後編
「お前の婚約が決まった 」
セルキーを名乗る男と少しの間海辺で過ごしたあの夜から数日、父の書斎に呼ばれて告げられたのは残酷な現実だった。諦めないでもう少し頑張ろう、そう思ったはずだった。
しかし、彼女に時間はもう残されていなかった。
彼女とてこの家に生まれてきたからには果たすべき義務が生じることは百も承知で、拒絶の言葉を無理矢理飲み込んだ。
「……承知、いたしました 」
その後、父とどのような会話をしたのか正直思い出せないが叱られなかったと言うことは無難な対応をしたのだろう。気がついた時には既に自室に戻っていた。
婚約相手は侯爵家の次男だと言う。我が家が子爵家なことを考えると良縁と言えるだろう。彼女にとってそうであるかは別として。
婚約が決まったと父に告げられてから更に1月が経ち、婚約式当日。
婚約式とは言え、参列しているのは互いの家族のみと言う極々内輪向けのもので、両者の顔合わせが主目的であった。
この日の為に用意されたドレスに身を包み、髪を纏め、盛装をした彼女は両親と兄を伴い婚約式を行う侯爵家へと馬車で向かう。兄のエスコートで馬車から降り、侯爵家の侍女に案内されて婚約式の会場としてセッティングされた応接室へと足を運ぶ。侍女が扉をノックし、子爵家の到着を告げると部屋の中から入るよう穏やかな声が返ってきた。
侯爵家の皆様は既にお揃いで、到着を待っていてくださったらしい。
「お待たせして申し訳ございません 」
「いえいえ、我が子がやっと選んだお嬢様がどの様な方かと待ち遠しくて我々が少々早く集まっていただけですから 」
待たせてしまった事に対する父の言葉に侯爵様はにこやかに答えてくださっていた。侯爵様の隣に立つご婦人が奥様、その更に横に立っていらっしゃるお二人のうちどちらかが婚約者、と言うことだろう。
「次男のフェリクスです 」
「フェリクスと申します。 宜しくお願いします 」
侯爵の紹介で婦人の横に立っていた夜空を写し取ったかのような漆黒の髪に夜明けの空を思い出す瑠璃紺の瞳の男が挨拶をする。なんとなく感じた違和感に内心首を傾げていると目が合い、彼はにこりと微笑んだ。
「娘のシュゼットです 」
「シュゼットと申します。 宜しくお願い致します 」
父の紹介を受け、カーテシーでご挨拶をする。違和感の正体が分からないので、取り敢えず違和感には気が付かなかった振りをした。
両家の婚約は既に王家の許しを得ており、家族を紹介し終えた両家は昼食を共にし、食後のお茶をしながら交流をしていた。両親と兄はそれぞれ話をしていたが婚約をした2人に至っては殆ど会話が無かった。
「家族がいては話しづらいだろう。 2人で庭でも散歩してきたらどうだい? 」
だいぶ会話が砕けてきた侯爵様が気を付かってフェリクスとシュゼットに声をかける。あまりに話さない2人に両家の母親も少し困った顔をしていた。
「そうですね。 シュゼット嬢一緒に如何ですか? 」
「はい、喜んでご一緒させていただきます 」
にこりと笑顔で了承する2人を家族も笑顔で送り出した。フェリクスにエスコートされシュゼットは侯爵家の庭へと足を運んだ。
侯爵家の庭では秋薔薇が見頃を迎え、美しい花を咲かせていた。風に乗りフワリと薔薇が薫る。思わずほうと感嘆のため息が溢れる。
「素晴らしい庭ですね…… 」
「有難うございます。 喜んでいただけて良かった 」
ポツリポツリと会話をする。庭を進み、話していても使用人達に声が届かない程度離れてからフェリクスが突然クスリと笑みを溢した。
「……いかがなさいましたか? 」
「まだ気付かないか? 」
突然変わったフェリクスの言葉遣いにシュゼットは驚いた。パッとフェリクスへと顔を向けると邸に背を向け、彼はクスクスと楽しそうに笑っていた。突然笑いだしたフェリクスにシュゼットは不思議そうな顔を向ける。
「口説いていると言った筈だが本気にしてはくれなかったのか? 」
フェリクスの言葉に瞬きの間考えを巡らせたシュゼットは表情を取り繕うことを忘れ驚きを露にする。
「また会えると言っただろう? 」
「……セルキー? 」
「ああ、あの夜君に恋をしたセルキーとは僕の事さ 」
輝くような笑顔で告げる彼の言葉を理解してシュゼットは頬を染めた。膝を付きシュゼットの手の甲にキスを落とす。
「好きな事を好きなだけ学んで良いから一生僕の隣で僕を支えてほしい。 夢を語る君のキラキラと輝く笑顔をずっと見ていたいんだ。 シュゼット、僕とけっこんしてくれないか? 」
「……ッはい! 」
あの夜、きっと互いに恋に落ちていた。
フェリクスはキラキラと楽しそうにけれど少し寂しそうに夢を語るシュゼットに。
シュゼットは初めて自分の夢を否定せず、彼女の夢を肯定してくれたフェリクスに。
そう、あの月夜の晩にーー……。