3
その日は朝からしとしとと雨が降っていた。気圧が低い日は、夢野まどろの眠りもいつになく深い。彼はカウンター席で、まるで打ち上げられたアザラシのように伸びていた。
「……むにゃ。羊が一匹、羊が二匹……ジンギスカン……」
「夢野さん、夢の中で調理しないでください」
目白いずみが呆れながらコーヒーを啜っていると、カラン、と湿っぽい音を立ててドアが開いた。入ってきたのは、黒縁メガネの女性。駅裏にある図書館の司書、栞だ。彼女は濡れた傘を畳むのももどかしく、カウンターへと歩み寄った。
「マスター、そして名探偵さん。……事件です」
彼女が差し出したのは、一冊のハードカバーの本だった。タイトルは『深淵からの呼び声』。いかにもおどろおどろしいホラー小説だ。
「この本、呪われているんです」
栞の声が震えている。
「貸し出すたびに、返却されると……重くなっているんです」
「重く?」
マスターが眉をひそめる。
「物理的に、ですか?」
「はい。ページ数は変わらないのに、持つとずっしりと……。それに、ページを開くと、どこからともなく『ため息』のような匂いがするんです」
栞は青ざめた顔で続けた。
「これはきっと、物語に閉じ込められた幽霊の怨念が、重みとなって……」
「……ふむ」
その時、まどろがピクリと反応した。いずみは素早くペンを構える。
「来ました、寝言推理!」
「……いい湯だな……ハババンバ……」
「温泉!?」
いずみが書き留める。
「犯人は温泉旅行中?」
まどろは眉間に皺を寄せ、さらに深くクッションに顔を埋めた。
「……のぼせる……水分補給を忘れるな……」
「のぼせる……?」
栞が首を傾げる。
「幽霊がですか?」
まどろは、むくりと起き上がると、まだ半分閉じた目でその本を指さした。
「……その本、ふやけてますよ」
「え?」
「犯人は……長風呂の常習犯です」
まどろの推理(というか寝言)はこうだ。借り主はこの本を、風呂に浸かりながら読んでいたのだ。湯気を含んだ紙は湿気を吸って重くなる。そして『ため息のような匂い』の正体は――。
「……ラベンダーの入浴剤ですね。よく眠れそうだ」
まどろが鼻をひくつかせた。栞がおそるおそる本に顔を近づけ、くん、と嗅ぐ。
「……あ。本当だ。お風呂の匂いがします」
幽霊の怨念かと思われた重みは、単に紙が湿気を含んだ水分量であり、怨念の匂いはリラックス効果抜群の入浴剤だったのだ。
「公図書を風呂場に持ち込むなんて!本が痛むでしょうが!」
栞は恐怖から一転、司書の鬼の形相へと変わった。
「犯人は分かっています。貸出履歴にある『長風呂』という名字の男性ですね……説教してきます!」
「名字まで長風呂なんですか……」
いずみがツッコむ間もなく、栞は怒りの形相で雨の中へと飛び出していった。
「やれやれ。本も人間も、湿気は大敵ですねぇ」
マスターが苦笑しながら、新しい温かいおしぼりをまどろに出す。
まどろはそれを受け取ると、顔を拭くこともなく、そのままアイマスクのように目の上に乗せた。
「……雨音は、最高の子守唄だ……」
そう言い残し、彼は再び深い眠りの淵へと沈んでいった。解決したのかしていないのか、今日も「眠兎」の雨はやみそうにない。




