紫陽花の傘の女
近所に紫陽花で有名な小路がある。
梅雨時の帰りは傘を片手にその小路を覗き込む。紫陽花の変化を見るのが密かな楽しみだ。
傘をかるく弾くような雨の中、いつも通り小路を覗き込むと、ひときわ背の高い紫陽花の株が目についた。
あんなに大きくなるものかと、思わず立ち止まる。そして気がついた。あれは本物の紫陽花ではない。
あれは紫陽花柄の傘だ。傘をさして紫陽花を眺めている女性だ。
穴が空くほど見つめていたからだろうか、傘の主が振り返ってしまった。
目が合う。傘の主の唇はゆっくりと弧を描いた。
「あら、久しぶりね」
あぁ、懐かしい。
かつての同級生だ。
高校時代の淡い思い出が蘇る。
彼女のさす傘の紫色の紫陽花が、またたく間に青色の紫陽花に変わった。
不思議な傘だ。一瞬そう思ったが、そんなことよりも、懐かしく美しい同級生との再会に心は浮足立つ。
「こんなところであうなんて」
「ふふ、私も嬉しい。でもあなたは、こんな天気じゃなかったらもっと嬉しいんじゃないかしら」
紫陽花の傘は紫に戻った。
「いや、君と会えたのだから気持ちは晴れてるよ」
我ながらくさいセリフを吐いた。青色になった紫陽花の傘を見ながら、気恥ずかしさを握りつぶす。
雨粒が傘を強く叩き、煩わしい音を鳴らし始めた。
その音を聞いて僕は服が濡れるのも気にならないほど彼女にのめり込んでいるのを自覚した。
「お上手ね」
彼女の声はそんな中でもよく通る。鈴のような美しい声だ。
「お世辞じゃないよ、学生の時から君に会うと晴れ晴れした気分になってた」
言葉を重ねる。彼女の傘は青になったり紫になったり忙しそうだ。
「嬉しいわ。でも、こういうときは君、じゃなくて名前で呼ぶものよ」
ミステリアスに笑う口元を見てふと違和感を感じる。
「どうしたの?」
彼女の名前が出てこない。
「あれ? 君は……」
僕が言いよどむと彼女は心底残念そうな顔をした。
「……悲しいわ、あなたも覚えていないのね」
紫陽花の傘が真っ赤に変わった。
唸るような雨音が遠くなっていく。