青猫 ~断章~ Ⅲ 「記憶のほとり」
この作品は、一応のところ「BL」です。
しかし、そういう感じはしないものになりました。
書くにあたり、以下のことに留意しました。
① 主語を極力使用しない
② 過去の説明をなるべくしない
作品の良し悪しと評価は別として、当初の課題は達成したかと思います。しかし、わかりにくい作品になってしまった。
それでもこれを選び、読んでくださった方、御礼申し上げます。
大通りでタクシーを降りて、雨が降っていることに気づく。雨といってもそれは、そっと体に寄り添い包んでくる、霧のようにやわらかな夜の雨。ふと顔を上げると、街のイルミネーションのなか、切れぎれに舞い落ちて光っている。凍えた夜気が、首筋からひやりと背中へ入り込む。
ああ、冬だな。と呟いたところに、遠慮がちに声をかけられる。スミマセン、タクシーいいですか。入れ替わりに乗り込もうとしているふたり連れの、男のほうだ。どうぞ、と脇に避けるとコートの襟を立て、ボタンをひとつ嵌めてから、ゆっくりと信号待ちをしている人々のなかに分け入っていく。大半が、駅の方向をめざしている。ひと、ひと、ひとのあいだを大股にすり抜け、ぽつ、ぽつ、と開きはじめた傘に、ふっと頭を軽く振って避けていく。微細な雨が、髪やコートの肩をしっとりと濡らして、吐く息が、歩みに合わせて背後に流れ、それとともに、人々の話し声も音楽も、車の走行音も遠ざかっていった。
気がつくと、歩道のタイル模様を拾うように歩いている。想いが、内へ、内へと向いていくばかりだ。行きたいのか、行きたくないのか。それでもやはり、歩き続ける。暗闇を嫌って煌々と光を投げる街灯、店舗の赤や黄色の看板、風に乗ってくる食べ物の匂いに、こっちの思考を追い出さんばかりの大音量の音楽。それでも五感は眠りについていて、どんな思い出も呼び覚まさない。
いや、一度だけ。イタリアン・レストランの店先に貼りだされた生ハムのメニューに、クリームチーズと無花果をトッピングしてくれた一皿を思い出す。塩味と甘酸っぱさのハーモニー。いつも、かならず違う一皿。考えに、考え抜いてくれていたのだろう。
また、体の内側をのぞいていた。
知らぬ間に、ドラッグストアの前を通り、居酒屋を過ぎ、目印のコンビニエンスストアの角を右に曲がっている。裏通りにはいっても、雨は降りつづいている。通りからは賑やかな看板も街灯も消えて、道は狭まり、路面がレンガ調のインターロッキングに変わっている。ぽつり、ぽつり、と植えられたクスノキが枝を広げ、葉を茂らせて白い街灯の光をやわらかくする。そのやわらかな光を、霧雨が拡散していく。
暗く沈んだ通りの両側には、五、六階建てのペンシル型の雑居ビルが立ち並んでいた。そのうちの一棟のまえで、ようやく足を止める。スタンド看板が出ていた。青地に白い線描きの猫が鎮座し、その胴体を「BAR青猫」の文字がななめに横切っている。
ひとつ、息をつく。濡れて、重くなってきた前髪を、両手で掻き上げ後ろに流す。
店は、半地下だ。歩道から、煉瓦造りの階段を降りていく。つきあたりの樫材の大きな扉には、中世ヨーロッパの城を思わせる鉄の引手と鷲を象ったノッカー。そして「MEN‘s ONLY」の札が掛かっている。今夜はそこに、もうひとつ。「偲ぶ夜」と手書きされた紙が貼ってあった。
夜に、その扉をひらくのは初めてだ。いつも、客のいない昼間、開店まえの時間に訪れてきた。勤務時間外の訪問にも、快く出迎えてくれたものだ。俺は、ずいぶん無理ばかり言っていたような気がする。
ようやく引手に手をかけ、ゆっくりと扉をひらく。ふわり、と店内の暖かい空気とともに音楽と、ろうそくの甘い香りが外へと漂っていく。店内の照明は薄暗く、絨毯を敷き詰めたフロアは、埋め込まれたフットライトのおかげでようやく歩ける程度だ。
後ろ手にドアを閉じると、頭上のカウベルがころん、と鳴って店内のひとびとの注意を引く。自然と見まわして、混み具合を計っていた。左手側のカウンター席に五人、右手側のボックス席に四組が座っている。五割に届くか届かないかぐらいの客の入りだ。常連客だけでその割合ならば、BARとしては成功している。それよりも、平日の夜というのにこれだけの人々が来ていることに、胸が絞られた。
今夜、そこに集うひとびとは思いおもいの席に腰かけ、一人で、あるいは肩や額を寄せ合いながらグラスを傾けるか、静かに語らっている。会話は、遠くで聴く潮騒のように店内のBGMと溶け合っている。
もう一度ゆっくりと店内を見回し、カウンターのなかで立ち働いている男と目が合う。ちいさく頷きながらコートを脱いだ。コートについた雨のしずくが、凍えた手のひらを濡らす。軽くたたんで腕に掛けながら、半円形の階段を五段、下る。
そこで、立ち止まった。
階段からまっすぐ、夜の滑走路のように二列に埋め込まれたフットライトが光って通路をつくっている。店を二分割するその通路の中央に、小さな祭壇がしつらえられていた。近づいていくにつれ、祭壇の詳細がはっきりしてくる。
はがきサイズの写真立てを取り囲むように、彩り豊かな花束がいくつも飾られ、手前に置かれた銀色のトレイには色も形もさまざまなキャンドルが灯されて、指先ほどの炎をゆらめかせている。
やあ、筒井さん。そう声をかけてももう、お帰りなさいませ、と返ってはこない。写真のなかの筒井は、白いドレスシャツに黒い蝶ネクタイ、黒のベストにプレスの効いたスラックスという姿で立っている。八十五だったか、六だったか。年齢を感じさせない姿勢のよさにはいつも、驚かされていた。綺麗に櫛目のはいった白髪も、波打つほど豊かだった。礼儀正しい口調のなかにあたたかさがあって、話を訊くのがどんなに楽しかったことだろう。
花にかこまれた祭壇のまえに立つ。色や形、模様もさまざまな中から、すこし迷って芯の白さが際立つネイビーブルーのキャンドルをえらんだ。若い頃、海にいた、と言っていた。商船に乗り、のちに客船に乗った。この色なら、いかにも彼らしくていい。灯っている一本から火を移し、しばらく蝋が溶けていくのを待って傾け、蝋を落としたところにキャンドルを立たせる。
ゆらめく火灯りが、またひとつ、増える。
もう一度、写真をながめてから、カウンター席へと靴先を向けたところへ、そっと、寄ってくる影がある。振り向くと、店のギャルソンだ。胸のところで丸いトレイを両手で抱きしめ、相変らず、少女のように小柄で華奢なままの姿で立っている。もう、幾つになるのだろう。誰も、正確な年齢はしらない。わからない。医者でさえ推定年齢しか出せなかった。それでも二十歳は越えているはずだが、首も肩も腰も――骨格のすべてが細いままに止められてしまっている。
「髪を、切ったね」
言うと、首を折るみたいに不器用にうなずく。以前に会ったときには腰まで伸ばしていた黒髪は、ぶっつりと肩のあたりでカットされていた。
「つ、げさん、が……」
返事に、驚く。中身にではなく、その、言語に。
発語が難しいのは、変わらない。梢を渡る木枯らしのような、ガサガサした質感の声も、変わらない。しかし、その声で、いつのまにか日本語を話すようになっている。
「シャンプー、のあ、と。面倒、って」
面倒、か――そんな単語を使うなんて。それだけでも、いかに筒井たちが目のまえの青年を大切にしてきたかがわかる。
もう、トシアキでよろしいでしょう、と筒井が言うのが聞こえた気がした。
そうだな。柘植の腕のなかで花ひらいたなら、俊明でいい。納得したタイミングで、カウベルがまた、やわらかく鳴っていた。俊明の目線が背後に向けられる。瞬間、表情が迷いに揺れるのを見逃さなかった。近づいて、右手でうすい肩をぎゅっと掴む。
「あとで、ゆっくり話そう」
囁いて、カウンターに向かった。
カウンターのなかでは、柘植が客の相手をしながら待ち構えている。見ていない風をして、さりげなく、しかし全身でこっちの動きを探っている。ふと、何年もまえにふたりでやった遊びを思い出した。あの能力は、まだ健在だろうか。
柘植は寡黙な横顔をみせながら、乾いたナプキンでグラスの曇りを拭っている。うつむき加減の額にはうっすら白い傷跡があり、眉間にはたて皺が刻み込まれ、鼻筋は折れたせいで一か所ゆがんでいる。一重の目はコンクリートの壁にはしった亀裂のようで、削げ落ちた頬は顎まで髭に覆われ、きれいに整えられている。頭髪は、五分刈りだ。首から肩へとつづく筋肉の盛り上がりといい、腕や胸まわりのワイシャツの張りといい、五十の手前だとは思えない。
カウンターの空席に近づき、席には着かずに肘をついて寄りかかる。
「――七番テーブル」
それだけ言って、反応を待つ。返事はすぐにかえってきた。
「身長百七十五から百八十、やせ型。青いワイシャツ、ノーネクタイ、グレーのセーターに下はジーンズ、ウイングチップの茶色の革靴、細面で眼鏡あり。年齢は三十代後半。もう一人は、それより四インチ高い身長に逆三角形の体形。おなじく三十代。何かやっている。たぶんボクシングかテコンドー、または空手――たぶん、ボクシング。白いタートルネックにジーンズ、色はブラック。型押しのライダーブーツで襟足ながめの髪型」
背後のボックス席を振り向いて、柘植の描写を確認する。言われた通りの男がふたり、ペンダントライトの暖かな光のなかで座って静かに呑んでいる。
「まいったね」
「試しても、無駄です――おかえりなさい」
やっと、目線が合った。
「――うん」
「なにか、つくりますか」
訊かれて――心のなかで首をかしげて、言う。
「奥の部屋、いいかな」
お待ちください、とカウンターについている客にか、それとも両方にか。言って、磨きおわったグラスを背後の棚に伏せて置くと、右肩を上下させる独特の歩き方で、L字型のカウンターの長辺を奥に向かって移動していく。その柘植を追ってこちらも店の隅を目指す。着いた先には、店のプライベートルームのドアがある。壁紙と同じ色彩のドアは薄暗がりのなかでは目立たない。待っていると、カチリ、とノッチの音がして、静かに引き開けられる。柘植が、ドアを押さえたままで後ろに下がる。吸い込まれるように、なかに入った。
入ってすぐの正面に、乳白色の深型シンクがある。左右に掃除道具のウッドロッカーと棚があり、いまは扉が閉められている。バックヤードの床は板張りで、船のデッキとおなじ材にしてある。丈夫で、水にも傷にも強くて掃除がやりやすい上に、歩いたときの衝撃をやわらかく受け止める。
「鍵です」
コートを掛けたほうの手のひらを差し出すと、そこに、柘植がつまんだ鍵の束をぽとりと落とす。それはずっと、柘植のポケットにあったのだろう。じわり、と温かさが沁みてくる。
「ごゆっくり」
それだけ言って、また、カウンターのなかへと戻っていった。
右手側の引き戸はひらいたままだ。そこは三畳ほどの細長いパントリーで、全面あますところなく収納スペースになっている。業務用の冷蔵庫と縦長のワインセラーが嵌め込まれ、棚にはさまざまな食材にグラスや皿、紙ナプキンなどが、きっちりと区分けされて隙間なく収められている。最下段は重量物の置き場らしく、ビールの樽や未開封の洋酒の瓶が酒屋の名前入りケースごと、置いてある。
棚と棚に埋もれるように、ドアがある。鍵束から一本を選んで鍵穴にあてる。右に捻って鍵をあけ、ドアを押し開けるとパントリーよりも広い部屋になっている。はいって左側の壁面は、小さな洗面化粧台付きの木製ロッカーで、部屋の中央には赤が基調のラグマットが敷かれ、そこに丸いテーブルとキンモクセイ色をしたソファが一脚置いてある。テーブルには、ガラスの灰皿といっしょに、タバコのパッケージとごついライター。ちょっと、手に取ってみる。元はにぶい鋼色だっただろうライターは、すっかりメッキもはげ落ち傷だらけだ。細かなひっかき傷と、中央に一か所深くへこんだ跡がある。長年、柘植といっしょに生きてきた痕だった。それをテーブルに戻して、右手の壁の中央にあるドアへと向かう。
二本目の鍵で、ドアをあけた。
最初に目に飛びこんでくるのは、壁にぴったり着けて置かれた三人掛けのソファだ。深いグリーンの皮張りのソファは、黄色味がかった茶色の壁紙に映えて、ふっくらと盛り上がった座面がいかにも寛げそうに見える。ただ――真新しいビニールでぴっちりカバーされたままだった。ドアノブから手を離し、ソファに近づく。背後でドアの閉じる金属音がする。しばらくソファを見下ろしていて、透明なカバーに家具専門のクリーニング屋の伝票が付いたままなのに気づいた。
それは、安らかな眠りだっただろうか? 筒井にとって、それは、どんな風に訪れたのだろう。
ソファのまえに置かれた、マホガニーのセンターテーブルに腰を下ろす。コートは軽くたたんで、テーブルに置いた。両太もものうえに肘をついて、足のあいだで指を組む。正面の壁に、一枚だけ絵が飾られている。カンディンスキーの「赤の小さな夢」というタイトルの額装したポスターで、サイズは三十号。中央に、松前船のような形をした船らしきものが傾いて描かれている。らしき、というのは抽象画だからだ。その絵とソファのグリーンは互いに補完しあって、壁の色に溶け合っていた。
安物だったのに。それでも筒井はとても気に入ってくれていた。
ため息をつきながら、ゆっくりと、部屋を見回す。
部屋のつきあたりにある褪せた木目調のドアのむこうは、洗面台とトイレのあるラバトリー。後ろを振り向くと天井まで届く書棚があって、書類のファイルや本のほかに、帆船の模型と鈍色の船鐘が飾られている。書棚のまえには、電話とパソコンが置かれた机と肘掛けのある椅子が一脚。それと部屋の角に置かれた木製のロッカー。ほとんど余計なもののない簡潔な部屋は、いかにも筒井らしかった。
ノックの音に、振りむく。どうぞ、と声をかけると入ってきたのは、柘植だ。片手にトレイを持っている。
「外は氷雨だ、と聞いたもので」
ウイスキーのお湯割りです、とガラスの器に盛ったつまみと一緒にトレイごとテーブルに置いて、部屋を出ていったかと思うと、すぐに戻ってきた。手に、灰皿を持っている。
「――店は」
「今夜はそもそも、常連だけの飲み放題ですからね。カウンターにグラスとボトルを何種類か並べてきました。まあ……十分やそこら、気にもしませんよ」
言いながら、ポケットからタバコを出して火をつける。立ったまま、吸いはじめる。紫煙がゆっくりと漂いだした。
「タバコを一本。それでだいたい五分です」
人差し指を柘植の目線の先で立てて、くいっと曲げる。察しよく、タバコのパッケージを振って一本飛び出させると、差し出してくる。指に挟んで口にくわえる。続いてライターの火が片手で囲われたまま口元に近づいてくる。そのちいさな炎に顔を寄せて――息を吸いこんだ。
いがらっぽい刺激が、煙とともに肺に流れ込む。息を止め、吸い込んだ煙を肺に溜めておく。くらっと、めまいがして涙が滲む。ぎゅっと目をつぶり、たばこを挟んだ手の付け根で眉間のあたりを押さえる。
「何年、吸ってないんです」
「――さ、ん、年」
そのままやめちまえば良かったのに、何やってんですか。
最初をやりすごすと、あとは体が思い出す。ひさしぶりのニコチンが、全身を駆け巡っていくのを感じる。
しばらく、ふたりで目の前のソファを眺めていた。
「筒井さんは、本望だったと、思いますよ」
柘植が、ぼそり、と言った。
「おそらく、苦しむこともなかった」
言いながら、とん、と手に持った灰皿のふちでタバコを軽くたたいて灰を落とし、それからその灰皿をウイスキーのグラスのとなりに置いた。
メールで送られてきた報告を、思い出す。
その夜、筒井はいつものように真夜中を過ぎてから店のカウンターに立ち、小一時間ほど客の相手をして、ちょっと頭が痛い、と珍しく奥の部屋にひっこんだのだ。夏の暑さがようやく遠のいた秋の、金曜の夜だった。店は混んでいて、柘植がふと思い出し様子を見にいったときにはもう、旅立ったあとだった。
タバコをもう一服、まだ半分も吸っていないところで灰皿に押しつけて消す。柘植はまだ、あきらめ悪くぎりぎりまで吸っている。やっと、熱いウイスキーのグラスを取った。凍え切った指先に、熱が、直接沁みてくる。モルトの芳香が、湯気といっしょに立ち昇ってくる。ひとくち、喉に流し込む。度数の強い液体が、口中を灼きながら食道から胃へと落ちていく。
「いろいろ……後始末を、ありがとう」
とんでもない、と見上げた先で柘植が微笑む。
「頼まれなくても、遺言がなくても、やりましたよ。それに、大半の事務手続きはあなたの弁護士が済ませてくれましたからね」
「それでも、大変だった、と聞いている」
筒井の場合、これといった持病のない突然死だった。かかりつけ医がいたわけでもないから、当初から警察が介入してきた。そうなると、柘植も俊明もいらぬ詮索を受けることになる。そもそも、筒井からして一度は戸籍が抹消されていた人間だった。官憲からしたら、この店の従業員すべてが胡散臭かっただろう。
「あと、残っているのは、ひとつだけですよ」
うなずく。そのために、帰国してきたのだ。
もう、いいだろう。ようやく立ち上がる気になる。両ひざに手をついて立とうとすると、柘植が手を差し出してくる。大丈夫、と断って見た、柘植の傷だらけの手。手相見がそれを観相しろと言われたら、言葉を失うだろう。生命線どころか、ほとんどの線が白い傷跡にぶち切られている。そういえば――。
「膝の具合は」
柘植が、テーブルの上のトレイを持ち上げながら、器用に肩をすくめる。
「冬ですからね」
なるほど。傍らのコートを取り上げ、指で肩に引っ掛ける。
「こういう具体的な、自分の痛みはなんとでもなりますがね」
先に立った柘植のうしろについて、部屋を出る。そのとき初めて、すべての部屋の明かりが点けられたままだったことに、気づいた。
「このまま、点けておくのか」
「ええ、もうしばらくは。それより、俊明が」
いまでも、ふいに泣き出すのだ、とまるで体のどこかがキリキリと痛むかのような表情で、柘植が言う。
そうか――俊明が。あの、俊明がね。
「それは、いいことだろう?」
「いいこと、ではありますがね。目のまえで泣かれるこっちの身にもなってくださいよ」
柘植の泣き言に、今夜、はじめて笑った。その拍子に、ふっと、涙が湧いてくる。体の奥から突然やってきて、いま、ようやく表層に達したとでもいうようにせり上がり、溢れだす。
「彰さん」
柘植が、立ち止まって振り向いた気配がする。うつむいて目頭を押さえて首をふる。たったいま、泣かれるこっちの身にもなれ、と言われたばかりだ。しかし、柘植はなにも言わない。どんな表情をしているかも、わからない。戸惑っているだろうか? たぶん、そうだろう。しばらくじっとしていると、発作のような涙の衝動がおさまってくる。ふう、と息をついて指先で涙を払う。それを、待っていたかのように、柘植が言った。
「もし――もし、じぶんに子供がいたとしたら、それは彰さん、あなただったかもしれない、とよく言っていましたよ」
顔をあげて、柘植に微笑む。
「俺のほうこそ、彼を守っている気になっていたのにな」
「お互いですね」
元きた道を逆にたどって、店内にもどる。バックヤードを出るとき、鍵を返すついでに柘植に一曲リクエストをした。
「CD、ありますかね」
「あるよ、五曲目だ」
店内に踏み込んで、その混み具合に驚く。
来たときはまだ、半分ほどの客の入りだった。それが、どうだろう。半時間ほどのあいだにほとんどの席が埋まり、カウンターなどはスタンディングバーと化している。祭壇のキャンドルは増えて、溶け崩れた蝋のうえに、新しいものが灯されている。追悼に訪れたひとびとのあいだを、俊明がグラスを片付けて回っている。だからといって、賑やかというわけではない。誰もが声のトーンを抑えめにして、挨拶をかわし、席をゆずりあい、そうして思い出を語らっている。
彼らの思い出のなかの筒井は、この店の中だけのことだ。カウンターに立ち、たまに話をし、愚痴をいえる場所を提供してくれる老マスター。そこに、共有できる筒井の姿はどこにもない。パリの場末の、移民しかこないうらぶれた飲み屋の片隅で、床に散らばったナッツの殻を拾い集めていた筒井はいない。それは、柘植にも、俊明にも、わからない。
店内のひとびとの姿が、まるで影絵のように遠く感じられ、座れる席を見つけられずにそのまま壁にもたれて立っていた。
やがて――それが、聴こえてきた。
ナットキングコールが歌う、「アンフォゲッタブル」――前奏の一小節だけで、記憶の音源から拾い上げられるほど知られた一曲。それを柘植は、普段のBGMにくらべてすこし音量を上げて流した。そのせいで、彼独特の、中空にことばを刻んでいくような、温かみのあるまろやかな声が店のなかをゆっくりと漂っていく。この曲を、筒井はかつて客船で働いているときに、生で聴いたのだと言っていた。
――誰も、知らぬ者がないほどの大物歌手でございましたが、とても気さくで、笑顔がたいへんチャーミングな方でいらっしゃいました。
ああ――そうか。
出会いの記憶をもっているのは、お互いだけなのだ。誰かに語ることがあったとしても、それは絵の具のうえに絵の具を重ねる油絵のように、記憶をなぞってさらに深く刻みこんでいくだけなのかもしれない。
いつのまにか、「アンフォゲッタブル」が終わり「スマイル」に変わっている。ナットキングコールが語るように歌えば、Smileも強制ではなく、隣に座って肩を抱きながら、笑おう、と慰めてくれているように思える。
柘植は、どうやらアルバムを最後まで流すことにしたようだ。曲は「スターダスト」に移り、そのつぎにくるのは「枯葉」。曲のひとつが終わりに差し掛かると、頭のなかでつぎの曲の前奏が勝手に始まっていくほど、そのアルバムを知っている。そのときの「青猫」はいつでもガランとしていて広く、明々と照明にてらされ、まるで残り香だけをまといつかせた寝起きの恋人を見るようだった。
アルバムの進行とともに、夜が更けていく。
最後の曲がかかるころには、カウンターの、店の入口からいちばん遠い席に座っていた。あれほど来ていた客のすがたもまばらになって、いまはボックス席に三組と、酔いつぶれてL字型のシートをベッド代わりにしている男がひとり、カウンターに三人いるだけだ。祭壇に飾られたキャンドルの火も、ちらほら灯っているだけになり、静まり返った店内では俊明が、空のグラスを片づけてまわっている。その俊明を柘植が、片手をカウンター、片手を腰にあてて目で追っている。やがて、密集したビル街のようになったグラスの山が運ばれてくる。柘植に手渡してしまうと俊明は、隣でほっとしたように息をつき、そのままスツールに腰かけて体ごとこちらを向いていた。
あとで、と約束をした。忘れていない。カウンターにべったり倒していた体を起こし、手のひらで顎を支えて俊明を見る。
「柘植のまえで、泣くんだって?」
何年もまえに出会ったころには、小造りに整った顔をセルロイド人形のようだ、と感じた。いまは、ちゃんと心の動きが表情となって伝わる。肩をすぼめて、恥ずかしそうに微笑んでくる。
「筒井さ、んのこと……」
言いかけて、黙る。無意識にくちびるを吸い込む仕草や瞳を落としたようすで、言葉を探しているのがわかる。やがて諦めたのか、やたらRの発音に巻きのはいった英語で返してくる。
彼が、いないなんて、思えないから。でも、彼は逝ってしまった。ときどき、思い出す瞬間がきて、そうするとすごく寂しい。まるで、服を着ていないのに放りだされた感じがして。急に、寒くなって。それを、わかってくれるのは柘植さんだから。一緒にいると、安心する。
――Realize with him
最後のフレーズに、笑顔を誘われる。と同時に、迷いが消える。
「この店に、夾雑物はいらないな」
「え……? な、に? キョ」
音が、文字にならないのだろう。もう一度、と訊きたそうなのを遮って手をのばし、片手で俊明の頬を包む。そのまま顎まですべらせて、最後にちいさな顎の先を指でつまんで手を離す。
席を、降りた。
かたわらのコートを広げて、腕を通す。柘植が、洗い物の手をとめてやって来た。
「帰りますか」
「――うん。じつは、時差の関係でもう三十八時間起きっぱなしだよ。そろそろ休まないとね。明日に差し支える」
「埠頭に、十三時でしたね」
そうだ、と答えながら店内を見回す。「青猫」がこれほど長く、居心地のいいバーとしてやってこられたのは、筒井たちのおかげだ。この先も、そうであって欲しい。
眺めの最後に、座っている俊明を見下ろし、柘植を見る。
「筒井さんは――ほんとうに、得難いひとだった」
コートのボタンを上まで留めて、だから、と続ける。
「この先は、ふたりでいいだろう?」
柘植が、言葉を発することはなかった。ひらきかけた薄いくちびるはそのまま閉じられ、四角い顎に力がこもる。言いたいことは山ほどあるのに、どうしても出てこない。わかるよ。頷いて、コートの襟を立てた。
「見送りは、いいよ。それより明日――いや、今日か。筒井さんを忘れずに」
言い置いて、ゆっくりと祭壇をすり抜け、店の扉をあけて外に出る。雨は、止んでいた。気温がさらに下がり、吐く息がくっきり夜目にも白い。おそらく、このあとずっと晴れるだろう。いい出航日和だ。
ゆっくりと夜の小路を歩きながら、大型クルーザーで太平洋へと向かうことを考える。冬の灰色の海は、おそらく波が高いだろう。波しぶきがデッキを洗うかもしれない。よほど風向きをうまく捉えないと、失敗しそうだ。まあ、そこらはメモリアル会社の連中か、船長あたりが指示してくれるはずだ。
――遺灰を、海に。
それが、筒井の遺言のなかで、最後まで残っていたことだった。






