そして鬼となる 下
白い闇の中で五月はハッとして辺りを眺める。己しか存在しない空間。するといきなり目の前に大きな姿見が現れて五月は何となくそれに歩み寄り手を差し伸べた。硬い鏡面に手が触れて己の姿をマジマジと眺める。
「彼を取らないでって言ったのに‥」
何処かからそう聞こえ、慌てて周りを確認するが誰も居らず、もう一度、鏡に映る自分を見た。
〈気のせい?〉
五月は少し不安を覚えながらそう思うともう一度、鏡に触れてみる。相変わらず己の姿だけを鏡は投影していた。
「彼を誘惑しないで‥彼は僕のモノだ」
鏡に映る自分にそう言われ五月は思わず飛び退いた。
「彼って誰?先生の事?」
五月は全く動いていない鏡の中の自分に向かって呆然としながらそう問いかける。
「その身体だから彼はお前に興味を惹かれているだけ‥容姿が同じだからただ惑わされているだけなのに‥僕の身体を返してよ」
鏡の中の己はそう言いながら五月を恨めしそうに睨み付けた。
「そ‥そんなの知ってるよ!
先生は何時だって僕の中の初代・殺鬼しか見て無いって事くらい‥でも、それでも好きなんだもん!
大好きで居るくらい良いじゃないか!」
五月は今更、感じていた事を指摘され、カッとなって言い返す。
「お前は僕だけを愛してくれていた彼の心を奪った‥許せない‥僕の身体を返して‥」
しかし鏡の中の自分はひたすら嫉妬の眼差しを向け、そう言いながら鏡から出て来ようと此方へ歩み寄って来た。その迫力に五月は動けず近付く己を凝視する。そして鏡から出てきた自分に触れられそうになった瞬間、ガバッと身体を起こした。息を切らせて辺りを確認すると此処は泊っているホテルの自室で隣のベッドでは征嗣がまだ寝息を立てている。五月は思わず安心したように息を吐くと膝を抱えた。
〈先生が優しくしてくれるのは僕が五月と似てるだけだからって自覚すると余計に落ち込むなぁ‥〉
そう思うと更に身を小さくして五月は静かに征嗣を想う。この気持ちは決して誰かのものでは無い。それだけは確信があった。
征嗣が目覚めると隣のベッドに五月の姿は無く辺りを見回す。
〈シャワーでも浴びてるのか?〉
ベッドから出てそう思いながら浴室を覗いてみたが姿は無い。とりあえず探しに出ようと着替えを済ませる事にした。しかし身支度を整え終わる前に五月が戻って来る。
「あ、おはよう先生」
「おはよう‥朝っぱらから何処へ行ってたんだ?」
「僕もやっぱり大きいお風呂に浸かりたくて朝から行ってたんだよ
やっぱり大きいお風呂は良いね」
呆れたように聞く征嗣に五月は少し誤魔化すように微笑んでそう言った。
「髪くらいちゃんと乾かして来い‥風邪を引く」
征嗣はそう言いながら傍に在ったタオルを五月の頭に乗せ拭いてやろうとするが五月は咄嗟に身を引く。
「あ‥自分で乾かして来るから良いよ!」
そう言って脱衣所の方へ慌てて向かった。
〈何だかあんな夢を見たせいで気不味いな‥もう忘れなきゃ‥〉
五月はドライヤーで髪を乾かしながら複雑そうな表情で考える。余り引き摺ってしまうと仕事に支障も出るので必死に己の気持ちを切り替えた。髪を乾かして部屋に戻り身支度を整えると二人で朝食を取りにレストランへ向かう。
「昨日の事を覚えているか?」
「あ‥昨日、レポート纏めてそのまま寝ちゃったんだけどもしかして僕、また先生に迷惑かけちゃった?」
「いや、覚えて無いなら良い‥それより寝るならちゃんと布団はかけて寝ろよ」
征嗣が昨日の失言を思い返しながら確認すると五月は何も覚えていないようだったので安堵した。
時間になって斎藤が迎えに来ると五月達は現場へ向かう。案の定、何の問題も無く無事に終わり、予定より早く済んでしまった。
「まだ昼には少し早いがちゃんぽんでも食べに行くか?
それとも次の現場へ行かなきゃいけなかったりする?」
「九州は此処だけで次は山口なんだけど夜に待ち合わせてるから先にホテルに入るにしても3時くらいの新幹線で十分間に合うかな?
だから少し観光しても良いかなってちょっと思ってるんだよね」
斎藤が予定を聞くと五月は苦笑しながら返す。
「だったら私が案内するよ」
「え?でも仕事あるでしょ?」
「大丈夫、くれぐれも丁重にって上司からも言われてるからね
天宮の事は楓様同様にVIP扱いでって念押されてるから平気平気」
「良いのかなぁ‥」
少し悪い笑顔で斎藤が言うと五月は乾いた笑みで返した。
「それなら二人で楽しんで来ると良い‥俺は少し行きたい所が有るから‥」
「え?行きたい所が有るならついでに周りますよ?」
「いや、一人で行くから良い‥時間になったら駅まで行く」
征嗣が言うと斎藤は返すがそう答えてさっさと二人を置いて行ってしまう。
「永藤さんって何時もああなの?」
「ずっと一緒だから偶にああやって一人で出掛けちゃうかな‥まぁ、そう何時も僕について周るのもねぇ?」
「そう言われてみればそうか‥それより行きたい所とかある?」
「僕、よく分かんないから任せても良いかな?」
「了解、じゃぁ、適当に時間までみっちり案内するよ」
二人は仕方なくそう話しながら車に乗り込んで出かけた。斎藤は五月に任されたので有名観光地やお勧めのグルメを時間まで周り、五月はかなり満足する。そして時間になると征嗣と待ち合わせた新幹線の駅まで送って貰った。
「先生は何処行ってたの?」
「ちょっとな‥」
新幹線に乗り込んで発車すると聞いたが征嗣は返事を濁す。こういう時はだいたい五月には見当がついていたのでそれ以上、この話題には触れなかった。次の現場近くまで来ると先に予約していたホテルに入って一息吐く。
「此処までは順調だね」
五月は予定表を見ながらスナック菓子をぼりぼり食べていた。
「そんなに菓子ばかり食べていると晩飯が入らんぞ?」
呆れながら言って征嗣が溜息を吐く。
「今日は山の中の展望台だから夜中から朝にかけてになるし仮眠してから晩ご飯食べるから良いの
それより僕はもう寝るよ‥先生は?」
「俺ももう休む」
「そ?じゃぁ、歯磨いたらもう部屋の電気消すね」
五月はそう言うと口をもごもごさせながら洗面所へ行き、征嗣はベッドに入るとスマホを眺めた。
その後の予定も順調に消化し、五月達は最終目的地の神戸での仕事を終える。
「家に帰る前に少し寄り道しても良い?」
「それは構わんが‥何処へ寄るんだ?」
「少しだけ鳳凰院家の方に寄ろうかと思って‥お互いに忙しいからもう年内は会えないだろうしさ‥」
「なら、俺は先に帰っておくよ
そうすれば荷物を持ち周らなくて良いだろう?」
「そうして貰おうかとも思ったんだけど連絡したら先生も一緒にって言われてるんだよね
三上様も来られるそうだから一緒に行こうよ」
「分かったよ」
新幹線に乗り込んですぐに五月が言うと征嗣は返した。
京都に着くと鳳凰院家からの迎えが来ていて五月達は屋敷へ向かう。屋敷に到着すると涼音が出迎えてくれて離れに通された。
「長旅お疲れ様でした
今日はこちらでゆっくりと休んで行かれて下さいね」
にこやかにそう言って涼音が微笑む。
「ありがとうございます
では、お言葉に甘えてそうさせて頂きますね」
五月も微笑んで返し、お茶を頂いた。涼音は気を回して征嗣にも時折、話を振りながら三人で談笑する。
「失礼します、三上様と東條様がお見えになりました」
三人で談笑していると侍女がそう言って二人を連れて来た。
「よぉ、久しぶりだな‥」
「ご無沙汰してます」
五月の顔を見て明希が言うと五月は微笑んで挨拶を返す。そして明希達を交えて5人で少し談笑した。
「では、大切なお話もおありでしょうから私は席を外させて頂きますね」
適度に話が途切れた所で涼音はそう言って部屋から出て行く。
「それで、あれから何か夢は見たか?」
明希は涼音が部屋を出た途端にそう切り出し、五月はそら来たと少し表情を硬くした。
「はい‥ご存じの通り少し各地を周っていたんですけど九州に居た時に少し‥」
五月は少し征嗣をチラッと見てから九州で見た夢の話をする。勿論、自身の夢での言動は征嗣が傍に居るので伏せた。
「やはり刻印を施した主は初代・殺鬼で間違いないかと思います
そうなるとこれはかなり厄介ですね」
「どう厄介なんだ?」
東條が複雑な表情で言うと明希が先を促す。
「前にもお話したように本来、五月の肉体は初代・殺鬼のものです
魂こそ五月個人のモノで不可侵ですが肉体が初代・殺鬼のモノである以上、初代・殺鬼の意思が介在していて言ってみれば歴代「さつき」の魂は賃貸物件に住んでいるような状態なんですね
そしてその肉体の管理を容易にしているのが征嗣の刻印‥いろいろ調べてみた結果、やはりあの刻印は初代・殺鬼の魂を隠し収めたモノであると推測出来ます
初代・殺鬼は貴方と離れたくない余り、身体と分離した後に貴方の中で刻印という巣を作り、貴方と共に眠り続けていたんです
その影響として「さつき」の肉体が産まれると魂と引き合って貴方と中に居る初代・殺鬼が目覚めるという仕組みになってしまった
ですから術など通さずとも直接的に影響を与える事が出来るんです」
「じゃぁ、今までの「さつき」が短命だったのは?」
「五月の夢の話を鑑みるに初代・殺鬼の嫉妬でしょう
自分の肉体に在る魂に嫉妬して歴代「さつき」を追い出した結果が短命を招いていたのだと思います
恐らくですが同一年齢である27歳というのは刻印に棲む初代・殺鬼の我慢の限界であり、目覚めてから力が満ちるタイミングでもあるのだと思います」
東條の説明に明希が合の手を入れると更に続けて溜息を吐く。それを聞いて五月と征嗣は呆然となったまま言葉が出ない。
「じゃぁ、どうすれば五月は生き残れるんだ?」
「嫉妬で己の肉体に宿った魂を追い出して来たという事は刻印の解除など決してないでしょうね‥初代・殺鬼が望まぬ以上、魂が棲む刻印を破壊するしかありません
ですがこれも前に言いましたが刻印というのは施した者にしか安全に解除は出来ませんし他者が解除するには相応の攻略が必要になって来ます
が、この刻印に関しては何かを強制するという本来の意図では無く、魂の定着を目的とした魂そのものであると推測出来ます
文字通り意識のある変幻自在の刻印‥ですから二人には覚悟をして貰わなければなりません」
明希が聞くと東條はそう答える。
「僕は‥僕は短命でも良いから先生を殺さないで!」
「何を言っている!
俺が死ねばお前は生きられるんだぞ!?」
二人は東條が言った覚悟の意味を理解して咄嗟にそう言った。そう、やはりどちらかが犠牲になる事でしかこの負の連鎖は終わらない。二人は即座に互いを庇い合う。
「お前は俺達にとっちゃ貴重な鬼狩だ‥喪う訳にゃいかん」
冷たくそう言った明希を五月は絶望の眼差しで眺めた。
「俺は長く生きてきた‥もうこの世に何も未練はない」
躊躇いがちに微笑み諭すように征嗣が明希に続くと絶望の表情を浮かべたまま五月は征嗣に視線を移す。
「嫌‥嫌だ!
そんなの絶対認めない!
僕は先生が居ないとまともに鬼だって狩れないんだ!
先生が居なくなるのは絶対にダメだ!」
「聞き分けろ!
俺はただの鬼でもう数百年は生きてる
それにお前は俺が居なくても充分、鬼狩としてやっていけるだろう?」
泣きながら五月が征嗣に訴えると征嗣は怒鳴るように切り出し最後には優しく窘めるように五月に言って聞かせた。
「ヤだ‥こんなに好きなのに‥ずっと先生の為に全部我慢して来たのに!
先生に死なれたら僕はもう‥生きていけない‥」
五月は縋るように征嗣にしがみ付き、ずっと堪えてきた言葉を吐き出す。
「俺もお前に死なれたらもう自我を保てない
だから俺より先に死なないでくれ‥もう、愛する者を目の前で喪うなんて耐えられない
初代・殺鬼でも歴代「さつき」でも無くお前を愛してる‥だから死ぬなんて言わないでくれ」
突然の告白に一瞬、驚いた後、征嗣はそんな五月を抱き締めて泣きそうな顔で囁いた。
「あの‥お二人で盛り上がっているところ大変に恐縮なのですが‥」
そんな二人に東條が苦笑しながら話しかけると二人は放心状態で東條の方を見る。
「勿論、最終手段としてどちらかが死ぬ覚悟はいります
しかし私が提案したいのは初代・殺鬼を殺す覚悟なんです」
「そんな事が可能なのか?」
東條が困り笑顔で続けると明希が驚いたような表情で返した。
「可能かどうかは賭けですがこのままどちらかが死ぬのを容認するならば試す価値はあるかと思いますよ
刻印の正体が魂そのものならば初代・殺鬼さえ倒す事が出来れば刻印は解除されるでしょう
ですがそれは同時に初代・殺鬼が輪廻より外れ、下手をすれば鬼と同じく消滅する事を意味します
これがどういう事かは解るでしょう?」
東條が表情を戻し真顔で言うと明希は少し視線を逸らせて険しい表情をする。
「あの‥初代・殺鬼を殺すというのはどういう事ですか?
しかも輪廻から外れるって‥」
征嗣が動揺しながら口を開いた。
「文字通り魂そのものを殺す‥消滅させるという事です
既に初代・殺鬼は栢斗鬼媛が敷いた輪廻から半分外れている状態‥肉体のみの輪廻を繰り返しています
この歪みが初代・殺鬼の魂をより人の道から遠ざけてしまっているのでしょう
魂はただの独占欲の塊となっている
そしてその嫉妬の矛先は常に己の肉体に宿る魂に向けられ、結果的に貴方に孤独と罪悪感を募らせる結果となっていったのです
それは初代・殺鬼の魂が既に鬼と同等の存在になりかけてるという証‥それならば鬼狩である五月に狩れない事は無いという話なのですよ
鬼として狩られた者はもう通常の輪廻に戻る事はほぼ有りません
浄化して新たな輪廻を構築出来る場合もありますが殆どは闇に溶けて自我ごと魂は消滅してしまいます」
東條の説明を聞いて征嗣はまた放心状態となった。五月を愛している気持ちに嘘など無いがやはり初代・殺鬼の事を大切に想う気持ちもある。正直、どちらか選べと言われると戸惑いがあった。しかしこのままでは五月は確実に27歳で死んでしまう。そう考えると頭は真っ白になった。五月もそれを聞いて益々混乱しているようだ。
「確かに鬼と同じように狩るというのは分かったが具体的にどうやるんだ?
鬼と普通の魂じゃ形態がそもそも違うだろ?」
二人が放心状態でも淡々と明希は疑問をぶつけてくる。
「そうですね‥今のままでは普通の魂ですから五月に狩る事は難しいでしょう
ですが鬼となればそれも可能となって来ます
ですから此処は初代・殺鬼に鬼となって貰う事が必須なのですよ」
「それは‥わざと負の感情を誘発させる‥という事ですか?」
非情な事を言い出した東條にようやく五月が険しい表情で返す。
「はい、貴方達二人には耐え難い選択だという事は承知しています
ですがもうそれしか方法は有りません
それにこれが初代・殺鬼にとっても幸せな選択であるとも思っています
この先も寄り添う事も認知される事も無いまま征嗣の中で在り続けるのは酷な話だと思いませんか?」
少し寂しそうにそう締め括った東條に五月と征嗣は言葉を失い視線を伏せる。
「確かに会う事も触れる事も出来ないまま傍に居るってのは辛い事かもしれねぇがだからっていきなり消滅は乱暴過ぎやしねぇか?」
二人が言語化出来なかった想いを明希が口にした。
「私としても苦渋の選択ですよ
でもこれが私に出来る精一杯の方法です‥幾ら鬼子として人並み以上の力を有していても私だって万能ではありませんからね
それに私が手を貸せるのは理に歪みが生じないほんの僅かな部分だけ‥それ以上、関われば他の方の輪廻にも影響を及ぼし歪めてしまいます
歯痒い気持ちは私も同じなのだとご理解下さい」
まるで自分自身に言い聞かせるよう少しきつい言い方をする東條に明希は申し訳なかったと視線を逸らせた。それぞれ東條の言葉を噛み締めるように俯く。
「俺は‥どちらか選べと言われ正直、迷った
白状すると初代・殺鬼の事はずっと愛していた‥どれほど歴代「さつき」と過ごそうとも何時も初代・殺鬼の面影を追っていたのも確かだ
始めは五月に抱いていたのもそういう感情だったのかもしれない
でも、今は‥今の俺は五月を愛している
だから五月の命を選択したい」
少しの沈黙の後、征嗣は力強く東條と明希にそう言った。それを聞くと五月の目から涙が溢れ出す。
「分かりました、五月はどうしたいですか?」
「僕は僕の命を優先したい
先生が僕を選んでくれたから‥例え最強のご先祖様だって僕は負けない」
東條に聞かれ五月は泣きながら微笑んでそう答えた。
「話は決まったがどうやって刻印に隠れてる初代・殺鬼を倒すんだ?
刻印が征嗣の中にある以上、こっちから何かする事は出来ねぇんだろ?
それに鬼にすると言っても姿が見えねぇならやりようもねぇだろうが‥」
明希が聞くと五月と征嗣も疑問を感じて東條を見る。
「確かに通常の方法で接触する事は難しいですが常に征嗣の中に居る初代・殺鬼は既にこの状況を把握しています
きっと今頃、嫉妬に燃えて五月が眠るのを待っている事でしょうね」
「あ‥僕の夢‥」
少し微笑んで東條が言うと五月はハッとしてそう呟いた。東條はアタリと言わんばかりに微笑む。
「初代・殺鬼は嫉妬の対象である己の肉体に宿る魂にだけはその姿を晒さなければなりません
何故なら己の肉体から他の魂を追い出すには肉体の主として魂の状態で入り直さなければならないからです
しかし長年、定着してきた魂にはアドバンテージが有りますからかなり不利な状態‥ですから初めて五月と対峙した時には五月の魂に押されて声しか届かなかった
そして少しづつその領域を侵食し、ようやく自身の投影まで成功した今ならきっと刻印から完全に五月の肉体へ渡る筈です
五月の魂を自身の肉体から追い出す為に‥その時に鬼化させれば後は貴方達で決着を付ける事が出来るでしょう?」
「方法は分かったが鬼化させるにはどうするんだ?
何かしらの術でもかけるのか?」
東條が説明すると明希は更に疑問に感じて聞いた。
「術など必要ありませんよ
先ほど言いましたが今頃、初代・殺鬼は嫉妬に駆られて力が満ちる前に‥今すぐにでも五月を追い出そうとするでしょうからね」
少し含みを持たせた笑顔で東條が言うとその魂胆に気付いた明希は凄く嫌そうな顔になる。
「お前‥相変わらず嫌な奴だな‥」
「ありがとうございます」
嫌悪丸出しで明希が言うと気にせず微笑んで東條は返した。五月と征嗣はそのやり取りを困惑しながら聞いている。
「あの‥僕にはよく理解出来ないんですが‥」
躊躇いながら五月がその本意を聞いてみた。
「初めにこいつがお前等をけしかけたのは初代・殺鬼を挑発する為だ
二人が両想いだってのを分からせれば嫌でも初代・殺鬼は嫉妬に狂うって分かっててこいつはそれを劇的に演出したんだよ」
「しかしそうでもしないと貴方達は互いの事を想う余り自分の本心を言葉にはしなかったでしょう?
申し訳ないとは思いましたが方便とお許し下さいね」
明希が説明し、東條が謝罪すると五月と征嗣は今更、気付いて真っ赤になる。夢中で気付かなかったがお互い思い切り愛していると告白していた。
「ともかくもう一度、言いますがこれは賭けです
五月の魂は長年定着してきたとはいえ自身の肉体では無いので何時乗っ取られても不思議ではありません
ですからくれぐれも油断をしてはいけませんよ‥魂だけの状態というのは貴方達が思うほど強く在りませんから肉体から追い出されると簡単にダメージを受けてしまいます
一方、初代・殺鬼にとって肉体は元の鞘ですから一度、追い出せば簡単に己の魂を肉体に定着させる事が出来ます
もしそうなれば二度と肉体には戻れませんから肝に銘じておいて下さいね」
東條が真剣な顔で念を押すと二人は表情を戻し頷く。
「でもそれが出来るならなぜ今までの「さつき」は27歳で死んだんだ?
中身が入れ替わって生き続ける筈じゃないのか?」
「実際はそう単純な話でも無いんですよ
定着している魂を引き剥がし、入れ替わったとしても力の差異で無理が生じてしまうんです
グラスに器を温める様に少しずつお湯を注ぐのといきなり熱湯を器一杯入れるのでは器の強度は変わって来るでしょう?
確かに肉体はそれに耐え得るように出来てはいますが長年、普通の魂で慣れた状態でいきなり強大な魂を受け止めると肉体の崩壊が起きてしまうんです
初代・殺鬼の魂はそれほどまでに強大だという事なんですよ
特に肉体に宿る魂を追い出せる程になった時にはその力もマックスでしょうから‥例え元の鞘に戻っても肉体が耐えられないというのが現状だと思います」
明希の疑問に東條が答えると皆は納得した。
「ともあれ此処で貴方には退席願いますよ征嗣‥これ以上、此方の手の内を明かす訳にはいきません
我々の話を初代・殺鬼は貴方の中で聞いているでしょうからね」
そう言うと東條は片手で印を組む。すると征嗣の姿はフッと掻き消えた。
「先生!」
「大丈夫です、少し異空間に閉じ込めただけですから‥こちらの話が終わればまた呼び戻します」
五月が慌てると東條はそう言って微笑んだ。
「それで?無防備な夢の中でどうやって初代・殺鬼を攻略するんだ?」
「問題は其処です
普通、夢の中で起きている時と同じ意識で居る事はかなり難しい
それに比べて向こうは覚醒した状態のまま此方に向かって来る事が出来ますからね
此方も覚醒状態を保ったまま対峙しなければ簡単に負けてしまうでしょう
ただでさえ鬼狩であり上位術師でもある初代・殺鬼に対してこちらは鬼狩としての能力だけで戦わなければならないので尚更です
ですから私が五月の夢の中へ入って初代・殺鬼が鬼となった瞬間に現実世界へ顕現させます
そうすれば五月と征嗣は通常通り一般の鬼と同じように初代・殺鬼と対峙する事が出来る
後は鬼となった初代・殺鬼を倒せば問題は解決する筈です」
明希の質問に東條は淡々と答える。
「夢の中の初代・殺鬼を現実世界に顕現させるなんて可能なんですか?」
「夢の外に核を持つ妖や怨霊ならば無理なんですが核を持たぬ鬼ならば可能です」
戸惑いながら五月が聞くと東條は少し表情を緩めて返す。
「だったら夢の中で五月にアドバイス出来るんだから問題はねぇんだな?」
明希も少し安心したように表情を緩めて言った。
「それは無理ですね
初代・殺鬼が私の存在に気付いてしまったら私の力を封じられてしまう可能性がありますから‥幾ら鬼人の鬼子である私でも鬼狩で高位の術師でもある初代・殺鬼には苦戦を強いられてしまいます
ですからあくまでも私はその時まで気取られないよう二人を見守る事しか出来ませんよ」
東條が困ったように返すと一気に五月は不安を覚える。
「あの‥それならば僕はどうすれば‥」
「夢の中で初代・殺鬼を煽って頂ければ結構です
そうすれば簡単に初代・殺鬼は嫉妬心を爆発させるでしょう
但し、けして夢の中で隙を見せないで下さい
貴方がダメージを受ければ肉体から弾き出すのが難しくなりますからね」
東條が言うと五月は息を呑み頷いた。それから綿密な打ち合わせの後、東條は征嗣と話しに異空間へ姿を消す。
「で、これからどうする?
涼音との婚約は解消するか?
そうなら俺から涼音に話すが‥」
東條が去った後、明希は五月に確認した。
「それは涼音さんと直接、話し合います
先生と両想いになれたとしても涼音さんの事は大切に想ってますから‥独り善がりな答えを出したくないんです」
「そうか‥なら、涼音を呼んで来てやるからゆっくり話し合うんだな‥」
「あの、三上様は涼音さんの事をどう思ってらっしゃるんですか?」
明希がそう言って席を立つと五月は聞いてみる。涼音の気持ちを考えるとどうしても明希の本心を聞いておきたかった。
「俺は智裕以外の女に興味はねぇよ
だが、お前があいつを大事に想ってくれてる事には感謝してる」
明希は答えて部屋を出て行く。五月はその答えに明希が涼音の気持ちを察して尚、気付かぬ振りで皆と差別の無い対応で通しているのだと理解する。その上で、涼音を大事にしている五月への感謝があるという事は相当気にかけている事は明白だ。
〈そりゃぁ、惚れちゃうよね‥〉
そんな明希の気遣いの深さに五月は溜息を吐く。暫くして涼音だけが戻って来て自室の方へ五月を誘った。何時も鳳凰院家に来た時はこうして人払いを施した涼音の部屋で内緒話をする事が多かったからである。五月は涼音の部屋へ行くと今あった事を涼音に話した。
「それは良かったですね
好きな方と想いが通じ合うなんてこんなに嬉しい事は有りませんもの」
涼音は屈託なくそう言って微笑み、我が事のように喜んでくれる。
「それでその‥僕としては涼音さんに申し訳なくて‥このまま婚約状態で居るのは心苦しいというか‥」
五月はただただ申し訳なくてそう切り出した。
「分かりました‥でも子供は何方にしても周りから強要されるのでしょう?
ならばとりあえず体裁としてこのままで宜しいんじゃないでしょうか‥元々そういうお約束での婚約ですし私の方はお気遣い要りませんよ
私にとって五月さんはもうただの婚約者では無く大切な親友なのですから‥でももし公に征嗣殿とそういう関係を公表されるなら私は何時でも婚約解消に応じますので仰って下さいね」
微笑んでそう言った涼音に五月は嬉しくて涙が溢れる。
「ありがとう‥僕、涼音さんを生涯、大事にします
例えこの先に婚約を解消したとしても涼音さんの為に全力を尽くすって誓います」
五月が泣きながら言うと涼音はそんな五月を困ったような笑顔で抱き締めて宥めてやった。
それから暫く間を置いて侍女が様子を窺いに来たので涼音は五月を連れて明希達の居る離れへと向かう。
「お話は五月さんから伺っております
もし宜しければ此方の離れをお使い下さい
屋敷のものとは別に離れ周辺に指定領域を張らせておきますのでご存分にどうぞ‥」
「気を使わせてすまないな‥」
「いえ、お兄様方からもそのようにと頼まれておりますのでお気になさらないで下さいまし‥では、私は失礼させて頂きますが後は八千代が皆様のお世話をさせて頂きますのでごゆっくりされて下さいね」
涼音が言うと明希が申し訳無さそうに返し、それに答えて涼音は自室に戻って行く。
「そろそろご夕食の準備をさせて頂こうと思うのですが構いませんか?」
「何から何まで世話になるな‥宜しく頼む」
八千代がそう言うと明希が返し、それを受けて八千代は後方の侍女に目配せして食事の用意を始めた。
「とりあえず今夜から俺等がお前のバックアップに入るから安心して寝ろ」
「え?でもそんなにすぐ夢に出て来るとは限らないと思うんですけど‥」
食事の後、明希が言うと五月は戸惑いながら返してお茶を飲む。
「心配しなくてもすぐに出て来ると思いますよ
それと念の為、夢の中でも覚醒状態を保てるようにこれを傍に置いて寝て下さいね」
東條はそう言って青い石ころを五月に渡した。五月は頷きながらそれを受け取って眺める。
「天然石‥ですか?」
「一見するとそう見えますけど妖怪の骨です
術でコーティングしてあるので現実世界ではただの石ころ同然ですが意識体には効力があるのでこれを傍に置いて寝れば覚醒状態を保って夢が見られますからね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、俺達は別棟へ移動するからお前達も適当に休んでくれ」
「え?此処で皆一緒に休むんじゃないんですか?」
「それは今となっちゃ野暮だろ?」
そう言うと明希はフッと微笑んで立ち上がり東條もそれに続いた。五月と征嗣はそう言われて赤くなる。二人が出て行くと五月は何となく気不味い表情で征嗣から視線を逸らせた。
「お前は此処の風呂を使わせて貰え‥俺は向こうで借りて来るから‥」
征嗣はそう言って明希達の後を追うように離れを去って行き、五月は少しホッとしながら言われたように離れの風呂を使わせて貰う事にする。何時もより丁寧に身体を洗って湯船に浸かると五月はこの後の展開に期待している自分に少し恥ずかしくなった。
〈そんな状況じゃ無いだろ自分!〉
自分を窘めるように思うと部屋に戻るがまだ征嗣は戻って来ていない。その代わり座卓は片付けられていて布団が不自然に引っ付いて敷かれている。それを見て五月は赤くなり、嬉しいやら恥ずかしいやらで戸惑っていたが少し布団を離す事にした。
「どうかしたのか?」
其処へ征嗣が戻って来て布団を離している五月を見てそう言うと五月はびっくりして慌てる。
「えっと‥何だか広い部屋なのに布団が引っ付いてて窮屈かなって思って‥」
「そうだな‥それより柚茶を淹れて貰ったんで冷めない内に頂こう」
しどろもどろで五月が言訳すると征嗣は少し微笑んで手にした盆を持って窓際の椅子に腰を下ろした。五月もそちらへ行くと腰を下ろして柚茶を頂く。
「温まるね‥」
「ああ‥」
優しい味にホッとしながら五月が微笑むと征嗣も微笑み返した。暫く二人、無言で柚茶を楽しむ。
「ねぇ先生‥初代・殺鬼の事‥聞いて良い?」
「構わんよ‥出会った時の話はしたから引き取った後の事から話そうか‥」
五月が湯飲みを置きながら聞くと征嗣も湯飲みを置き、窓の外に視線を向けながら返した。
「初代・殺鬼‥当時はまだ引佐と言ったんだが実際は連れ帰って弟子にしたんじゃなく弟子にして連れ帰ったんだ
そうしないと俺の住まいは一般人の入れない龍王院家の敷地内だったからな‥だが、陰陽師の術も鬼狩の知識もない引佐が其処で生活するにはかなり無理があった
おまけに言葉が話せなくてただでさえ引っ込み思案なのに余計に人を怖がるようになってしまったんだ
俺はそんな引佐が少しでも周りに溶け込めるよう出来るだけ傍に居る様にしていたが仕事で留守にする事も多くてな‥かなり寂しい思いをさせたと思う
それを見兼ねた姫様は俺が留守の間は引佐を気遣って傍に置いて下さった
そのお陰か引佐は陰陽師の術を自然と体得し、周りとも溶け込めるようになっていったんだ
そして何時しか言葉を取り戻して俺の仕事にもついて来るようになり、鬼狩としての技術も少しずつ身に付けていった
その成長速度は目を見張るものが有り、5年もすると一人で仕事に赴く様になった
そして更に3年後には姫の名代さえ務める程の立派な青年となったんだ
上位術師で鬼狩としての技術もさる事ながら引佐は姫様の使役する鬼狩の中で群を抜いて美しかった
そのせいか有力者の姫君達が出世を条件にこぞって引佐に求婚して来たが引佐はそんな良い話を悉く断っていたんだ
でも俺は引佐が縁談を断る度に少しホッとしている自分に気付いた‥我が子のように慈しんできた引佐にこんな感情を持つ自分を嫌悪し、律しようとしたがそうする度に想いは募っていった
しかしある時、引佐もそうなのだと気付いたが俺は素直にその気持ちを受け入れる事が出来なかった
俺との未来を選べば引佐の地位は低いまま‥そうなれば最前線に立つ事になり危険も増える
それを考えると俺は引佐の手を取る事が出来なかったんだ
そんな折、宮家の一家である姫様の母君のご実家より引佐に縁談の打診があった
俺は自分の想いを殺し、引佐にこの話をお受けするよう勧めた
引佐は俺の言葉に従いその縁談を受け、故郷の村で栢斗鬼媛の名代として神社守に着任する事が出来たんだ
その時に姫様から藤森殺鬼という名を頂いた‥身分の低かった引佐が姫様の腹心としてその任に就く事が出来て俺は心底安堵した
だがその反面、俺は更に引佐への想いを募らせ、事ある毎に五月雨神社を訪れた
しかし俺だけじゃなくそれは引佐も同じで会う度毎に都度の別れが辛くなっていったんだ
お互いの気持ちを理解しながら言葉に出来ないもどかしさに耐え兼ね、俺は暫く引佐に会いに行く事を止めた
そんな時にあの一件があったんだ
俺が駆けつけた時には手遅れで引佐の最後の言葉に俺は誰よりも自分自身を呪ったよ
そして鬼となり封印されて‥目覚めて引佐に生き写しだった二代目・殺鬼に出会った時にせめて引佐にしてやれなかった事をしてやろうと思った
でもこれは引佐では無いのだと気付き、引佐を裏切っているのだという罪悪感で俺は後へも先へも進めなくなってしまったんだ」
庭に置いている視線を五月に向けると征嗣は其処で言葉を切ってしまう。五月が征嗣を見ながらボロボロと涙を流していたからだ。
「お前が泣く必要は無いだろう?」
「分かんない‥分かんないけど涙が出るんだ」
少し困ったように微笑んで征嗣が優しげに言うと五月は涙を拭う。征嗣の気持ちを想ってなのか初代・殺鬼への憐れみなのか五月にも涙の理由は分からない。もしかすると征嗣が愛してきた初代・殺鬼への純粋な嫉妬だったのかもしれないがとにかくいろんな感情が沸き上がって涙が止まらなくなった。
「でもお前と出会って共に過ごす内に引佐と過ごした時のような世界が色付く鮮度のようなものを感じたんだ
俺は今までの「さつき」には感じなかったその気持ちに戸惑い、お前からいろんなモノを奪ってしまいそうで怖くなった
しかしあの二人にまた同じ過ちを繰り返すのかと言われようやくはっきり気付いたんだ
引佐へ抱いていた気持ちとお前に抱く感情が別物だったと‥例えお前から何かを奪おうとも俺は‥」
真っ直ぐに五月を見て征嗣が言うと五月は最後まで聞かずに征嗣に抱き付く。
「僕は先生と一緒に居られるなら何もいらない!
もう僕の事を突き放さないで‥ずっと傍に居て‥」
五月は絞り出すように言って抱き締める手に力を込める。
「愛してる五月‥」
そう呟くと征嗣も五月を抱き締めた。そしてお互いの温もりを噛み締めてから征嗣は少し身体を離し、五月の涙を拭って口付けようとしたがその途端に五月はストンと意識を失い脱力する。
「五月!?」
その身体を支えながら征嗣は慌てて名前を呼んだ。すると五月はすぐに目を開けて征嗣を見る。
「ごめんなさい‥少し眩暈がして‥」
「大丈夫なのか?」
「もう‥平気‥」
もう一度、征嗣に寄り添いそう言うと五月は微笑んだ。征嗣はホッとしたようにもう一度、五月に口付けようとしたが言いようの無い違和感を覚え、軽く頬に口付けまた抱き締めた。五月は嬉しそうに征嗣の温もりを感じながらまた目を閉じる。
「そろそろ休もう‥身体が冷えて来ている」
「はい」
五月を支えるように立ち上がりながら征嗣が言うと五月は微笑んで返し、その答えに征嗣の動きが止まった。そして五月をジッと眺める。
「どうかしたの?」
五月も征嗣を眺めて聞き返すが征嗣は答えずただ五月だけを見ていた。
「五月をどうした?」
動揺の色を浮かべ征嗣が聞くと五月は征嗣にそっと寄り添う。
「此処に居ます」
そう答えた五月の身体を征嗣は引き離した。
「違う‥お前は初代・殺鬼だ
五月を何処へやった?」
征嗣が険しい表情でそう言い放つと五月は嬉しそうな顔で涙を浮かべる。
「ああ、やはりお解り頂けた
貴方ならきっとすぐに気付いて下さると思っておりました」
「そんな事より五月はどうしたと聞いている!?」
微笑んで言う五月の身体を乗っ取った初代・殺鬼に征嗣は詰め寄った。
「さぁ?どこぞへ行ってしまいましたので存じ上げません
心配せずともいずれ何処かに生まれ変わる事もありましょう
この身体は本来、私の物‥それはあの者等から聞き及んでおられるでしょう?
先の魂は私の想いに引きずられていただけの借り物の人格ですから貴方が気にかける必要はありません
それにこの際、そのような事はどいうでも良いでしょう?
仮初の身代わりなどではなくもう此処にこうして本物の私が居るのですから‥」
初代・殺鬼はそう言って苦笑する。まるであの頃に戻ったようなやり取りに征嗣は頭が真っ白になった。そう、征嗣が何かと熱くなると初代・殺鬼は何時もこうして惚けたり言い聞かせるようにしながら最後にはこの笑顔で押し切って来るのだ。本物の初代・殺鬼が目の前に居る。その事実に征嗣の目から自然と涙が溢れてきた。
「貴方の傍に居てずっと貴方を見てきました‥そして今も変わらず私を愛して下さっている想いを知りました
私はこんなにも愛されて来たのだと‥ずっと私と同じように大切に愛して下さっていたのだと‥」
初代・殺鬼はそう続けて征嗣の涙を拭いながら微笑んで自分も涙を溢す。昔と変わらないその愛しい表情に征嗣は初代・殺鬼を抱き締めた。
「ずっと‥この時を待ち侘びて参りました」
初代・殺鬼は抑えきれない想いにそう呟くと征嗣の温もりを噛み締めるように抱きしめ返す。二人の中をかつての思い出達が駆け抜けていき、想いを募らせた日々が二人の内に蘇ってきた。
「引佐‥五月を返してくれ‥」
初代・殺鬼を抱き締めたまま征嗣がそう呟くと初代・殺鬼は一瞬、征嗣を抱き締める手に力を込めたがそれを緩めて身を離す。
「どうして?
私の方が貴方を愛しているのに‥」
俯いたまま初代・殺鬼は訴えると身を震わせた。空気が怒りに満ちてゆく。
「ずっとお前を愛して来た‥それは今も変わらない
でも五月を愛するようになって分かった
お前に抱いてきた愛情は恋愛とはまた別の場所に在るモノだったんだ」
征嗣は優しい口調で諭すように言ってもう一度、初代・殺鬼に手を伸ばすがその手は振り払われた。
「違わない、私と同じように貴方も私を愛しいと仰って下さった!
このような低俗な者に心揺らされるなど‥そんなにあの者が良いのですか?
ずっと貴方を慕ってきた私よりも‥」
震える声で言いながら顔を上げ、初代・殺鬼は先程までの表情と一変して征嗣に恨めしそうな視線を向ける。
「どちらかという訳ではなく愛情の種類が違うんだ
俺達の間に在るのは行き過ぎた親子の情‥俺は長年それを恋愛におけるそれだと誤認して来た
だが、五月を好きになってそれが親子の情であると理解出来た‥きっとお前にだって分かっている筈だ」
征嗣は必死に訴えかけるがそれを聞くとまた初代・殺鬼は顔を伏せた。
「分かりました‥この魂は私が消滅させます
そうすれば貴方はもう一度、私だけを愛して下さるのでしょう?」
そう返すと初代・殺鬼は自分の胸に手を置いて爪を立てる様に握り込む。その瞬間、初代・殺鬼はカッと目を見開いて吹き飛ばされるように真横に飛んだ。
「ったく‥冷や冷やさせんなよ」
「すみません‥想定外の事が起きたので‥」
五月の居た場所に明希が現れそう言うと少しずれた位置で五月の身体を支えながら東條は苦笑する。
「どうして‥」
そして東條と五月の向こうに初代・殺鬼が顕現していてそう呟いた。それを見て征嗣は混乱したまま呆然となる。
「五月!起きなさい五月!」
まだ目覚めない五月に東條は呼びかけるが目を開けない。顕現した初代・殺鬼は東條と五月に襲い掛かろうとするが明希がそれを阻止する。
「ぼさっとしてんなよ!
早く五月を起こしてこいつを狩れ!」
明希が怒鳴るとようやく征嗣は正気に戻って東條と五月の傍へ駆け寄った。その間、明希は庇うように初代・殺鬼と対峙して攻撃を受け流す。明希が攻撃してもやはり鬼となった初代・殺鬼には届かない。その癖、初代、殺鬼の攻撃は明希には有効だった。
「初代・殺鬼に一度、身体を奪われたので魂と肉体のリンクが切れてしまったんです
私がガードしていたのでまだ肉体に魂は留まっていますが早くリンクさせなければ肉体から乖離してしまう」
東條がそう言うと征嗣は五月の身体を抱き締め心の中で名を呼んだ。
数分前、意識を失った五月の意識はというといきなり現実世界から夢の中へ引き込まれていた。
〈え?何、此処‥まだ僕、眠って無いのに‥〉
そう思いながらひたすら焦っていると背後に気配を感じて咄嗟に振り返った。其処には自分が立っている。
「どうして?
僕の方がずっと彼を好きなのに‥」
少し俯きながらもう一人の自分がそう言った。
「所詮、お前は身代わりでしか無いのに‥」
「身代わりなんかじゃない!
先生はちゃんと僕を見てくれてる
僕を好きだって‥初代・殺鬼じゃ無く僕を愛してるって言ったんだ!」
顔を上げ、続けてそう言った自分に五月は言い返し、お互い睨み合うように対峙する。
「そう思いたいだけでしょ?
それに他の男と寝てる癖に偉そうな事言わないでよ
気持ち良ければ相手なんか誰だって良かったんでしょ?
本当は彼だって軽蔑してる‥でも僕と同じ容姿だから我慢してるだけなんだ」
「そんな事無い!」
薄ら笑いを浮かべるもう一人の自分に言われ五月は反論しつつも動揺してしまい思わず視線を逸らせてしまった。東條のお守りのお陰か五月の意識はしっかりしていて目の前の自分が初代・殺鬼である事はすぐに分かったが痛い所を突かれて思わず気持ちが怯んでしまう。
「そんな汚れた身体で彼を穢さないで‥僕の大切な彼をこれ以上、傷付けないでよ」
「うるさい!」
畳みかける様にもう一人の自分がそう言うと五月はぎゅっと目を閉じ、叫びながら耳を塞いだ。その途端、足元が崩れて五月は違う空間に掘り出される。
『五月、早く身体に戻るのです!』
よく分からない空間で困惑していると頭の中で東條の声が響いた。
「戻れって‥いったいどうやって戻るの?」
五月は返すように呟きながら四方を見渡してみたが何処も真っ暗闇で前後左右さえ分からない。足場も無く手を伸ばしても何も触れる事が出来ずに絶望さえ感じた。
「ねぇ!此処は何処なの!?
誰か‥誰か返事してよ!」
思わず叫んでみたが誰からの返事も無い。そんな状況に心が折れそうにはなったが五月は一つ息を吐いて気持ちを落ち着けると目を閉じ集中する。すると一方向から淡い暖かさを感じてそちらへ向かうよう意識を向けた。どんどんその温かさは強くなりハッキリ感じとれるようになると目を開けて確認する。目の前には光が見えて五月はその光に向かって手を伸ばした。
「五月!」
自分の名を呼ぶ征嗣の声が聞こえる。五月はその声に導かれるようにそのまま光の中へ飛び込んだ。
「ぎゃぁあぁぁぁっ!」
明希の隙を突き、東條達に襲い掛かった初代・殺鬼は腕を切られて叫びながら後方へ飛ぶ。気を失っていた五月は何時の間にか目覚めていて征嗣から取り出した黄泉媛の太刀を構えていた。その様子に明希達は胸を撫で下ろす。
「ごめん、先生、東條さん‥ヘマして出遅れちゃった‥」
刀に付いた血を払うと五月は立ち上がってそう言った。
「遅ぇよ‥」
「少し焦りましたがもう大丈夫そうですね」
「ご心配かけてすみません」
明希はそう言って血塗れでへたり込み、東條が聞くと五月は申し訳無さそうに返す。
「大丈夫か?」
「うん、切れるよ」
征嗣はそう言うと初代・殺鬼に向かい合いながら鬼へと変化し、五月はその隣に立って短く答えた。腕を切られた初代・殺鬼はそんな二人を恨めしそうに睨み付け、鬼に変化する。
「どうして‥どうしてこの私を‥
愛していると仰って下さったのに‥大切だと言ったのは偽りだったのですか?
それほど私よりその者が大切なのですか!?」
涙を流しながらそう言った初代・殺鬼に五月は刀を振るう。もう何も迷いはなく、五月の心はただ目の前の鬼を狩る事に集中していた。初代・殺鬼は五月に敵意を剥き出しながらもその攻撃を冷静に受け流す。繰り返される攻防。
だが怒りのせいで僅かな隙が出来てしまい五月はそれを見逃さなかった。首を落とそうと太刀を振るう五月に初代・殺鬼は後方に飛んで首の皮一枚でそれを交わし、五月は予測していたその動きにすぐ対応し、次の攻撃として胸を貫こうと踏み込む。
その刀身は鬼を捕らえ、五月は目を見開いた。そして震えながら刀から手を離しその場へ座り込む。初代・殺鬼は二人の間に入った征嗣と共に征嗣の中にある刻印ごと黄泉媛の太刀で貫かれていたのだ。
「すまない五月‥お前を‥お前だけを心から愛している
でも‥引佐は大切な‥俺の息子なんだ‥一人では逝かせられない」
五月に背を向けたまま言って泣きそうな顔で微笑み、征嗣は鬼となった初代・殺鬼を抱き締める。初代・殺鬼は征嗣と共に刀に貫かれたまま鬼の姿から子供の姿に戻り、満足そうに微笑んだ。
「父上‥大好き‥」
引佐に戻った初代・殺鬼がそう言うと二人は空気に溶けるように消し飛んで太刀だけがその場に残される。
「あ‥あああ‥あぁー‥」
五月は声にならない声で泣き叫ぶ。明希と東條は言葉も無くただ五月のそんな姿を眺め続けた。
五月が泣き疲れて意識を失うように眠るとようやく明希は五月の身体を抱き上げて結界の外へ向かう。其処には涼音が心配そうに待っていた。そして涼音に導かれ五月を用意していた別室へ運び込んで寝かせる。
「悪いがこいつを暫く頼むな‥」
「はい、それよりお二方もお疲れでしょうから休まれて下さい」
「俺たちゃ慣れてるから心配ねぇよ
それより屋敷を留守にするとあいつがうるせぇから帰らねぇと‥」
「そうですね、智裕様によろしくお伝え下さい」
「ああ、じゃぁな」
朝陽に染まる景色を眺めつつ明希は涼音にそう言い置くと東條と屋敷へ戻って行った。
数日後、五月が目覚めると傍に涼音が居た。
「お目覚めになりましたか?」
躊躇いがちにそう言った涼音を少し見てから五月はまた視線を天井に戻す。自然と涙が溢れた。涼音はそんな五月の涙を拭いてやったが五月は何の感情も言葉も表さず泣き続け、そしてまた意識を失うように眠りに就いた。次に目覚めてもやはりそんな状態で食事も口にせず五月はどんどん衰弱していく。
「何かお召し上がりになって下さい
でないと身体がもちません」
涼音はそう言って五月の身体を起こして重湯を食べさせようとするが五月は抜け殻のようにただ涙を流し続けるだけだった。涼音は手にした蓮華を置くとまたそんな五月の涙を拭いてやる。
「初代・殺鬼より僕を愛してるって言ったのに‥」
ようやく五月はそれだけ呟いた。
「ならばちゃんと生きなければ‥五月さんは大切な方の想いを受け取る事が出来たのですから‥」
涼音は慰めるように微笑んでそう返し、また蓮華を五月の口元に持って行く。涼音の言葉に動かされるように五月はそれを口にした。
涼音のお陰で少しずつ己を取り戻す事が出来た五月はようやく自宅へ戻る。もう年は明けていて神社は落ち着きを取り戻していた。
「ごめんなさい‥帰るの遅くなって‥」
自宅に戻ると五月は力無く祖父母にそう挨拶する。
「事情は聞いておる‥構わんからお前は暫く休んでなさい」
咲衛門はそう言うと社務所の方へ向かい、祖母が五月を気遣うように部屋まで付いて来る。
「食べたい物は有る?」
部屋まで来ると祖母が優しく聞いたが五月は無言で首を振った。その様子に少し戸惑いながら祖母は部屋を後にする。五月は疲れた様子でベッドに突っ伏すと目を閉じた。
その数日後、東條が五月を訪ねて来る。
「すみません、まだ依頼を受ける気にはなれなくて‥」
五月はそう言いながら東條にお茶を差し出した。祖父母はもう既に社務所に出向いていて自宅には五月しか居ない。
「今日は個人的な所用で伺っただけで依頼に来た訳ではありませんよ」
微笑みながら返し、東條は出されたお茶を一口頂く。五月は東條の前に腰を下ろすと何の用事だろうかと次の言葉を待った。
「本日はもうそろそろこれを渡しても良い頃だろうと伺いました」
そう言って東條が手紙を差し出すと五月はそれを手に取る。見覚えのある字で「五月へ」と書かれたその封筒に五月の手が震えた。暫く眺めてから五月は意を決して封筒から手紙を出して読み始める。
五月へ
これを読んでいるという事はもう俺はお前の傍には居ないと思う
でもどうか悲しまないで欲しい
俺は引佐と共に必ず輪廻に乗る
例え鬼として死すとも決して消滅などしない
だからもう一度、始めから恋をしよう
お前は今生で涼音殿を大切にして役目を終えて欲しい
そしてお互い生まれ変わったら今度は誰にも遠慮せず恋をしよう
俺はその時まで未来で待っている
五月、愛している
永藤征嗣
その手紙を読みながら五月はまた涙を流し、読み終えると手紙を抱き締めた。
「彼等が無事、輪廻に乗った事は確認して参りました‥貴方との約束を守ったのです
貴方はどうしますか?」
東條が優しく微笑んで聞くと五月は涙を拭う。
「だったら僕もちゃんと生きなきゃ‥じゃないとまた先生に小言を喰らっちゃいますから‥」
五月は泣きながら微笑んでそう返した。東條はその笑顔に五月の心が立ち直った事を確信する。そして東條が神社を去ると五月は手付かずにしていた征嗣の部屋へ行き荷物を片付け始めた。
それから数ヶ月後、以前にも増して精力的に表裏の仕事をこなしていた五月の元へ訃報が届く。
「え?三上様が?」
五月はその知らせに何もかも掘り出して朱雀王子家に向かった。既に亡骸は処分されていて小さな骨壺と遺影だけが神楽殿へ設えられた祭壇に置かれている。五月はその光景に呆然となった。その場に居た眷属が簡単に状況を説明していたが全く耳に入らない。それと同時に涼音の事が気になって気付けば鳳凰院家へ向かっていた。五月が鳳凰院家を訪れると涼音は何時も通り玄関先まで出迎えてくれる。
「突然、お越しになるなんてどうなさったんですか?」
何時もと変わらぬ笑みで涼音がそう言うと五月は周りも気にせず涼音を抱き締めた。
「僕の前でまで無理しないで‥」
五月が泣きそうな顔でそう言うと涼音は堪えていた緊張の糸が切れたように五月にしがみ付いて泣き出す。五月はただそんな涼音を抱き締め続けた。
「申し訳ありません‥みっともない姿をお見せしてしまいました」
暫くして涙を収めると涼音はそう言って身を離す。
「僕がどうしようもなかった時、涼音さんが支えて下さいました
だから今度は僕が涼音さんを支えます
もう我慢しないで下さい‥家柄も役目も今は忘れて下さい
もしそれで攻めを受けるというならば僕が全て請け負いますから‥」
そう言うと五月は涼音の手を取り口付けた。そんな五月の態度に涼音はまた泣きそうになったがグッとそれを堪える。
「はい‥ですが此処ではちょっと‥」
涼音が無理くり苦笑すると五月は居た堪れないような眷属達に気付く。まだ此処は玄関先であり大勢の眷属が二人を囲んでいた。五月は苦笑いを浮かべて涼音に導かれ部屋へ向かう。一頻りの泣き言と涙を引き受けながら五月は涼音と共に明希の死を悼んだ。
そしてその翌年、明希の喪が明けるとすぐに五月は涼音と結婚する。表の顔を取り繕う為に普通の結婚式をした。それから翌年には子供を設ける。五月と同じ五月生まれの子であったが名前は涼太と名付けられた。五月が27歳を無事に迎えた事と曾孫の誕生に安堵したのか咲衛門はその二年後に亡くなる。そして翌年には祖母もその後を追うように亡くなった。
とある日の仕事上がり、五月は長堀に呑みに誘われ二人でバーへ出向く。
「ねぇ、僕も慰めてよ」
「そうですね、僕を潰せたら良いですよ」
夜も深くなり酒も周ると長堀がそう言って五月に凭れ掛かり、五月は返してグラスを空けた。あれから何度かこうして長堀に誘われて呑みに行く機会はあったが五月はもう長堀とは寝ていない。正確に言うと征嗣と明希を失ってから一切、人前で酔う事は無くなった。
「この前もその前も朝まで呑んでたのに潰れてないよね?
お酒‥強くなった?」
「まさか‥今でも時々潰れますよ」
「でも他の人ならともかく僕と呑んでも潰れないじゃん?」
「潰れないんじゃなくて人と呑む時は極力、セーブしてるんです
長堀さんと違って僕はお酒、強く無いんで‥それじゃあ、僕はそろそろホテルへ戻りますね
朝一の電車を予約しているので帰って荷物を纏めて出ないといけないので‥」
「え?もうそんな時間?」
長堀は少し驚きながら壁の時計を見る。時刻はもう朝の4時前を指していた。よく考えてみれば何時もは水のように呑んでもほろ酔いにさえならない自分がほろ酔いになっている時点で相当、呑んでいた事になる。しかし五月はまだほろ酔い程度であった。これだけ呑めば何時もなら五月ももう少し酔いが回っている筈である。
「後、1時間は良いじゃん?
多少、帰る時間が遅れても神社の留守番はもう居るんでしょ?」
「ええ、一人じゃ鬼狩の仕事まで手が回らないので分家から応援で宮司見習いとして一人来て貰ってます
でも、早く帰って子供達や涼音さんに会いたいので‥では、ご馳走様でした」
長堀がぐずると五月は苦笑しながら惚気て席を立ち、店を出て行く。長堀はそれを見送ると溜息交じりに会計を頼んだ。店員が会計金額を告げると長堀はその金額に疑問を抱く。
「ああ、お先に帰られたお客様は三杯目からノンアルを挟んでらしたので‥」
長堀が聞くと店員はそう返してからおつりと領収書を長堀に差し出した。長堀は領収書を見ながらまた溜息を吐く。
「昔は馬鹿正直に吞んでた癖に‥誰かさんに似て狸になっちゃって‥」
寂しげに笑うと呟き、長堀も店を後にした。
それから数十年が過ぎた五月雨神社。五月は社務所を出て自宅に駆け込むと鬼の形相で広間の襖を開ける。
「またサボっておるのか源也!」
寝そべりながらゲームをする少年にそう怒鳴ると源也は飛び起きた。
「いや‥腹が痛くて休んでただけだってば‥」
「ほぉ‥腹が痛い割には旺盛な食欲じゃな?」
源也がゲームを隠しながら言い訳をすると五月は目を細め、座卓の上に食べ散らかされた食器を見てそう返す。
「全く‥明日には龍王院家へ挨拶に行かねばならぬというのにこの為体‥もう少し藤森の跡取りとしての自覚を持ちなさい」
「そんな事言っても俺、まだ実感無いんだよなぁ‥爺ちゃんまだまだ元気なんだし引退早過ぎるんじゃね?」
溜息交じりに言って五月が頭を抱えると源也は苦笑しながら答えた。
「默らっしゃい!
良いか、この藤森家は由緒正しき‥」
五月が説教を始めると源也は嫌そうな顔で大人しく聞くがもう耳にタコ状態で延々に続く藤森家の話に溜息を吐く。
「お説教はその辺にしてお茶でもどうですか?
源ちゃんも明日は大事な日だからちゃんと準備しなくちゃダメよ?」
「婆さんが言うなら今日は此処までにしておこう‥」
涼音がニコニコしながら襖を開けてそう声をかけて来ると五月は咳払いしながら返し、頬を染めた。
「婆ちゃんサンキュ」
源也はそそくさと部屋を出しなに涼音にこっそりそう言うと涼音は小さく頷く。
「全く‥婆さんは源也に甘過ぎる」
「ふふ‥でもお爺さんこそよく咲衛門さんに叱られておいででしたでしょ?
何だか二人を見ているとあの頃を思い出しますよ」
困ったように溜息を吐いて五月が言うと涼音は笑いながら返し、お茶と茶菓子を座卓の上に置いた。それを言われると五月は言葉も無い。五月はもうあの時の祖父と同じ年齢になろうとしていた。
「それよりそろそろ双葉達が来る頃ですからご用意された方が宜しいですよ」
「ああ、そうであったな‥今日は夜間に橘家から見習いも来るそうだから休む前に夜食を用意してやってくれんか?」
「はい、結界も張っておきますね」
そう話すと五月は広間を出て行く。
あれから二人の息子は立派に成長し、今は鬼狩をメインとして仕事に出ている。五月は引退こそしたが宮司仕事の傍ら、後進育成の為に素質のある子共を本家と分家の区別無く教えているのだ。孫の源也は兄の光也に続き明日、龍王院家へ成人の挨拶に出向いた後、五月も通った陰陽師の学校に入る手筈になっていた。
五月は咲衛門が亡くなった後、基礎の部分を除き大幅に一族を改革し、優秀な者は身分を問わず学校へ入れるようにして陰陽術式を積極的に学ばせる。そしてその才のある者は鬼狩ではなく陰陽師として龍王院家に出仕させた。そうする事で陰陽師との婚姻も増え、その中からも鬼狩の資質を持つ者が多く出れば少しでも鬼狩の負担が減ると考えたのである。
更に10年が過ぎ、五月は息子や孫達、そして曾孫に囲まれながら息を引き取ろうとしていた。
「・・・・」
「何?爺ちゃん‥」
五月が譫言の様に口をパクパクさせると源也がその口元に耳を寄せる。
「引き出しの‥奥‥手紙‥儂と‥っしょに‥燃やして‥く‥」
何とかそれだけ聞き取ると源也は何度も頷いた。すると五月は安心したように大きく一つ息をして微笑みながら身体の機能を停止させる。五月の死を看取るとそれぞれ涙に暮れた。
葬儀の日、源也は五月の部屋を訪れるともう居ない部屋の主を想い項垂れる。一人前になっても顔を合わせる度に反発して喧嘩ばかりしていたが一番、可愛がられている自覚はあったので尚更、別れは辛かった。
〈確か手紙がどうとかって言ってたな‥〉
暫くそのまま動けずに居たが源也は最後の言葉を思い出し五月の書棚の引き出しをごそごそ探り始める。何処にも手紙らしき物は見つからず最後に何時も使っている座卓の傍にある引き出しを探した。
〈こっちは普段使いの物しか入って無い筈だけど‥〉
筆記用具や小物類の入った引き出しを順番に見ていくと一番上の引き出しの一番奥に一通の古びた封筒が大切に仕舞われていた。
〈此処に入れてるって事は普段から読み返してたって事か?
もしかして婆ちゃんからのラブレターとか?〉
「五月へ」と書かれた封筒を取り出すとその傷み具合に少し苦笑する。二人の仲の良さは子供や曾孫に至るまで承知していたし去年、涼音が亡くなると一気に弱っていった五月にこの日の覚悟さえ皆は出来たくらいだ。源也は封筒を開けると手紙を出して読み、最後に書かれた永藤征嗣という名に固まった。「さつき」達の手記に出てきた名であり五月が葬った己の使役鬼の名である。その内容に昔、涼音が話してくれた人物の記憶が蘇ってきた。
今よりもっと反抗的だった幼い頃の源也は氏子と酒盛りをして酔い潰れた五月をこき下ろした事がある。しかし涼音はそれを宥めるように困ったような笑顔でこう言ったのだ。
「お爺さんにはね大好きな人が居たのよ
だから偶にこうして思い出すと今でも辛くなっちゃって潰れるまで呑んじゃうの
それでもお婆ちゃんをずっと大事にして下さってる優しい人なのよ」
そう言って幸せそうに微笑みながら五月に毛布を掛ける涼音が印象的だった。これはその相手からの手紙だとすぐに察しがつく。
〈爺ちゃんもいろいろあったんだな‥それにしても婆ちゃん心広過ぎだろ‥相手、男じゃん〉
複雑な表情でそう思うと源也は手紙を封筒に仕舞い、ポケットに捻じ込んで部屋を出た。そして出棺間際に誰にも見られないようこっそり手紙を棺桶に入れる。
〈頼むからあの世で喧嘩すんなよ〉
そう祈るように手を合わせ、源也達は五月との最後の別れを終えた。
エピローグ
それから更に十数年、人々が宇宙へ進出し、世の中がキナ臭くなり始めた頃、そんな事情とは関係無い場所での出来事。
一人の青年が都会の喧騒から逃げるようにこの田舎町へとやって来た。青年は最寄り駅でバスの時刻表を眺め溜息を吐く。
「この辺りのバスならあと2時間は来ないよ」
バス停傍にあるいろんな物を売っている雑貨屋というか何でも屋という感じの店の中年女性が打ち水をしながらそんな青年に声をかけてきた。
「そうなんですか?」
「この辺りの人間は殆ど車かバイクだからねぇ‥利用者が少ないから本数もないのさ」
青年はそれに返しながら答える女性に歩み寄る。それならば時間潰しに少し話そうかと考えたのだ。
「じゃぁ、少し水分補給でもしていこうかな‥」
そう言うと店先の冷蔵庫を覗き込む。数種類ほどしか無いが思わず何を飲もうか悩んだ。そしてふと隣の冷凍庫にアイスがあるのも見え、青年は炭酸飲料とアイスを取り出して会計をしながら話す。
「見ない顔だけど旅行か何か?」
「いえ、お爺さんが亡くなって空き家になったから暫く片付けを頼みたいって知人に言われて‥」
「ああ、池田のお爺ちゃんの事ね‥もしかして政彦君のお友達?」
「政彦さんじゃなくて妹の美弥さんの後輩なんです
先輩のお爺さんとお知り合いだったんですか?」
「小さい町だから皆、親戚みたいなもんだわね‥政彦君や美弥ちゃんの母親は私の同級生だしね」
「え?そうなんですか?」
「そうよ‥そう言えばあそこら辺は今、奥に出来たリゾート村のお陰で若い人が入って来てるって役場の人が言ってたわね
政彦君達も戻って来るのかしら?」
「そうみたいですよ
片付けてリノベーションして事務所兼住宅として使おうって話になってるみたいですから‥政彦さんは仕事でまだこっちに来れないみたいですけど僕の他にも来月、何人か手伝いに来るって言ってましたし‥」
青年が飲み食いを始めながら話し出すと女性は店の奥から椅子を二脚持って来て座るよう促しながら二人で話し込んだ。いろいろ話している内にあっという間に時間になりバスがやって来る。
「じゃあ、美弥ちゃんに鮎川のおばさんが宜しく言ってたって伝えておいてね」
「はい、あ‥いろいろご馳走様です!」
女性が見送りながら言うと青年は話し込むうちに貰ったいろいろな物が入ったビニール袋を掲げ、礼を言ってバスに乗り込んだ。30分ほどバスで走った先に目的の家が在る。
「家の前がバス停とか田舎って感じ‥」
思わず呟いてしまうくらい何も無い場所であった。左右を見渡すと離れた所に隣家が見えるが人が住んでいるかどうかも分からない。青年はバス停横の道を入って奥の家屋を目指した。塀などは無く、車が数台停められそうな空き地の向こうに母屋と離れっぽい平屋の建物がドンとあるだけだ。
「えーっと‥鍵、鍵‥」
母屋の前に立つとポケットから鍵を探す。
「あれ?ポケットに入れなかったっけ?」
青年は少し焦りながらリュックを降ろしてその中も探すが預かった鍵が見つからない。何処に入れたか暫しフリーズして考える。
「あ‥送った荷物に入れたウエストポーチの中だ‥」
絶望的な気分でそう呟くと天を仰いだ。青年は途方に暮れると電話を取り出し、件の美弥という先輩に連絡を入れた。
『あははー‥やっぱ五月は天然だねー
良いよ、お兄ちゃんの友達が近くに居るから迎えに行って貰うわ』
「すみません」
美弥が笑い飛ばすと五月は申し訳無さそうに返し電話を切る。そして待つ事30分。日陰に居ても目が眩みそうな暑さの中で五月はお茶も買って来るんだったと後悔した。
〈どれくらいで来てくれるのかな?
このままじゃマジで溶けちゃうよ〉
五月はそう言えばさっき貰った物の中にきゅうりがあったのを思い出し、それを出して齧り始める。
〈青臭いけど瑞々しくて美味しいな‥出来れば塩も欲しかった‥〉
ぼりぼりキュウリを齧りながら晴天の空を眺めた。少しピークを過ぎた頃、一台の軽トラがバス停の方から空き地に入って来て停まった。
「君が篠村五月君?」
「あ‥はい」
軽トラから身を乗り出し一人の青年が聞いて来ると五月は返しながら軽トラの方へ駆け寄る。
「遅くなって悪かった‥買い物で街の方まで出ててな‥
うち、あそこに見える家なんだが其処まで来てくれるか?」
「はい‥分かりました」
青年がそう言うと五月はその家を確認した後、助手席に座る小学校の中学年くらいの子供を見て返事をする。軽トラが行ってしまうと五月はそれを追うように荷物を持って歩き出した。始めは安心感から足取り軽く進み出すがどんどん足が重くなっていく。対象物が無く近く見えていたのだが歩くと殊の外、距離があって到着する頃には汗でシャツはびっしょり濡れていた。
家の庭先に先程の軽トラを見つけてホッとしながら玄関でインターホンを押す。すると横の掃き出し窓が開いて先程の青年が顔を出した。
「玄関は開いてるから勝手に入って来てくれ」
青年がそれだけ言うとすぐに引っ込んだので五月はお邪魔しますと言いながら玄関を開けて中に入る。外観も内装も新築というほどでは無いがまだ建って数年といった感じだ。廊下を行くと左右にドアが有り、手前の方にあるドアが開いていて五月は中を覗き込む。
「暑かったろう‥一先ず麦茶でも飲んでくれ」
そう言いながら青年がポットからグラスに麦茶を入れ、五月は会釈しながら入って辺りを見た。どうやらダイニングキッチンのようで家具は余り無く、シンプルながらきちんと整頓されている。恐らくカウンターの向こうがキッチンなのだろうが見える範囲に余分な物は見当たらない。
「お邪魔します‥すみません、ご迷惑をおかけしてしまって‥頂きます」
五月はそう言いながらリュックと荷物を傍に置き、促されるまま席に着くと麦茶を頂く。
「美弥の後輩なんだって?
君も頭が良いんだな‥あいつは元気でやってるのか?」
「あ‥はい、元気です
というか後輩としてはもう少し落ち着いて欲しいですけどね」
「はは‥相変わらず周りをひっかきまわしてるんだな‥それで卒業後はどうするって言ってるんだ?」
「もうすぐ月の研究室へ見学に行くって言ってました
卒業後はそちらへ勤められるように教授に希望を出したそうです」
「そうか‥それじゃぁ、きっと政彦が寂しがるな‥」
話しながら青年もグラスに麦茶を注いでそれを飲みつつ席に着いた。
「そう言えば自己紹介がまだだったな‥俺は政彦と美弥の幼馴染で小野正嗣だ」
「堂島先輩の後輩で篠村五月です」
二人はそう自己紹介すると微笑み合う。
「そう言えばお子さんいるんですね
奥さんはお留守なんですか?」
先程の子供の事を思い出し、五月が聞いた。
「ああ、あいつは姉貴の子供で今、預かってるんだ
姉貴は火星航路のCAやってて旦那は月で整備士やってるから二人とも地球を離れてるんでな‥中学になるまでは地球で育てたいからってこいつだけこっちに残ってるんだよ
まぁ、人見知りが酷過ぎるってのもあるが俺もこっちの方があいつの為には良いと思ってる‥俺は独身で気楽だしあいつも俺に懐いてるからこうやって一緒に暮らしてるんだ」
「そうなんですね‥うちも両親が一昨年、火星に移住しましたけど卒業するまでは地球に居なさいって置いてかれましたよ」
そんな話から互いの事をいろいろ話していると五月は寒気を覚える。濡れていたシャツが冷房で冷え切ってしまったのだ。
「寒いか?」
「汗でシャツが濡れてたんで冷えてきちゃって‥すみません、ちょっと着替えさせて下さい」
くしゃみをすると征嗣が心配そうに聞いたので五月は慌ててリュックから着替えを探す。
「あれ?こっちに着替え入れてなかったっけ?」
五月はごそごそリュックを漁りながら慌てた。短パンや下着は二枚ずつあるのにシャツが一枚も見当たらない。
「あ‥あの袋にシャツを5枚入れてたんだ‥」
五月は汗対策で余分にシャツを纏めて袋に入れ、リュックでは無くそのまま段ボールに突っ込んだ事を思い出した。
「どうした?着替えが無いのか‥」
「実は‥」
征嗣が聞くと五月は何故、美弥が征嗣に連絡を入れたのか理由を説明した。
「はは、そういう事なら荷物が届くまで此処に居れば良い
配送会社には連絡しておくから‥」
「重ね重ね、すみません」
「構わんよ
とりあえずシャワーを浴びて着替えると良い‥俺のを貸すから荷物が届くまでそれで我慢してくれ」
征嗣が笑いながらそう言うと五月は申し訳無さそうに返す。そして浴室に案内して貰うとシャツとバスタオルを借りて着替えた。
「すみません、お風呂ありがとうございました‥」
風呂から出ると五月はまたリビングに戻って来て声をかける。するとさっきの子供が五月を見て慌ててキッチンの方へ引っ込んだ。
「上がったのか?」
五月の後からリビングに入ってきた征嗣が聞くと五月は驚いて振り返る。
「はい、ありがとうございました
使ったバスタオルは何処に置いておけば良いですか?」
「洗濯機に着替えた物と一緒に掘り込んでおいてくれれば洗濯する
それよりスイカを切るから一緒に食べよう」
「ありがとうございます」
五月が聞くと征嗣は小振りなスイカを見せながら言った。五月は少しキッチンを気にしながらもう一度、浴室の方へ戻り、着替えた物とバスタオルを脱衣所の洗濯機の中へ掘り込んだ。再度リビングへ行くと先ほどの子供がテーブルに切り分けたスイカを並べていて五月を見てまた慌ててキッチンへ引っ込む。しかし征嗣がそんな子供を連れてキッチンから出てきた。子供はモジモジしながら征嗣の後方で五月を見ている。
「ほら、五月兄ちゃんだ、挨拶は?」
征嗣が言うと少しだけ恥ずかしそうに会釈した。
「初めまして、篠村五月です
お名前聞いて良い?」
五月は視線を合わせるように少し屈んで微笑みながら聞く。
「大蔵‥引佐‥」
「引佐君、少しだけお世話になるんで宜しくね」
恥ずかしそうに消え入りそうな声で引佐が言うと五月はそう答えてニコニコした。すると引佐は小さく頷き征嗣の後ろに隠れる。
「すまんな‥人見知りが激しくて初対面の人間には何時もこうなんだ」
「可愛いですね、僕も同じ年の頃は人見知りだったんで気持ちは分かりますよ」
申し訳無さそうに言う征嗣に五月は返して微笑んだ。そして三人でスイカを食べながらあれこれ話す。引佐は話を振っても短く返すだけで五月はその度に苦笑した。征嗣は宇宙船の設計技師で主に図面を書いているらしくリビングの前にある部屋は仕事部屋らしい。此処は引佐の両親が結婚当初に建てた家だが二人の職場が宇宙なので引佐が産まれて数年しかまともには住んでいなかったらしく、都会で仕事をしていた征嗣が勿体無いからと引佐の面倒を見る条件で此処へ移り住んだそうだ。
五月はというと両親がゴリゴリの学者夫婦で小さい頃から本や研究資料に接してきたせいか通常の学校では物足りなくて高校へ入学してすぐに両親の知人が勤める大学へ飛び級で転入した。所謂、天才と言われる部類の人間である。そのせいで周りから浮いてしまい休みがちになっていた所を可愛がってくれていた先輩の美弥が気分転換になるだろうと祖父の家の掃除を任せたのだ。
「通りで美弥の後輩って言う割には若そうだと思った‥じゃぁ、今はまだ17歳くらい?」
「いえ、今年で18になりました‥5月生まれなので‥」
「ああ、もしかしてそれで五月?」
「そうなんです‥単純ですよね?」
そう言って二人で笑い合っていると引佐が無言で立ち上がっていそいそとリビングを出て行く。階段を上るような音を聞くと二階へ上がったようだ。
「もうそんな時間か‥」
それを見て征嗣も立ち上がった。
「何かあるんですか?」
「今日は夏祭りがあるんで友達の家に泊まりに行く約束をしてるんだ
兄弟みたいに仲が良いんでこういうイベントの時はお泊り会が出来るって楽しみにしてるんだよ
ちょっと送って来るから待っててくれるか?
暇ならテレビでも見ててくれ」
「あ、はい」
征嗣はリビングを出てそのまま玄関へ向かい、大きなリュックを背負った引佐が上から降りてきてチラッと五月を見ながら慌ててリビングの前を通り過ぎていく。玄関の開閉音が聞こえると五月は溜息を吐いた。何となくテーブルの方からソファへ移動し、窓の外に広がる緑に心が自然と癒される気がして五月はぼんやりそれを眺めている内に転寝を始める。
良い匂いで目が覚めると五月はがっつり眠り込んでいて慌てて身体を起こした。
「目が覚めたか?
もうすぐ晩飯が出来るから‥」
そう言われてキッチンの方を見ると征嗣がカウンターの向こうで料理をしていて五月は慌ててそちらへ駆け寄る。
「すみません、手伝います!」
「構わんよ
もう盛り付けるだけだ‥」
五月が言うと征嗣は返しながら器に料理を盛り付けていった。
「じゃぁ、僕、運んでいきますね」
「ああ、頼む」
五月が料理の入った皿を持つと征嗣はそう言って次の皿に料理を盛り付けた。そして食卓が整うと二人で料理を食べ始める。
「美味しい‥征嗣さんって料理上手なんですね」
「一人の時は外食ばっかりだったんだが流石に此処じゃすぐに外食って言う訳にもいかんし引佐も居るから必然的にってヤツだ
まぁ、近所の人に教わった田舎料理なんだがな」
「うち、ずっと共働きで何時もメイドさんか宅配弁当だったからこういう料理感動しちゃうんですよね
美弥先輩の手作り弁当とかマジ神ですよ」
五月は感動しながら食べ進め、しかもお代わりまでした。
「すみません‥調子に乗って食べ過ぎました‥」
「はは、そんなに喜んで貰えて嬉しいよ」
五月はお腹を摩りながらそう言うと征嗣は笑う。少しお腹が落ち着くまで談笑して二人で片付けを済ませた。それから次に交代で風呂を済ませ、洗濯物を片付ける。
「室内テラスって良いですね
雨でも洗濯物が干せるし‥」
「何よりこんな田舎だと取り込む時に虫が付いてるからな‥小さい時に懲りて家を建てる時に絶対に必須だって姉貴が譲らなかったんだ」
「征嗣さん達はこっちの出身なんですか?」
「いや、政彦達と同じだ
姉貴が此処へ家を建てたのはあいつらが夏休みや冬休みをこっちで過ごすのに俺達も付いて来てたからでな‥俺達の両親の祖父母はどっちも都会暮らしだったから憧れだったんだよ
どうせ普段は地球に居ないから帰って来た時くらいこういう場所で過ごしたいってな‥」
「何だか気持ち分かります‥のんびりしてて凄く良い所ですよね
僕もどっちかって言うと身内は都会に居るんでこういう事でも無ければ殆ど来る機会無いですもん」
そんな話をしながら洗濯物を干し終えるとまたリビングへ戻って昼の残りのスイカを食べた。
「荷物は明日の昼頃こっちへ届けるそうだ」
「ありがとうございます、本当に何から何までお世話になっちゃって‥」
征嗣がスマホを見ながらそう言うと五月は返しながらスイカを頬張る。
「この後、俺は少し祭りの見回りに行くんだがお前はどうする?
先に休むなら休んでくれても良いが‥」
「あ、お邪魔じゃ無ければご一緒させて下さい
お手伝い出来る事があればさせて頂きます」
征嗣が言うと五月は申し出た。そしてスイカを食べ終わると二人は軽トラに乗って祭りの会場へ向かう。5分も走ると家が増えてきて結構な件数の家が建ち並んでいた。
「この辺は家が多いんですね」
「ああ、駅前とこの辺りで一つの町内なんだがうちは丁度その中間なんで家が少ないんだ
この向こうへ行くともう少し大きな街が在って其処には大型店も有るから普段は其処まで買い物に出るんだ‥ちょっとした物なら駅前に行けば手に入るんだが如何せん種類が無いからな」
そんな話をしていると煌々とした明かりが見えてきて人も多くなってきた。征嗣は祭りの詰め所にもなっている空き地に軽トラを付けると車から降りる。
「征嗣君、悪いね‥そちらが例の政彦君の所の?」
「ええ、美弥の後輩の篠村五月君です」
「こんばんは」
初老の男性が寄ってきて征嗣に聞きながら五月を見る。五月はもう話が回っているのかと少し引き気味に挨拶をした。
「もう引佐達は戻りました?」
「ああ、中学生以下は帰るように言って回ったから‥あと1時間程で出店も閉めるからそれまでは何時も通り高校生が悪さしないように念の為に見て周って‥」
「分かりました」
話しながら警護員用のベストを受け取り征嗣はそれを着る。そして五月を連れて一緒に夜店を見回った。大した規模では無いがそれなりに賑わっている。神社の方からはお囃子が聞こえていて二人はそちらへも行ってみた。
「こういうのって久しぶり‥小さい時にはよく近所の神社に見に行ったけど最近は行かなくなっちゃったから‥夜祭は偶に友達と行くけど‥」
五月はそう言いながら嬉しそうにそれを眺める。篝火に照らされるその表情に征嗣は少しドキッとした。
「そろそろ詰め所の方へ戻ろうか‥」
征嗣が少し口元を隠すように手を置いてそう言うと五月は微笑んで頷く。それから詰め所へ戻って少しその場に居た人と談笑してからたくさんのお下がりを頂いて帰路に着いた。戻って来るともう夜の12時を回っていて二人はもう一度、軽く汗を流して征嗣の部屋で床に就く。
「そっちのベッドを使ってくれ‥俺はこっちで寝るから‥」
「それはダメですってば!
お邪魔させて貰ってるんですから僕がそっちに寝ます!」
征嗣は持って来た布団を敷きながらそう言ったが五月は恐縮しながら返す。そして敷き終わった布団を強引に占領した。
「別に其処まで気を遣わなくても良いのに‥」
「お互い様です‥じゃぁ、おやすみなさい」
「おやすみ」
そう言うと二人は眠りに就く。
翌日、起きてすぐ征嗣は畑の収穫に出て行き五月もそれを手伝った。戻って来て朝食を取ってから収穫した野菜を選別する。
「一部は駅前の商店に持ってくんだ」
「あ‥もしかして昨日貰ったキュウリって此処の?」
「うちだけじゃなくってあちこち持ってくから何処のかは断定出来んがな‥鮎川さんの所を中継して彼方此方に配ってる感じだよ」
「そう言えば奥にリゾート村が出来て移住者が増えてるって言ってましたね」
「新参は親戚がこっちに居たり俺達みたいに来た事のある奴が半分くらいと後はリゾートの従業員が主かな‥昨日、行った集落から山側へ行った所にリゾート村があるんであの辺に住めば街へ出るにも便利だからな」
「それで意外と子供も多いんですね」
「ああ、リゾート村が出来て過疎傾向だったのが一気に人口増加したそうだ
今までは駅前の小学校で中学生まで面倒見ていたんだが今は駅前で小学生、集落側の廃校舎を建て直して中学校にしているよ」
話ながら野菜の掃除と選別を終えると軽トラに積んで鮎川の所まで運んだ。そして世間話を少ししてから昼前に戻って来て昼食の準備をしていると荷物が届く。
「あ‥昨日の‥」
受け取りに出た五月は配達員の顔を見て驚いた。昨日、詰め所で最初に見た初老の男性だったからである。
「昨日はお疲れさん
荷物は二個口で良かったよね?」
「はい、ありがとうございます」
男性はニコニコしながらそう言って玄関へ荷物を運んでくれると受け取りのサインを貰って去って行った。
『小さい町だから皆、親戚みたいなものなのよ』
昨日、鮎川が言った言葉を思い出しながら五月はこういう事かと納得する。
「昼を食べたら車で運んでやるからそのまま置いておくと良い」
「はい、そうします」
リビングから顔を出して征嗣がそう言うと五月は荷物をそのままにして戻り、手伝いを再開した。
食事が済んで軽トラで荷物を運んで貰うと玄関先で鍵を段ボールから出して鍵を開ける。
「思ったより綺麗だな‥」
五月は玄関先から中を眺めながら呟くと手にした段ボールを中へ運び入れる。
「爺さんが死んでからも政彦達が細目に来て掃除してるからな‥じゃぁ、俺は戻るが良かったら飯はうちに食べに来ると良い
この辺りは飯屋もコンビニも無いから‥」
「ありがとうございます‥そうさせて頂きます」
征嗣はもう一個の段ボールを置いてそう言うと五月は苦笑しながら返した。そして征嗣を見送ると家に上がってあちこち見て周るついでに片付ける部屋を確認したが余り物が散乱しているという程でも無い。五月はもう一度、美弥に連絡して詳細を確認しながら部屋を周る事にした。
『見た目は物が無いように見えてるけど押し入れに結構、詰まってるのよね‥貴重品は無いし要る物はもう分けたから残ってるのは不用品ばかりなのよ
だから分別してゴミに出しちゃって欲しいの
家具類はだいぶ処分したんだけどまだ残ってるでしょ?
そういうのもいらないから手が空いてたら解体してね
あ、客間の布団は残しといて‥それは去年、私等が使う為に買って入れてあるヤツだから‥他の部屋にある布団はいらないから処分しても良いわ』
だいたい聞いていた通りの指示に五月は確認しながら細かな話を詰めていくと電話を切る。
〈綺麗だと思ったけど実際、確認してくとやる事多いな‥〉
乾いた笑みでそう思いながら客間に段ボールを運んで荷解きをする。美弥達も此処へ来た時はこの部屋中心で過ごすだけあってテレビや必要な家電は全て此処に集約されていた。
〈まぁ、全体的には古いけどトイレやお風呂なんかはリフォームされててバリアフリーで広くて綺麗だったし洗濯機なんかも新しいから快適には過ごせそうだな‥〉
五月は安心しながら荷物を広げて暫く生活する為に自身の小物を配置していく。広い脱衣所にはバスタオルなども揃っていたが持って来た物を使おうと其処へ一緒に並べた。
〈洗剤だけは使わせて貰おう‥〉
洗濯機を見て洗濯洗剤を買い忘れて来た事に気付き、五月はしまったと内心思う。皆が言うようにどうも何処か抜けた所があるとこういう時に自覚して落ち込んだ。
それから一週間、町の人々の距離感が近過ぎて戸惑う事や鬱陶しい事もあったが助けて貰える事も多くて五月はあっという間にこの町の人々と仲良くなっていく。そしてほぼ片付けも済んだ頃、美弥から電話があった。始めは世間話や二人の近況報告から入る。
「ええ、要らない家具やなんかも移住者の方と繋いで貰って引き取って貰えたりしたんで殆ど捨てずに済みましたよ」
『そっか‥その方がお爺ちゃんもきっと喜んでると思う
これでやっとリノベーション部隊を送り込めそうになったわね』
「リノベーション部隊って‥小島先輩達が来るんでしょ?」
『小島達も行って貰うけどメインはお兄ちゃんの会社の取引先の人‥流石に事務所も増築するから本職に入って貰わないと不安だしね』
「ですよねー‥でもそうなると僕、そろそろ出て行った方が良いです?」
『それなんだけど私、明日から月に行っちゃうしお兄ちゃんもまだ忙しくて見に行けないから引き続きあんたが残って皆を纏めて欲しいのよ』
「え!それは無理ですって‥僕に施主の代わりは務まりませんよ」
『そんな大それた事を頼もうと思って無いってば‥お兄ちゃんからの連絡事項とかその周辺の事とか教えてあげて欲しいの‥要は繋役ね
他の皆もその辺は初めてだから先に行ってるあんたがいろいろ教えてあげてよ』
「そう言う事なら‥でも僕もまだあんまり知らないですよ?」
『分からない事は征嗣さんに聞いてくれれば良いから‥その為の繋役でもあるんだし』
「分かりました‥そういう事なら引き受けます」
『あ、それから人数が多くなるからあんたは征嗣さんちで寝泊まりしてね
征嗣さんには連絡してあるから‥』
「え?でもそれって迷惑じゃ‥」
『大丈夫、向こうは部屋余ってるって言ってるし用意もしてくれるらしいから‥じゃぁ、お願いね!』
用件だけ言うと美弥はさっさと電話を切ってしまい五月は少し途方に暮れたが覚悟を決めた。
それから三日後に予定の人員が次々とやって来る。五月は家の状態をあれこれ説明して予定通り征嗣の家の方へ移った。
「俺の部屋の隣を使ってくれ
空き部屋なんで何も無くて悪いが必要なら下の倉庫にしてる部屋に簡易テーブルとかキャンプ用品がいろいろあるから使ってくれれば良い」
そう言いながら征嗣は五月の荷物の入った段ボールを部屋に運び入れる。そして奥にポツンとあるソファを変形させてベッドにした。
「へぇ‥便利ですね」
「連れが泊まりに来る事もあるんで一応、こういうのも置いてるんだが結局、布団を並べて話しながら寝たりするんで殆ど使わないんだがな」
五月が感心しながらそれを見ていると征嗣はクローゼットから布団を出してその上に敷く。
「じゃぁ、俺は下の部屋で仕事してるから用事があったら声をかけてくれ」
「ありがとうございます
片付いたらまた向こうへ行くので僕の事は気にしないでお仕事続けて下さい」
征嗣が続けると五月は微笑んで返し、征嗣も微笑み返し部屋を出て行く。五月は荷物を片付けながらやはりテーブルが欲しいと思って言われたように下の部屋へ物色に行く事にした。そして簡易テーブルと折り畳みの椅子を持ってもう一度、部屋に戻りその上に細々とした物を置く。
〈後は段ボールから直接、出し入れすれば良いか‥〉
そう思いながら粗方、片付くとまた池田邸へ戻って皆の手伝いをした。
始めの内こそ手伝える事もあったが本格的な改装作業に入ると邪魔者扱いされて五月は征嗣の家で過ごす事が増える。その日も畑の手伝いの後、畑の周りの雑草刈りも引き続き手伝っていた。
「引佐‥何を見てるんだ?」
「五月がまたモグラの穴にハマってるんだよ」
征嗣が畑の縁の段差で屈んでいる引佐に話しかけながら近付くと引佐は振り返り下の方を指差す。征嗣が覗き込むと五月は段差の下で穴に足を取られて藻掻いていた。
「ハ‥ハマったんじゃなくて抜けないだけだってば!」
「それをハマってるって言うんだよ、バカなの?」
「ちょっとうっかりしただけだもん!」
征嗣にまで見られ五月が照れながら言い訳すると呆れたように引佐が溜息交じりに返す。引佐は慣れて来ると五月の動向を一々、正論でバカにしてその度に五月は言い訳した。その様子に思わず征嗣は吹き出してしまう。
「征嗣さんまで‥」
「すまん、それよりほら‥捕まれ」
五月が情けない声で言うと征嗣は笑いを堪えながら手を差し伸べた。そんな感じで日々を過ごし、五月は征嗣や引佐との仲を深めていく。
気付けば一月が経とうとしていた。
「引佐、準備出来た?」
「うん、全部入れた」
五月が引佐の部屋を覗きながら聞くと引佐はリュックを背負いながら返す。そして二人揃って階段を降りると玄関へ向かった。
「栞、テーブルの上に置きっぱなしだったぞ」
子供用のボストンバッグを持って征嗣がリビングから出て来ると栞をヒラヒラ見せる。
「だからそれは保護者用なんだって‥昨日、五月に言っといたんだけど?」
「あれ?征嗣さんに言わなかったですっけ?」
じっとり五月を見ながら引佐が言うと五月はどうだったっけかと視線を泳がせた。
「別に忘れてるんじゃないなら良い
それより本当に送らなくて良いのか?」
「大丈夫、光一のおっちゃんが僕と和美ちゃんを途中で拾ってくれるって言ってたから‥征嗣の軽トラじゃ皆、乗れないしさ」
征嗣が聞きながらボストンバックを渡すと引佐は受け取りつつ答えて溜息を吐く。
「そうか‥じゃぁ、気を付けて行くんだぞ」
「うん、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
征嗣と五月はそう言って元気に出かけて行く引佐を見送った。
「近場とはいえ皆でキャンプとかって良いですね」
「ああ、流石に大手だけあってこんな繁忙期でも近くの子供達をこうして招待してくれるんだから親も助かるよ」
そう話しながら二人はリビングに戻る。今日から三日間、リゾート村でのキャンプ学習なのだがこれは施設側からの招待なので食費以外は一切費用が掛からない。基本的に現地集合なので学校側にかかる負担も引率の教師が同行する経費くらいであった。
「すまないな‥何だかんだ引佐の面倒を見て貰って‥」
「別に大した事じゃないですし僕も暇なので丁度良かったんですって‥それに僕、一人っ子だから弟が出来たみたいでちょっと嬉しかったんですよね」
申し訳無さそうに言いながら征嗣が冷えた麦茶を出すと五月は照れ笑いで返す。
「それより征嗣さんは引佐が居ない間にお仕事頑張って下さい
僕もそろそろ向こうへ行く事が多くなりそうなんでお邪魔しませんから‥」
「もうそんなに仕上がって来てるのか?」
「ええ、もう最終段階って感じです
だから政彦さんの代わりに検査に立ち会わなくちゃいけなくて‥今日も午後から水周りの検査に立ち会いに行く事になってるんです」
二人でそんな話をしながらのんびりした時間を過ごしていると何だか家族になったような気がした。
それから征嗣には仕事に専念して貰えるよう五月は家事を片付けていき、二人で昼食を取った後、池田邸へ出向く。検査自体は小一時間ほどで済んでしまったが五月は征嗣の邪魔にならないようにそのまま池田邸に留まり皆の手伝いをした。尤も、手伝いというより職方にとっては邪魔かもしれない。
夕方までなんとか時間を繋いで五月は征嗣の家に戻ると邪魔をしないよう音を立てずに玄関を開けて中へ入る。しかし仕事部屋のドアは開いていて前を通って部屋に行くべきか気付かれぬようリビングで征嗣の仕事が終わるのを待つべきか迷った。そして気付かれぬようそっと仕事部屋を覗く。征嗣は沢山のモニターに囲まれながら仕事をしていて時折、手を止め、モニターを睨んでいた。その真剣な表情に思わず見惚れてしまう。
〈征嗣さんってカッコ良いよな‥〉
そんな事を思いながら頬を染めつつ見惚れていると征嗣は五月に気付きそちらに視線を向けた。
「戻ってたんなら声をかけてくれれば良いのに‥」
「え?ああ‥いや、その‥今、戻って来たばかりで‥」
征嗣が微笑んで言うと五月は挙動不審になりながら誤魔化し笑いで答えて征嗣に歩み寄る。まさか見惚れていましたとは言えない。
「あ、宇宙船の設計図ですか?
何だかあんまり見ない形ですね」
「ああ、ちょっと会社の方では出来ない仕事を振られてな‥うちなら内緒の仕事もバレないからって任されてるんだが今までとかなり仕様が違うんでいろいろ悩んでるんだよ」
五月が話題を変えようとモニターを見ながら言うと征嗣は返して眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「そろそろ休憩したらどうですか?」
「そうだな‥煮詰まった時は気分転換に限る」
その様子に五月が苦笑しながら言うと征嗣は微笑んで席を立つ。そして何時ものように二人で夕食を作り、共に食事を取りながら談笑した。
「せっかくだから温泉にでも行かないか?」
「え?この辺りって温泉があるんですか?」
「地図には載って無くて不便な場所に在るんで知ってる奴しか行かないんだ
それでももう夜だから誰も居ないと思う」
「行ってみたい!」
征嗣の提案に五月が乗り、二人はキャンプ道具と着替えを持って軽トラに乗り込んだ。
「キャンプもするんですか?」
「別にそういうつもりは無いんだが野湯だから着替えられる場所が有った方が良いかと思ってな‥なんせ脱衣所も無いんだ
でもまぁ、テントさえあれば泊るのも有りだが‥」
二人でそんな話をしながら駅の方へ車を走らせ途中から征嗣は未舗装路へと入って行く。そして突き当りになっている広場で車を停めて車を降り、灯りを点けると荷台の荷物を掲げて獣道へと入って行った。五月は少し探検気分でワクワクしながら付いて行く。10分ほど歩くと川べりに出て少し開けた場所に湯気が立っていた。よく見ると岩を組んだだけの湯船があり川の水が少し流れ込んでいる。
「凄い‥本物の天然温泉だ」
五月はそう言うと傍へ寄って湯船に手を入れてみた。
「結構、熱めのお湯なんですね‥」
「ああ、川から入ってくる水の量を調整して入るんだ‥冬はそのままで大丈夫なんだがこういう暑い時はもう少し水の勢いを強くしてやると丁度良くなる
そっちの岩を退けて流れの量を調整してくれ」
五月が困ったような笑顔で赤くなった手を振ると征嗣は返しながらテントを手際よく設営してく。五月はそう言われ岩を退けて流れの勢いを調整した。暫く大量の川の水を入れた後、五月は湯船の温度を確認しながら水の量を調整する。良い感じの温度になってきた頃、征嗣のテント設営も終わり二人はテントで服を脱いで温泉に浸かった。
「めちゃくちゃ気持ち良い‥最高‥ってあっつ!」
「あんまりそっちへ行くと湯が沸いてるから火傷するぞ」
五月が身を沈めながら大きく入った反対側の方へ身体を伸ばすとそう言って戻ってきて征嗣は苦笑しながら補足する。
「源泉って流れ込んでる訳じゃ無くってこの中に直に湧いてるんですか?」
「ああ、其処の横から湧てるからそっちに行かなければ大丈夫だ
川の流れの方に行けば温くなるし熱いのが良いなら源泉寄りに入れば良い感じになる」
五月が聞くと征嗣がそちらを指差し説明した。すると五月は丁度良い位置を探りながら場所を移動していく。征嗣は慣れているのか迷いなく丁度良い場所を陣取って溜息を吐きながら湯を楽しんだ。五月も征嗣より少し川寄りで落ち着くと同じように目を細めて溜息を吐く。ふと見上げると満天の星。
「わぁ‥綺麗‥」
「此処は街の光が届かんから夏でも星がよく見える‥冬になれば雪景色も相まってまた一段と綺麗なんだ」
「へぇ‥見てみたいなぁ」
話しながら征嗣は五月を見て動けなくなった。淡い光に照らされた横顔に思わず見惚れる。特別に美しい訳では無いが何とも言いようの無い懐かしさと優しげな表情が征嗣の中に波紋を作った。
「僕も卒業したら此処に住もうかなぁ」
暫く空を見上げていた五月が微笑みながらそう言って征嗣に視線を移すと征嗣はハッとする。
「あ‥ああ、是非‥
その時はもっといろんな場所を案内するよ」
少し動揺しながら征嗣が返すと五月は嬉しそうに頷いてまた夜空を見上げた。
結局、そのまま温泉の傍で寝泊まりして朝風呂にも入ってから家へ戻る。朝食を取って五月はまた池田邸へ行き、征嗣は仕事に専念した。五月は出来るだけ征嗣の邪魔をしないように池田邸に留まろうとしたが検査の立ち合いが終わると邪魔になるからと早々に追い出されてしまう。炎天下で表をうろつく気にもなれず五月は仕方なく征嗣の家に戻った。またこっそり玄関を開けて中へ入るとやはり仕事場のドアが開いていて今度は見つからないようにリビングへ行きソファに腰を下ろす。エアコンの利いた部屋はやはり心地良くてダラダラ過ごす内につい転寝してしまった。
「‥き‥月‥五月!」
名前を呼ばれ五月は目を覚ます。征嗣が自分を覗き込んでいて思わずドキドキしてしまった。
「帰っていたんなら声をかけろよ
ほら、夕飯にするぞ」
「あ、うん‥」
征嗣がそう言って溜息を吐き、背を向けると五月は身体を起こす。するとタオルケットがハラリと落ちて征嗣が自分を起こさないよう気遣ってくれた事を認識した。しかもテーブルの上にはもう夕食もセッティングされている。
「あ、ごめんなさい‥ちょっと転寝するつもりががっつり寝ちゃってた」
「温泉が少し負担になたのかもな‥何、偶には良いんじゃないか?」
急いで席に着きながら五月が謝ると征嗣は苦笑交じりに言って箸を手に取った。それから何時も通り談笑しながら食事を始める。
「向こうの作業の方は順調のようだな」
「ええ、明日の検査が最終なので僕もお役御免ですよ
工事の人は明日引き上げて小島先輩達も明後日で帰るそうなんで僕も一緒に帰ろうかと思ってます」
「過ぎて見ればあっという間だったな‥それで政彦は何時来るって?」
「政彦さんは来週来るって言ってました‥もし早めに仕事のキリが付けば今週中になるかもって‥」
お互いそんな話をしながら寂しそうな顔をした。ずっと此処に居られる訳では無いのだと解ってはいても言いようの無い離れ難さがあり、五月はすぐそこに迫った別れに涙が出そうになる。互いに別れを想い何となく沈黙が流れた。
「その‥良かったらまた遊びに来ないか?
勿論、忙しいだろうし無理にとは言わんが‥何なら此処に住んでくれても構わんし‥」
征嗣が躊躇いがちに提案すると五月は驚き顔で征嗣を見る。
「はい、必ず来ます!」
涙を浮かべ五月は嬉しそうに微笑みながら返した。
その翌日、引佐が帰って来ると五月と征嗣はその日を三人一緒に大切に過ごし、次の日には荷物を纏めて作業していた者達と一緒に帰るべく車に荷物を積み込んだ。
「じゃぁ、また来ます」
「待ってるよ」
五月が言うと征嗣も微笑んで返した。引佐はもう来なくて良いという感じでそっぽを向いている。五月は後ろ髪引かれる思いで車に乗り込むと泣きそうな顔で微笑み手を振った。征嗣と引佐は車が走り去り見えなくなるまでその場に立ち尽くす。征嗣は寂しそうに去って行った方向を見ながら溜息を吐いた。
「せっかく二人きりにしてあげたのに告白しなかったの?」
「え?な‥何言ってるんだお前は‥」
引佐が呆れながらボソッと言うと征嗣は少し焦ったように返し引佐を見る。
「別に良いけど‥ほら、もう家に戻ろうよ
僕、これから和美ちゃんとこ行かないといけないから‥」
「ん、そうか‥」
引佐が歩き出しながら言うと征嗣は何とも複雑な表情で返しそれに続いた。
翌年の春、五月は逸る気持ちを押さえながら征嗣の家へ向かう。最寄り駅に着くと見慣れた駅前の商店へ顔を出した。
「あら、久しぶりじゃない」
「ご無沙汰してます」
鮎川が五月に気付いて驚きながらそう言うと五月は微笑みながら返す。そして少し談笑すると店を出た。
「バスならさっき行ったところだからあと1時間半は来ないわよ?」
「良いんです、せっかくだから歩いて行きたいんで‥」
鮎川が引き留めようとすると五月はそう言いながら歩き出す。駅から征嗣の家まで歩くと2時間ほどかかるが五月にはそんな時間すら感慨深い。あれから何度もやり取りをする内に自身の気持ちに気付き、次に会った時に告白する決心を固めていたのである。同性にこんな気持ちを抱くのは戸惑いもあったがどんどん想いは募り、もう抑えきれなかった。もし拒絶されても後悔の無いようにしたい。そう決心して思い切って此処まで来たのだ。
〈こっちに居た時は気付かなかったけどこの辺りって桜が多いんだな‥〉
田舎道を歩きながら懐かしい景色を眺める。世は春。甘い空気と所々にある花々に癒されながらも拒絶されたらどうしようという恐怖で家が近付く度にいろんな感情で気持ちが綯交ぜになってきた。ようやく征嗣の家が見えて来て池田邸を通り過ぎ、もう後、数十mという所まで来ると五月の足が止まる。やはり怖い。動けないまますぐ脇に生えている桜を見上げてから溜息を吐くともう一度、来た道を引き返す。自身の根性の無さに落ち込み、俯き加減でとぼとぼ歩いていると突風に煽られた桜達が五月を撫でて来たので目を閉じ、思わず身を小さくした。風が去った後、五月はゆっくり目を開け固まる。
「五月?」
其処には征嗣が居て五月を見て呆然となっていた。反射的に五月が駆け出すと征嗣も五月に向かって駆け出し、お互い抱き締め合う。
「会いたかった」
「僕も‥ずっと会いたかった‥」
征嗣がそう言って抱き締める手に力を籠めると五月も返してしがみ付いた。そんな二人を暖かな日差しが包む。途切れてしまった二人の物語はこうしてまた動き出した。
世は春、二人は再び恋をする。
おわり




