無骨なタイプライターの打鍵音だった。
室内には、パソコンの一台もない。
あるのは、スチール製の重厚なデスクと、その上にエベレストのように積まれた「起案書」の山。
男性職員たちはネクタイを緩め、開襟シャツの袖を捲り上げながら、一九七八年に開港したばかりの成田空港から持ち込まれるコレラや赤痢の報告書に追われていた。
涼子の席は、部屋の最も奥。
国際的な通信機材が置かれた一角にある。
彼女の主な仕事は、WHO(世界保健機関)や在外公館からの情報を翻訳し、整理することだった。
若手、それも女性である彼女に与えられた「窓際」の仕事。
だが、彼女にとってその場所は、世界と繋がる唯一の聖域だった。
午前十時。
室内を流れる「日常」という名の喧騒を切り裂くように、その機械が激しい痙攣を起こした。
「ガシャ、ガシャガシャガシャッ!」
部屋の隅に鎮座する、テレックス端末。
電話線を通じて文字情報を送受信するその機械は、当時、海の向こうから届く最も速い「声」だった。
金属製の印字ヘッドが感熱紙を叩く音が、静かな課内に不吉なリズムを刻む。
本来なら、定例の事務連絡のはずだった。
だが――
吐き出される紙に刻まれた文字列を見た瞬間、涼子の指先から血の気が引いた。
FROM: UK MINISTRY OF HEALTH / LONDON
TO: MINISTRY OF HEALTH AND WELFARE / JAPAN
URGENT - MEDICAL ALERT
涼子は身を乗り出し、流れてくるインクの匂いさえ新しい文字を、食い入るように読み取っていく。
OBSERVED: UNEXPLAINED IMMUNE SYSTEM COLLAPSE.
TARGET: MALES ONLY. (AGE 15-45)
SYMPTOMS: UNKNOWN FEVER, PNEUMONIA, PURPLE LESIONS.
NOTE: HIGH MORTALITY RATE WITHIN 60 DAYS.
(ターゲット……男性、のみ?)
思わず、その文字列を指でなぞった。
ロンドンとブライトンで確認された、原因不明の免疫不全。
発症者はすべて男性。
急激な肺炎を併発し、発症から二ヶ月以内に高い確率で死に至る。
「おい、時田くん。何だその音は。またロンドンで変な風邪でも流行ってるのか?」
背後から、課長の無頓着な声がした。
彼は灰皿に煙草を押し付けながら、欠伸混じりに涼子の手元を覗き込もうとする。
「……いえ、まだ分かりません。ただ、少し様子が変です。重症化しているのが、今のところ男性だけだと」
「ははっ、男性限定か。そいつは羨ましい。俺たちもそんな理由で仕事を休めたらいいんだがな」
課長は周囲の男性職員と顔を見合わせ、ドッと笑い声を上げた。
一九八一年、夏。
世間はまだ、この数行の電信が、人類の半分を消し去る黙示録の第一章だとは、夢にも思っていなかった。
窓の外。
真夏のぎらつく太陽の下では、ネクタイを締めたサラリーマンたちが、忙しなく霞が関の歩道を歩いている。
この鋼のような官僚街の平穏が、砂の城のように崩れ去るまで。
残された時間は、そう長くはない。
涼子は、千切り取ったテレックスの紙を、誰にも見られないよう、そっと自分の胸ポケットに隠した。
その熱は、真夏の陽射しよりも熱く。
そして――氷のように冷たかった。




