さつき
昔々、ある村に旅の男がやって来た
「もう日が落ちるのでこのまま峠を超えるは困難故、一夜の宿を頼めぬだろうか?」
男は村人に頼んで周るが悉く断られた
閉鎖的で山深いこの村で見知らぬ者を泊める者など居なかったのだ
家々を訪ね歩き、村外れの家まで来た時に男はようやく一組の親子が住んでいる家に招き入れられた
「それは難儀だったろう、何も持成しは出来ぬがこんな所で良ければ立ち寄られよ」
村で宿を断られた話をすると家主の男はそう言って快く男を招き入れた
「この辺りでは時折、鬼が出る
だから村人達は鬼が旅人に化けているのではないかと疑心暗鬼に狩られているのだ
だからどうか嫌わずに許してやって欲しい」
男はその話を聞いて村人の冷たい対応に納得した
水っぽい山菜粥と漬物を振舞って貰い男は家主の傍らに座るまだ年端も行かぬ少女のような少年に目を向けた
「利発そうな子だ‥それにしても挨拶もして貰えぬとはよほど嫌われてしまったか?」
男は何も話さないが家主の手伝いを一生懸命する少年を見て感心しながら言った
「すまぬな‥この子は言葉が話せぬ
この子の母が亡くなった折に言葉を一緒に持って行ってしまったのだ
決して嫌っておる訳では無いので許してやってくれ」
「それはいらぬ事を言ってしまった‥こちらこそ許して欲しい」
家主が言うと男はすぐに申し訳無さそうに返した
すると子供は躊躇うように男に微笑んだ
翌日、夜が明けると男は礼を言って親子の元を去った
数日後、用事を終えて男がまた同じ峠を超えて戻って来ると荒れ果てた家が残るのみであの親子は居なかった
男が村人に親子の事を聞いてみると男が旅立って暫く後に鬼に襲われ父親は死んでしまったのだという
子供はかろうじて生き残ったが貧しいこの村で口もきけない少年を養っていくには手に余ると村人は困り果てていた
「では私がこの者を引き取ろう
私はこの子と父君に一宿一飯の恩義がある」
旅の男はそう言って少年を連れて行ってしまった
月日が過ぎ、あの村でまた鬼が活発に村人を襲い始めた
村人達が困り果てていると噂を聞き付けた此代栢斗鬼媛という鬼狩の姫が村へと従者を連れてやって来た
村人はその従者を見て驚いた
それはかつて厄介と追い払った旅の男とあの口もきけぬ少年が立派な若者となり従者の中に居たからでその姿を見て村人は戦慄した
助けると偽って追い出した自分達に復讐しに来たのではないかと‥
しかし二人は鬼から村人を命懸けで守った
村人はその姿に自分達を恥じ、姫と従者を讃える神社を建立した
村人に捨てられた若者は姫に命じられ村に留まりその神社と鬼の脅威から村人を守り続けたという
老人は手作業をしながらそう長々と話を終えると傍らにいるであろう孫を振り返った。
「五月!ちゃんと聞かんか!」
「へ?ああ‥うん‥聞いてるって‥」
老人が怒鳴ると五月は欠伸交じりに返す。
「お前はこの由緒正しい神社の跡取り、姫の従者の末裔ぞ?
もっとしっかりせんか!」
「でも、もうその話飽きたー‥もっと違う話してよー‥」
老人が呆れながら溜息交じりに言うと五月は面白く無さそうに膨れた。毎年、夏休みは共働きの両親にこの神社に預けられていて、来てすぐは毎年同じようにこの話をされるのだ。始めは大好きな祖父の話と喜んで聞いていたが小学生にもなると流石に飽きてしまっていたのである。
「まぁま、まだ起きてたの五月ちゃん‥もうそろそろ寝ないと明日起きられないわよ」
「もう寝るよ
ほら、お爺ちゃんも!」
祖母が広間に顔を出し言うと五月は慌てて祖父を引っ張った。すると溜息交じりに手仕事を中断して五月と一緒に二階の寝間に向かう。
「今日は怖い話してよ
この間のむじなみたいなのじゃなくって幽霊とかが出て来るヤツ!」
布団に入るとワクワクしながら五月が話を強請った。何時もこうして布団に入ると五月は祖父にいろんな昔話を強請っているのである。
「怖い話か‥また一人でトイレに行けなくなるぞ?」
「大丈夫、もう十歳だから一人でトイレ行くの怖くないもん」
「そうか‥もう五月も十歳になったのか‥」
「そうだよ、だからもう怖い話聞いても平気なんだからね」
「なら、一つ‥」
そうして何時ものように五月は目を輝かせながら話を聞き、話が終わると先ほど祖父に強がった事を酷く後悔した。
「お爺ちゃん‥トイレ‥付いて来てよ」
「もう十歳だから大丈夫なんじゃなかったのか?」
心細げに五月が言うと祖父は笑いながらそう返す。五月は何だか恥ずかしくなり恐々と一人で起き上がると何度も祖父を振り返りながらトイレへ向かった。そして特級で済ませて戻って来ると急いで祖父の隣へ潜り込んだ。
「怖かったけどちゃんと一人で行って来たよ!」
「えらいぞ‥じゃぁ、ご褒美にもう一つ話をしてやろう‥」
鼻息荒く五月が言うと祖父は少し含みを持たせて次の話を始める。次の話はコミカルなもので五月はオチを聞く頃には夢の中だった。
翌日、祖母に巫女装束を着せて貰い神社の手伝いをする。来訪者に可愛いと言われホクホクしながら売店に座ってこれが夏休みの楽しみの一つでもあった。
「五月ちゃん、今年もご苦労様‥これ、皆で食べてね」
店番をしていると近所の人々がそう言いながらスイカなど自分の畑で作った物を差し入れてくれる。五月は地域でとても人気があった。
そんな楽しい夏休みも中頃になって来ると従妹等がやって来てより楽しさが増す。二、三日ほどの滞在ではあるがそれでも同じ年頃の子供と遊べるのは楽しかった。集落には少し年上の子供は居てもちょうど同じ年頃という者は居なかったので遊び相手にはならなかったのである。
一緒に神社の周りを探検したり川遊びをしたりと叔母達に連れられて近場ではあるが出かける事も有ったがプールや海のように他の者が居る所には連れて行って貰える事は無かった。とにかく着替えを他人に見られる事を避けていて何かと理由を付けて従妹とも別に着替えをさせられたのである。
「五月ちゃん、またね!」
短い滞在でそう言って従妹が帰って行くと一気に寂しくなった。そんな時はまた祖父の布団に潜り込んで話を強請り、寂しさを紛らわせる。
「今日はまた怖い話して!」
此処へ来た時にトイレが怖くなった事などもう忘れて五月は夏らしい怪談を強請った。そして話が終わると五月はまた特級でトイレに行き、戻って来る。きっとそうすればもう一つくらい何か話してくれるだろうと思ったのだ。
「じゃぁ、今日も一人でトイレに行けたご褒美にもう一つ、話をしようか‥」
予想通りの展開に五月はワクワクした。でも何処か祖父の顔はちょっと何かを思い詰めたように見える。
「何時も聞かせているうちの神社に纏わるあの話に実は続きがあるのだ」
神妙な顔で祖父がそう話し始めると五月は息を呑み、黙って話の先を促した。
「神社の守を任された若者はこの村で妻を娶り三人の男児と一人の女児を設け、幸せに暮らしていた
しかしそんな折に酷い飢饉に見舞われて鬼がまたこの村を襲うようになったんじゃ
若者は鬼を退けたが近隣の村でも被害が出ていてな‥若者は請われてそういった村でも鬼退治をしていた
そしてその報酬として貰った食糧を自身の家族や村人に回し自身は出来るだけ摂取する事はしなかった
それくらい酷い飢饉だったんだ
そんな時、とても強い鬼が現れて若者は深手を負いながらもようやく鬼を倒した
だがその鬼は弱っていた若者に死に際、呪いをかけたのだ
若者の血を絶やす為に一族滅びよとな‥若者の妻と子供達は女児一人を残して全員その呪いで亡くなってしまい若者は龍神に自分の僅かに残った命と引き換えにどうか一人娘だけは助けてくれと懇願した
龍神はその願いを聞き届け、男の命と引き換えに残った女児を呪いの呪縛から救った
だが女児が成長し婿を取って子を設けた時に呪いがまだ継続している事を知った
産まれた男児が成人を迎える事無く、悉く亡くなってしまうのだ
仕方なく娘は我が娘にまた自分と同じように婿を取らせた
しかしやはりその娘の子も男児は育たず困り果て、そこで生まれた男児を成人するまで女児として育てる事にしたのだ
そんなバカげた方法で上手くいくのかと皆は半信半疑であったがその方法は上手くいって無事に男児が育つようになった
儂もな‥昔の成人とされる15歳まで女として育てられこの年まで生きておる」
祖父がそう締め括り五月を見ると五月はもう夢の中。祖父はそんな五月を見て溜息を吐き頭を撫でてやる。
「中でもお前は五月に産まれた特別な男児‥どうか栢斗鬼媛のご加護が有らん事を儂は切に願う」
そう言いながら五月に布団を掛け直すと自分も目を閉じた。
翌朝、何時ものように朝食を終え、祖母が席を外すと五月も後片付けを手伝おうと立ち上がる。
「五月‥」
「何?」
「昨日の話は覚えとるか?」
「ああ、神社の続きの話?」
「そうだ」
「え‥と‥龍神様が呪いを解いた所までは聞いてたけど後は寝ちゃって‥また聞かせてくれる?」
祖父は何だかそれを聞くと少しホッとしたような顔をした。
「そうだな‥またその内にな‥」
祖父がそう返して微笑むと五月は祖母の手伝いに部屋を出て行く。
そうして夏休み終盤になると五月の両親も何とか仕事にキリを付けやって来て五月は両親や祖父母との団欒を噛み締めた。
そんな定番な夏休みは十五の誕生日を迎えた年に終わりを迎える。例年と違い両親は揃って正装し、五月を連れて祖父母の待つ神社までやって来ると五月はいきなり祖母に着替えさせられた。しかも何時もの巫女服ではなく男物のまるで祖父が神事を行う時のような正装である。五月が訳が分からないままいると両親は神妙な顔で五月と共に本殿へ上がった。
其処には白髪の老人と祖父が向かい合って座って待っていて両親は五月を挟んで祖父の後方に座ると深々と頭を下げたので五月も真似をして頭を下げる。
「この度は我が孫である五月の成人の儀にわざわざお越し頂きましてありがとうございます」
祖父はそれを見届けるとその老人にそう言って頭を下げる。
「大きゅうなったの‥」
「はい、これも全て綾之助様のご加護があってこそ‥本当に感謝申し上げます」
綾之助が少し微笑んで言うと祖父が更に頭を下げて返す。五月は頭を下げたまま何が何だか分からず混乱していた。
「では成人の証として封印を解き、眷属との繋がりを元に戻すかの‥」
綾之助はそう言うとゆっくり立ち上がって五月の傍まで歩み寄る。すると祖父は横へ、両親はスッと後方へ頭を下げたまま下がったが五月は綾之助のその存在感と自身の動揺でそのまま動けず固まっていた。頭上で何かが弾けるような気配が有り、それと同時に五月は今まで以上に綾之助の気配を感じて思わず頭が真っ白になる。
〈何なの‥この感覚‥〉
いきなり身に受けるいろいろな感覚に冷や汗が止まらない。まるで全身の神経が剝き出しになってしまったような感覚だ。
「その感覚に慣れるまで暫しこの結界の中で過ごすが良い
後は任せるぞ咲衛門」
「承知‥」
綾之助は五月の思いを察したかのようにそう言うとゆっくりと去って行き、祖父の咲衛門は短く返して綾之助が見えなくなるまで頭を下げていた。
「すまんな五月‥本当はこの日が来るまでにちゃんと話してやりたかった‥
だが、お前の命を守る為に誰にも気付かれる訳にはいかんかったのだ」
完全に綾之助の気配が無くなると祖父は五月の傍まで来て肩に手を置きながらそう言う。
「何‥今の?‥これってどういう事?」
五月はようやく呆然と顔を上げて神妙な顔の咲衛門に尋ねた。後方では両親のすすり泣く声が聞こえているが五月の耳には届いていない。
「この神社の由来や鬼の呪いの話は覚えておるか?」
咲衛門が聞くと五月は呆然としたまま頷く。
「お前にも話した通り儂らはその末裔‥鬼狩の末裔だ
そして前に話したように最後に倒した鬼に呪いをかけられてしもうてな‥その鬼は炎羅王鬼と言う
炎羅王鬼は二度と藤森家に鬼狩が出ぬよう我ら一族に呪いをかけ、それと同時に生き残った同胞に藤森の男児は悉く殺せと命じたのだ
それ故、呪いを逸らせ鬼に見つからぬよう藤森家に男児が産まれると封印を施し女として育てる事になった
そうせねば力を使えるようになるまでに命を落としてしまうのでな‥
儂も‥そしてお前もそうして無事に成人を迎える事が出来たのだ」
祖父がそう説明するが夢の中のような気分で内容が全く頭に入って来ない。何より先程から感じるあらゆる感覚に翻弄されて思考も停止している。
「すぐには理解出来ぬだろうしまだ感覚も慣れんだろうから儂の話を聞き流しながらで構わんから少しづつ気分を落ち着けると良い」
咲衛門はそう言うと後方の両親に目配せする。すると両親は五月の事を気にしながらも本殿を去って行き、五月は咲衛門に促されつつ呼吸を整えた。
「咲子はな‥お前の母は長女の真咲や次女の美咲と違い、後継者の資質を持って生まれた
だから力の有る方を婿に迎え入れられるようしたにも拘らずお前の父と駆け落ちをした
言い伝えなど迷信だと信じはしなかったのだ
しかしお前を身籠り初めて事の重大さに気付き此処へ戻って来た
全てを捨て、飛び出したこの家に縋るほど懸命にお前を救って欲しいと懇願したのだ
だからこの先、何を知ろうとも何が有ろうとも決して両親を恨んではやるな‥
もし誰かを恨みたくなったのならば儂を恨めば良い‥儂が全て受け止めよう
だから両親には今までと変わらぬ愛情を抱いてやってくれ」
咲衛門が悲しげに言って五月の頭を撫でてやると五月はようやく我に返りぼろぼろ涙を流してから頭を振る。
「父さんも母さんもお爺ちゃんもお婆ちゃんも皆‥皆、大好きだから!」
そう言うと五月は祖父にしがみ付いた。
「ありがとう‥お前は本当に良い子に育ってくれた
此処まで無事に大きくなってくれてありがとう‥」
祖父は寂しそうに微笑むと返しながら強く五月を抱き締める。五月はまだ自分の過酷な運命を知る由も無かった。
五月が落ち着いた頃、祖父はもう一度、両親を呼び寄せて事の経緯を五月に順を追って聞かせる。
「後継者の資質が有るから神社を継げって小さい頃から言われていたけれどお母さんににはそんな力は無かったからずっと迷信だって思ってた
だから反抗期も相まって地元を離れて都心の学校へ進んで‥其処でお父さんと出会ったの
卒業してこのまま家に帰ればお爺ちゃんの決めた人と結婚させられてしまうと思ったから全部捨ててお父さんと結婚したわ
始めは良かった‥社会の事なんて何も知らないままいきなり結婚したもんだから大変だったけどとても幸せだった
やっぱりあんな話は迷信だって思ったわよ
でも貴方を妊娠して全てが本当の事だったんだって理解したの
始めはただの不調だと思った‥けれど日々、不穏になって行く気配と幾度も不慮の事故に見舞われた
このままじゃ貴方を失うと思った私達はお爺ちゃんを頼る他無かった
その事でお父さんと引き離されてしまうかもしれないと思ったけれどお父さんもその覚悟で貴方を守る事を選んでくれたのよ」
母がそう言って父を見ると当時を思い出したのか父は涙ぐみ唇を噛み締めて頷いた。
「そうして咲子が此処へ戻って来てから儂は急いであの方に連絡し、お前が無事に生まれるよう、その力の全てを伝承に則り隠して頂いた
そして出産までこの結界の中で過ごし、無事にお前が産まれたんだ」
咲衛門が優しく微笑んで五月を見ると五月は何だか自分がどれほど愛されて来たのかを思い知る。
「その後、お父さんは沢山の注意事項を条件にお母さんと五月をお爺ちゃんから返して貰えたんだよ
その一つは成人するまで決して五月が男である事を本人にも周りにも気付かせない事‥勿論、沢山の人に協力もして貰ったけれどね」
「あ‥それで皆と一緒にプールに入ったり泊りの行事に参加させて貰えなかったの?」
「ええ、皆と同じように過ごさせてあげられなかったのはとても可哀そうだったけれどそうするしか方法が無かったの
実際、貴方は小さい頃から身体が弱くて余りそう言った遊びは出来なかったから‥力と一緒に生命力も一部封印してしまっていたから仕方の無い事だったんだけどね
それが可哀そうで一度だけ家族で海に行った事が有るけれどその時に何日も熱を出してしまって‥それからは一度も連れて行ってあげられなかった」
父が説明すると五月は思い当たる節が在り過ぎて納得し、母はそれを補足した。
「うん、僕もうっすら覚えてる
母さんがずっと治るまで泣いててこんなに悲しませるならもう海なんて行けなくて良いって思ったから‥でも、大きくなってからは皆と同じに出来ないの、ちょっと悔しかったけどね」
少し寂しそうに五月は言ってから苦笑する。
「しかしな‥その分、二人は出来得る限りの事をしてやろうと懸命に考え、行動し、お前を大切に愛して来た
それはこの神社の為でも家の為でも無い
どれほど二人に愛されているのか‥それだけは何時も心に留めておいて欲しい」
「うん、分かってるよお爺ちゃん」
そう言われて五月はようやく安心して微笑む。
「明日から力のコントロールを教えるから今日の所は此処から出るではないぞ‥トイレも本殿離れのトイレを使いなさい
また暫く両親に会えぬから今日はゆっくり甘えると良い」
祖父はそう言って本殿を出て行った。五月はそれから両親に此処までにあった苦労話を聞かされる。
「母さん、一度だけ貴方とお風呂に入らなくちゃいけなくなってどうして自分と同じモノが無いのか聞かれた時に咄嗟に嘘吐いちゃったのよねぇ」
「そう言えば大人になったら女の子はソレが取れるんだって聞いた時、ちょっとショックだったよ」
母が弁解しながら困ったように笑うと五月も苦笑いを浮かべて返す。そう、男と気付かせない為に物心付く前から父親としか風呂には入らないようにしていたのである。そういった小さな苦労を笑い話にして両親は五月に話して聞かせた。その一つ一つに両親の愛情が見えて五月は心が温かくなる。
日が落ちる頃、祖父母が夕食を用意して本殿にやって来た。それは今まで見た事が無い凄いご馳走の数々で五月は目を輝かせる。
「今日はお前の成人式だからな‥好きなだけ食べると良い」
咲衛門はそう言って何時ものように優しく微笑むと五月は嬉しそうにそれを頬張った。そして以前と変わらず両親と祖父母を交えて楽しい団欒を過ごす。
「もうお腹いっぱいで入んない」
五月は幸せそうにそう言ってゴロンと横になった。何時もは行儀が悪いと叱る祖父母もこの日だけはそれを満足気に微笑んで眺めているだけだ。五月が幸せいっぱいでニコニコしながら微睡んでいると遠くで何か獣の鳴き声のようなものが聞こえる。
「来たか‥思うたより早かったな‥」
咲衛門がそう言いながら険しい表情に変わると五月も驚いて身体を起こす。
「何?」
「お前は心配せんでもええ‥この日の為に応援も呼んである」
五月が聞くと咲衛門はまた穏やかに微笑んで返した。
「応援って‥早波さん?」
「ああ‥だが天将では無く息子の唯天の方だがな‥
まだまだ駆け出しだが良い腕をしている
さて、儂も手伝うとするか‥」
母が少し険しい顔で聞くと祖父は返し祖母は片付けを始める。
「あの‥何の話?」
二人の神妙な会話に父が不安げに聞いた。
「ああ、そっか‥貴方にはこの声が聞こえないのよね
近くに鬼が来ているみたいなの」
「え?お父さんには聞こえないの?」
そんな父に母が片付けを手伝いながら言うと五月は驚きながら二人に聞く。
「貴方にも昨日までは聞こえなかった筈よ
今は力を取り戻したから聞こえるの
お父さんも前の貴方も全くそう言った力は無かったから‥」
戸惑いながら母が説明すると父と五月は驚きながら顔を見合わせた。
「鬼の声は特別な力が無いと聞こえないからねぇ‥でも、あんな恐ろしい声が聞こえないのは平和な事なのよ」
祖母が苦笑しながら片付けの手を止め、祭壇にある香炉の方へ行き火を入れた。
「お婆ちゃんにも聞こえるの?」
「婆さんは元々、陰陽師の家の出だからの
なに、この結界はあの方が張ってくれたものだから心配はいらん
此処に居れば何も問題は無い」
その後姿を見ながら五月が聞くと咲衛門は答えて食器を入れた籠を抱える。
「何か必要な物が有れば持って来るからお前達はくれぐれも此処を出るんじゃないぞ」
そう続けて祖父はそれを持って本殿を去って行った。祖母もすぐに戻って来て残りを抱えて微笑みながら去って行く。
「此処に来た時のお爺さんとかさっきの話に出てきた早波さんって誰?」
二人が去ると五月が母に聞いた。
「此処に来た時に居た方は龍王院綾之助様って言って本当なら私達が簡単に会えないくらい凄い方なの
早波さんはお爺ちゃんと同じ鬼狩の家に生まれた人よ」
「そう言えば息子さんの方が来てるって言ってたね
あの子も五月とそんなに変わらないんじゃなかったっけ?」
母が答えると父が記憶を辿りながら聞く。
「唯天君は五月より5歳は上よ?
きっともう立派な鬼狩になってると思うわ」
「父さんも早波さんの事を知ってるの?」
「うん、五月がまだ小さい時に一度だけね‥お爺ちゃんの所に用事でお子さんを連れて来てらしたんだよ
五月は丁度、お婆ちゃんと出かけていたから会わなかったんだけどね
チラッと挨拶したくらいだけどお爺ちゃんと違ってとても怖い印象を受けた覚えがあるよ」
「あら、貴方は知らないけどお爺ちゃんも昔は恐かったのよ?
姉さんに子供が産まれてからあんな穏やかな顔をするようになたんだから‥」
三人でまたそんな風に談笑している内に鬼の声は何時しかしなくなっていた。
「声‥止んだね‥」
「きっと唯天君やお爺ちゃんが全部やっつけたんじゃないかしら‥
お母さん達、ちょっとお布団と着替えを取って来るわね」
それに気付いて五月が言うと母親は返しながら父に目配せし、二人で立ち上がる。
「早く戻って来てね」
少し心細そうに五月が言うと両親は微笑んで本殿を去って行った。少し物音がして不安げに五月はキョロキョロしたが当然、可笑しい所は何もない。こういう時は風に揺れるカーテンすら幽霊に見えるモノだと自分に言い聞かせながら両親が戻って来るのを待った。
〈父さんと母さん‥遅いな‥〉
そう思いながら自宅への出入口の方を眺めていると人影が見えて五月は安心したように顔を綻ばせる。しかしその人影が両親で無い事に気付いてまた表情を強張らせた。
「あれ?咲衛門さんは?」
「あ‥お爺ちゃんなら家に居ると思うけど‥」
「そう?」
見知らぬ青年が入って来るなりそう聞いてきたので咄嗟に五月が返すとまた青年は五月に背を向け去って行く。
「あ‥あの!
もしかして‥鬼狩の人ですか?」
ハッとすると五月は思いきって聞いてみた。
「ああ、早波唯天だ‥お前が咲衛門さんの孫の五月だろ?
これから同業として宜しくな‥」
少しだけ微笑むと唯天はそれだけ返してさっさと行ってしまった。思わず訪れた出会いに五月は始め呆然としたが余りにも唯天がかっこよく見え、羨望の表情を浮かべる。
〈唯天さんってカッコ良い!〉
まるでアイドルにでも会ったかのようにニヤニヤそう思っているとようやく父が戻って来た。
「遅くなってすまなかったな‥少し汗を流して着替えさせて貰ってたんだ
本当ならお前もお風呂に入りたいだろうが今日は我慢して欲しい‥その代わり蒸しタオルを沢山貰って来たからこれで身体を拭くと良いよ」
そう言うと父は蒸しタオルの沢山入った籠と五月の着替えを置く。
「父さん‥これ、僕の服じゃ無いよ?」
置かれた着替えを見て五月がそう言いながら着物を脱ぎ始めた。
「実はこの日の為に男物の服を買っておいたんだ
本当は一緒に行って選びたかったんだけどそう言う訳にもいかなかったから‥
本当は父さんもお前の服を一緒に選びたくてちょっと母さんが羨ましかったんだよな」
少し照れながら言う父に五月は何だか凄く嬉しくなる。そして着物を脱いで裸になると蒸しタオルで身体を拭いて早速、出された服を広げて見るが何だかどれも父の趣味全開で可愛くもカッコ良くもなかった。寧ろおじさん臭い。
「何だかちょっとシンプル過ぎで僕の趣味じゃ無いかも‥」
「やっぱりそうか‥」
ちょっとがっかりしたように五月が溢すと父は涙目で肩を落とす。
「じゃぁ、夏休みの終わりに一緒に買いに行こう
それまではこれで我慢しておいてくれ‥」
「うん、楽しみにしとくね」
五月は仕方なく寝間着に出来そうなTシャツと短パンを選んでそれに着替えた。着替えが済むと父は汚れ物を持ってもう一度自宅の方へ行き、今度は母と一緒に布団を持って戻って来る。そして布団を並べて三人で談笑しながら眠りに就いた。
翌朝、また皆で朝食を取ると両親は帰って行く。そして片付けを済ませると咲衛門が本殿に一人戻って来た。
「良いか五月‥力の使い方は基本的に感覚で覚えて行かねばならん
儂が教えてやれるのは普段、無駄に力を流出させんようにする基本中の基本のみ‥とにかく今から教える事を丁寧にやってみろ」
咲衛門がそう言うと五月は頷く。それから五月は祖父から言われる事を真面目に聞いて取り組んだ。咲衛門の目から見ても贔屓目で無く、五月は覚えるのが早く筋も良かった。
〈やはり五月に産まれた子だからか‥〉
少し戦慄さえ覚える程、見る間に上達する五月に溜息が漏れる。本当は自分の気配を押さえる術だけ教えるつもりであったが咲衛門は陰陽術式の初歩もついでに教えていく。
「本当はまだ早いのだが覚えておいて損は無い」
そう言うと術の本を数冊持って来た。そしてそれを指し示しながらあれこれと説明していると日が落ちてくる。
「もうこんな時間か‥では家に戻って飯にするか‥」
そう言って先衛門が立ち上がるとそれを目で追ってから五月は再び本に視線を落とした。
「何をしとる、前も行くんだぞ?」
「え?もう此処を出ても良いの?」
咲衛門の言葉に五月が驚いたような顔で聞き返す。
「もうお前は自身の力をコントロール出来ておるよ
こうして喋っておっても鬼狩の気配を感じんからの‥其処まで無意識に気配を消せるなら鬼に気取られる事も無いだろう
但し気を抜いてはいかんぞ
気配が漏れればまた鬼に狙われる‥今のお前は瞬殺されるほど弱いからくれぐれも己の気配は悟らせるな」
咲衛門が念を押すと五月は少し気を引き締めながら頷き、二人が自宅へ揃って戻ると祖母は温かい夕食を用意して待っていた。
食後、一息吐くと咲衛門は五月を連れてまた本殿へ戻る。五月はてっきり夕食前の続きをするものと思ったが咲衛門は本殿の祭壇の間を通り過ぎて脇の扉に入った。此処には儀式用の備品や祭事の用具などが収められていてよく五月も手伝いに入っていた倉庫のような場所である。それ故に今更、珍しくも無かったがその一番奥の棚の横にある大きな木箱だけは重厚な錠前がかけられ開けられるところを見た事が無い。咲衛門は其処まで行くとポケットから大きな鍵を取り出し錠前を開けた。
そして木箱を開けると其処には地下へ続く階段が在り、咲衛門は懐中電灯を手に階段を下って行く。五月は驚きながらもそれに続いた。一階分ほど下った辺りから天然の洞窟のようになっていて更に地下へと降りて行く。ようやく一番下まで降りると扉が有り、咲衛門は別の鍵を出してそれを開けた。少し広い空間になっているのは分かったが頼りない懐中電灯の明かりでは辺りは全く見えない。五月が少し動揺していると咲衛門は印を組んで室内に火を灯す。すると二人の目前に大きな鬼の像が姿を現した。
「お爺ちゃん‥これって‥」
五月は驚きで少し後ずさってそう聞く。
「恐れる事は無い‥この鬼は我が家に仕える鬼だ
これからお前が鬼狩となるまで守り育ててくれる
そしてお前が立派な鬼狩となれば今度は盾としてお前の傍らに在り続ける」
咲衛門が五月を見ながら説明すると五月は恐々その鬼の像を眺める。軽く2m以上はあるその躍動感溢れる鬼の像に生唾を吞んだ。
「これって銅像か何かだよね?
本物の鬼じゃないよね?」
戸惑いながら像から咲衛門に視線だけ移して聞く。
「お前には儂に無い特別な力がある
この鬼はその特別な力に共鳴して目覚めると文献には記されておる」
咲衛門がそう説明するともう一度、五月は鬼を見た。恐ろしい鬼の姿に始めはびっくりしたがジッと眺めていると確かに何かが感覚として引っ掛かる。五月が意を決して近付きその像に手を触れると像は砂のように崩れ始めた。それに驚いて少し五月が下がって崩れる像を見ていると中から生身の人の頭が見えて来る。足元まで像が崩れるとまるで時代劇から抜け出て来たような様相の青年が現れ、五月だけでなく咲衛門も驚いた。二人が呆然としていると青年はゆっくり目を開ける。
「お前が今代の“さつき”か?」
青年が聞くと五月は戸惑ったように咲衛門を見て咲衛門も少し戸惑いつつも一つ頷き応えるよう促した。
「うん、僕が五月だけど‥貴方は誰?」
「俺は永藤征嗣‥“さつき”の盾として在るモノだ」
五月が答えて聞き返すと征嗣も簡潔に答える。
「お前は藤森の鬼狩だな?」
「藤森咲衛門‥五月の祖父に当たる」
征嗣が今度は咲衛門に視線を移し聞くと咲衛門も簡潔に自己紹介をした。
「ではお前で構わん‥この時代の知識を寄こせ」
そう言うと征嗣は咲衛門に歩み寄りガっと咲衛門の頭を掴み、目を閉じる。
「お爺ちゃん!」
その様子を見て五月は慌てて二人に駆け寄り、征嗣の腕を咲衛門から引き離そうとしたが無言で咲衛門は五月を制止するようなゼスチャーをした。五月がオロオロしながらもそれに従い二人を眺めていると征嗣はそっと手を放す。
「全て理解した‥俺はこの“さつき”を教育すれば良いんだな?」
「宜しく頼む」
征嗣が言うと咲衛門は少しホッとしたように溜息を吐いた。それから征嗣を連れて二人は家に戻ると征嗣の要望で食事や風呂を振舞う。
「すまんがこの服は小さ過ぎる‥別の物をくれ」
風呂から上がると征嗣は出された着替えを持ってタオル一枚で居間にやって来た。祖母は小さく悲鳴を上げ照れながら顔を隠して二階へ上がってしまい、五月と咲衛門は慌てて着れそうな物を探す。先衛門が着ているフリーサイズの作務衣だけ唯一、着れそうだったのでとりあえず予備の作務衣を着せた。そして落ち着くと祖母もようやく降りてきて皆は征嗣からあれこれ話を聞く。咲衛門は文献や伝承として知ってはいたが理解を深める為にそれらに準えた質問をした。征嗣はそれに答えていきながら自分もあれこれ質問をする。そしてお互いがそれなりに理解出来るとその日は休む事にした。
翌日、征嗣は咲衛門に連れられ五月と街へ出て身の回りの物を揃える事にする。一見、本当にその辺りに居る青年と変わらず鬼の気配もしない征嗣に咲衛門も五月も戸惑ったがその見た目と裏腹な気さくさにすぐにお互い打ち解けていった。五月はついでに自分の好みの物も少し買って貰う。どちらかというと元々、ボーイッシュな服が好きだったので男として生活を切り替えたとしても十分そのまま着れるような物が多かったからである。父に買って貰った物はこっそりと寝間着か部屋着になった。
「暫く教えを請う訳だから先生と呼べ」
征嗣はどう呼べば良いか聞かれると端的に答え、五月もそれはそうかと納得する。
「俺は陰陽術に関しては教えられん‥鬼だからな‥」
「じゃぁ、何を教えてくれるの?」
「剣術と鬼に纏わるエトセトラかな‥だから術は人に習え‥」
「お爺ちゃんに習えば良いの?」
「知らん‥それは咲衛門に確認しろ」
買い物から帰って来ると二人でそんな話をしながらスイカを食べる。咲衛門は数日閉じていた本殿を開放したので参拝者対応に忙しそうだった。スイカを食べ終わると征嗣が使用する為の部屋を用意する。自宅二階の物置になっている部屋を二人で掃除して使えるようにした。
そして翌日から五月の地獄が始まる。
「お前、体力無さそうだからまず普通に体力作りからな」
そう言われて山道をひたすら走らされたり、重量物を持ち上げる訓練をさせられた。
今までそういったハードな事をした事が無かったのですぐにバテて泣き言を言ったが許して貰えずほぼ強制的にしごかれる。夕食の時には食べながら寝てしまう程、疲れ切ってしまい流石に祖父母も可愛そうになった。
「これに関してはお前等の意見は聞かない
ちゃんと出来なきゃ死ぬのはこいつだからな‥」
少し手を抜けないか咲衛門が聞くと征嗣は答える。それを聞くと二人は何も言えなかった。
翌日以降も運動系強豪校のようなハードなトレーニングは続き、日々の筋肉痛で動けなくなってきた頃、ようやく剣術指南となる。
「何処からでも良いから打ち込んでみろ」
竹刀を渡されそう言われたが五月は丸腰の征嗣に打ち込むのを躊躇う。
「お前の打ち込みなんか軽く交わせるし素手でも十分に受けられる‥心配しなくて良いから思いっきり打ちのめすつもりで来い」
五月の懸念を察して征嗣が言うと五月は日頃の恨みと思い切り竹刀を振り下ろす。しかし軽く交わされてしまい流石に五月も意地になって無暗やたらに竹刀を振り回した。
「だから当たらないって言ったろ?
これで闇雲に振り回しても当たらねぇってのは分かったか?」
ただでさえ身体がガタガタなのに竹刀を思い切り振り回したせいで息が切れて満足に言い返す事も出来ずにへたり込んだまま征嗣を睨む五月。
「良い感じに肩の力も抜けたみたいだからこれから剣術の初歩を教えてやろう」
屈んで征嗣は五月に微笑みかけた。
それから征嗣は今までのスパルタではなく手
取り足取り五月に丁寧に剣の扱いを教える。そのギャップにちょっと戸惑いはしたが五月は素直にそれを聞きながら一つ一つ技を獲得していった。だが、相変わらずそれ以外は文字通り鬼の体力作りで毎日、夕食の時間になると食べながら寝てしまう日々。
ある時、五月が夜、トイレに起きると征嗣と咲衛門が深刻そうに何かを話していて気にはなったが疲れで会話に加わる事も無く寝てしまう。そうやってあっと言う間に夏休みは過ぎ、もうすぐ新学期という頃に両親が迎えにやって来た。
「今度は高校卒業まで同じ学校で過ごす事になるからもう友達と離れなくて良いよ」
少し両親が躊躇いながらそう言うと五月は凄く嬉しそうな顔になる。
「本当?もう、転校しなくて良いの?」
五月は感無量で嬉しそうに両親に確認した。
「今度行くのは陰陽師や他の術者も通う学校だ
だから何も隠す必要は無いからの‥」
咲衛門がそう説明すると五月はぽかんとしたような顔をする。
「お前は今まで一般人として暮らして来たから其処でしっかり術者としての修行をするのじゃ
それと全寮制の学校だから夏休み明けからは寮生活になる
征嗣の事は許可を得て教員宿舎に住まわせて貰う手筈になっておるから日々の鍛錬はちゃんとするんだぞ」
「休みの時とか何時でも帰って来られるようにお父さん達もその間は京都に住む事にしているから安心して‥」
咲衛門が続けると慌てて父親もそうフォローしたがどんどん五月の表情は無くなっていった。いきなり知らない者と寮生活と言うのには不安しか無かったのである。
「とりあえず今日と明日は新居に泊まって明後日から寮に入れるよう手続きしてあるので征嗣さんも荷物を纏めて下さいね」
母が遠慮がちに微笑んで言うと征嗣は早速、部屋に戻って準備に入る。五月は死刑囚のような面持ちで母に付き添われ同じく部屋に戻って荷物を纏めた。
そして準備が整うと祖父母に別れを告げて京都の新居へ向かう。其処は町家を改装したような家で新築のような真新しさは無かったが綺麗で趣のある家屋だった。
「凄い‥何だか旅館みたいだね‥」
「前は料亭だったみたいでね‥一時は民泊としても使われていたそうだから古い割には結構、手入れや設備がしっかりしてるんだ
いやー‥こういう家に憧れてたから本当に父さんも大満足だよ」
五月がキョロキョロしながら言うと父親は誇らしげに返す。それから五月と征嗣はそれぞれの用意された部屋に案内して貰い荷物を置くと皆で京都の街へ買い物と食事に出た。
五月は父にたくさん服を買って貰ったが然程、今までと変わり映え無い物ばかりで征嗣は余り興味が無いのか父の勧める物をそのまま買おうとして五月にセンスが無いと却下される。皆でわいわい買い物をした後に美容院で五月は髪を切った。
「何だかスースーするね」
少し苦笑しながら何度も無くなった長い髪を確認してしまう。
「そうやって髪を短くするとようやく男の子なんだなって実感するわね」
母はしみじみ言いながら微笑んだ。その後も皆で和気藹々と食事をしてから帰宅するとその日は夜遅くまで皆で過ごした。
翌早朝、五月は征嗣から叩き起こされ何時ものようにランニングに出た。
「まだ日も登って無いじゃん」
「だから良いんだろ?
暑くなる前に走っておけばバテ無いしそれに地形や地理を把握するには辺りを直に見て周るのが早い」
五月がぼやくと征嗣は並走しながら返す。そして2時間ほど走ると家に戻って皆で朝食を取った。
「お父さん達は午前中だけ仕事に出るからお昼はまた皆で外食しよう
その後は観光がてら京都を周ろうな」
両親がそう言って家を出て行くと五月と征嗣は後片付けを揃って始める。
「それにしてももっとこう‥鬼狩になるって劇的な事が沢山有るのかと思ったら意外と地味でまだ何か信じられないよ」
「鬼狩ってだけで十分、劇的だと思うがな‥」
「漫画とかアニメみたいに敵に襲われたりして急激にその力が目覚める的なさ?」
「早々そんな都合よく能力に目覚めたり力が習得出来るなら誰も苦労せんわ
第一、其処まで何も対策せずに放置してたら簡単に殺されて終わりだ
お前の場合は咲衛門がちゃんと不測の事態まで見越して対策していたからこうして無事に生き延びて俺まで繋げてこられたんだ
感謝しろよ」
「勿論、お爺ちゃんには感謝してるけど‥でも何かもっと主人公的なイベントを期待しちゃったって言うか‥
話を聞いた時はいろいろ頭真っ白にはなったけど余りにも拍子抜けって言うかさ‥特訓はきつかったけどまだ実感が湧かないよ」
「そりゃぁ、咲衛門や俺が危ない事に近寄らせないようにしてるんだよ
ちゃんと鬼狩になるまで鬼に対峙させる気も無いしな‥」
「でも先生も鬼なんでしょ?
どうして鬼なのに鬼狩の味方するの?」
「別に好きで鬼になった訳じゃないからな‥俺も元はと言えば鬼狩だし‥」
「え?そうなの?」
「そうだよ
鬼ってのは元はほぼ人間だからな‥鬼人族って言う神様の類も居るがそれはまた別種だ
怒りや憎しみなんかが頂点に達した時に人は鬼となる‥偶に欲に溺れて鬼になる奴も居るがな
鬼となれば人の心は失われ、害を及ぼすだけの存在になる
だから鬼狩はそれを終わらせてやる為に鬼を狩るんだ」
「じゃぁ、何で先生はそんなに普通にしてられるの?」
「俺は栢斗鬼媛の加護を受けていたから正気を取り戻せたんだよ
でなきゃとうに狩る側から狩られる側になってたさ
でも鬼になっちまった以上は元には戻れない‥だからこの役目を仰せつかったんだ
さて、これで片付けは終わったな‥次は剣術の稽古をするぞ
竹刀取って来るから待ってろ」
二人で洗い物を済ませ食器等を片付けながら話すと征嗣は其処で話を切って竹刀を取りに部屋へ戻った。それから中庭で軽く剣術の稽古をして筋トレに移り、良い時間になると約束している場所まで二人で出かける。両親と落ち合うと昼食を取って四人で近場を観光した。
「そうしていると兄弟みたいね」
二人で土産をあれこれ物色しているのを見て母が微笑んで言う。
「確かに先生って言うよりお兄ちゃんが出来たみたいかもね」
五月は微笑みながら見ている両親に少し苦笑交じりに返した。
「まぁ、それに近しいもんかもな‥」
少し溜息交じりではあるが満更でも無さそうに征嗣は言って五月の頭を撫でる。それから昨日と同じように外で夕食を済ませて家に戻ると二人は荷作りを始めた。
「何だか寮に入るのって緊張するなぁ‥どんな所なんだろう‥」
「お爺ちゃんが手配してくれた学校だから心配は無いと思うんだけどもし何かあったらすぐに連絡してらっしゃいね」
荷作りをしながら不安を滲ませる五月にそれを手伝いながら母も心配そうに返す。
「まぁ、先生も居るから大丈夫だと思うよ
それに不安は大きいけどちょっと楽しみでもあるんだ」
余りに母が心配そうにしているので五月は逆に強がって見せた。
「本当に無理はしないでね‥母さんは別に鬼狩になんてならなくて良いと思ってるのよ
もしもの時はお爺ちゃんにお願いしてみるから本当に無理だって思ったら我慢しないで‥」
「大丈夫だよ母さん」
五月を抱き締めて母が言うと苦笑しながら五月は慰めるように答える。荷作りが終わると五月は征嗣の様子を覗きに行った。
「先生、荷作り出来た?」
「ああ、とっくに終わってる‥というか来た時のままだからこのまま行くよ」
五月が聞くと征嗣はカートと段ボールに入れたままの買い物袋を見ながら答える。
「全然、荷ほどきして無かったんだ‥って言うか買って来た服もそのままじゃない‥値札とか取ろうよ」
五月は段ボールに入れられた袋の束を見ながら言って溜息を吐いた。
「どうせ向こうへ行った時に片付けなきゃいけないんだから良いだろ?
別に着替える必要も無いしな‥」
「そう言えばお風呂入ってもそのままだけど着替えなくて気持ち悪くないの?」
「実体が有る訳じゃ無いから余程の事が無い限りは基本的に汚れない」
「え?実体が無いって‥ちゃんと此処に居るのに?」
「鬼って言うのは基本的に思念体なんだ
俺も実体化はしているが基本的に幻と大差無いんだぜ?
まぁ、顕現出来る鬼は特殊な力を持つ鬼だけで殆どの鬼は人に取り憑いて現世に影響を及ぼす
そして肉体を渡り歩いて術者から逃げたり気配を消して隠れたりする
怨霊や妖怪、呪霊や魔族と違い、核と言えるモノが無いからダメージを与えるのはかなり難しい
それ故に厄介だし普通の術者に鬼はほぼ倒せない‥封印するのが関の山だ
鬼を滅する事が出来るのは鬼狩のみ‥だから鬼狩は貴重なんだよ」
「何かよく分からないけど難しいんだって言うのは分かった
でも気配って言う点では先生の気配もお父さん達の気配と変わらないように感じるんだけど‥」
「それも上手く偽装してるんだよ
本当の気配出したらすぐに術者に目を付けられるからな‥戦う時だけ本来の力を開放する
今は覚醒したてでそういうのもまだ分からんだろうがすぐに分かるようになってくるさ
鬼狩は鬼の気配を敏感に察知出来る特殊な感覚を生まれながらに持ってるものだからな
そして鬼に直接的なダメージを負わせる事が出来るのも鬼狩だけだ」
「何だか聞けば聞くほど自分に出来るのか自信無くなって来るなぁ」
「心配しなくてもちゃんと教えてやる」
五月はついでに疑問だった事をあれこれ質問していくと征嗣は丁寧に説明していく。そんな感じで少し話すと部屋に戻り休んだ。
翌日、征嗣は寮の隣の敷地にある教員用宿舎の前で別れ、五月は両親に手伝って貰い荷物を寮へ運び込んだ。台車に荷物を積んで寮官に二棟ある寮の一棟へ案内されると寮長が出迎えてくれた。
「寮長の水無瀬孝史郎です
龍王院家の方から話は伺ってますよ‥宜しく、天宮五月君」
「宜しくお願いします」
寮長が微笑むと五月はその柔らかな笑顔に少し安心しながら微笑み返す。
「ご両親は手続きをお願いします
五月君は私が部屋まで案内しますので‥」
孝史郎が寮官を見て言うと両親は寮官と一緒に事務室へ行ってしまう。五月は少し心細げにそれを眺めてから寮長に連れられて部屋へ向かった。
「この寮は中等部と高等部の学生が居ます
最上階が高等部の部屋でその下から三階までは中等部の学生エリアになります
二階に談話室や浴場、フリースペースが有り、一階に食堂や面談室等が有ります
部屋は基本的に同学年の四人部屋ですがだいたい三人か二人で使用してますね
中等部になると抜ける方も多いので三年生はだいたい二人部屋になってます」
「どうして中等部になると抜ける人が多いんですか?」
「本式の陰陽師の方々は普通、初等部で全ての学問課程を修了するので中等部まで繰り上がりという方は少ないんです
それでも中等部に上がって早々に課程を修了すれば三年待たずに卒業出来ますから必然的に人数は減って行くんです
初等部から中等部に上がって来る方と貴方のように中途で入られる方と両方居るのですけど中途で入られる方の方が圧倒的に少ないので必然的に生徒数は減って行くんですよ
ですから隣の初等部の寮が大きいのもそのせいなんです」
「じゃぁ、高等部がワンフロアーしかないのは其処まで行く人が少ないっていう事なんですか?」
「ええ、ですから高等部は一般の学生さんもいらっしゃいます
勿論、一般の学生さんと言ってもそれなりの能力者か術師関連の方ではありますけどね
そういった方々はこの寮に入らず外部機関の寮や自宅から通ってらっしゃいますからすぐに分かりますよ
この寮に入れるのはあくまでも公的機関の定めた家系の者だけなので‥主に陰陽師が主体ですが貴方のように鬼狩の家系の方や土地守の家系の方等、様々な方が居られます
中には敵対する家の方々も居ますが此処での争いはご法度なのでそれは肝に銘じておいて下さい」
あれこれと説明を受けながら部屋に向かう。五月は少し緊張しながらも気になる事は出来るだけ聞いてみた。
「後は同室になる方に細かい事は聞いて下さい
分からない事が有れば寮の世話をしている寮官や私に聞いて下されば結構です
私は一階の寮長室にだいたい居りますので‥」
そう言うと孝史郎は部屋のドアをノックする。中から返事が返って来ると孝史郎はドアを開け五月に入るよう目配せして自分も部屋へ入った。
「今日から君と同室になる天宮五月君だよ」
「宜しくお願いします!」
孝史郎が五月を紹介すると五月は緊張しつつも元気に挨拶する。
「こちらは北小路紬君、中等部から此処に居るんでいろいろ教えて貰うと良いですよ」
「宜しく」
今度は五月に紬を紹介すると紬は控えめに微笑んで短く返した。
「じゃぁ、紬君、後は宜しく頼んだよ」
孝史郎がそう言うと紬は少し会釈してそれを見送る。五月もそれを見送ってから台車に積んだ荷物を部屋に入れた。
「えっと‥何処を使えば良いのかな?」
「そっちのクローゼットが丸々空いてるから好きに使えよ
それにしても凄い荷物だな‥」
「何かあれこれ用意してたらこんなになっちゃって‥僕、寮生活なんて初めてだから何を用意したら良いのか分かんなくってさ」
「ふーん‥あ、机はベッドの隣のを使えば良いけど本棚は一つしか無いから適当に使えよ
俺の本も見たかったら別に読んでも良いからな」
「ありがとう、じゃぁ、僕の本も好きに読んでね」
初見で余りフレンドリーな感じでは無い印象を受けたが話してみると気さくな感じだったので五月は安心する。それから荷物を片付けながら紬といろいろな話をした。
紬は比較的、今まで接してきたような同年代の男子と変わりなく、すぐに仲良くなったが紹介された中には少し取っ付き難い類の人種も居て流石に特殊な学校だなという感想を持つ。寮生活がスタートし、新学期が始まるとまた少し戸惑いはあったが持ち前の人懐っこさで五月はすぐに新しい環境にも慣れていった。
無我夢中で中等部を終えて高等部に上がる頃にはかなりたくさん友人も増えていて日々の勉強の合間に友人達と遊びに行く余裕も出来て来る。
「ねぇねぇ紬、明日の特殊教練はまた休むって言っといてくれる?
僕は先生と特区授業に行かなきゃいけないから‥」
「おう、分かった
やっぱ鬼狩ともなると通常授業だけで賄えないんだな‥」
夜行訓練を終えて五月は部屋に戻ると紬にそう言って溜息を吐く。
「何かやる事が多過ぎて頭がパンクしそう
俊はあんな涼しい顔でよく付いて行けるなって感心する」
少しぼやくように言って五月はリュックを降ろしベッドに飛び込んだ。
「はは、あいつもお前以上に特殊な家の出だからな‥慣れてるんじゃね?」
「僕なんか自分が鬼狩だって知ったの一年前だよ?
しかもいきなり鬼狩の勉強しろとかそれこそ鬼過ぎる」
苦笑しながら紬が言うと五月は泣き言を返す。
「それでもお前はまだ良いじゃん
いろいろ準備したりこうして学校へ入れてくれる身内が居るんだからさ‥清なんか訳も分からずいきなり日常から切り離されて此処に掘り込まれたんだからそれから比べたらマシだろ?」
「それはそうだけど‥」
紬が言うとそれでも納得出来ないという感じで五月は枕を抱えた。
「まぁ、あと二日行けば休みだし久しぶりにまた皆でカラオケでも行こうぜ」
「うん、行こう!
目一杯憂さ晴らししたい!
ボーリングも行きたい!」
紬の提案に五月は速攻で乗る。
休み当日、久しぶりに仲の良い6人で街へ繰り出し日頃のストレスを発散すると皆揃って寮へ戻った。
「時間経つの早いよねー‥まだ遊び足りないや」
「それな、寮の門限が5時って小学生かっての」
「高校生なんだから9時くらいでも良いのにな」
「マジでそう思うわー」
皆で何時ものように愚痴を言いながら寮の門を潜りチェックを受けてからそれぞれの部屋へ戻って行く。
「また後でな!」
「おう!」
部屋に戻るとそれぞれは用意をしてまたすぐに集合し、学校へと向かった。休みの日でもこうして自習をしないと追い付けないほど術者としてのカリキュラムは厳しかったのである。それは他の生徒もそうで朝から学校に来て自習をしている者も居た。7時くらいまで自習をして寮に戻って食事をし、皆で風呂に入るのが日課になっている。
「お前って鍛えてる割にあんまり筋肉無いよな‥」
「それ言わないでよ‥結構、気にしてるんだから‥」
湯船に浸かりながら紬が言うと五月は嫌そうな顔で返す。
「っていうか後ろから見てると女みたいな身体してるよな」
「身体って言うより所作が女っぽい?」
友人達も口々にそう言うと益々、五月は不機嫌そうな表情になった。
「仕方ないじゃん
つい最近まで女だと思って生活してたしさ」
少し膨れてそう答え、一層身を深く沈める。
「まぁ、分からなくは無いけどそれにしても紛らわしいからそろそろ髪切れば?
その髪の長さだと篠原と間違えちまうんだよな」
「髪は伸ばす‥だってずっと長かったから短いと落ち着かないんだもん」
「名前と見た目だけだと本当に女子と変わらないもんなお前‥」
「五月生まれだから五月ってそのまんまだよな」
「仕方ないじゃん‥うちは五月に産まれた男子はそうやって名付ける決まりなんだから‥でも意外と僕、嫌いじゃ無いんだよね自分の名前‥」
「斎藤なんか逆にめっちゃ強そうな名前でイケメンなのにあれで女子だもんな‥お前ら性別逆じゃね?」
そんな感じで相変わらず風呂では茶化された。斎藤というのは女子に人気の女子で見た目はかなりイケメンの五月とは真逆だったのでよく比較されていたのである。
「もっと大きくなったら僕だってちゃんとイケメンになるから大丈夫だもんね!」
五月は膨れて言い放つと先に湯船を出て行き、友人達はそれに続くと五月の機嫌を取った。これも毎回のルーティンである。こうして楽しい学生生活を送り、充実した高校生活が終わると五月は咲衛門の神社で神主修行と鬼狩修行を続ける事となった。
卒業式が終わり級友達と別れを惜しむと五月は一度、自宅へ戻る。
「荷物も全部送ったしお爺ちゃんちに行くのも来週からだし明日から暫く束の間の休日でも謳歌しようかな」
ほくほく笑顔で五月は自宅最寄り駅の改札を過ぎた。
「何を言っている‥明後日から咲衛門と一緒に龍王院家と朱雀王子家に挨拶に行くんだろう?
それまでにスーツを新調して来いって言われてるだろうが‥」
征嗣に言われて五月は今更、思い出して固まった。
「すっかり忘れてた
じゃぁ、荷物置いたら速攻で買い物行かないと‥って言うかもうこのまま行った方が良いか‥」
五月は立ち止まるともう一度、駅の方へ引き返して電車で買い物に出る。適当に店に入るとばったり噂の斎藤と出くわした。
「あれ?斎藤もスーツ見に来たの?」
「ああ、天宮もか?」
「うん‥ちょっと用事で偉い人に会わなくちゃいけなくてさ‥スーツとか面倒臭いよね」
「そうだな」
そんな話をしながら売り場を周る。征嗣は黙ってそんな二人の後をついて周っていた。やはりと言うか店員は二人にちぐはぐなスーツを進めて来てその度に二人は逆だと説明する。そしてようやくそれぞれ決めるとそれを購入して店を出た。
「斎藤は進路決まってるの?」
「一応は‥親の意向で朱雀王子家に出仕する事になってる
そうは言っても下級中の下級眷属だから外回り中心だけどな」
「そっか‥だったらこのまま京都なんだね
僕は神社を継がなきゃなんないからまた田舎暮らしだよ」
「いや、私の実家は九州だから九州へ戻って現地での出仕になるんだ
屋敷に出仕出来るのは一握りの家だけだよ
顔見せで屋敷に行くだけだからすぐに九州へ帰るんだ」
「そうなんだ、だったら会えるかもね
僕もおじいちゃんとお屋敷へ挨拶に行く事になってるからさ」
「それは凄いな‥眷属でも無いのにわざわざ屋敷に行くんだ‥」
「僕もよく分からないけどそういう仕来りなんだって‥新しく鬼狩に就く者は四神四家の当主に挨拶に行くんだって言ってたよ」
「お前って何気に良い所の出なんだな‥四神四家の屋敷なんて普通は眷属でも無い人間が簡単に出入り出来るような場所じゃ無いんだぞ?
しかも私達のように下の下だと顔見せで屋敷に出向いても当主には会えないんだからな」
「そうなの?」
「そうだよ」
そんな話をしながら駅まで来ると二人は手を振り別れる。
「四神四家ってそんなに凄いの?」
五月は何となく征嗣に聞いてみた。
「陰陽師の系譜は天皇を頂点として宮家があってその下に四神四家は存在するが天皇から日本中の祭事や諸々、その一切を任されているのが四神四家の当主で実質、日本の陰陽師のトップに近しい存在だ
だから安易に誰でも拝謁出来るような存在じゃない
斎藤も言っていたように眷属であっても直に拝謁出来るのは屋敷に出仕している眷属だけだ
それを踏まえてお前も挨拶に望めよ」
征嗣が返すと五月は何だか今から緊張してしまう。
「そんなの聞くと何だか今から緊張してきちゃった‥」
五月は困ったようにポツリと答えながら車窓を眺めた。
そして翌日になると咲衛門が大きな荷物を持って訪れる。
「凄い荷物‥何が入ってるの?」
「儂とお前の式服じゃ‥挨拶には正装で臨まねばいかん」
「え?僕、ちゃんとスーツ買ったよ?」
「スーツは屋敷まで‥ご挨拶の時は正装に着替える」
咲衛門は難しい表情で返し、それを聞くと五月は益々気が重くなった。
その翌日になると咲衛門と五月はまず朱雀王子家の屋敷を訪れる。
「では着替えにはこちらのお部屋をお使い下さい
頃合いを見計らって迎えの者が参りますので‥」
十畳ほどの座敷に通されると出迎えてくれた眷属はそう言って去って行った。
「凄く広いお屋敷なんだね‥門を入ってから建物まで車なんてさ」
「何を言うておる‥此処はあくまで来賓用の建物で本邸はずっと奥にあるのだぞ
広いなどという次元では無いよ」
五月が感嘆の声を漏らすと咲衛門は答えながら着替えを始める。それを見て五月も慌てて着替えを始めた。一通り着替えが済んで準備が整うと丁度のタイミングで迎えが来て控の間まで案内される。
「良いか、ちゃんと説明した通りにするんだぞ」
「分かってるよ」
咲衛門は何度も確認するように言い含めると五月の緊張はその度に高くなった。
「もうすぐ当主が参られますのでこちらへどうぞ」
控の間に眷属が入って来てそう言うと咲衛門と五月は謁見の間に入り控えて当主が来るのを待つ。頭を下げてすぐに御簾の向こうに誰かが入ってくる気配がした。
「朱雀王子家ご当主様におかれましては‥」
咲衛門が頭を下げたまま口上を述べ始めると五月は更に身を固くして口上が終わるのを待つ。
「ご苦労さんです
とりあえず楽にして下さいな」
長い口上が終わると気抜けするくらい短くそう言われて五月は驚いて咲衛門より先に顔を上げてしまった。その気配に咲衛門がぎろりと五月を睨むと五月は何となく視線を逸らせる。すると御簾の向こうからまだ少女と言うに相応しいくらいの女性がひょっこり顔を出し五月と目が合った。
「何や‥五月や言うから男の人や思うたら女の子なん?」
「智裕様!」
少女がそう言うと御簾の傍で控えていた眷属が窘めるように声をかける。
「固い事言いなや聖月‥御簾越しやったらちゃんと顔見えへんねん」
智裕がそう言うと聖月は盛大な溜息を吐いた。
「僭越ながら‥これはこう見えて男児にございます」
「そうなん?
ごめん、あんまり綺麗な顔してるから女の人かと思うたわ
それより征嗣はもう起こしてんの?」
「はい、成人式を執り行ってすぐに覚醒させ、五月の教育をさせております」
「今日は連れて来てないん?」
「はい、鬼故にお屋敷に上げる訳にはいくまいと置いて参った次第です」
「守護者の鬼は構へんのに‥うちにも鬼子は幾らか出仕してるんやし今度は是非連れて来て‥」
「承知いたしました」
流石の咲衛門も戸惑いつつ答えると智裕は苦笑しながら返す。五月はそのやり取りを驚きながらただ茫然と眺めていた。
「まぁ、とりあえず頑張ってな‥ほな、うちは用事あるよって‥後は任せるわ聖月」
智裕はそう言うとさっさと謁見の間を出て行き、咲衛門がまた頭を下げてそれを見送ると五月も慌てて頭を下げる。
「まだ当主として未熟で申し訳ない
祝いの膳を用意させているので召し上がってからお帰り下さい」
「ありがとうございます、当主就任の折にも感じましたが先代様同様、威風堂々としておられる
聖月殿には何時もながらお心遣い痛み入ります」
聖月は困ったように控えめに微笑むと咲衛門も微笑み返してまた深く頭を下げた。それからもう一度、先程の部屋に戻って着替えを済ませ、眷属に案内されて庭を望む部屋に通される。まるで高級料亭のような設えに五月は思わずキョロキョロしながら咲衛門に続いて入り、勧められる場所へ腰を下ろした。すると侍女が沢山のご馳走を運んで来る。少し遅れて聖月が部屋に入って来た。
「ご無沙汰していますね咲衛門さん」
「聖月殿もお元気そうで何よりです」
謁見の間と違い二人はフレンドリーに挨拶を交わす。そのギャップに五月は付いて行けず少し呆然となった。聖月は咲衛門と話しながら末席に腰を下ろすとチラッと五月に視線を向けて微笑む。
「緊張したでしょう?
人払いしてありますから寛いでお食事して下さいね」
「あ、ありがとうございます」
優しく微笑んでそう言った聖月に何だか五月はホッとしたようにようやく表情を緩めて返した。
咲衛門と聖月が談笑しながら食事を始めると五月も同じように食事を始める。一口ほどの料理が並んでいて一品食べ終わると次々に運ばれて来てどれから手を付けようか迷った末に五月は二人と同じ物を順に食べていった。どれもかなり美味しく、時折、和やかに聖月に語り掛けられて五月の緊張は何処かへ吹き飛んでしまう。そしてある皿に手を付けた聖月は動きを止めて立ち上がった。
「申し訳ありません、この皿の物は不備があるようなので手を付けないで下さいね」
そう言って傍に居る侍女にその皿を下げさせてから部屋を出て行く。暫くして戻って来ると聖月は何事も無かったように微笑んで元の位置へ腰を下ろした。
「あの‥袖の所に何か付いているようなんですけど‥」
五月は着物の袖に付いている小さなシミを見つけてそう声をかける。
「ああ、問題有りませんよ
お見苦しくて申し訳ありません」
聖月は苦笑しながらそう返したが五月は取れなくなると大変かなと思ってポケットの中を探りシミ取りを探す。
「五月‥」
ごそごそポケットを探っていると咲衛門が声をかけてきて何もするなと無言で小さく首を振る。五月は何となく察してまた二人と同じように食事を続けた。そして食事を終えると五月と咲衛門は丁寧に聖月に礼を言って屋敷を後にする。
咲衛門は車が屋敷から離れるとようやく安心したように長い溜息を吐いた。
「やれやれ‥相変わらず物騒な屋敷だわい」
まるで溢すように小さくそう言ったが五月はなぜ咲衛門がそんなに緊張していたのかよく分からない。
「何で物騒なの?
凄く穏やかな感じの優しい人達だったじゃない」
「まぁ、表向きはそう見えとるがの‥お前が袖のシミを指摘した時は肝が冷えた
下げられた皿には恐らく毒でも盛ってあったのだろうな‥聖月殿はどの皿も儂らより先に手を付けておったろう?
あれは暗にこの順番に食べるよう示唆されておいでだったんだ
お前が儂らに習ってちゃんと順番通りに食べておったのは上出来じゃったな」
五月が不可解そうに聞くと脱力しながら咲衛門は答えた。それを聞いて五月は青くなる。
「毒って‥何で毒なんか‥」
戸惑いながら五月は口元を押さえた。
「なに‥あの屋敷ではこういった事は余り珍しい事では無いよ
恐らく聖月殿の袖に付いておったのは毒を盛った侍女か眷属を処分なされた返り血なのだろう
あそこではそういった事も日常茶飯事‥よく覚えておきなさい
四神四家の眷属ともなれば穏やかな顔で人を殺める事が出来て一人前‥決して隙を見せてはいかん
特に聖月殿を始め四天王やその直属の眷属方には決して非礼を働く事の無いようにしなさい‥味方である内は庇護して下さるが敵に回せば即、命を取られる」
咲衛門がそう言うと五月は今更、冷や水を浴びた様な気分になる。咲衛門が物騒だといった意味をようやく五月も理解した。
その翌日、次に龍王院家に挨拶に訪れる。昨日の事が有ったので五月はより緊張した面持ちで咲衛門に付いて行った。同じように眷属に案内されて別室で着替えを終えると控の間へ通される。
「龍王院家の当主様ってあの前に来てくれた方だよね?」
五月は成人式の時の事を思い出しながら虚覚えの顔を思い出す。
「いや、綾之助様はお亡くなりになって今は代理の方がそのお役目を担っておられる
昨日も言うたがくれぐれも粗相の無いようにな‥」
咲衛門が返すと五月は頷きながら身を固くした。そして謁見の間に通されると同じように頭を下げて控える。程無く御簾越しに人が入ってくる気配がした。
「お久しぶりですね咲衛門さん」
御簾越しから聞こえてきたのはまだ幼い子供のような声だ。咲衛門はまた長い口上を述べ五月を紹介する。
「どうぞ楽にして下さい」
咲衛門の口上が終わるとそう声をかけられて咲衛門と五月は顔を上げた。
「容姿も風格もお爺様から聞いていた通りですね
流石、五月を名乗るだけの事はあります
細やかではありますが次期当主が祝いの膳を用意しておられるので宜しければ召し上がって行って下さい」
「ありがとうございます」
今回は始終、御簾越しにやり取りをして謁見を終えるとまた部屋に戻って着替える。そして着替えを終えると通された離れで未就学な感じの幼児が二人を待っていた。
「ご無沙汰しております咲衛門さん」
「こちらこそご無沙汰しております千代丸様」
千代丸が微笑んで言うと咲衛門は丁寧にその子供に平伏して挨拶をし、五月も同じように平伏して緊張しながら頭を下げる。見た目は完全な幼児ではあるが御簾越しに聞いたあの声の主だとすぐに理解したからだ。
「まだ公に当主では無いので口外無用でお願いしたいのですが次期当主になられる琴吹様が是非、貴方方とお話したいと仰せなので来て頂きました
こちらへどうぞ‥」
そう言うと千代丸は二人に付いて来るように言って庭へ出た。咲衛門と五月は少し緊張した面持ちでそれに付いて行く。すると煙と共に良い匂いが漂ってきた。どうやらバーベキューでもしているのか賑やかな声も聞こえてくる。少し建物を周り込むと案の定、数人がバーベキューコンロを囲んで談笑していた。
「お連れしましたよ」
「ああ、ご苦労様」
千代丸が微笑んで言うと銀髪の青年がトング片手にそう返す。
「明希ちゃん、後お願い‥唯天と真十郎はそっちにも椅子出して」
銀髪の青年はそう言うと金髪の青年にトングを渡しテーブルの準備をしている面々にもそう言ってから二人の傍へやって来た。
「こちらが藤森咲衛門さんと天宮五月さんです
こちらは次期当主の琴吹様です」
すると千代丸はそう言ってお互いを紹介する。
「お初にお目にかかります、鬼狩の藤森咲衛門と新人の天宮五月と申します
この度はお招き頂き‥」
「ああ、硬い挨拶は抜きで良いよ
それはさっき千代丸にしたんでしょ?
だったらもう此処からは無礼講で良いからさ‥とりあえずご飯食べながら皆で話そうよ」
咲衛門が頭を下げて丁寧に挨拶を始めると琴吹は苦笑しながらそう返した。
「とりあえず座って、どんどんお肉焼いてくからしっかり食べてよ」
琴吹がそう言うと咲衛門と五月は戸惑いながら顔を見合わせる。
「千代丸も座って食べなよ」
「いえ、私はまだ公務が残っているので‥」
「ちょっとくらい良いじゃん
どうせお昼食べるんなら此処で皆と食べようよ」
「では少しだけ‥」
千代丸も戸惑いながら言うと琴吹はゴリ押しにも近い感じでそう言った。
「ご無沙汰してます咲衛門さん」
「唯天君も元気そうで何より‥母君も息災にしておられるか?」
唯天がそう言いながら隣に座るよう促すと咲衛門は答えながら唯天の隣に腰を下ろす。五月も戸惑いながら咲衛門の隣に腰を下ろした。
「嫌いな物とかあるか?」
「いえ、大丈夫です」
金髪の青年が聞いてくると五月は困惑しながら張り付いた笑顔で返す。
「あー、明希ちゃん、可愛いからって手出さないでよ!
五月君はまだ子供なんだからね!」
「人聞き悪ぃ事言うなよ
俺をお前と一緒にすんじゃねぇ」
琴吹が注意すると明希は即座に言い返しつつ焼き上がった肉を入れた皿を五月の前に置く。その様子に咲衛門と五月はぽかんとしたような表情になった。
「気にしなくて良いですよ咲衛門さん‥あいつら連れなんで‥」
戸惑う二人に唯天は小さく言う。
「お二方とも気になさらないで下さい
琴吹様はつい最近まで一般人として生活されていらしたのでまだ龍王院家の諸々には不慣れなんです
どうか普通に接して差し上げて下さいね」
千代丸も傍に腰を下ろすと二人にそう言った。
流石に咲衛門や五月もそれには苦笑するしか無かったが琴吹は始終、そんな感じでフレンドリーに接してきたので咲衛門も戸惑いつつそれに合わせる。五月は久しぶりに会う唯天に少しドキドキしながらも同じ鬼狩の先輩としてあれこれ話を聞いた。途中で焼き方を眷属が引き受けると琴吹も話に加わって皆で和気藹々と話しながら食事をする。まるで昨日の緊張感が嘘のような和やかさだった。
「そういやこの間の案件はどうなった?」
「あれは凛子が片付けたよ
俺が行くほどでも無かったからな‥それに俺は忙しいから簡単な案件は眷属に処置させるよう姫様には言っといてくれ
小物なら陰陽師でもどうにかなるだろ?」
デザートを食べながら思い出したように明希が聞くと唯天は答える。五月はすぐに鬼狩の案件だろうとピンと来て二人の会話に耳を傾けた。
「まぁ、とりあえず言っとくが俺等じゃ鬼の力量は測れんからそっちに話が行っても諦めてくれ」
「じゃぁ、出来るだけ俺がそう言う案件引き受けるからこっちに回すように姫ちゃんに言っといてよ
俺なら唯天と仕事した事あるから何となく分かるしさ」
溜息交じりに明希が返すと琴吹が口を挟む。
「お前はまだ自由に動ける立場じゃねぇだろうが‥さっさと正当な当主になって自由に動ける身分になってから言えよ
なぁ、千代丸?」
「ご心配なさらなくても琴吹様は筋が良いのですぐ公に当主になれますよ
三上様こそ余り此方へ出入りすると智裕様の不興を買ってしまいますよ?」
明希が話を振ると千代丸は苦笑しながら返した。ずっと感じていたがまだ小学生にも満たないほどの幼児が大人同様の受け答えする様子に五月は違和感しか無くて内心感心する。
「では、そろそろ我々はお暇させて頂きます
本日はありがとうございました」
会話の切れ目を見計らって咲衛門がそう言った。
「じゃぁ、俺もそろそろ帰るよ
咲衛門さん、ちょっとそっちに寄っても良いか?」
唯天は琴吹達にそう言ってから咲衛門の方を見る。
「ああ、儂も少し話があるのでそうして貰えると助かる」
咲衛門も答えると席を立つ。
「んじゃ、俺も帰るか‥」
「明希ちゃんは残ってよ!」
明希もそう言って席を立つと琴吹は意味深な視線を向けて引き留めた。
「真十郎、皆を見送ったげて‥」
「承知しました」
琴吹が言うと真十郎も席を立って皆を伴い玄関の方へ向かう。咲衛門と五月は真十郎に丁寧に礼を言ってから呼んで貰ったタクシーに乗り込み唯天もそれに同乗した。
「それにしてもお前さんはかなり琴吹様とは親しそうにしておったが一体どういう方なんだ?」
「ああ、あいつ‥あいつってもう言えなくなるけど智裕様から依頼のあった仕事で何回か一緒になったんですよ
あいつ、元々は神社勤めの陰陽師だったんです
でも一般の陰陽師にしておくには惜しいくらいの術の使い手だったんで驚きはしましたが自分としてはあいつが次期当主でもあんまり違和感無いですよ」
咲衛門が溜息交じりに聞くと唯天は苦笑しながら答える。
「なるほど‥そう言えばあの三上様と言う方はもしや智裕様の?」
「ええ、入り婿です
名目上は一般人という事で公には公表されていませんけどね
正直言うと流石、智裕様が信頼しているだけあって二人ともキレ者ですし常人離れしてますよ
本来なら智裕様と同等の礼を尽くさないといけないんでしょうけど知り合った経緯が経緯ですしまぁ、あんな感じの奴等なんで内々には何時もこんな感じです」
帰り道、咲衛門と唯天がそんな話をしていると五月は興味津々で聞き入った。
帰宅すると咲衛門は唯天を交えて家族や征嗣を呼んで話し始める。
「五月はこれから鬼狩として本格的な修行をせねばならん
本来は儂が教えねばならんのだがどうも儂は五月に対して甘い‥だから暫く唯天に付いて直に鬼に対峙させようと思うておる
唯天には負担をかけるが構わぬだろうか?」
「俺もそのつもりで此処へ来ましたから‥話が早くて助かります」
咲衛門がそう言うと唯天は微笑んで返す。
「俺もそれには賛成だ
直接、鬼に対峙してこそ感覚が磨かれるからな‥現役の鬼狩の元で実戦を積む方が良いだろう」
征嗣もそれに同意すると五月の両親はまた少し不安そうな顔をした。
「高校を出たと言っても五月はまだ子供です
余り危ない事はさせたくないのが私達の本音です」
「大丈夫だよ父さん
僕、これでもだいぶ強くなったんだから‥先生も居るし問題無いよ」
父親が躊躇いがちに言うと五月は安心させるように微笑んだ。
「勿論、俺も最大限バックアップしますから預けて頂けませんか?
今、現役で活動する正規の鬼狩は実質、俺一人なので早く五月君には一人前になって欲しいんです
そうする事が彼の為にもなりますから‥このまま俺に何かあれば慣れない内に五月君は実戦投入されてしまう可能性があります
そうなれば命の危険もありますし引退した鬼狩である咲衛門さんを始めとする元・鬼狩達も無理をして命を縮める事になりますからね」
「分かりました‥宜しくお願いします」
唯天が説明すると渋々と言った感じで父親は了承した。
その後すぐに五月は唯天に言われ身の回りの荷物を纏めると唯天が住む福知山へ征嗣と共に赴く。まさか尊敬する大先輩とこんなに早く一緒に仕事が出来るとは思わなくて五月は内心、とてもワクワクしていた。福知山の駅から唯天の車に乗り込むと五月は弾む気分で車窓を眺める。今まで彼方此方へ引っ越していたので然程こういう状況も珍しくは無いのだが唯天が傍に居る事で全く違う景色に見えた。
「そう言えば免許は持ってるか?」
「いえ、まだ持ってません」
「だったら教習所に通わないとな‥此処らはまだ電車やバスがあるから良いがうちの周りは足が無いと不便だ‥とりあえず原チャの免許はすぐ取れるだろうから明日にでも行こう」
「はい」
そんな話をしながらどんどん山奥へ入って行く。そして山の中腹辺りにポツンと一軒家が見えてくると唯天は其処へ車を停めた。
「此処が俺の家だ‥あちこちに鬼が居るけどそいつらは祓うなよ
俺が使役してる鬼だからな‥」
唯天がそう言いながら車を降りると五月と征嗣も続いて降りる。豪邸と言うほどでは無いが離れまであるかなり広い平屋の一軒家だ。
「主様お帰りなさいませ」
玄関を入ると青白い顔の女性が三つ指を付いて出迎える。気配は鬼のそれ。
「今日から此処へ住む五月だ
いろいろと面倒を見てやってくれ」
唯天は女性にそう言って五月を指す。
「承知しました」
女性はそう返すとスゥっと姿を消して五月は驚いた。
「此処に居る奴等は俺以外、ほぼ鬼だと思ってくれて良い
来客は人間だが殆ど来ないから鍛錬も好きにやってくれ」
唯天は説明しながら上がるように促す。そして家の間取りをザックリ説明してから二人を離れに案内した。
「この離れのどの部屋を好きに使ってくれても良い‥用事がある時はその辺に居る鬼か俺に声をかけてくれれば良いからな
明日は免許取りに行ってバイクを買うから朝の8時に起きて来い
食事は家に居る時は朝8時と昼12時、それから夜は7時に鬼が用意しているからリビングに行けば食べられる‥それ以外に何か食べたい時はその辺の鬼に声をかければ良い
風呂は温泉を引いてるから何時でも入れるぜ
後は俺が呼ばない限り好きに過ごしてて良いからな
俺はもう一回、出るから何かあったらさっき教えた番号にかけて来い」
唯天はそれだけ言うとさっさと去って行ってしまう。取り残された五月は征嗣と部屋をあちこち覗いてみた。全部で三部屋あって五月は一番端の部屋を選び、征嗣は反対角の部屋を選んだ。家具などはしっかり用意されていてとても快適に過ごせそうな感じだ。五月は持って来た荷物を広げ着替え等をクローゼットに仕舞って行く。身の回りの荷物以外はまた段ボールで送って貰う手筈になっているのであっと言う間に片付けは済んだ。窓の外はもう真っ暗で星が綺麗に見えている。
「ねぇねぇ先生、ちょっと散歩行って来て良い?」
征嗣の部屋に顔を出して聞いてみた。
「明日も早いんだから風呂入って寝ろ‥幾ら結界があっても物騒だから夜にうろつくんじゃない」
「良―じゃん‥ちょっと家の周りだけだよ」
「ダメだ」
征嗣が寝支度をしながら返すと五月は拗ねる様に膨れた。
「少しだけなら付き合ってやる」
諦めたように征嗣が言うと五月は嬉しそうに微笑んだ。そして二人で家の前に出て星空を眺める。
「わぁ‥お爺ちゃんちより星が綺麗に見える‥凄く空が近いね」
五月が星を見上げながら嬉しそうにそう言うと征嗣も空を眺めた。
「別に星空なんぞ珍しくも無いだろう?」
「そんな事無いよ
京都じゃこんなに星は見えなかったもん
それにお爺ちゃんちだって木々で覆われたりしてこんなに空見えないからね」
少し呆れたように征嗣が五月に視線を向けながら聞くと五月は目をキラキラさせながら星空をまだ見上げている。薄明りに浮かぶその横顔に征嗣は少しドキッとした。
「先生はもっと昔の星空も見てるんだよね?
やっぱり昔の方が星空って綺麗に見えた?」
「そうだな‥人工的な明かりが無かったからもっとはっきり見えたよ」
不意に微笑みながらそう言って五月がこちらを向くと征嗣は更にドキッとして視線を逸らせ答える。
「もう良いだろう?そろそろ戻るぞ」
「うん」
征嗣はそう言うと家に入ろうと歩き出し、五月も大人しくそれに従った。
翌日、言われた通り8時に起きて来ると既に朝食が食卓に用意されていたが唯天の姿は無い。
「唯天さんは?」
「主様はまだお戻りになってはおりませんので先に召しあがって下さい」
キッチンの隅で用事をしている昨日見た青白い顔の女性に聞くとそう返事が帰って来て五月と征嗣は仕方なく先に朝食を取った。朝食を終えようかという頃に表で車の音がして唯天がリビングに入って来る。
「おかえりなさい‥もしかして今、戻って来たんですか?」
「ああ、それより食べ終わったらこれを全部頭に叩き込め」
五月が聞くと唯天は返して原付免許の教本をテーブルに置き、あの女性に目配せして朝食を用意させた。五月は残りの朝食を急いで掻き込んでからその教本を開いて読み始める。
「仕事か?」
「ああ、夜に片付ける方が楽だし人目に付かないからな‥特に弱い輩ほど夜に活発に動く
顕現出来る鬼と違って普通の鬼は気配を消していて昼間だと俺等でも見逃してしまう」
征嗣の質問に答えながら唯天が食事に手を付けた。
「俺はこれから仮眠を取るからその間にその内容を全て覚えておけよ
昼飯食ったら街の試験場へ行くからな」
手早く食事を終えると唯天はそう言ってリビングを去って行ったが五月は集中しているのかそれに答えず黙々と教本を読んでいる。征嗣はその様子に溜息を吐いてから後片付けを始めた。
「私がやりますのでそのままで結構です」
か細い声で女性が言うと征嗣は女性が片付けやすいように食器を纏めてやる。それから何となく辺りを見るといろいろな所で鬼の気配がして見えはしないが辺りを掃除しているような気配がした。
〈なかなかうまく躾けてあるな‥〉
征嗣は感心しながらもう一度、椅子に腰を下ろすとテレビを付けて見始める。五月はそれにも気付かず勉強を続けていた。
昼前には全て頭に入れて五月は征嗣とテレビを見ながら唯天が起きて来るのを待つ。
「全部覚えたか?」
「多分、大丈夫です!」
昼食時間になり欠伸交じりに起きてきて唯天が聞くと五月は自信有り気に答えた。
「上等‥葵、飯‥」
唯天は微笑んで五月に言ってから虚空に声をかけて自分も椅子に座る。するとスゥっとあの女性がキッチンに現れ昼食を準備し始めた。
「葵さんって言うんですかあの鬼?」
「そういや名前を言って無かったっけ?
家の中には他にも屍鬼や悟鬼ってのが居るが表に居る奴も数えたら7体くらいは居るかな‥普段は姿を見せない奴等だから気にしなくて良い
身の回りの事はだいたい葵がやってくれるから葵の名前だけ覚えとけば良いよ」
五月が聞くと唯天はまだ眠そうに答え、昼食が出来上がると皆で食事をして家を出る。
「お前はバイク乗れるか?」
「知識を貰えればすぐに乗れる」
「じゃぁ、俺から吸い取れ」
唯天が聞くと征嗣は答え、それを受けて以前、咲衛門にしたような方法で征嗣は唯天から運転スキルを手に入れた。
「先生のそれって便利だね‥何でも知識を吸収出来るの?」
「別に万能な訳じゃない‥そいつの知らない事は吸収出来ないし拒絶されれば全部を理解する事も出来ん」
五月が聞くと溜息交じりに征嗣は答える。唯天が車を停めた横にある倉庫のシャッターを開けると其処には三台のバイクが止まっていた。オフロードにレーサー、大型スクータータイプと用途に合わせて乗れる仕様のようだ。壁にある棚からヘルメットを取ると唯天は二人に差し出す。
「ニケツで付いて来い‥俺はこれで行くからお前等はどっちでも好きな方を乗れば良い」
唯天はそう言うとレーサータイプのバイクに跨った。征嗣はスクータータイプに跨り五月に後ろに乗るように促し、三人は出発する。五月は初めて乗るバイクの後ろに爽快さを感じながら微笑んだ。
試験場へ着いて五月は無事に合格するとその足で唯天の馴染のバイク屋で原付を買って貰う。初めてのバイクにドキドキしながら二人の後を付いて帰路に着いた。
「明日の夜から仕事に連れてくから午前中でも昼でも良いから夜に備えてしっかり寝とけよ
仕事に慣れてきたら此処の教習所に通って車の免許も取れ
俺はまたこのまま仕事に出るから‥」
自宅に戻って来るとバイクを置いてすぐに唯天は教習所のパンフレットを五月に渡し車に乗り換えてさっさと出て行ってしまう。
「鬼狩の仕事って結構、忙しいんだね」
その様子に五月は呟くと征嗣と共に家に入った。
その夜は明日に備えて少し夜更かし気味に休もうと夕食の後に征嗣に稽古を付けて貰ったり筋トレに勤しんで日付が変わってから風呂に入る。のんびり風呂を堪能してからリビングでテレビを見つつジュースを飲んだ。
「まだ起きてたのか?」
「うん、出来るだけ明け方まで起きてて明日は昼まで寝ようかと思って‥でももう眠くて仕方ないんだよね」
征嗣が飲み物を取りに着て声をかけると五月は欠伸交じりに答える。
「じゃぁ、無理せず寝ろ‥こんな所で転寝する方が身体に障る」
「うん‥そうする‥」
征嗣にそう言われると五月は諦めて部屋に戻って休んだ。
翌日、やはり余り夜更かししなかったせいか11時前に目が覚めて五月は着替えてリビングへ向かう。するとリビング傍の客間から声が聞こえた気がして唯天が戻って来たのかとノックと共にドアを開けた。
「唯天さん帰ってたの?」
そう声をかけながら室内を覗いた途端に五月は固まる。服こそ着ていたがソファの上で明希と琴吹が盛り上がった状態で縺れ合っていたのだ。
「あ‥」
「ご、ごめ#%&>!」
二人が気付いて五月を見ると五月はハッとして慌ててドアを閉め、その場にへたり込んだ。本番までは行かなくてもそういう事に疎い五月にはかなり刺激が強過ぎたのか呆然としてしまう。口元を押さえて耳まで真っ赤になりながら這うようにその場を離れようとするが驚き過ぎてなかなか立ち上がれなかった。ドアから数m離れた所でようやく立ち上がって壁に凭れ掛かっていると客間のドアが開き、五月はびくっとして振り返る。
「あー‥何か脅かして悪かったな‥とりあえずもう大丈夫だから入れよ」
明希が言い難そうにそう言って入って来るように促すと五月は戸惑いながらも視線を逸らせ客間へ入った。
「脅かしてごめんね
唯天から昼過ぎまでは寝てるんじゃないかって言われてたもんだからさ」
客間へ入ると琴吹もバツが悪そうに苦笑して弁解する。五月はまだ真っ赤なまま声も出せずに全力で首を振るしか出来ない。
「あ‥あの‥唯天さんはまだ仕事で‥」
「うん、それは確認してるよ
夕方までには戻って来るって言ってた‥今日は唯天だけじゃなく君にも用事があったから早めに来たんだけど道が空いてて早く着き過ぎちゃって‥恥ずかしい所見せちゃったね」
しどろもどろで五月が言うと琴吹は困ったように誤魔化し笑いで説明する。
「お前に渡しときたい物が有るんだ」
明希が座るように促してからソファへ腰を下ろし傍に立てかけた長い風呂敷包みをテーブルの上に置く。五月は二人に向かい合うように腰を下ろすと置かれた物を眺めた。どうも二人とは目を合わせられない。明希は黙って包みを解いて木の箱を開けると一本の太刀が収めてある。
「唯天から君にも使えそうな太刀を一本見繕ってくれって言われててね
これはうちに収められている鬼切の太刀の一本で千寿丸って言うんだけど癖が無いから君にも扱いやすいと思って持って来てみたんだ」
琴吹が説明するとようやく五月は顔を上げて琴吹を見てからもう一度、太刀の方へ視線を落とす。
「僕が‥これを?」
「真剣は初めてか?」
戸惑いながら五月が呟くと明希は窺うように聞いた。
「まだ真剣は持った事が無くて‥何時も竹刀で練習してたか‥あ、申し訳ありません!」
余りに突然の事で二重に戸惑い過ぎてついうっかり普通に話してしまい慌てて口元を押さえ、非礼を詫びるように頭を下げる。
「言葉遣いとかそんなに気にしなくて良いよ
僕も明希ちゃんもそう言うの気にしないからさ」
琴吹が優しげに微笑んで言うと五月は恐る恐る顔を上げた。バーベキューの時も思ったが本当に二人とも言葉遣いなど余り気にしていない様子だ。
「とりあえずちゃんと扱えそうかどうか見てやるよ」
明希がそう言って立ち上がると五月はぽかんとした。
「それ持って庭に出ろ」
続けて言われると五月は戸惑いつつ刀を手に取ってみる。真剣だけあってずっしりしてはいるが扱えない重さではない。寧ろ竹刀よりしっくりくる重さだ。明希はそれを見て勝手知ったる感じで五月達を連れて庭へ出る。
「とりあえず鞘はその辺に置いて構えてみろ」
明希に言われて五月は鞘を近くの縁側に置いて何時ものように構えて見せた。
「んじゃ、俺に向かって切りかかって来てみろ」
「え?そんな事したら危ないですよ」
「大丈夫‥新人が明希ちゃんに掠り傷付けるなんて十年早いから」
明希が不敵な笑顔で言うと驚きながら五月は返したが琴吹は笑いながらそう言った。五月は内心「大丈夫なんだろうかこの人達は」と思う。
「ほら、早くしろ」
明希に急かされると五月は手加減しながら刀を振り下ろしたがすぐに視界から明希の姿は見えなくなった。
「あれ?」
切っ先に居た筈の明希が消えて思わず五月が呆然となる。
「本気で来いよ‥練習にならねぇだろ?」
隣で声がしてそちらを見ると明希が溜息交じりにそう言って五月は言葉を失った。
「殺す気でかかって行ってごらん‥まぁ、それでも当たらないと思うけどね」
余裕の笑顔で琴吹は縁側で二人の手合いを眺めている。それを聞いて流石に少しムッとしてもう一度、明希に向かって構えると今度はそこそこの力で刀を振るった。しかし掠るどころか簡単に交わされて全く捉える事も出来ない。
「闇雲に振るんじゃなくって感覚で気配を捕らえろ‥相手の先を読んで其処に切っ先を向けるんだ」
征嗣と同じ事を明希が言うと五月は練習の時の事を思い出しながらもう一度、呼吸を整える。そして今度は真剣に明希に向かって切りかかって行った。それでも全く当たる気がしないほど明希は簡単にそれを交わしていく。そして暫くやり合って集中が切れそうになって来た時、五月が全力で振った刀の先をひょいと明希は摘まんだ。
「この辺までだな‥まぁ、初めてにしちゃ上出来な方だ
後は使役する鬼と鍛錬しろ」
まるで紙切れでも摘まむように切っ先を摘まんでいて全く微動だにしない。
〈僕、全力で振ったのに簡単に刃を止めた‥〉
五月が息を切らせながら驚いていると明希が手を放しいきなり刀の重さを感じて慌てて支える。
「そう言えば征嗣だっけ?
彼はまだ寝てるの?」
思い出したように琴吹が聞いた。
「部屋に居ると思いますけど‥呼んできましょうか?」
「いや‥寝てるなら良いよ
どうせ唯天が戻って来るまで居るつもりだしさ」
五月が息を整えながら返すと琴吹は答えて立ち上がる。そして一同はまた客間へ戻った。
「ちょっと僕、起きてるか見てきますね」
五月はそう言い残して客間を出る。急いで離れまで行き征嗣の部屋をノックしたが返事は無くそっとドアを開けてみた。しかし征嗣の姿は無い。五月はリビングまで行くと葵の姿を探す。
〈葵さんも居ない‥何処に行ったのかな‥〉
そう思いながらキッチンから出ようとした時、背後に気配を感じて振り返った。
「何か御用でしょうか?」
すうっと葵が現れると五月は一瞬、ギョッとする。
「びっくりした‥先生知らないかな?
部屋に居ないんだけど‥」
「征嗣様でしたら出かけて来ると仰って出て行かれました
夕刻までには戻られるそうです」
「そうなんだ‥あ、お客さんが来ているからお昼ご飯、お客さんの分もお願いします
それとお客さんにお茶を出したいんだけど‥」
「承知しました」
五月は気持ちを落ち着ける様に出来るだけ穏やかにそう葵に言ってからお茶を淹れて貰って客間に戻った。
「先生は出かけてるみたいです
夕刻までに戻ると言って出たそうなんで唯天さんと同じくらいに戻ってくるかもしれません」
「そっか‥じゃぁ、暇だし何処かへ皆でご飯でも食べに行く?」
「あ、今、葵さんにお二人の分も食事の用意をお願いしたので‥」
「気を遣わせて悪ぃな‥」
五月はとりあえず二人にお茶を出しながら説明してまた元の位置に腰を下ろす。
「三上様って凄くお強いんですね」
「明希ちゃんは呪術師と渡り合えるくらいには鍛えてるもんね
だから普通の陰陽師や術師じゃ敵わないと思うよ」
五月が感心しながら言うと琴吹は我が事のように自慢げに答えた。
「その代わり術の類は全くダメだがな‥智裕に札作って貰わねぇと防御も出来やしねぇ」
明希は溜息交じりに言ってお茶をすする。
「それよりお前こそ凄いな‥まだ鍛え始めて数年だろ?
よくあれだけ動けるようになったもんだ」
「全部、先生のお陰です
でも流石に初めの頃は泣きながらしごかれてましたけどね」
明希が少し微笑んで言うと五月は苦笑しながら返す。実際、初めの頃はきつすぎて何時も泣いていた。
「それでも数年であれだけ出来るのは凄いと思うよ
普通はどんなにしごかれても成人後から鍛えたってたかが知れてるから‥流石は“さつき”の名を継いでるだけの事はあるね」
琴吹も褒めると何だか照れ臭くなって五月は誤魔化し笑いを浮かべる。其処へノックの音と共に葵が控えめに顔を出した。
「お食事の用意が整いましたがこちらにお運びした方が宜しいでしょうか?」
「ああ、そっちへ行くよ」
葵が遠慮がちに聞くと明希が即答する。その様子からどうやら二人はこの家の事にかなり慣れているようだった。三人は場所を移動して談笑しながら食事を始める。
「琴吹様はうちの神社の事に詳しいんですか?
僕、まだちゃんと聞かせて貰った事が無いので分からない事が多くて‥」
「詳しいも何も神社の祭神である栢斗鬼媛は龍王院家の姫だからね
だから龍神も一緒に祭ってるでしょ?
うちの文献にも栢斗鬼媛文書って言うのがあるくらいだよ
先月くらいに丁度、その辺りの歴史なんかを教えて貰ったばかりだったからそれで挨拶に来た時に話を聞いてみたくなったんだよ」
五月が聞くと琴吹が微笑んで返し、それを聞いて五月は驚いたような表情になる。
「栢斗鬼媛って龍王院家のお姫様だったんですか?」
「そうだよ、正式な名前は栢っていう姫でね‥鬼を捕らえて滅するほどの力の持ち主だったから栢斗鬼媛って呼ばれるようになったんだ
戦国時代より少し前に当主だった綾三郎って言う当主の妹だったんだけど綾三郎と同様に当主印を持ってたらしい
それで藤原兵衛って言う鬼狩を従えて人に悪さする鬼や妖怪なんかを退治して全国を周ってたんだよ‥それが綾三郎の助けにもなったからね
その道中で素質のある人を兵衛が弟子にして他の鬼狩と区別する為に苗字に藤の字を入れて名乗らせたんだ
だから藤の字を持つ鬼狩は龍王院家所縁の鬼狩って事‥そう言う点では唯天は別口の鬼狩だから朱雀王子家ルートで知り合ったんだよね」
驚きながら五月が聞くと琴吹が説明した。
「そういやこいつら以外に鬼狩の家ってどれくらい有るんだ?」
「一応、登録上は50件くらい有るんだけど半数近くは断絶してるかな‥バツが付いてたからね
そんでそのもう半分は十代くらい鬼狩が出て無くてもう殆ど一般人と変わんないかな?
現状、十件くらいしか伝承が残ってる家は無いよ
その内の4件は何代か鬼狩の資質を持つ者が産まれて無くて残った家も引退してしまってるから今は名簿上、唯天だけが現役の鬼狩って事になってる
だから五月君が正式にデビューすれば貴重な現役の鬼狩が一人復帰するって感じかな‥」
明希が聞くと琴吹が思い出しながら答えた。それを聞いて五月はかなりプレッシャーを感じる。
「特に唯天と違って藤森の家は直に鬼を倒せるしね
唯天は使役する鬼を使って倒すスタイルだから生身で鬼を倒せる人材は貴重だよ」
琴吹が五月に微笑みかけて言うと益々プレッシャーが大きくなった。
「あ‥そう言えば先生の名前にも藤が入ってる」
五月は今更、思い出したように呟く。
「征嗣は元々、栢斗鬼媛の時代に居た鬼狩の一人だからね
確か‥兵衛の5番目の弟子だったっけか‥
その征嗣が拾った子供が藤森家の初代で藤森引佐って言うんだけど五月雨神社の宮司を兼任するようになって“さつき”っていう名前に改名したんだよね
“さつき”の名前の本当の字は殺す鬼って書いて“殺鬼”なんだ
どうやったのかは分からないけど殺鬼の力を継ぐ者が5月に産まれるようにしたのも初代の頃らしいよ
何でも鬼狩の力が充実する季節が5月なんだって‥物騒な字だから江戸時代初期に違う字を当てるようになったって話だから君の名前も生まれ月に因んで“五月”って言う字を当てているけどね
他にも“砂月”だったり“皐月”だったりいろいろな字の“さつき”が文献には出て来るよ」
五月が聞くと琴吹は食事を中断し、メモを取り出し書いて説明した。五月は語られる事実に始終驚く。
「それで何で征嗣は鬼狩から鬼になったんだ?」
明希がそれに突っ込みを入れた。
「細かい事は書いてなかったけど何でも殺鬼が鬼に殺されて怒り狂って鬼になっちゃったみたい‥まぁ、征嗣にとっちゃ多分、子供みたいな存在だったんじゃないかな?
それで正気を失った征嗣を栢斗鬼媛自身が調伏したって書いてあったから今は龍王院家の固縛印か何かが入ってると思うよ
でなきゃただの鬼が力を保ったままこんなに長く正気で存在出来ないだろうからね」
琴吹が食事を再開しながら説明すると五月の中であの伝承や征嗣の話と重なる。
〈そっか‥お爺ちゃんの昔話って本当の事だったんだ‥〉
五月はそう思うと同時に征嗣が辛い想いをして来たんだと知った。
「何だか祖父から聞いてた昔話が本当だったんだなって今の話を聞いてて実感しました
でもまだまだ分からない事だらけで正直ちょっと戸惑ってます」
「だったら咲衛門さんに家の文献を見せて貰うと良いよ
きっとうちの物より詳しく書いてある筈だから‥それにもっと知りたいなら征嗣っていう生き字引が傍に居るんだから直接聞いてみたら良いんじゃない?」
五月が戸惑いながら溢すと琴吹は少し微笑んで返す。
「そう‥ですね‥もう少し自分の中で整理が出来たらいろいろ聞いてみます」
五月は征嗣に嫌な事を思い出させてしまうのではないかと思い何となく躊躇いながらそう答えた。そうやって話している内に食事を終えると葵が食後のコーヒーとデザートを持って来る。
「そういや、まだ車の免許持って無いんだって?
ついでに俺が教えてやろうか?」
「明希ちゃんが教えると曲芸乗りみたいな運転手になっちゃうからダメだよ」
明希が話の矛先を変えると琴吹はそれに乗り、少し張り詰めたような重い雰囲気が和む。
「原付の免許は唯天さんに昨日、取らせて貰ったんで地道に教習所に通います」
五月も二人が和ませてくれたお陰でまた気持ちを緩め苦笑しながら昨日、初めて免許を取った話やバイクに乗った話をした。
そうしてデザートも食べ終わると五月は少しソワソワし始める。気持ちが落ち着いて来ると先ほどの事を思い出してしまったからだ。このまま二人の傍に居ると邪魔では無いのだろうかと少しづつぎこちない態度になって行く。
「あの‥そろそろ僕、夜の用意があるのでこれで失礼します
お二人は唯天さんが戻って来るまでゆっくり過ごされて下さい‥僕、部屋を出ないので!」
コーヒーも飲み終わってしまい五月はそう切り出して席を立つ。その不自然さに明希と琴吹は困ったように顔を見合わせた。
「さっきの事は気にしなくて良いよ」
「いえ、僕、何も見てませんから!」
琴吹が苦笑して言うと五月はまた真っ赤になりながら慌ててそう返す。
「別に気ぃ使うなよ‥もう、しねぇから‥」
そんな五月の態度に流石に明希も視線を逸らせてボソッとそう言った。
「えと‥本当に邪魔はしないのでごゆっくり!」
五月は言い放ってその場から逃げるように去ってしまう。離れまでダッシュで戻って来ると五月は勢いよく自分の部屋へ駆け込んでへたり込んだ。
〈はー‥今時、珍しくないのかもしれないけど実際見ちゃうと何か居た堪れない‥〉
一人で悶々としながら膝を抱える。一旦、落ち着きベッドにダイブしてゴロゴロしながら恥ずかしさを紛らわすがあれこれ想像してしまう。
〈あの二人って恋人同士なのかな?
でも三上様は智裕様の入り婿だって言ってたし‥でもでも、あれって絶対にそういう事してたよね?〉
グルグル考えながら悶えている内に五月はそのまま眠ってしまった。
「おい、起きろ」
そう声をかけられて目を覚ますと其処には呆れたような征嗣の姿がある。
「あれ?先生、もう戻って来たの?」
五月が目を擦りながら身体を起こすと征嗣は溜息を吐いた。そして窓の外を見るともう日が落ちかけていて五月は慌てる。
「ごめんなさい、うっかり熟睡しちゃった」
「慌てなくても唯天もさっき帰って来たばかりだ
それより飯食って出るからリビングにこいよ」
五月が申し訳なさそうに言うと征嗣は返し、二人でリビングに向かうと唯天が琴吹達と話しながら食事を始めていた。
「ごめんなさい、うっかり熟睡しちゃってた」
そう言いながら五月は急いで席に着く。
「今日はどうせ徹夜になるから別に構わんさ
それより早く戻ってやれなくて悪かったな‥どうせこいつらが乳繰り合ってるの見て部屋から出られなかったんだろ?」
唯天が言うと琴吹と明希はそれぞれ視線を逸らしてバツが悪そうな顔をした。
「え?僕は何も見て無いですよ?」
五月は顔を真っ赤にしながら誤魔化すがそれが全てを物語っている。唯天はその様子にこいつらという視線を向けると更に二人は顔を背けた。
「こいつら所構わずセックスするからとりあえず慣れろ‥犬猫の交尾だとでも思って流せ
いちいち気にしてたらこいつらと付き合えんからな」
ズバリ唯天に言われ五月は赤面したまま固まる。
「その辺にしといてやってくれ‥五月はそういう事に免疫があんまり無いんでな‥
お二方もどうか五月の前でそういう事は慎んで頂きたい」
征嗣が唯天に言ってから琴吹達には丁寧な言葉遣いで少し威圧するような雰囲気を醸し出した。
「ちょっとびっくりしただけだからそんなに怒らなくても大丈夫だよ先生‥それにそんなに子供扱いしなくても僕だってそういうのくらい知ってるってば」
慌てて五月は二人を庇いつつも余りに子供扱いする征嗣にそう釘を刺す。
「ドラマのキスシーンで真っ赤になる奴の台詞とは思えんな‥」
「な‥酷いよ先生!
皆の前でそういう事言わなくたって良いじゃない!」
「ってか早く食え、食ったらすぐに出るんだからな!」
征嗣と五月が喧嘩を始めると唯天は少し呆れて急かした。そう言われて二人は大人しく食事を始め、琴吹達も黙々と気配を消しながら食事を続ける。
「で、今日の案件に付いて来るなら後始末は任せて良いんだな?」
「うん、それはうちで処理するって姫ちゃんにも言ってあるから‥現地で真十郎達と落ち合って俺が指揮を執るよ
唯天はとにかく周りの被害を考えなくて良いから確実に鬼を退治して‥」
一泊置いて唯天はまた仕事の話を始めると琴吹も表情を戻して返した。
「了解‥五月、いきなりハードな仕事になるが征嗣の言う通りに動けよ
躊躇ったら怪我するからな」
「はい、頑張ります!」
唯天が言うと五月は少し気合を入れて返す。ようやく実戦でしかも大きな仕事のようで五月は不安よりもワクワクが大きい。それから早めの夕食を終えると準備をして皆で家を出る。五月は今日、受け取った太刀を携え唯天の車に乗り込んだ。
「付いてくから先に行ってくれ‥言っとくがこっちは普通の車両なんだからゆっくり走ってくれよ?」
「分かってるよ」
唯天が言うと明希は返し、車は出発するがすぐに明希の車のテールは遠ざかっていく。
「ったく‥こんな細い道で出鱈目な運転しやがって‥」
唯天も頑張って飛ばすが明希の車になかなか追い付けない。五月は少し飛ばし過ぎなんじゃないかとドキドキしながらシートベルトにしがみ付いている。細い道を抜けて広い通りに抜けると他の車もいるせいか少しスピードを落とした。そうして現場まで来ると龍王院家の眷属らしき者達が二台の車を商業施設の駐車場に誘導する。
「ご苦労様‥どんな感じ?」
「はい、半径500mに指定領域を張って鬼を閉じ込めています
中に一般人は居ませんが宿主になっているとみられる人間が三人ほど居ます」
皆は車を降り、琴吹が眷属の一人に聞くとそう答えが帰って来る。
「宿主がどいつか分からないのか?」
「はい、我々では判別出来ませんでした
三人とも鬼に変化しておりましたので‥同じ気配では有るので三人のうち二人はただ操られているだけだとは思うのですが‥」
唯天が聞くと眷属は戸惑いながら答えた。
「操られているとは言っても多分、魂は食われた後だろうな‥
分かった‥じゃぁ、俺達だけで指定領域に入る
下手に鬼狩以外が入るとそういう輩はそいつに取り憑こうとするからな‥そう言う訳で今回はお前の出番無しだ」
唯天は琴吹達に返して最後に明希に言い含めた。そして五月と征嗣に付いて来るよう促し指定領域の中へ入る。
「俺はこっちから行くからお前はそっち周りで鬼の気配を追え
良いか、誰かに会ったらとにかく切れ‥人の姿をしていてもそいつはもう鬼だと思って情けも慈悲もかけるな
征嗣は気配を辿って五月を鬼の元へ連れて行け‥無茶はさせなくて良いからとにかく鬼の気配や感覚を掴ませろ」
唯天が言うと五月は頷き、征嗣は鬼の姿になった。その余りの変貌ぶりに唯天と五月は少し驚く。二人とも征嗣が鬼の姿になるのを初めて見たのだ。五月が初めて見たあの鬼の像と同じ完全な化け物のような鬼の姿だった。征嗣は戸惑う五月を優しく抱えると言われた方へ駆けて行き、それを見届けると唯天も自分の担当する方向へ駆け出す。
「五月、刀を抜け‥もうすぐ鬼の傍に出るぞ」
木々や建物の合間を飛びながら進んでいると征嗣がそう言った。五月は鞘から刀を抜くと準備をしながら目を凝らす。征嗣はビルの下へ舞い降りると五月を降ろした。目前に蹲って怯える女性が二人を見る。
「大丈夫ですか?」
五月が駆け寄ろうとすると征嗣はそれを遮り女性を睨み付けた。女性はその姿に怯えながら泣き出す。しかし征嗣は構わず女性に襲い掛かろうとした。
「ちょっ‥先生、ダメだったら!」
それに驚き五月は静止するように二人の間に入って女性を庇うように征嗣の前に立ちはだかる。その刹那、征嗣は五月を女性から離すように突き飛ばした。五月は驚いて受け身を取りつつ二人を見ると征嗣は女性に腹を貫かれていて五月は呆然となる。征嗣は少し血を吐くように咳き込むと女性を蹴り飛ばした。
「先生!」
「バカか!唯天に言われていたろう!?
こいつは鬼だ!」
五月が駆け寄ると征嗣は怒鳴り返しながら血痰を吐く。女性は体勢を立て直すと構わずどんどん攻撃を仕掛けてきて征嗣は五月を庇いながら応戦し、五月は戸惑うようにオロオロした。征嗣の傷口から血が滴り落ちていて五月の頭は真っ白になる。
「早く切れ五月!」
征嗣が叫んでようやく五月は正気を取り戻すと呼吸を整えて女性に切りかかった。しかし女性は五月と目が合うと泣きそうな顔で五月を見てきたので思わず剣先が逸れる。女性はひらりとそのまま交わしてニヤリと笑った。
「騙されるな、あれは鬼だ!」
征嗣が言うと五月はもう一度、構え気合を入れ直して今度は首を刎ねようと刀を思い切り振るう。
「助けて‥」
泣きながらそう言った女性に五月は首の皮一枚切った所で躊躇った。その後、全身に痛みが走り、何が有ったのか分からないまま五月の意識は途切れる。
〈あれ?僕、どうしたんだろう?〉
五月がそう思いながら目を開けると目の前に幼い頃の自分が居た。
〈何で小さい時の僕が目の前に居るんだろう‥〉
ぼんやりした意識の中でそう思いながらよく見てみるとどうやら自分では無い。服装もまるで時代劇のようだし雰囲気や髪形も違う。
〈誰?僕にそっくり‥〉
そう思っているとその少年は五月を見て躊躇いがちに微笑んだ。
「すまないな‥」
少年が粗末な椀に入った汁物を手渡して来ると五月自身が受け取った感覚なのに征嗣の声がそう言った。五月がそれに混乱しながら暫く辺りの様子を窺っているとようやく己の意識が征嗣に入り込んでいるのだと気付く。
〈これって先生の記憶?〉
そう確信するといきなり場面が変わり今度は今の自分と同じくらいの青年が目の前に現れ、五月はそれが初代の殺鬼であると理解した。
「師匠は‥その‥妻を娶らないのですか?」
少し戸惑うように頬を染めて聞く殺鬼に五月は一目で誰かに恋をしているのだと感じる。
「俺は大恩ある姫の守り手だ‥命を惜しまぬよう誰も娶るつもりはないし愛する者は作らない」
征嗣がそう答えると殺鬼は少し寂しそうな顔になった。それからもランダムにその頃の記憶が流れ、その度に殺鬼は征嗣に好意を示していて何だか自分が恋焦がれているように胸が苦しくなる。恐らく征嗣も好意を抱いているのだろう事も感じ取れるが二人は師弟の域を出なかった。
それから殺鬼は栢斗鬼姫様の勧める女性を妻に娶り神社の宮司として着任する。
「もう行かれるのですか?」
「ああ、今回はお役目の最中に立ち寄っただけだからな‥今度は遠方まで遠征に行かねばならんから次に会えるのは年を跨いでからになるだろう
その頃には子供等も一段と大きくなっているだろうな‥帰りに土産など買ってまた立ち寄らせて貰うよ」
寂しそうに殺鬼が聞くと旅支度を整えた征嗣はそう言って旅立った。
それから年を跨ぎ、お役目を終えて逸る思いで帰路に着いている最中、栢斗鬼媛からの書状が届く。それは殺鬼が鬼との戦いで瀕死の状態だと知らせるもので征嗣はほぼ不眠不休で五月の居る神社を目指した。そしてやっとの思いで神社まで辿り着き、殺鬼を見て驚く。瘦せ衰えて傷だらけの殺鬼は変わらぬ優しい笑顔で征嗣を迎え入れた。
「どうしてこんな‥また村人に虐げられていたのか?」
「いいえ師匠‥この辺りは昨年、酷い飢饉で食べる物が無かっただけです
私だけでなく村の者達も十分な食物を摂取しておりません
それに皆はとても優しくしてくれていますよ」
征嗣は怒りを露にすると殺鬼は苦笑する。しかし穏やかな笑顔と裏腹に酷く死の匂いがした。覚えのあるこの気配は呪いそのもの。
「暫く俺がこの地に留まりお前達を守る
だからお前は何も心配するな‥」
「いけませんよ師匠‥師匠は姫の守り手なのでしょう?
どうか早くお屋敷へお戻り下さい」
征嗣が言うと殺鬼はそう言って穏やかに微笑む。その顔は何かを覚悟したようにも見え、征嗣は役目と自分の心の狭間で揺れていた。
「では姫にお願いして必ず助けに戻るからそれまで必ず生き延びるんだぞ」
征嗣はそう言い残し屋敷へまた不眠不休で向かう。
屋敷に戻り姫に見てきた現状を説明して急ぎ上級眷属をとりあえず派遣して貰った。
「念の為、私も赴きますから貴方は共に同道なさい」
「承知しました」
姫に言われて征嗣はすぐに引き返したい気持ちを押さえて姫の準備が整うのを待つ。他の鬼狩仲間を呼び寄せ準備が整うと一行は神社に向けて出発した。
しかし神社に戻って来た時には派遣された眷属は一人しか生き残っておらず、殺鬼は虫の息で妻や三人の子は鬼に取り殺され息絶えていた。産まれたばかりの女児だけが残った眷属に何とか庇護されている状態だったのである。
「姫様‥どうか‥どうか娘だけでもお救い下さい
私の残った寿命を使って頂いて構いませんからどうか‥」
殺鬼が懇願すると姫はそれを受け入れ殺鬼にかかった呪いごと霊力全てを身体から取り出した。そして二日間かけて女児を救う為に術を施していく。征嗣はその間、殺鬼の傍を片時も離れなかった。
「師匠‥ずっと‥ずっとお慕いしておりました‥」
殺鬼は薄れゆく意識の中、征嗣にそれだけ言って微笑むと安心したように息を引き取った。それを聞くと征嗣は殺鬼の亡骸を抱き締めて声にならない声で叫びながら号泣する。気付けば夢中で野山を駆けていて鬼を悉く切り殺して周り、その内に目につく全ての生き物を切り殺しながら征嗣は鬼となっていった。
五月は泣きながら目を覚ますと天井をぼんやり眺める。見知らぬ白い天井、どうやら此処は病院のようだ。
「気が付いたか?」
唯天が五月の顔を覗き込んで聞くと五月はそちらに視線を向ける。
「唯天さん? あ‥せ、先生は?」
我に返って五月は飛び起きようとしたが全身に痛みが走ってまたベッドへ倒れ込んだ。
「急に動くな‥お前は鬼に攻撃されて瀕死の状態だったんだ
征嗣がお前の傷を塞いで血止めをしなきゃ今頃、死んでたんだぞ?」
唯天は溜息交じりに言うと傍に在った椅子に腰を下ろした。痛みに耐えつつ、五月は息を整えながら体制を直す。するとドアが開いて征嗣と琴吹達が入って来た。
「良かった‥気が付いたんだね?」
「ああ、もう大丈夫そうだ」
琴吹が五月を見て言うと唯天は答える。
「先生は大丈夫なの?」
五月は征嗣の顔を見て心配そうに聞く。
「俺は問題無い‥前にも言ったが俺は鬼で顕現していると言ってもただの思念体だ
多少、ダメージを受けても死ぬ事は無い」
五月に返しながら征嗣は呆れたように溜息を吐いた。
「ったく、唯天が散々言ってたろうが‥お前が躊躇えば自分だけじゃなくこいつらも危険に晒す事になるんだぜ?
それだけは今後、肝に銘じておけよ」
明希は今まで見た事の無いような厳しい顔で五月にきつく言ったが言い方は柔らかい。
「ごめんなさい」
「まぁ、初陣だからその辺にしといてやってくれ‥ともかくもう大丈夫そうだから事後処理が終わったんならお前等は屋敷に戻れよ」
五月が泣きそうな顔で謝ると唯天は明希にそう言った。琴吹と明希はそう言われると顔を見合わせてから溜息を吐き病室を出て行く。
「厳しい事を言うようだがあいつの言った事は間違いじゃない
だが今回の件は俺の判断ミスだ‥幾らお前が優秀でも、もう少し簡単な案件から同行させるべきだった‥本当にすまない」
「そんな、謝らないで下さい!
悪いのは言いつけを守らなかった僕だから‥唯天さんに責任なんか無いです」
唯天がそう言って頭を下げると五月は慌てて答えた。
「いや、俺もまだまだだよ」
躊躇いがちに唯天が微笑むと五月は自分の不甲斐無さを痛感する。
こうして五月の苦い初陣は幕を閉じ、そして本格的な鬼狩修業が始まったのだった。
おわり