恋ヶ淵
もっと間が空くかと思ったら無駄に時間が出来てしまい思いの外、早く更新できました( ̄▽ ̄;
順調に行けばそんなに間を置かずに更新出来るかもしれません^^
紅葉が綺麗になってきた十月の終わり頃、運転にも慣れて簡単な仕事なら唯天を伴わなくてもこなせるようになってきた五月はその日も征嗣と依頼のあった家に出向いて行く。少し遠方なので今回は二件ほど泊りで片付ける予定になっていた。一件目は訪問して翌日には片が付き、五月は最終確認と処置を施す。
「もう大丈夫そうですね‥本当にありがとうございました」
「いえ、お役に立てて良かったです」
仕事の後、家主の老婆に丁寧な礼を言われると五月は照れ笑いしながらちゃんと終わった事を再確認し、老婆の家を出た。表に停めている車では征嗣がシートを倒して居眠りをしている。
「終わったよ先生‥」
「どうだった?」
ドアを開けて車に乗り込みながら五月が言うと征嗣は片目だけ開けて五月を見た。
「うん、やっぱり餓鬼が溜まってただけみたい‥慈悲深そうなお婆さんだからきっと溜まっちゃったんだね
出来てる流れを消して綺麗に掃除して結界を張っておいたよ
これで近くの溜まり場から流れてくるような事は無いと思う
元々、守りが強い人みたいでその辺で引っ付いてきた奴は自然に剝がれるだろうしもう大丈夫なんじゃないかな?」
五月はシートベルトを閉めながら答えてエンジンをかけた。征嗣はようやくシートを起こして自分もシートベルトを締める。
「それでね、お婆さんがこの先に紅葉の綺麗な所が有るから行ってみると良いよって知り合いの民宿を紹介してくれたんだ
今日からは其処に泊まろうと思うんだけど良いよね?」
「お前がそうしたければそれで構わんよ
どうせこの近くで仕事がもう一軒あるんだろ?」
車を出しながら五月が言うと征嗣は微笑んで返した。
「うん‥丁度、此処からその民宿に行く間くらいかな?
ちょっと道は逸れてるみたいだけどね」
五月は答えて老婆に聞いた道を辿って近くの山中へどんどん入って行く。途中で幾つか観光ホテルを通り過ぎて民家や店舗が無くなった辺りでようやく目的の民宿に辿り着いた。
「あった、此処だね」
古い看板を見つけて其処の駐車場に入り、二人は車を降りる。少し辺鄙な場所に在るにもかかわらずどうやらそれなりに人気があるのか50台ほど停められる駐車場はほぼ満杯で駐車場の外にも空き地風の場所に臨時の駐車場が設えられていた。誘導をしている人に宿泊だと伝えると民宿側の駐車場へ案内され五月は車をそちらに付ける。
「不便そうな場所なのに結構、人が多いね」
「今は紅葉シーズンだからこういった所でも人が来るんだろう」
駐車場の傍にある散策路などにも人が大勢歩いていて賑わい、二人はそれを眺めながら民宿へと入った。
「あの、森下のお婆ちゃんから紹介されて伺ったんですけど‥」
五月は受付で中年の女性にそう言った。
「ああ、天宮さんですね、聞いてますよ
お父さん!お父さん!天宮さんがいらっしゃったわよ!」
女性は五月に微笑むと受付奥に向かって叫んだ。すると年齢の割にかなり長身な中年男性がぬっと奥から顔を出す。
「そんなに大声出さなくても聞こえとる‥いらっしゃい」
不機嫌そうに女性に言った後、優しい笑顔を作り男性は五月達に挨拶した。
「森下の婆さんから話は聞いとりますよ‥世話になったっちゃようしてやってくれ言うとりました」
男性はそう言いながらカウンターから宿帳を出して五月の前に差し出す。
「そんな‥僕は泳法寺の依頼で伺っただけですよ
逆にあれこれ気を遣って頂いちゃって何だか申し訳なかったくらいです」
宿帳に記入しながら五月は照れ笑いで答えた。
「はは、森下の婆さんは昔からそうなんですよ
あすこは爺さんが生きとる時から夫婦揃って皆の世話を焼いてましてね‥だから婆さんを知っとるモンにとって婆さんが恩義を感じとる人は私等にとっても恩人なんですわ」
五月が宿帳を書いて渡すと男性はそれを受け取って眺めながら返し部屋の鍵を取り出す。
「お部屋にご案内します」
そう言うと男性はカウンターを出て茶器等の入った籠を持って五月達を連れて受付横の階段を上った。
「丁度、一番、景色の良い部屋が埋まっとるんですが此処もそれなりに見応えのある部屋なんで我慢して下さい」
「急に押しかけてきてしまったんですから気になさらないで下さい
それにこれだけ綺麗に景色が見えれば十分ですよ」
男性がそう言いながら部屋のドアを開けて中へ案内すると五月は窓の外に見える景色に嬉しそうに答える。
「食事は一階の食堂に夕食は6時からで朝食は7時からご用意します
お風呂は地下一階が内湯で地下二階がこの下の沢で露天になってますからお好きな方をどうぞ
内湯は10時に閉めますが露天の方は24時間入れますよ
この辺りの散策路から沢にも出れるんで良かったら辺りを散策なさって来られると良い」
「ああ、それで駐車場横の散策路に人がいっぱい居たんですね」
「この時期は日帰りで紅葉と温泉を楽しんでいかれる方も多いんで昼間はいっぱいですけどやっぱり不便なもんで泊り客はホテルに取られてますよ」
「そうなんですか?
でも僕は泊るならこういう静かな所の方が良いけどなぁ」
「はは、うちに泊まるのはそういうお客さんか昔馴染みばかりですよ
お陰でややこしい客が無くて良いですけどね」
男性はそう話しながら籠からお茶のセットを出し、五月達にお茶を淹れながら話す。
「こちらはこの辺りの名物の菓子になってますんでお口に合ったら下の売店でお土産にどうぞ」
そう言って籠に入った茶菓子も差し出す。
「ありがとうございます
じゃぁ、後でこの辺りをいろいろ周って来ますね」
五月が微笑んで返すと男性も微笑み返して部屋を去って行った。五月と征嗣は入れて貰ったお茶を飲みながら茶菓子を摘まむ。
「あ‥この味好きかも‥唯天さんにお土産で買ってこう」
一口食べて五月はそう言いながらほくほく笑顔で残りを口に掘り込んだ。それから五月は征嗣と辺りを散策する。何処の散策路も人が一杯で少し歩き難い。軽く人酔いしてしまって早々に宿に戻った。
「あら、もう戻られたんですか?」
宿へ入ると受付に居るあの女性が声をかけて来る。
「何だか人が一杯で酔っちゃって‥ちょっと休んで先にお風呂頂く事にします」
「あら、それならお風呂はもう少し後の方が良いかもしれませんよ
お風呂も今は一杯だと思うわ‥今日は休みで日帰りのお客さんが多いから‥
だったら少し歩くけど穴場を教えてあげましょう」
五月が苦笑しながら答えると女性はそう言いながらごそごそ地図を出して来て広げた。五月はその地図を覗き込む。
「今、うちの民宿が此処なんだけどね
この車道から山道に入る所が此処に在って詳しい人しかこの道に入らないから今日でも空いてると思うわ
この道を行くと此処ら辺に分かれ道が在って右の下りの方を行くと恋ヶ淵って言う淵に出るんだけど其処が今の時期は絶景なのよ
暗くなると危ないから夕方までには戻って来ないといけないんだけど今の時間からならゆっくり散策しても十分、行って帰って来れると思うわよ」
女性は指で指し示しながら五月達に説明した。
「へぇ、恋ヶ淵なんて何かロマンチックな名前‥」
「名前はロマンチックだけど悲しい言い伝えの淵なのよ
何でも其処で出会った恋人同士が自分達の運命を儚んで身を投げたんですって‥でも片方だけが生き残ってしまって生涯そこで片割れの供養をした淵なんだそうよ」
「そうなんですね」
「でもそういう物語が出来ちゃうくらいの絶景なのよ」
「じゃぁ、行ってみようかな‥」
そんな風に話が決まると五月達はまた宿を出る。言われたように車道に出て進んで行くと一見、見過ごしそうな所に入り口があった。
「確かにこんな入り口じゃ車だと分かんないね‥あの民宿か近くの展望広場にでも車を停めないと来れそうにない場所だし‥」
「そうだな‥確かハイキングコースに繋がってるんだったか?」
「うん、地図上だとあの分かれ道で淵と反対の方を行けばハイキングコースだったね」
そんな話をしながら緩やかな登り道を二人で歩く。暫く上って下りになった辺りで少し開けた場所に出て辺りの紅葉がよく見えた。
「うわぁ‥綺麗だね!」
「ああ、この景色を見れただけでも此処まで来た甲斐があるな」
五月が嬉しそうに言うと征嗣も微笑んだ。そしてそのまま進んで行くと分かれ道に来る。
「えっと‥右の下りの方へ進むと淵でこっちの登りはハイキングコースだったかな」
そう言いながら下りの方へ進路を取ってそのまま進んで行く。1m半ほどの登山道が半分くらいの道幅になり両側が木で囲われて見通しが悪くなってくると五月は少し不安になった。
「何だかどんどん寂しくなっていくけど大丈夫かな?」
さっきまでは人と擦れ違う事もあったが分かれ道に入ってから誰とも擦れ違わないのでどんどん不安になって来る。
「どうやら大丈夫なようだぞ」
征嗣が何かに気付いて少し微笑んでそれに返す。五月はその言葉に少し振り返って征嗣が気付いたそれに気付いた。微かに水の流れる音が聞こえている。もう少しかと五月は少し遅くなっていた歩みを速めた。数百mほど進むとしっかり水音が聞こえてきて辺りが開けてくる。そしてようやく淵の傍に出ると二人はその景色に圧倒されるように立ち尽くした。
「凄い‥まるで大画面で絵を見てるみたい‥」
五月の口からそう言葉が零れる程の絶景だった。紅葉と小さな滝と紺碧の淵がとても鮮やかで美しい。
「確かに物語が一つや二つ出来るくらいの景色だな」
「うん‥凄く幻想的だよね‥」
二人は暫くその景色に言葉も無いまま見惚れた。
「あ、下の方に降りられそうだよ先生‥行ってみない?」
五月が淵の傍まで行って下を眺めながら言う。辺りを見回すと開けた場所の端っこに階段が在って淵の傍まで降りられるようになっていた。
「そうだな‥これだけの絶景なら下から見ても良い景色だろう」
征嗣が返すと五月ははしゃぐように階段の方へ向かう。二人で階段を下りて淵のギリギリに立つとまた視点が変わって素晴らしい眺めだ。
「本当に綺麗な所だねぇ」
五月がニコニコしながら滝の方を眺めて言うと征嗣は何かに気付いた。下流側に儚げな青年が淵の傍でぼうっと景色を眺めている。征嗣がジッとそちらを見ているので五月も気付いて視線を向けた。
「あ‥人が居たんだ‥騒いじゃ迷惑だね」
五月が苦笑しながら小声で言うが征嗣は何も返さずまだ視線を其処に置いている。こちらからはハッキリ顔は見えないが何だか寂しげな雰囲気が漂っていた。ちらりと見えるその横顔はかなり整っている感じがする。
「そうだな‥それよりそろそろ行こう」
「そうだね‥日が落ちると危ないって言ってたもんね
あの人は大丈夫なのかな?」
「さぁ‥恐らく地元の人間なんじゃないか?」
征嗣は一泊置いて答えてから帰ろうと歩き出し、五月もそれに続いた。もう一度、淵の上側へ戻って来て同じ道を戻ろうとすると来た時は気付かなかった祠が在る事に気付く。
「来た時は影になって気付かなかったけどこんな所に祠が在ったんだね」
五月はそう言いながら祠の前で立ち止まってそれを眺めた。小さくて古そうだが誰かが手入れしているのか小奇麗に掃除されてお供え物もされている。
「地元の人に大事にされているようだな」
「うん、きちんとお参りされてる祠だね
穏やかな感覚が有るから此処に居る神様も安定してるよ
もしかしてさっきの人もお参りに来てる人かもね」
征嗣が言うと五月は返しながら屈んで手を合わせた。そして二人はまた宿へと戻って行く。宿に着く頃には少し日は傾き、辺りが薄暗くなっていてあれだけ居た観光客もまばらになっていた。駐車場に停まっていた車も半分ほどになっている。
「おかえりなさい、どうでした?」
「はい、凄く綺麗でした‥行って良かったです」
宿に入ると相変わらず受付に居る女性がそう聞いて来たので五月はにこやかに返した。
「楽しめたのなら良かったわ
まだ少しお風呂は人が多いから食事の後に入る方がゆっくり入れそうだけど‥多分、日帰りの人達は暗くなったら捌けてしまうだろうから」
「じゃぁ、そうさせて貰います」
五月はそう返すと征嗣と部屋に戻り少し休憩を挟んで食堂へ向かう。満室まではいかなくてもやはり宿泊客がかなり居るのか食堂もそれなりに賑わっていた。でも家族連れは余り居らず老夫婦やカップルに単身者、それに少数の外国人だけで騒々しさは無く穏やかな感じである。五月達も空いてる所に腰を下ろすと給仕の者が来て並べられた料理の説明をしながらご飯をよそってくれた。
「凄く美味しいね
僕、川魚って苦手なんだけど此処のは美味しい!」
それに箸をつけると五月が満足気に舌鼓を打つ。祖父の所でよく出されていたせいか五月は川魚が少し苦手だったが上手く調理してあるせいか普段食べる物とは次元が違う気がしたのである。
「此処のお魚って美味しいですよね
私も川魚食べられなかったんだけど此処のだけは食べれるんですよ」
隣のカップルの女性が五月の言葉に反応して話しかけてきた。
「凄く分かります!
何だか別格ですよね!」
五月はそれに同意するように返す。
「魚だけじゃなくって此処は山菜も美味しいから食事だけでも来る価値ありますよ」
カップルの男性の方もそうやって会話に入って来ると四人で談笑しながら食事を続けた。
「俺達この後、下の露天に行くんですけど一緒にどうです?」
部屋に戻りしなそう誘われたので五月達は一緒に行く事にした。そして支度をして一緒に地下へと降りて行き、脱衣所まで来ると自分達に付いて来る五月に男性の方がギョッとした顔をする。
「あの‥女湯は向こうですよ?」
一人で女湯に行こうとした女性も少し固まって五月を見ていた。
「あ‥僕、これでも男なんで‥」
また何時もの反応かと五月は苦笑いで男性に返すとやはり酷く驚かれる。そして五月は脱衣所で周囲からの視線を感じつつも服を脱いで諦めたように脱力笑いを浮かべていた。
「いや‥本当に男だったんだな‥」
身体を流し湯船に浸かりながら男性が五月を見てしみじみ言う。
「よく間違われます」
苦笑しつつそれに返し、五月も湯船に身を沈めた。相変わらず周りの視線が痛い。やはり周りの客が五月を見てギョッとしながら視線で追って来るからだ。少し談笑しながら浸かっていたが五月は居た堪れずに先に上がる。
「先生はゆっくり入ってて良いよ‥僕は食堂でアイスでも食べてるから‥」
五月はそう言い残してそそくさと浴室を出て行った。五月が居た堪れなかったのは視線のせいだけでなく征嗣の裸体にドキドキしてしまったからである。どうもあれ以来、意識してしまい、征嗣と入るこういった公衆浴場には入り難かった。
〈僕ってゲイなのかな‥〉
少し自己嫌悪気味にそう思いつつ食堂でアイスをもそもそ食べていると部屋へ案内してくれた男性がフルーツの盛り合わせを持ってやって来た。
「食事は満足出来ましたかい?
良かったらこれも摘まんで下さい」
「ありがとうございます、めちゃくちゃ美味しかったですよ
って言うかこんなに良いんですか?」
男性が言いながらフルーツを差し出すと五月は一変して嬉しそうな表情で微笑んで返す。
「遠慮なく召し上がって下さい‥近所からの頂き物だから不揃いなんでお客には出せないんですけど味は一品ですよ」
男性にそう言われると五月は一つ口に運んでみた。口の中で香りと甘さが広がる。
「甘い!凄く美味しい!」
「でしょ?この辺りの家では柿やら梨やら果物を植えてたりするんですよ
大きくて見栄えの良いものは露天で売ったりしてますけど不揃いの物はこうして近所で分け合って食べてるんです
だから木で完熟させるんで味が良いんですよ」
五月がその美味しさに驚くと男性は自慢げに説明しながら前に腰を下ろした。そして暫し談笑しながらそれを頂く。そうする内に征嗣達が上がって来て五月は男性に丁寧に礼を言って部屋に戻って行った。
「後でもう一度、入りに行くか?
あんまりゆっくり浸かれ無かったろう?」
「う~ん‥どうしようかな‥
もし気が向いたら行く事にするよ」
部屋に戻って落ち着くと征嗣が五月に聞いてくる。五月は少し考えてから苦笑交じりに返した。幾ら人目が無くても征嗣と一緒だと酷く照れてしまいどの道ゆっくり浸かれそうも無いので征嗣が寝てから行こうかと少し考えているのだ。
「そう言えばオーナーが言ってたんだけど例の恋ヶ淵の話ってこの辺りの領主だった家の若君と旅の男性の同性愛の話なんだって‥死んだのが旅の男性の方で若君はその後、仏門に入ってこの先にあるお寺で生涯、その恋しい人を供養しながら暮らしたんだってさ」
五月は頂いた不揃いのミカンを摘まみながら話す。
「ああ、その話なら俺もさっきの奴から聞いたよ
どうやら大切な人と巡り会うという隠れた恋愛成就のスポットらしい‥特に午前中は淵の底まで朝陽が差し込んで滝の飛沫で虹も出てもっと幻想的だと話していたよ
そんなシュチュエーションになるから其処で出会うと自然と見知らぬ者同士でも互いを意識するんだろうな‥あのカップルもあそこで出会って付き合う事になったそうだ」
「へぇ、それはちょっと見てみたいかも‥ねぇ、明日の朝、行ってみようよ」
征嗣もミカンを摘まみながら返すと五月はウキウキしながら微笑んだ。
「それは構わないが依頼はどうするんだ?」
「大丈夫、明日の依頼は夕方からだよ
丁度、通って来た道から入った場所に在るショッピングモールだから仕事自体は閉店後だし‥オーナーには明日の夕方くらいに出て夜中か朝方くらいに戻って来てるって話しておいたから‥」
征嗣が少し呆れたように聞くと五月はホクホクしながら微笑んで答えた。
「まぁ、そういう事なら構わんよ」
征嗣は仕方ないという微笑みを浮かべるとまたミカンを摘まむ。そんな感じで二人で話しながら夜も深くなると二人は布団に入った。五月は征嗣の寝息が聞こえてきた頃合いを見計らってそっと布団を抜け出すとタオル片手に露天へ向かう。
〈流石にこの時間だと誰も居ないな〉
人気の無い脱衣所を見ながら安心したように五月は浴室のドアを開けた。流石に誰も居ない上に夜風が冷たくなっていて五月は急いでかかり湯をして湯船に身を沈める。空には満天の星。
〈最高に綺麗だな‥〉
空を見上げてそう思うと感慨深そうに目を閉じて川のせせらぎを聞きながら湯を楽しむ。するとドアを開けて誰かが入って来た。五月はその音にハッとして少し物陰に隠れる様にして何となくそちらに視線を向けると昼間あの淵で見た青年だった。
〈昼間見た時はハッキリ顔が見えなかったけど綺麗な人だな〉
五月が青年を見ながら思っていると湯に浸かろうとしている青年と目が合ってしまう。
「あ‥今晩は‥」
思わず誤魔化すように笑いながら五月が言うと青年は少し驚いたように固まった。
「えと‥此処‥男湯じゃ無かったっけ?」
「あ、僕、男です!」
青年は挙動不審に前を隠しながら慌てると五月は少し立ち上がりながら慌てて返す。そんな五月を見て青年は一瞬固まった後、笑い出した。五月も連れて笑う。
「一瞬、間違えて女湯に来ちゃったのかと思った」
「よく間違われるんです‥」
笑いながら青年が言うと五月はトホホ笑いを浮かべながら返した。
「昼間、淵に居ましたよね?
地元の方じゃ無かったんですか?」
「地元って言うか爺ちゃんがこの近くに住んでて今は其処に居候してるんだ
それで偶にこうして此処の温泉に浸からせて貰いに来るんだよ」
五月が聞くと青年は返す。近くで見れば見るほど綺麗な顔立ちをしていた。自分も女に間違われるが青年もよく間違われるんじゃないかとさえ思う。ただ、五月と違って青年の方が身体つきはしっかりしていて細いが男らしい骨格をしていた。二人は何となく親近感が有ったのかすぐに打ち解けてあれこれ談笑しながら湯を楽しむ。
「何だか逆上せて来ちゃったかも‥そろそろ僕は上がりますね」
「俺も流石にもう上がるよ
このままだと動けなくなりそう」
二人でそう言いながら上がると売店横にある自販機で冷たい飲み物を買ってまたロビーで座り込んで話し、適当に切り上げるとようやく立ち上がった。
「じゃぁ、おやすみなさい」
「おやすみ」
青年が玄関を出て行くと五月は笑顔でそれを見送る。五月は楽しかったなと弾むように部屋に戻るとまたこっそりと布団に潜り込んだ。
翌朝、目が覚めて五月が身体を起こすと征嗣が丁度、浴衣を脱いで着替えていたのでその裸体にまだ眠っていた思考が一気に覚醒する。
「目が覚めたか?」
「ああ‥うん、おはよう」
征嗣が五月に気付いて微笑むと五月は赤面しながら返して視線を外した。
「どうした?
滝を見に行くんならさっさと着替えて飯を食いに行くぞ」
なかなか布団から出ない五月に着替えを終えた征嗣が声をかけると五月は少し困ったような顔をした。
「その‥まだ寝起きで‥」
視線を外したまま頬を染めて少し前のめりになると征嗣は察して溜息を吐く。
「分かった‥先に行ってるぞ」
そう言うと征嗣は一人で部屋を出て行った。五月は征嗣が出て行くのを見届けてからダッシュで着替えを始め、収まった頃合いに慌てて部屋を出た。なかなか収まらなかったのは昨夜見た夢のせいだろう。余程、刺激が強かったのかそう言った動画を見始めてから五月は時折、征嗣とそういう関係になる夢を見てしまうようになっていた。
〈何だか妙にリアルでヤだな‥〉
こうして泊りの時に見てしまうと夢の続きの様な気がして自己嫌悪に陥る。食堂まで来ると少し気合を入れて中へ入り、何時ものように征嗣と食事を始めた。少しすると昨日のカップルも食堂にやって来たのでまた四人で談笑しながら食事を取る。食事を終えるとカップルはチェックアウトを済ませ、五月達と一緒に宿を出ると駐車場で分かれた。五月達は滝の方へ向かって歩き始める。山道を行き、分かれ道を淵の方へ進んで行くと平日にもかかわらず今日は数組のカップルや同性のグループと擦れ違う。そして淵の所まで来ると思いの外、人が居て淵のあちこちで写真を撮ったり談笑していた。
「昨日と違って結構、人が居るね」
「此処へ来れば好きな奴と付き合えたり恋人が出来ると有名なんだそうだ
休みの午前中はもっと人が多いらしいぞ」
「へぇ‥そうなんだ」
二人は話しながらまた階段を下りて淵の傍まで行ってみる。すると話に聞いた通り淵の所に虹が出ていてより幻想的な風景だった。しかし人の多さのせいか時間帯のせいかは分からないが昨日のような趣は無い。
「昨日見た時より幻想的だけどこんなに人が居ると情緒も何も無いね」
「仕方あるまい‥人気のある観光地と言うのはそういうモノだ」
五月が苦笑しながら言うと征嗣も困ったような笑みを浮かべて返し、少しその風景を見た後、すぐに宿の方へ戻って行く。
「そう言えば夜中にお風呂に行ったんだけどその時に昨日、此処に居たあの人に会ったよ
こっちに住んでるお爺さんの所に居候してるんだって‥」
五月は昨日の青年に会った事を征嗣に話しながら先を歩く。征嗣は時折、相槌を打ちながら五月の後ろを歩いた。
「それでね、この山の山頂に‥」
不意に五月が振り返ってそう言いかけて体勢を崩すと征嗣がその身体を支える。不意に抱き留められて五月はドキッとした。何時もは鬼の姿の征嗣に抱えられ現場に出る事もあるがこうして人の姿のまま抱き締められると頭が真っ白になる。
「大丈夫か?」
「うん‥ごめん‥躓いてよろけちゃった‥」
征嗣が聞くと五月は顔を見られぬよう俯きながら身を離して前を向いた。
「あんまりはしゃぎ過ぎると転ぶぞ」
征嗣は溜息交じりに言ってまた歩き出した五月の後に続く。
「うん、気を付ける」
五月は赤くなった顔を見られぬように振り向かず答えた。そして宿に戻ると土産を買ったりして時間を潰し、早めに昼食を用意して貰って仮眠を取る。そして時間になると宿を出て依頼のあったショッピングモールへ赴いた。
「此処の駐車場になっていた一部を取り壊して店舗を増築したんですがそれから自殺者が多発しまして‥地元の神社にお願いしてお祓いもしてみたんですが全く効果が無かったので泳法寺さんをご紹介頂いたんですよ」
責任者に会うとそう説明されながら増築部分に案内される。既存の建物からポッコリ出っ張ったような形で建てられ、屋台風な店舗に仕立ててあった。
「最近、流行りのキッチンカーなんかも呼べるように屋根を広く取って雨でも飲食が出来るようにしたんです
こうすればモールの閉店後でも営業出来ますから‥今はうちの子会社の店を出してますが行く行くはチェーン企業も誘致しようと思ってたんですよ
でも此処に入った者が次々に自殺してしまって今は人手不足で開店休業状態なんです」
責任者が溜息交じりにそう説明すると閉じられたシャッターを眺める。五月はその場所を探るように歩きまわって不意に足を止めた。
「此処‥この辺りに祠か何かありませんでしたか?」
増築された建物の際に立ち、少し内部に向かって指を差して聞く。
「え?ああ、確かに其処に小さな石の‥丁度、道端にあるような石塔が在りました
駐車場を作る時に石塔と下に大きな石が有ったのでその時は上の石塔だけ取って駐車場にしたんです
でも増築の為に基礎を作らなくてはいけなくなって駐車場を掘り起こした時にその大きな石も排除したんですよ‥そう言えばその時もいろいろありました‥」
少し驚いたように責任者はそう言いながら考え込んだ。五月が来た時は少し半信半疑のような表情だったのが関係者数人しか知らない筈の数年前の事を指摘され途端に神妙な顔つきになって行く。
「多分、その石は鬼を封じていたんだと思います
石塔はただの目印に過ぎなくて封印本体はその大きな石だったんでしょう
まだ完全に目覚めていないようで此処に本体が捕らわれています
もしこのままにしていたらもっと被害が大きくなっていたかもしれません」
五月がそう言うと責任者の顔色は見る間に青くなった。
「あの‥いったいどうすれば‥」
責任者は真っ青な顔でそう溢す。
「その為に我々が来たんです
閉店後に悪さをしている鬼を始末するので巻き込まれないように従業員は一人残らずこの敷地から退出させて下さい
我々は閉店までに従業員に鬼が憑りつかないよう守りを付けて行きますので‥勿論、目立たないように行動させて頂きますからご心配なく」
五月はそう言うと安心させるように優しく微笑んだ。
「宜しくお願いします!」
責任者は泣きそうな顔でそう言うと頭を下げた。それから五月と征嗣は客の振りをしながらモールを歩き回る。
「どう、先生?」
「今のところ憑りつかれている従業員は居ないようだな‥まだ枝を伸ばせるほど回復していないらしい」
「お祓いもしたって言ってたし思ったより動けて無いのかもね」
「ああ、力が及ぶ狭い範囲に入った人間だけを喰らっていたんだろう‥増築したと言ってもこちらとは隔離されているようだから閉鎖されてから誰も入っていないなら人を喰えなかったんだな」
ヒソヒソそんな話をしながら一通り見て周ると五月は従業員に守りの式を付けた。
「閉店まであと1時間ちょっとか‥専門店の方はもう閉店してる所も多いしフードコートも人が捌けて来たからそろそろ車で待機してようかな‥」
「そうだな‥こちらに気配は無いようだし指定領域は封印の在った場所を中心に増築部分と駐車場くらいで大丈夫だろう」
フードコートで時間を潰しながら二人でそう話すと席を立つ。そしてモールを出ようとしたところであの青年とばったり会った。
「あれ?五月君?」
「悠さん?どうしてこんな所に?」
お互い驚きながらそう声をかけあう。
「俺はちょっと買い物‥トイレの電球が切れちゃって‥」
「そうなんだ‥」
「五月君も買い物?」
「僕は仕事で‥」
「そう‥こんな時間まで大変だね」
二人で話しながら悠はチラチラ征嗣を気にしていた。
「あ、紹介するね‥この人が話してた永藤先生、先生も覚えてるでしょ?
あそこに居た金沢悠さん」
五月は二人を紹介する。
「初めまして‥」
躊躇いがちに悠が微笑むと征嗣は少し会釈するだけで返した。
「俺は先に行ってるから‥」
そう言うと征嗣はさっさと五月を置いて行ってしまう。
「一緒に行かなくて大丈夫なの?」
「うん、今ちょっと時間潰ししてる状態なんだ
だから買い物付き合うよ」
悠が征嗣の背中を目で追いながら聞くと五月は苦笑しながら返す。そして二人で電球を買いに行きながらまたあれこれ話した。
「あの‥もしかしたら失礼な事なのかもしれないけど聞いて良い?」
買い物を済ませてモールを出る直前に悠が言い難そうにそう言って歩を停める。
「何?」
五月はキョトンとしながら振り返り同じく足を止めた。
「その‥もしかして永藤さんってさ‥五月君の恋人だったりする?」
遠慮気味に目を伏せながら悠が聞くと五月はドキッとしながら赤くなって固まる。
「え?せ‥先生は先生だよ?
それに僕、男だし‥」
しどろもどろで五月は挙動不審に答えた。
「そ‥そうなんだ‥ごめん、変な事聞いて‥」
釣られて悠も挙動不審になりながら返し、暫く二人で固まったまま沈黙する。
「あの‥さ‥俺‥ゲイなんだ‥だからもしかしたら五月君もそうなのかなって思って‥
ごめん、思い過ごしで変な事聞いちゃって‥」
俯いたままポツリと悠が告白して顔を上げると困ったように微笑んだ。五月はそれを聞いて何と言葉をかけて良いか分からず戸惑いながら悠を見る。
「俺、失恋のショックで体調崩して爺ちゃん所に療養で来てて‥だから五月君とこうやって楽しく話せて久しぶりに笑えたんだ
ありがとう‥」
悠は続けると泣きそうな顔でもう一度、五月に微笑んだ。
「そんな‥僕だって悠さんと話せて楽しかったしこれからも話そうよ」
五月もそれに応えるように悠に微笑む。
「そうだね‥またこうして話せたら嬉しいな‥」
「明日また連絡しても良い?
仕事が片付いたらまたあの民宿へ戻るからさ」
「待ってる‥じゃぁ、またね」
そう言うと少し涙を浮かべて悠は去って行った。五月は何だか複雑な心境で暫くその場に立ち尽くすが一つ息を大きく吐くと気持ちを切り替えて車へ戻る。
「話は終わったか?」
「うん‥」
征嗣にそう聞かれて少し躊躇いがちに五月は視線を逸らせて微笑んだ。そして車を指定領域を張る予定のギリギリ外側へ移動すると狭い車内で五月は何となく征嗣と距離を取りながら其処で時間が来るのを待つが何だかまともに征嗣の顔を見られない。
「どうやら閉店したようだな」
看板の明かりが消えると征嗣が呟く。
「じゃぁ、僕は用意するね」
五月はそう言うと車を降りて後部座席から刀等の装備を取り出し身に着けた。例え僅かでも今はこの距離が在り難い。程無くするとぞろぞろ従業員が帰って行くのが遠目に見える。
「もうすぐかな?」
「予定では閉店後30分くらいかかると言ってたな‥」
五月がそれを眺めながら呟くと征嗣も車を降りて返しながら五月の横に立つ。五月は思わずドキッとして少し距離を取った。
「どうかしたのか?」
「へ?いや、別に何も無いけど‥」
征嗣がキョトンとしながらその対応に聞くが五月は誤魔化し笑いを浮かべてすぐに視線を外す。何だか二人だけの時間が居た堪れなくなっていた。暫くすると五月が車を停めている傍に一台車がやって来て停まり、そしてあの責任者が帰り支度を整えた状態で降りてくる。
「遅くなって申し訳ない‥全従業員の退出を確認してきました」
「分かりました、ありがとうございます
では危険なので車で待っていて下さい
くれぐれも此処から動かないように‥」
責任者が言うと五月は何時ものようにそれに対応して指定領域を張る。そして二人が問題の場所に向かって歩き出すとフッとその姿が消えてしまったので責任者は呆然となった。
「本当に‥鬼狩だったんだ‥」
今更そう呟く。泳法寺からきちんと説明はされていたのだがどうも信じられずにいた責任者は目の前で起きた現象にようやくその理解を示した。
一方、指定領域に入ると同時に征嗣は鬼の姿になり何時ものように五月を抱えて鬼の気配を探りながら石塔の在った場所へと戻る。そしてその場に五月を降ろすと地面に手を付き鬼を炙り出した。
「に‥んげ‥ン‥うま‥そう‥な、に‥おい‥」
奇妙は波動の声でそう呟きながらまるで水から上がるように地面から歪な鬼が姿を現す。
「言語はかろうじて獲得してるみたいだけどそれほど力は無さそうだね」
「だが封印されているほどの鬼だ‥くれぐれも油断するなよ」
「うん‥分かってる‥」
五月は表情も変えず刀を抜くと鬼に向かって構えるが次の瞬間、視界から忽然と消え、目を見開く。すると征嗣が庇うように五月の頭上を手で覆った。先程の鬼が頭上から襲って来たのである。
「早っ!」
五月は後ろに飛んでそう言うと征嗣も五月の傍に身を引いた。
「大丈夫、先生!?」
征嗣の腕は少し抉られ血が滴り落ちていて五月は慌ててそう叫ぶ。
「問題無い、それより気を引き締めろ!」
征嗣が返すと五月は気合を入れ直すように短く息を吐いてまた刀を構えた。今度は目で追わず気配で鬼を追い、攻撃に対応していく。鬼が攻撃を仕掛けてくると征嗣がそれを阻止して五月が一撃を投じた。鬼は距離を取ったりフェイントをかけたりしながら狡猾に攻撃を仕掛けてくる。
「流石に封印されてただけの事はあるね‥知能の割にすばしっこい」
五月は少し汗を拭うとより集中した。そして小一時間ほどの攻防の末にようやく鬼を仕留めるとやれやれと溜息を吐く。
「まだまだ剣筋が甘い‥初撃はともかく相手を確実に捕らえた時は一撃で仕留められるようにならんとな‥」
「うん‥もっと精進するよ」
人の姿に戻ると征嗣が溜息交じりに呆れ、五月は申し訳無さそうに返した。そして呼吸を整えてから二人で車の方へ戻りながら五月は指定領域を解く。またいきなり虚空から五月達が現れたのを見て責任者は慌てて車から降りて二人に駆け寄ってきた。
「無事に鬼は退治しました‥もう大丈夫ですよ」
五月がにっこり微笑んで言うと責任者は脱力しながらホッとしたような表情を浮かべる。
「ありがとうございます!
本当にありがとうございます!」
そして涙ながらに五月の手を取って祈るように何度も礼を告げた。
「えと‥それと少しお願いが在るんですけど‥」
五月が照れながら苦笑しつつ切り出すと責任者はようやく顔を上げる。
「何でも仰って下さい!
出来る事なら何でもさせて頂きます!」
「じゃぁ、小さくても見えない位置にでも構わないので鬼を供養する為の社か祭壇をあの周辺に用意して貰えますか?
鬼の本体はもうあの場所に無くても数年は影響が残るので‥それにそういった物を置く事で今まで亡くなった方の供養にもなりますし他の雑多なモノも寄って来なくなるので今後の事を考えるとそれがベストですから‥」
力強くそう返事をする責任者を見ながら五月は言った。
「分かりました!
早速、手配させて頂きます!」
「今回の事は僕の方からも泳法寺さんにお伝えしておきますからそちらと相談して決めて下さいね」
「はい、本当にありがとうございました!」
「じゃぁ、僕達はこれで失礼します」
五月達はそう別れを告げると車に乗り込んで去って行く。責任者はその後方で何時までも頭を下げていた。
モールの駐車場を出て宿へ進路を向けると五月は長い溜息を吐く。
「流石にあれだけ動き回って疲れたか?」
「そうで無くて‥ああいう言い方をしたけど実際、場所自体が余り良く無いんだよね
元々なのか鬼が封印されていたからかは分かんないけどさ‥奉安和尚もそれに気付いてたから早々にこっちに話を持って来たんだろうけどまた乗せられた感じがして複雑な気分だよ」
征嗣が薄く微笑みながら聞くと呆れたようにもう一度、溜息を吐きながら五月が答えた。この泳法寺の奉安と言う僧侶は五月達の常連であり、ちょっとした曲者なのである。人を使って労せず自分達が描く流れに持って行くのが大変巧かった。何時も事が済んでしてやられたなという気分にさせられる。勿論、双方にとってメリットしか無いようにはなっているが何か引っ掛かりが残るのだ。特に新人の五月はよくこき使われた。
「まぁ、結果的にオーライだから文句は無いんだけどさ」
諦めたように脱力しながら微笑んで締め括ると五月はコンビニに車を付ける。
「僕、寝る前にちょっと何か食べるけど先生はどうする?」
「そうだな‥俺も少し何か腹に入れておこうか‥」
五月がそう言いながらシートベルトを外し、車を降りると征嗣も返して車を降りた。
「あ‥軽食見る前に僕、ポテチ取ってくる」
五月はそう言ってスナック菓子のコーナーへ脱線する。征嗣はそれを呆れながら見て溜息を吐くと軽食のコーナーの方へ歩いて行った。そしてポテチ片手に戻って来ると征嗣の持つ籠に掘り込んで軽食を物色する。
「う~ん‥サンドイッチとパスタ‥どっちにしよう‥」
顎に手をやり考え込んでいて五月は何かに気付く。
「あ‥そろそろ髭剃らないと‥」
「まだ目立たないだろ?」
顎を摩りながら五月が言うと征嗣は五月の顔を見ながら返し、天そばを取って籠に入れた。
「体毛薄いから目立たないかもだけど結構、伸びてる気がする‥ちょっと髭剃りも買ってくよ」
五月はそう言うとサンドイッチを籠に入れて日用品のコーナーの方へ回り込む。征嗣もその後ろに続いた。
「えーっと‥髭剃り髭剃り‥」
呟きながら髭剃りが無いか探していると避妊具が目に入って五月は一瞬、固まる。
「此処に在るぞ」
「え?ああ、ありがとう!」
征嗣が後ろから手を伸ばして髭剃りを取ると五月は慌ててそう言いながら身を引いた。せっかく仕事でそういった事を忘れていたのにまた征嗣の事を意識してしまう。
「他に買う物は有るか?」
「それで大丈夫‥僕、先に戻ってるね!」
五月は返事をしながら赤くなった顔を見られないように慌てて車へ戻った。
〈どうも意識しだすと居た堪れない‥〉
車に乗り込んで長い溜息を吐きながら考えて徐にシートベルトをする。そして征嗣が車に乗り込むと出来るだけ平静を装いながら車を出して宿へ戻った。
翌日、五月は征嗣を宿に残し悠の家へ向かう。朝食の後、連絡をしたら遊びに来ないかと誘われたからだった。宿から車で10分程度の所に悠が居候しているという祖父の家がある。言われた家の前に車を停めて五月はベルを鳴らした。少し古ぼけてはいるが瓦屋根で田舎独特のどっしりした家だ。
「いらっしゃい、入って入って‥」
嬉しそうに悠は五月を招き入れた。
「大きい立派な家だね‥手入れが大変そう‥」
「此処は母方のお爺ちゃんちなんだけど母さん、7人兄弟なんだよ
兄弟が多いからこれでも当時は狭かったんだって‥今は皆、街や地方に居るから爺ちゃん一人だけだけどさ
去年、婆ちゃんが亡くなるまで小奇麗にしてたんだけど爺ちゃん一人になったら手が回らなくて俺とか従兄弟がちょいちょい様子見に来るようにしてたんだ‥けど、俺が暫くこっちに居る事になったから今は俺が爺ちゃん手伝って皆が何時でも泊りに来れる様にしてるんだよ」
「へぇ、そうなんだ‥お爺さんは?」
「今、畑に行ってる」
「畑仕事なんて元気だね」
「畑が爺ちゃんの唯一の楽しみだから‥ほら、道の向こうに畑があったろ?
そこがうちの畑なんだ‥俺も手伝ったりするよ」
「あ、そう言えば畑に人が居た!」
「そうそう、それがうちの爺ちゃん」
二人で話しながら廊下を進んで二階に上がり悠の部屋に通される。悠は五月に適当に座るように言ってお茶を取りにまた階下へ降りて行った。窓の外を眺めると道向かいに畑が見えて悠の祖父が畑仕事をしているのが見える。その様子を微笑ましく見ているとお茶と茶菓子を持って悠が戻って来た。
「此処から畑がよく見えるんだね」
「うん‥畑もよく見えるし此処が一番、景色が良いんだよ
隣の部屋も良い感じだけど半分山しか見えないし‥俺は何時も此処に来たらこの部屋をキープしてるんだ
皆は下の方が広いから下の部屋を気に入ってるんだけどな
二階は三部屋とも狭いから一部屋は物置になってるよ」
五月が微笑んで小さなちゃぶ台の前に座りながら言うと遥はお茶を差し出し微笑み返す。そしてまたあれこれ他愛もない話に花を咲かせ笑いあった。時折、悠は付き合ってきた相手男性の話もしてくれて聞く限り、五月とは全く正反対のどちらかというと征嗣のような感じが好みらしい。五月も自分が15歳まで女として育てられてきた話などをしてお互い知らない世界に興味津々で質問し合った。
「おーい、悠‥そろそろ飯にすんぞぉ!」
時間も忘れて話していると下から悠の祖父が叫んだ。
「もうそんな時間なんだ‥」
五月は驚きながらスマホで時間を確認するともう12時を回っている。
「あ‥つい、楽しくて話し込んじゃった‥時間とか大丈夫?」
「うん、今日も一泊して明日の朝帰るから‥明日ちょっと寄る所があるんだよ
今日は先生も適当に観光して来るって言ってたから夕食までに帰れば大丈夫
悠さんさえ良ければ今日は一日付き合うよ」
心配げに悠が聞くと五月は微笑んで答えた。
「俺はそうしてくれると嬉しいよ
じゃぁ、一緒に下へお昼食べに行こう」
悠が嬉しそうに言って立ち上がると五月も頷いて立ち上がる。そして悠の祖父お手製の昼食を一緒にご馳走になった。
「めちゃくちゃ美味しかった‥お爺さんって料理上手だね!」
「うん、お婆ちゃんも上手だったけどお爺ちゃんも料理するの好きなんだよ
学校卒業してすぐの頃は街で板前やってたらしいからね
街に出て7年務めた後にこっちの手が足りなくなったんで戻って来て親のやってるこの畑を手伝うようになったんだって‥」
食後のコーヒーを飲みながら部屋に戻って来て二人で話す。また話の続きに花を咲かせて不意に会話が途切れると遥は少し寂しそうな顔をした。
「本当はあの人と一緒に此処に戻って来てお爺ちゃんの手伝いをしながら一緒に暮らすつもりだったんだ‥でもやっぱり子供が欲しいってフラれちゃってさ」
そう呟きながら少し目を伏せる。五月は何と言葉をかけて良いのか分からず少し戸惑う。
「悪い‥こんな話して‥でももうだいぶ吹っ切れては来たんだ
此処で爺ちゃんと畑したり家の手入れしてたらさ‥また新しい恋愛すれば良いやって思えるようになってきたから‥」
困ったように微笑んでそう強がってはいるが少し涙目になっていた。
「そっか‥もしかしてそれであの淵に行ってたの?」
五月は少し安心しながらもふとあの淵に居た訳を察して聞いてみる。
「うん、あの淵の話は俺も知ってたから‥また新しい出会いがありますようにってね
でも朝行くのはまだ辛かったからあんな時間に行ったんだけど‥こうして五月君みたいな人と仲良くなれてある意味では効果覿面だったなって思ったよ」
「はは、確かに‥こんなに話が合う人と仲良くなれるなんて僕も思ってもみなかったよ」
「五月君は彼女とか好きな人は居ないの?」
不意に聞かれて五月は少し赤くなり返事に詰まった。
「えと‥彼女とかは居ないよ
そういう事を考えた事も無かったし‥でも、さっき話した知り合いにそういう場所に連れて行って貰って初めて女の人とそういう事してからなんか目覚めちゃったって言うか‥性的な事?
凄く意識するようになって‥でも女性にって言うより先生の事が気になっちゃってさ‥何か僕もゲイなんじゃないかって最近思うようになっちゃってるんだ」
五月は照れながら視線を泳がせて打ち明けてみる。話題の中で五月は自分の知り合いにも結婚していながら男性と関係を持っている知人がいると明希と琴吹の事をそれと無く話していた。
「そうなんだ‥でも、女の人と普通にそういう事出来たんなら別にゲイって訳でも無いのかもしれないよ?」
少しフォローするように悠は苦笑した。
「普通って訳でも無かったけど‥何か知らない間に終わって気を失って寝ちゃってた感じだし‥」
「そうなの?」
五月は困惑しながら答えつつ少し上目遣いに悠を見ると遥は釣られて赤くなりながら聞き返す。
「うん‥だからあんまりよく覚えて無くて‥でも、気持ち良かった意識だけは凄くあるんだよね」
そう言って少し思い出し、より顔を赤くしながら目を伏せて溜息を吐いた。
「相手はどっちでも初体験が気持ち良かったんなら良い方じゃないか?
俺は初体験の時、痛かった記憶しか無いや‥中学くらいから薄々、自分がゲイなんだって自覚はあったけどずっと家族や周りには隠してたんだ
高校の時に通ってた塾に大学生のバイト講師で凄く素敵な人が居て始めはただ憧れだけだったんだけど仲良くなって部屋に遊びに行ってる内に何となく流れでそういう関係になっちゃってさ‥凄く優しくしてくれたんだけど三回目くらいまでは痛かったよ
でも、その人‥その気のある生徒に片っ端から手を出してたみたいでそういう行為に慣れた頃にはもう相手にされなくなって‥ちょっと苦い思い出だけど今じゃ、ゲイをちゃんと自覚させてくれたって少し感謝してるかな」
五月に応えるように悠は自分の初体験の事を笑い話にして返す。
「やっぱり男同士って痛いの?」
五月は赤くなりながら興味津々で身を乗り出すように聞いた。
「そういう風に出来て無い器官だから初めの方はね‥でも慣れたら気持ち良いよ
だから初めは上手い人に慣らして貰えれば良いかもしれないな
俺も相手が慣れてたからすぐに気持ち良くなったけど慣れて無い人だったら暫くまともに歩けなかったと思うよ」
苦笑しながら悠が答えると五月は生唾を呑んだ。また無意識に征嗣とそういう事をしている妄想が頭を過る。
「そ‥そうなんだ‥
でもやっぱり付き合うとなるとそういう流れになっちゃうよね」
その妄想を打ち消すように少し慌てた後、五月は視線を逸らせつつ難しい顔で呟いた。
「肉体関係以前にもし五月君が真剣に想ってるなら隠さずちゃんと打ち明けた方が良いかもよ?
結果はどうあれそうしないと自分の気持ちだけ宙ぶらりんって一番辛いからさ」
悠はそう言うと寂しげに窓の外に視線を向ける。
「遥さんはそうだったの?」
五月はその表情に終わった悠の恋愛事情を察して聞いてみた。
「うん、別れた彼と少しね‥彼は元々、ノーマルな人だったんだ
だから何度も諦めようとしたんだけど諦めきれなくてさ
それで思い切って告って始めは断られたんだけど友達でも良いからって言ったらその内に恋人として付き合うようになってくれて‥俺があんまり落ち込むから同情したのかもしれないけど嬉しかった
それで付き合い始めて一年ほどした時に彼が仕事先の女性の事をよく話すようになって‥それでその人に気持ちが揺れてるんだって気付いたんだけど認めたくなくてさ
でも嫉妬してるってバレたら嫌われるんじゃないかってずっと平気な振りしてた
その内にもう彼の気持ちが俺に無いって分かってたのに自分の気持ちだけ宙ぶらりんなままずっと惰性で付き合ってたんだよ
でも去年の終わりに自分は子供が欲しいからもう俺とは付き合えないって言われちゃったんだ
その頃にはセックスもしてなかったから覚悟はしてたんだけどいざハッキリ言われるとショックでさ
大学も行かずに引き籠って留年しちゃって‥身体もボロボロだったから親に療養しろって言われて大学を休学して此処で一年過ごす事にしたんだ」
悠が傷をなぞるように打ち明けると五月は何とも言えない表情になる。
「言っとくけどもうちゃんと自分の中では終わってるから大丈夫‥ただ、まだちょっと傷が癒えきって無いだけなんだ
結果はこんな事になっちゃったけど彼がちゃんと俺に向き合ってくれたから俺も自分の気持ちとも向き合ってまたこうして立ち直ろうって思えるようになった
だからどんな結果になっても自分の気持ちは誤魔化しちゃダメなんだよ」
悠は五月の心情を察して困ったように微笑んで言った。
「遥さんは強いんだね‥僕はもし気持ち悪がられたらどうしようって委縮しちゃうよ」
「俺も始めは恐くて告白なんて出来たかったさ‥でも恐いより好きの方が大きかったから‥半分、勢いで言っちゃったって言うのも有るけどね」
感心するように五月が言うと遥は苦笑する。
「でもさ‥男と女とか男同士とか関係無く自分の気持ちを伝えるのって恐いと思うんだ
相手に拒絶されたらどうしようってのはどんなカップルでもある事だから‥でも恐怖より好きが勝るんならその時はちゃんと向き合うべきだと思うよ
その方が前を向けるからね」
悠は付け足して優しく微笑んだ。
「そっか‥そうだよね‥男でも女でも変わんないよね‥」
五月は悠の言葉全てが腑に落ちて納得した。
「僕‥先生に打ち明けてみようかな‥」
「うん、頑張って!
それに五月君の場合、ゲイって訳でも無いと思うよ
多分、永藤先生だから好きになったんだ‥だからあんまりそういうのに捕らわれないで良いと思う」
五月が恥ずかしそうに俯きがちに呟くと遥は背中を押す。そう言われると何だか嬉しいようなこそばゆいような気分になり、照れながら五月は微笑んだ。
それからまた談笑しつつ日が傾き始めると五月は悠の家を後にする。
「また連絡するし時間が出来たら遊びに来るね!」
「うん、俺も近くまで行く事が有ったら連絡するよ」
別れ際、そう言葉を交わし二人は別れた。宿に戻るとまだ征嗣は戻っていなくて五月は少しホッとして溜息を吐き、景色を眺めながら征嗣が戻って来るのを待つ。
「何だ‥もう戻ってたのか?」
時間を置かずに征嗣が戻って来ると五月は少し緊張した。
「うん、あんまり遅くなると心配するかと思って‥それに最終日だからのんびり温泉にも浸かりたかったし‥」
五月は慌てて誤魔化すように返す。
「そうだな‥此処の湯は心地良いから今日はのんびり楽しむのも良いかもな‥
今日は人も少ないようだし夕食までまだ時間が有るから先に一度、入りに行くか?」
「うん」
征嗣が言うと五月は意を決したように返事をした。上手くすればそれと無く想いを打ち明けようかと考えているのだ。二人は支度すると早速、温泉へ向かう。
「人が少ないせいか今日はちょっと寒いね」
少し薄暗くなってきた露天に入ると五月は身を縮めながらかかり湯をして早々に湯に浸かる。
「身体が冷えてるんじゃないか?
昨日とあまり変わらんと思うが‥」
征嗣はそう言いながら平然とかかり湯をして同じく湯に浸かった。
「今日は何処に行ってたの?」
まず当たり障りない話から五月は入り、征嗣の答えに応じて話を進める。その内にまばらに居た人も捌けて来て五月達だけになった。五月はどう伝えようかと何となく征嗣の方を見て何かに気付く。
「先生、虫に刺されてるよ?」
丁度、右の鎖骨辺りにほんのり赤い跡があった。五月が少し身を寄せてそれを確認しようとすると征嗣は少し身を引いて口元を押さえる。
「いや‥これは虫刺されじゃない‥気にするな‥」
少し頬を染めながら返す征嗣に五月はピンと来てしまう。あの初体験の翌日も征嗣の身体には同じような跡があったのを五月は覚えている。
「先生‥もしかしてそういう所にも行ってたの?」
少し疑うような眼差しで五月は征嗣を見た。
「俺は人を喰わんがそれなりに人の生気がいる‥今まで黙っていたのは謝るが大目に見てくれ」
征嗣が少し視線を外したままキスマークを手で隠すと五月は小さく溜息を吐く。
「別に責めるつもりは無いよ
先生の事情はある程度、唯天さんからも聞いてるから‥先生にとっては食事のようなモノなんでしょ?
でも隠れてコソコソそういう事されると傷付くよ
僕だって何時までも子供じゃ無いんだしさ」
五月は少し拗ねたように視線を下げた。
「悪かった‥」
素直にそう謝る征嗣の方をチラッと五月は見る。その表情が単なる言訳と言うよりまるで恋人に浮気を咎められているような表情に見えて何だか淡く期待してしまう。
「別にその人が好きで抱いてる訳じゃ無いんだよね?」
「まぁ、俺も男だからな‥生気を貰いながらそっちも処理をしているという感じだ」
五月がまた視線を逸らして聞くと征嗣も視線を合わせないまま正直に答えた。その後、言葉が出ずにお互い沈黙が続く。
「そろそろ食事の時間だ‥上がろう」
「うん」
征嗣がそう言って立ち上がると五月は小さく返事してそれに続いた。それから黙って食堂で二人は食事を始める。
「はい、これ今日頂いた差し入れ」
気不味い中、何時もの調子で男性が追加で鯉の洗いを持って来てくれた。
「わぁ、美味しそう!」
「あちらのお客さんが近くの池で釣って持って来て下さったんですよ」
五月が感激しながら返すと男性は向こうの席を視線で指しながら説明した。するとそちらの席に座る初老の男性グループがにこやかに手を振る。五月と征嗣は微笑みながら感謝を込めて会釈した。その後も男性は他の席へ同じように鯉の洗いを配って回っている。
「本当に常連さんが多い宿なんだね」
「そうだな」
五月が微笑みながらそう言って鯉の洗いに箸をつけると征嗣も返しそれを摘まんだ。お陰で少し険悪だった雰囲気が一気に和んでまた二人は少しずつ元通り会話が出来るようになる。満腹になった二人は部屋に戻ると温泉には行かず満足して布団に横になり、結局そのまま朝まで寝てしまった。
翌朝、早めに二人は朝食を取って宿を出る。「約束は昼くらいだけど何処かに寄り道する?」
「俺は別に寄りたい所は無いがお前が何処か寄りたいなら寄っても構わんよ」
五月が聞きながら車に乗り込むと征嗣も乗り込んで答えた。もう何時も通りの感じに戻っている。
「僕も別に寄りたい所は無いからとりあえずドライブがてらちょっと遠回りして街中じゃ無くって山道を行こうかな‥」
五月は溜息交じりに呟くと車を出した。来た方向と反対へ進路を取って目的地へ向かう。少し窓を開けて走ると風が心地良い。景色の良い山間を抜けてとある神社の駐車場に辿り着くと五月達は車を降りる。
「まだ誰も来てないみたいだね」
「約束の時間までまだ二時間は有るからな‥少し辺りを見て周るか?
それとも先に神社に入るか?」
辺りを見回して五月が言うと征嗣は返して辺りを同じように見てから神社のある石段の上を見上げた。
「うーん‥どうしようかな‥あ、向こうに何かお店がある
まだ早いしちょっと行ってみようよ」
もう一度、車道に出て左右を眺めて五月が来た方向と逆方向を指差す。二人でそちらへ歩いて行くと其処は細やかな日用品と団子や焼餅を売っているような小さな商店だった。店の前にはベンチも在って其処で食べれるようにもなっている。
「わぁ‥美味しそう」
店主がみたらし団子を炭火で焼いていて五月はそう言いながら覗き込んだ。
「焼きたてで美味いよ」
「じゃぁ、二本下さい」
店主が微笑んで言うと五月は二人分頼む。すると店主は焼いた餅を餡にどっぷり漬けて出してくれた。二人はベンチに座ってそれを食べる。
「おいひい!」
それを頬張り、はふはふとしながら五月が言うと征嗣も口を付け、団子を堪能していると店主が紙コップでお茶を出してくれる。
「見ない顔だけど観光かい?」
「いえ、ちょっと其処の神社で人と待ち合わせしてるんです‥まだ時間には早いなと思ってたら此処が目に入ったので来てみたんですよ」
店主が聞くと五月は返しながら会釈してお茶を受け取った。
「ああ、そう言えば神社に偉い人が来るって言ってたな‥君達もその関係者なのかい?」
「関係者とまでは行かないですけど知り合いなんです」
「そう‥だったら時間潰しにこの下の川から山の景色を見て来ると良い
今の時期は紅葉した落ち葉が水面に漂ってて山の紅葉も映えて綺麗だから‥」
「じゃぁ、行ってみます‥ご馳走様でした」
店主に教えて貰った道を下り河原に出ると確かに水面に紅葉した落ち葉が漂っていて眼前に見える紅葉と合わさりとても綺麗だった。
「こういう景色は秋の醍醐味だよね」
嬉しそうに五月は言いながら屈んで水面に流れる落ち葉を拾って微笑む。
「そうだな‥こういう景色だけは今も昔も変わらない
何だか時の流れを忘れさせる」
征嗣は返し、景色を眺め少し寂しそうな顔をした。まるで誰かを恋しく思うようなその表情に五月の胸は痛くなる。
「先生は‥恋愛の対象として初代・殺鬼が好きだったの?」
五月は視線を水面に戻すと今まで聞けなかった事を思い切って聞いてみた。やはり征嗣は何も答えず沈黙が流れる。
「そろそろ神社に戻ろう‥」
暫くの沈黙の後、征嗣はそう言って五月に背を向けた。
「先生、僕は‥」
「殺鬼は‥大事な弟子だった‥それだけだ」
五月は慌てて立ち上がりその背中に何かを言いかけたがそれを征嗣は振り返らず遮る。
「行こう‥」
そうして続けるとまた歩き出す征嗣に五月は何も言えなくなって後に続いた。神社まで戻って来ると龍王院家の眷属達が慌しく駐車場と神社を往復していて五月はその中の見知った眷属を見つけて挨拶をする。
「お話は伺ってます
もうすぐ琴吹様も入られると思いますので先に社務所の方へ行って下さい
他の者にも話は通っていますから問題ありませんよ」
「ありがとうございます
ではそうさせて頂きますね」
眷属に言われ五月は境内に続く石段を上がるが先程の事が有って征嗣と話す気にはなれなかった。二人で黙ったまま社務所の貴賓室でお茶を頂く。気不味い空気で居た堪れない。
「お待たせー!」
暫くして何時もの調子で琴吹が部屋に入って来ると五月はホッとした。
「ご無沙汰してます‥本日は見学を許して頂いて‥」
「堅苦しい挨拶は良いって‥それより近くで仕事してたんだって?」
五月と征嗣が席を立って頭を下げ挨拶すると琴吹はそれを遮って上座に腰を下ろす。五月は泳法寺の奉安から依頼を受けた経緯を説明して行った仕事内容も話した。
「はは、相変わらずあそこの住職は曲者だよね
まぁ、曲者の多いお山で修行するとそうなるんだろうけどさ」
苦笑しながら琴吹は言って傍に控える真十郎に軽く合図をする。
「とりあえずお昼ご飯にしようか‥二人もお腹減ってるでしょ?」
「恐れ入ります‥ご馳走になります」
琴吹がにっこり微笑むと五月は遠慮なくそれを受けた。そして三人で昼食を取り、食後のコーヒーを飲み終えると真十郎が呼びに来る。
「琴吹様、奥宮へ行く準備が整いました」
「分かった‥じゃぁ、行こうか五月君
悪いけど奥宮は鬼が入れないからこっちで待てて貰えるかな?
待ってる間、こっちに居る眷属と此処で寝泊まりしてくれて良いからさ」
真十郎が声をかけると琴吹は五月と征嗣に言った。征嗣は頷きそのまま去って行く二人を見送る。
「此処の奥宮に鬼は入れないんですか?」
「うん‥他の所は使役者さえ居れば入れる所もあるけど神様の質に因るんだよ
此処の奥宮は鬼人でさえも入れないらしいからかなり気難しいんじゃない?」
廊下を歩きながら五月が聞くと琴吹は苦笑しながら答えた。そして社務所を出ると奥宮に続く山道を登って行く。1kmほど登った所に奥宮と小さめの社務所があり、奥宮の祭殿前には祭礼の準備をする眷属達で溢れかえっている。
「祭礼は今日の夕方から明日の昼までだから適当に仮眠取ってくれて良いからね
君が見ておいた方が良いのは夜中に上げる奏上の部分だから其処はしっかり見ておいて‥分からない事は真十郎に都度、聞いてくれれば良いからさ
俺は夕方まで少し仮眠取って準備するけど五月君はどうする?
一緒に仮眠取るかそれとも眷属のやってる仕事を見て周る?」
「じゃぁ、ちょっとだけ眷属方の仕事を拝見して仮眠を取らせて頂きます」
「分かった‥じゃぁ、後は頼んだよ真十郎」
「承知しました」
そう言うと琴吹は社務所の方へ行き、五月は真十郎に連れられて眷属の仕事を見学しながら何をしているのかの説明を受けた。そして一通り周ると社務所へ行き、仮眠を取らせて貰う。
どれくらい眠ったのか表から聞こえて来る太鼓の音で五月はハッと目を覚ました。時計を確認するともう祭礼の始まる時間で慌てて五月は身なりを整え社務所を出る。
「すみません‥少し寝過ごしてしまいました」
祭礼を見守る真十郎の傍まで行くと五月は小声で謝った。
「まだ祭礼に入ったばかりです
暫くはご挨拶や祓だけですしもう少し休んで来られても大丈夫ですよ」
「いえ、出来るだけ拝見出来る処はさせて下さい」
真十郎が微笑んで小さく返すと五月は居住いを正す。普段の琴吹からは想像出来ないくらい厳かにそして華麗に術式が展開され祭礼は進んで行った。その一つ一つの所作や術式に五月は魅了される。一部は上級眷属以外に秘されて進んで行き、その間だけは五月も下級眷属と共に社務所で休憩を取った。
そして翌日の昼頃、無事に祭礼が全て終了すると五月は興奮冷めやらぬ状態で琴吹に控室に呼び出される。
「どうだった?」
「最高でした!凄く勉強になりました!」
琴吹が着替えながら聞くと五月は興奮気味に感想を述べた。
「それなら良かったよ」
琴吹が微笑んでそう言うと五月はその後も自分がどれだけ感動したかを弾丸のように続け、流石の琴吹もそれには少し引く。
「ストップ‥俺は今日、此処で睡眠を取って明日の早朝もう一回少しだけ祝詞の奏上をして帰るんだけど五月君も一緒に泊まるかい?」
「はい、是非!」
余りに喋り続ける五月を見兼ねて琴吹が提案するとすぐに五月は返した。それから広間の方へ移ると二人で昼食を取りながら続きを話し、食事を終えると一緒に布団を敷いて貰って横になりながらまた話す。琴吹は五月の質問を微笑ましく聞いては優しく答えてやった。そうしている内に二人とも疲れていたのかぐっすり眠ってしまう。
翌早朝、琴吹が目を覚ますと五月はまだ夢の中でその寝顔に思わずクスッと笑みがこぼれた。
〈何だか光一を思い出すなぁ‥〉
琴吹は寝そべったまま笑顔でそう思いながら五月の寝顔を見つめる。暫くそうしていると五月が目覚めて琴吹と目が合った。
「おはよう」
「あ、おはようございます!
また僕、寝過ごしちゃいましたか?」
琴吹が笑顔で言うと五月は慌てて身体を起こして返す。
「大丈夫だよ‥まだ皆寝てるし‥
あと小一時間はのんびりしてて良いよ」
琴吹がそう言うと五月はホッと胸を撫で下ろした。
「それより目が覚めたんなら散歩にでも行くかい?」
「えと‥僕まだちょっと‥」
琴吹が身体を起こして座ると五月は少し赤くなりながら前のめりになる。
「朝勃ち中?」
琴吹が首を傾げながら聞くと五月は更に赤くなりながら小さく頷いた。
「正常な証拠だし別に恥ずかしがる事じゃ無いよ
俺だって普通にするしさ」
苦笑しながら琴吹はそう言うと水差しから水を入れて飲んだ。
「そう言えばせっかく来たんだしうちの眷属で気に入った子がいればお見合い設定しても良いよ
明希ちゃんからも手頃な女の子が居れば紹介してやってくれって言われてるし‥」
思い出したように琴吹が続けると五月は戸惑ったような表情で視線を泳がせた。
「えと‥その‥まだ全然、そういう事は考えて無くて‥」
「何だ‥好きな人居るの?」
言い難そうに五月が返すと空かさず琴吹は聞く。
「好きな人と言うか‥その‥上手く言えないんですけど‥」
五月は答えに詰まりながら征嗣に抱えている気持ちを言おうかどうしようか迷った。
「もしかして五月君もゲイだったりするの?」
ズバリ琴吹が聞くと五月は真っ赤になって固まる。
「そ‥それはまだよく分からないんですけどその‥気になってる人が男性で‥その‥」
五月はどう説明しようかとしどろもどろで返して言葉に詰まった。
「そんなに慌てなくても責めたりしないって‥俺もゲイだし‥
それより気になる人って誰?」
苦笑しながら琴吹が宥めると五月は少しホッとする。それからぽつりぽつりと自分が征嗣に抱いている想いを打ち明け始めた。
「なるほどね‥」
黙って話を聞いていた琴吹は五月の心情を理解するとそう言って溜息を吐く。
「これが恋愛なのかどうなのか僕自身もよく分からなくて‥」
五月は少し思い詰めたような顔でそう呟いた。
「まぁ、憧れから恋愛に発展する事も多いけどただの淡い恋心が性欲で倍増されちゃったのかもしれないね
それに関してはちょっと俺も責任を感じちゃうよ」
琴吹は宙を見上げながら少し反省したように言う。五月の初体験以前に明希と琴吹の行為が引き金になっている感が否めないからである。
「そんな‥琴吹様のせいじゃ無いです」
「いや、唯天や征嗣にも怒られたけどやっぱり俺と明希ちゃんの事が刺激になってると思うよ?
人ってハードル下がるとそっちに引っ張られるモンだしさ‥その上、寝た子を起こした状態になったら止まんないよね」
慌てて五月がフォローしたが琴吹は冷静にそう分析して苦笑した。
「でも‥ちゃんと奥さんを貰って家を継いで行かなきゃいけない事も分かってるんです
だから気持ちの整理がつかなくて‥それに先生が好きなのは初代・殺鬼なんです
それは先生を見てて痛いほど分かるから‥」
泣きそうな顔で五月が俯いて言うと琴吹はそっと五月を抱き締めてやる。
「大丈夫だよ‥征嗣に好きな人が居ようが居まいが関係無い
大事なのは五月君の気持ちだよ
誰が何て言ったって五月君が納得出来る未来を選択していけば良いんだからさ‥どれだけ制約があったって心は自由で居て良いんだよ
俺は何時だって君の味方だからね」
琴吹の言葉に五月は何だか救われた気がしてその胸の中で泣いた。
「琴吹様‥お目覚めですか?」
「うん、起きてるよ」
丁度、五月が落ち着いた頃、真十郎が襖の向こうから声をかけてきて琴吹は返す。
「ではお食事をご用意していますので広間の方へお越し下さい」
「うん、すぐに行くよ」
琴吹が真十郎に返すと襖の向こうにあった気配が去って行った。
「すみません‥何だかみっともない所をお見せしてしまって‥」
「良いよ、良いよ
それより朝ごはん食べ行こう」
申し訳無さそうに五月が言うと琴吹は微笑んで立ち上がり、五月もそれに続いた。それから二人は眷属達と朝食を取り、五月は丁寧に礼を言って先に奥宮を出る。そして神社まで戻って来ると待っていた征嗣と一緒に神社を後にした。
「祭礼はどうだった?」
「もう凄く感激した‥やっぱり琴吹様って最高過ぎるよ」
征嗣が聞くと五月は感無量と言った感じで返す。祭礼の技術は勿論だがやはりその人柄に惹かれるのだ。一見、軽くていい加減そうに見えるが人の事をよく見ていて気持ちさえ汲んでくれるその慈悲深さに五月は益々、琴吹のファンになった。気持ちが琴吹に向いているせいか以前の気不味さはすっかり忘れて五月は何時ものように話し続ける。その様子に征嗣もホッとして二人は帰路に着いた。
帰って来ると珍しく唯天が居て五月はお土産を渡しながら琴吹の祭礼がいかに素晴らしかったかを弾丸のように喋り続ける。
「まぁ、四神四家の当主だからな‥智裕様のもそれは見事なんだぞ」
唯天は困ったように微笑んでそれを聞きながら返す。
「そうなの!?
智裕様のも一回見てみたいなぁ‥」
五月は返し、羨ましそうに琴吹の祭礼を反芻しながら目を閉じた。
「それより仕事の方はどうだった?」
唯天が苦笑しながら聞くと五月はそうだったと思い出したように報告をしていく。状況と行った処置を全て報告し終えると唯天は満点を出してくれた。
「そろそろ本格的に一人立ちしても大丈夫そうになって来たな‥もう少し重めの仕事を幾つかこなしたら一度、広域依頼を受けても良いかもしれない」
「本当!?」
「ああ、咲衛門さんにもそう報告しておくよ
確かそっち方面で以前に住んでた家が在るだろ?
あそこは俺の仮屋の一つだから其処に住めるように手配をしておく
其処なら咲衛門さんの神社からもそう遠く無いから完全に修業が終わったらそのまま神社へ戻れば良い」
「やった!」
「言っとくがまだ少し先の話だからな‥順調に経験を重ねて半年くらいが目処だぞ」
「うん、予定通り行けるように頑張る」
二人で話しながら五月はようやく認めて貰えたと笑顔でお土産を唯天と摘まんだ。
報告を受けて暫くするとまた唯天は出て行ってしまい、五月は自室に籠って以前から読んでいた記録を読み耽る。今は術式関係の本から藤森家の鬼狩達の手記に移っていた。歴代の鬼狩達の仕事がその手記で垣間見える。
〈あれ?この恋ヶ淵の話ってあの恋ヶ淵の事だよね?〉
読み進める中で同じ名称が出て来てその上に聞いた話とも所々、一致していた。其処に描かれていたのは旅の途中で知り合いになった若君の話に始まり、悲恋の末に旅の男と心中した話であったが顛末が違っている。追い詰められた二人が淵に身を投げたまでは同じだがその後、旅の男はそのまま追って来た領主の配下に淵に沈められ、若君は助かったのではなく助けられたのだ。そして恋しい人を殺された怒りから鬼となり人々を襲ったのだと続く。そして鬼となった若君は友人でもあった三代目・殺鬼に成敗され、その切ない想いは祠で供養される事になったと締め括られていた。
〈あれは神様が居る祠じゃ無くって若君の想いが眠る墓標だったんだ‥きっと長い事、供養されてきたから落ち着いて神様みたいになっちゃってたんだね〉
五月は少し寂しそうに微笑むと若君の悲しみに想いを馳せる。そして暫くすると記録を読み進め始めた。
時間も忘れて読み進めていると五月は何か引っ掛かるような気がして更に集中する。何が引っ掛かるのかなかなか見えない。集中する余り征嗣が入って来たのにも気付かず、すぐ傍で声をかけられ五月はびくっとしてそちらに視線を向けた。
「どうしたのいきなり‥」
「いきなりじゃない、ノックもしたし何度も声をかけたぞ
全く‥集中するのは良いが周りに気を付ける事も忘れるな」
五月が慌ててそう言うと征嗣が呆れて溜息を吐く。
「ごめん‥」
「もう夕飯の時間だぞ‥昼も食べて無いだろう?」
「え?もうそんな時間!?」
慌てて外を見るともうとっくに日は落ちていて部屋も真っ暗になり、デスクの明かりだけが煌々と灯っていた。
「ほら、早く行くぞ」
征嗣がそう言うと五月はその後に続く。そうして夕飯が終わると五月は一度、リフレッシュしようと風呂に入った。
「こんな時間から何処かへ出かけるの?」
五月が風呂から上がると征嗣が出かける用意をしていて驚きながら聞く。
「ああ、咲衛門が俺に話があるそうだ」
「じゃぁ、僕も行くよ」
「いや‥一人で行く
恐らく俺の眠っていた封印の間に関する事だろう‥少し前に上の部分を工事すると言っていたからその件だと思う
どの道、明日、明後日は休みだからしっかり勉強しておけ‥ちゃんと飯は食えよ?」
五月も一緒に行こうとしたがそれを断り征嗣はさっさと出て行ってしまった。
「ちゃんと飯食えって‥僕、其処まで子供じゃ無いよ」
去った後に五月は小さく文句を言うとジュース片手に部屋に戻り読書の続きに勤しむ。気が付くと夜中になっていて征嗣に言われた事を思い出すと「分かってるよ」と虚空に呟き電気を消して床に就いた。
翌日も五月は朝食を最後に食事も忘れ、夢中になって読み進める。心に引っ掛かるモノにもうすぐ辿り着けそうな気がした。
「五月様?」
「うわ!びっくりした‥」
急に葵に話しかけられ五月は驚きながら椅子から転げ落ちそうになる。
「申し訳ありません、驚かせるつもりは無かったのですがお返事が頂けなかったので‥」
「ああ‥うん、分かってるよ
どうも集中すると声かけられても気付かなくて‥こっちこそごめんね」
葵が申し訳無さそうに謝ると五月は慌てて誤魔化し笑いを浮かべてフォローした。
「あの‥お食事を取られていないのでご様子を窺いに参りました
征嗣様から忘れているようなら声をかけて欲しいと頼まれておりましたので‥」
「ああ‥そう‥」
葵が説明すると五月はまた子供扱いすると思いながら時計を見る。するともう夜の8時を回っていて征嗣の懸念が正しかった事を思い知った。
「ごめん‥こんな時間だなんて全然、気付かなかったよ
もしかしてお昼も用意してくれてた?」
五月は申し訳無さそうに聞きながら席を立つと葵は躊躇いがちに微笑んだ。
「本当にごめん」
五月は反省の表情で葵を見る。
「いえ、それよりお食事されますか?」
「うん、お腹ペコペコだよ」
困ったように微笑んで葵が言うと五月はそう返し二人で部屋を出た。
食事を終え、風呂を済ませると五月はまた続きを読み始める。夕食の前に気付きかけたモノがどんどん形を成していくのが分かった。初めは何となく違和感があった程度だが読み進める内にそれはどんどん核心になって行く。江戸時代に入った辺りで五月は今まで読んでいた書物をひっくり返してもう一度、古い順に過去の「さつき」達の最後のページを開いた。
「やっぱりそうだ‥「さつき」以外の文献も年代順に通しで読んでたから気付かなかったけど「さつき」の名前を継いでる人だけみんな同じ歳で亡くなってる」
五月は呟くと呆然となる。それは五月にとって余命宣告にも近しいものだった。そして皆が五月に対し、微妙に結婚を急かせる訳もこれで腑に落ちる。
〈僕は‥30までさえ生きられない‥〉
五月はグッと拳を握ると込み上げるモノを押さえつけるように目を固く閉じ俯いた。
朝日に照らされ呆然と五月は窓辺で考える。結局、眠る事は出来なかった。時にただ悲しくて涙を溢し、時に皆の悲しみを想って打開策を練ろうとしたが何をどう考えても結局はなるようにしかならない。そう結論付けると五月はもうこの件の事を考えるのを止めようと決意した。ただ、皆が出来るだけ悲しまないよう逝ける努力だけはしようと思う。
〈みんな知ってたから僕にあんなに優しかったんだろうな‥〉
泣き腫らした目で少し俯いて溜息を吐く。五月は散らかったままのデスクを見ると立ち上がってパンと頬を叩いた。
「大丈夫‥最後までちゃんと出来るから!」
言い聞かせるようにそう呟き、五月は朝食を取りにリビングへと向かう。
「もしかして徹夜されたのですか?
酷い顔色ですよ?」
「何か夢中になっちゃってつい‥ご飯食べたら寝るからお昼は良いよ」
葵が心配そうに言うと五月は返して微笑んだ。そして黙々と食事を終えると「おやすみ」と言ってリビングを後にする。部屋に戻ると五月は倒れ込むようにベッドに入りそのまま何も考えないようにして眠りに就いた。
夕方、五月は目を覚ますと身体を起こし表をぼんやり眺める。丁度、日が傾きかけていて辺りは赤く染まていた。酷く重く感じる身体を無理やりに引き摺って散らかした本を片付け始め、続きの本だけデスクに置くと後は元通りに段ボールに収める。
〈あと半分くらいか‥〉
未開封の段ボールを眺めながら溜息を吐いた。今、読み進めている手記の後はいよいよ禁足事項についての文書に入る。それを読破すると読み物は終わり、後は咲衛門から口伝で伝えられる藤森家の諸々を継承し、晴れて24代目の「さつき」として正式に鬼狩となるのだ。藤森家で「さつき」を名乗れるのは五月で24人目という事であるが藤森家では数多くの鬼狩を輩出していて歴代・正統血統の鬼狩としては816人目の鬼狩であるらしい。全盛期には藤森家の本家と分家だけで10人以上の鬼狩が居た時期もあったようだ。今まで読んだ手記を見ても藤森家がどれくらい名門だったかそれで伺える。
〈重いな‥〉
五月は溜息交じりに自分の背負う重責を感じた。話に聞くだけでは頭で理解していてもそう実感としては無かったが手記を読み進めていく内にどんどん実感として湧いてくる。恐らく咲衛門も感じて来たであろう重責だ。五月は暗くなっていく外の景色を見ながらもう一度、溜息を吐くと部屋の明かりを灯す。そして今度は迷惑をかけないよう早めにリビングの方へと向かったのだった。リビングに行くと征嗣と唯天が帰っていて二人で何か話している。
「お、ちゃんと飯の時間に出て来たな」
五月に気付くと唯天が茶化すように言った。
「もう、唯天さんまで‥」
五月は何時ものように拗ねた感じで返すが内心は複雑である。それから皆で夕食を囲みながら何時ものように談笑した。
「それでお爺ちゃんの用事は?
やっぱり工事の事だったの?」
五月が聞くと征嗣は唯天の方を少し見る。
「いや‥実は五月がもうすぐ独り立ちするならと太刀を預かって来たんだ
今は借り物の刀を使っているが藤森家には「さつき」が使う専用の刀が在る
そろそろそれに慣れておいた方が良いというんでな‥」
「だがその刀は俺達、鬼狩も消耗する刀だからお前にはまだ早いんじゃないかってさっき話してたんだよ
だから使うなら暫くは二本持ちで相手の鬼に合わせて使い分ければ良いんじゃないかって‥」
征嗣が言うと唯天は補足した。
「そんな刀が在ったんだ‥初耳だよ」
「藤森の鬼狩でもこれが使えるのは「さつき」だけで俺にしか封印が解けないからな‥だから俺が呼ばれたんだ
俺は「さつき」が産まれない限り目覚めんし何より刀自体に妖気を孕んでいる
幾ら鬼狩でも下手をすれば喰われる事もある代物だ」
五月が驚いて言うと征嗣は箸を置きながら説明する。
「うちにもそういった代物があって俺は獲物より式にしている鬼を使うから普段は使わんが酷使すれば暫く色んな感覚が鈍る
だからお前も少しづつ慣らしていけよ
そう言った呪具の類は知らない間に精神力や生命力を消費するからな」
「うん、気を付ける
で?それって何処に在るの?」
また唯天が補足すると五月はまだ口をもごもごさせながら辺りを見回した。
「今は俺の中に在る
そこら辺に置いとけない代物だからな‥後で見せてやる」
「お、それなら俺も伝説の「黄泉媛の太刀」を見せて貰うとしよう」
征嗣が言うと唯天もワクワクする。
「黄泉媛の太刀?」
「初代、殺鬼が稀代の刀鍛冶に自ら力を込めた玉鋼を打たせて作った特別な妖刀だ
現存する呪具の中でも特級品だからな‥こんな機会はめったに無い」
五月が首を傾げると唯天が説明した。それを聞くと何だか五月も興味をそそられた。
食事を終えて少し休憩した後、三人で庭に出る。すると征嗣が己の胸元を右手で掴むように当てそれを前に出すとまるで身体から湧いて来るように一本の刀が現れた。そしてそれを完全に引き抜くと五月に手渡す。
「これが黄泉媛の太刀?」
その名前からもっとごてごてした派手な宝刀を想像していた五月は少し戸惑いながら聞いた。それくらいシンプルで質素な刀である。
「そうだ‥抜いてみろ」
征嗣にそう言われ五月は刀を鞘から抜いてみた。細めの刀身はまるで水の波紋のように繊細で美しく、まるで自ずから発光でもしているのかと錯覚するくらい辺りの僅かな光を反射している。
「流石、一級品だけあって美しいな」
唯天もその美しさに感嘆の声を漏らした。
「それに持ち手も凄くシンプルでありがちな感じだけど凄く手に馴染むね‥まるでオーダーメイドで作ったみたいに僕の手にフィットしてる」
五月は少しそれを振ってみるとそう言って驚いたようにまた刀を眺める。まるで手に吸い付いているかのように重さも殆ど感じない。
「実際、オーダーメイドだからな‥だが所持している間は常に力を吸い取られている事を忘れるな」
征嗣はそう言うと五月に刀を返すように促す。五月は刀身を鞘に納めて征嗣に手渡した。
「力を吸い取られるって言われても少し持ったくらいじゃ余り分からないね」
「まぁ、呪具も力の強弱に関わらず燃費の良いヤツと悪いのが有るからな」
五月は苦笑しながら言うと唯天も苦笑しながら説明する。そして三人でまた家に入ろうとして五月は何かに気付き足を止めた。
「どうした?」
「さっきご飯食べたばかりなのに何か小腹が減ってる気がする
結構、満腹食べたんだけどな‥」
征嗣と唯天が振り返ると五月は何だか不可解そうにお腹を撫でてそう言った。
「どうやらその刀は余り燃費が良い方じゃないのかもしれないな」
唯天がそう言って微妙な笑みを浮かべる。
「少し触れた程度でエネルギーをそれだけ持っていかれている証拠だな‥もう少し力の流れをコントロールする術を身につけた方が良さそうだ」
「なるほど‥エネルギー持ってかれるってこういう感じなんだね」
征嗣が呆れながら言うと乾いた笑みで五月は返した。
それから五月は修業を積み重ねながら藤森家について学びを進める。唯天が言ったように仕事も格段に難易度を増したモノを何とか消化出来るようになって来たある日の事、悠が五月の家を訪れた。
「何だかずっと連絡取り合ってたからあんまり久しぶりな感じがしないね」
「そうだな‥でもあれからもう3ヶ月も経つんだよな」
五月は悠を招き入れながら苦笑する。そして葵にお茶を出してくれるように頼んでから自室に案内した。
「今日はあの人は家に居ないのか?」
「うん、ちょっと唯天さんと用事で出かけてるんだ
まだ二日ほど戻って来ないから気兼ねなく泊まって行ってよ」
悠が聞くと五月は微笑んで返す。相変わらず取り留めも無い話で盛り上がりながら部屋に入るとあの時のように時間も忘れて二人でまた談笑した。細目に連絡を取り合っていたのでお互いの近況やあった出来事を把握している分、より話は盛り上がる。五月は自分が鬼狩という宿命を背負っている事もザックリとではあるが悠には話していた。悠も初めこそ驚きはしたがそれを受け入れた上で五月とこうして変わらず友人として付き合っているのである。そんな気心知れた関係であるからこそ幾ら話してもそれが尽きる事は無い。
「そう言えばあれからどう?
気持ちを打ち明けた?」
不意に悠が興味深げに聞いてくると五月は少し表情を曇らせる。
「それがさ‥結局、言えないままなんだ
でもなんかもうそれでも良いかなって自分の中で納得出来たって言うか‥こうしてずっと傍に居られるんだしそれだけで十分だなって思えるようになってきたんだよね
実際、今だって十分に甘えられてるし大事にしてくれてるしさ」
五月は誤魔化すように苦笑しながらそれに返した。自分の寿命を考えるともう征嗣に告白するという選択肢は無い。五月は己の恋心よりもこの先も続く征嗣の人生の心の安寧を少しでも守りたいと思った。征嗣や皆が望むように妻を娶り後世に藤森の血を残す。それが全てを理解した上での決断で「二十四代目・さつき」としての覚悟だった。
「そっか‥五月君がそれで良いと思うんなら俺は何も言わないけど‥
でももし辛いと思ったら何時でも話聞くから言ってくれよ?」
「ありがとう‥そうやって言ってくれるだけで僕は凄く心強いよ」
何かを悟ったように悠が躊躇いがちに微笑んで言うと五月は至極穏やかに微笑んで返す。もしかしたらあの恋ヶ淵の若君と三代目・殺鬼もこんな話をしていたのかもしれないとふと思った。
翌日、束の間の再開を楽しんだ二人は街へ出て少しショッピングを楽しんでから駅へ向かう。
「今度は僕が遊びに行くからね」
「うん、待ってるよ
あ、でももうすぐ復学するから爺ちゃんの所じゃ無くって一人暮らしのマンションの方に来て貰わなきゃだな」
「そっか‥今年の春からまた大学に戻るんだっけ‥」
「何だか久しぶり過ぎて緊張しちゃうよ」
「はは、分かるー‥間が空くと緊張しちゃうよねー
早く慣れて次の彼氏も出来ると良いね」
「実は休学してからずっと俺の事、気にかけてくれてる人が居てさ‥偶に学校の様子とかを連絡くれるんだけどちょっとだけ会うのが待ち遠しいんだ」
「そっか‥それは楽しみだね
あ、そろそろ時間‥」
「本当だ、何だか五月君と話してると時間があっと言う間だ
じゃぁ、また‥」
駅に着くと二人はまた話し込み、不意に時計を見て五月が話を切ると遥は慌てて改札を抜けていく。二人は名残惜しそうに何時までも手を振った。そしてお互いの姿が人込みに掻き消されるとようやく五月は歩き出す。悠と話していると少しブレそうな気持ちが安定するような気がした。今まで仲良くなった友人は居たが此処まで親密な関係になった事が無い。これが親友というモノなのだろうと今更のように実感する。恋ヶ淵の伝説が齎した効力なのかは分からないがこの出会いに心から感謝したい気分で五月は駅を出ると空を見上げ、少し微笑んで満足気に帰路に着いた。
おわり




