前編
コツ、コツ。
魔力灯が照らす明かりの中ヒールが石畳を繰り上げる音が響く。
ーーどうして理解して貰えないのかしら……。
はぁ、と無意識の内に溜め息が溢れる。月と瞬く星に見守られながら夜道を1人歩く。姿は見えないが護衛が着いてきているはずだ。
衝動のまま邸を飛び出したが護衛を振り切れたとは到底思えない。たかが令嬢1人が逃げ切れてしまう程我が家の護衛は無能ではないのだから。
ーーそろそろ諦めるべきなのかしら。
父と幾度となく交わしたやり取りを思い出しながら、いつもの場所を目指す。令嬢が1人ーーとは言ってもどこかに護衛はいるがーー、夜道を馬車に乗るでもなく歩く、と言うのは外聞が悪い。それでも無理矢理に連れ戻されないのは今歩いている場所が私有地であり、人目に付かないことが父にも分かっているからであろう。
邸の正面ではなく裏手に出て舗装された1本道を10分程歩くと海へと辿り着く。砂浜へ下りる階段を行き、波の音が辺りを支配する岩場に囲まれたその場所は彼女のお気に入りの場所だった。
砂にサクサクと足跡を付けながら岩場へと向かう。淑女として誉められた行動ではないがヒールを脱いで海水に足を浸け、岩場に腰掛け海を見る。
彼女の視線の先には闇夜を照らす月と月が照らすユラユラと形を変える月明かりの1本道。足を組み、少し高くなった膝に肘を付く。掌に顎を乗せぼーっと揺れる月の道を眺めて心を落ち着ける。行儀が悪くたって見ている者は護衛以外に此処にはいない。彼もきっと見ない振りをしてくれる。
ーー月から続く1本道のように私は定められた道を行くしかないのかしら。
「……儘ならないものね 」
思わず溢れた本音はそのまま闇夜に溶け、誰の耳にも入らないはずだった。
「何がだい? 」
突然聞こえた知らぬ声にピクリと小さく肩が跳ねる。丸まっていた背筋を伸ばし、手を膝の上で揃え、ある程度体裁を整え、淑女の仮面を被る。人がいると知って隙を見せていれる程図太くはいられない。
なんだ立派に貴族に染まっているじゃないか、と心の中で自身の行動に落胆するが心の内を表に出すことはしない。例え、何故こんな時間にこの場所に人がいるのかと驚いていたとしても。
「どちら様でしょうか。 此処は私有地ですので勝手に立ち入ることは許されていないはずですが 」
目線は海に向けたまま表情にも声にも感情を乗せず問い質す。急に背筋を伸ばした彼女に護衛は何か察しただろうか。後で靴を脱いでいたことを咎められるかもしれない。はしたない、と。
「お貴族様の私有地は砂浜までだと思っていたが違っていたかい? 」
これは失礼、と恍けるその声の主の姿は彼女からは見えない。きっと声のする方へ顔を向ければその主を見付けられるのだろう。しかし、見付けてしまえばこの夜の逃避行は確実に終わりを向かえてしまう。
なるべく声を出していることがバレないように口を動かさず護衛までは届かないよう小さな声で会話を続ける。相手の声に敵意を悪意も含まれてはいない。
「そうだったかしら。 それで、貴方は誰? 」
名乗らない声の主に再び問いかける。彼女が知れたのは声の主が男であること。年は彼女自身よりは少し上だと推測される。楽しげに発せられるその声には敵意や害意ではなく好奇心が透けて見える。
「僕かい? うーん、僕は……セルキーさ 」
「セルキーって……そう 」
彼女は呆れを滲ませた声で呟いてからクスクスと笑みを漏らして声の主がどこの誰なのか知るのを諦めた。きっと教えてくれる事はない。女性を口説く妖精だと言い張るのだから。
「私は貴方に口説かれるのかしら? 」
笑いを噛み殺しながら問う彼女の声に楽しそうに答えるセルキー。
「おや? 既に口説いているんだが気付いていなかったのかい? 」
それは残念だ、ときっと肩を竦めているであろう彼の声にもどこか笑いが混じっていた。
「ところで何が儘ならないんだい? 」
そう問いかける自称セルキーの声はどこか暖かく穏やかで彼女には、自身の心に寄り添って聞こえた。
「……父に私がやりたいと思う事を認めて貰えないの。 必要ない、その一言で全て否定されてしまうわ 」
彼女は心の内をポツリ、ポツリとセルキーを名乗る男に語る。今まで誰かに語ったことの無い自身の想いを。父には自身の想いを告げる前に必要ないと否定され、母は話を聞こうともしない。兄はやるべき事があるだろうと貴族の令嬢としてやるべき事のみを求める。
彼女の想いは蹴飛ばされ、無視され、閉じ込められる。やり場の無い想いを抱えて彼女は海を、月を、星を見る。どこまでも続く夜の帳に自身の想いを隠してしまう。
「学ぶ事の何がダメなのかしら…… 」
「学ぶ事を禁じられているのかい? 」
「ええ、禁じられていると言うよりは制限されている、と言った所かしら 」
頬に手を添えてほう、と溜め息を溢す。自然と彼女は目を閉じていた。まるで目の前に見たくないものがあるかのように。
「女が賢すぎるのは良くない、少しくらい抜けている方が可愛げがある、男にも勝る知識は疎まれる、女が学んでも何の力にもならない、そんなことよりも学ぶべき事があるだろう、皆が皆口を揃えるの 」
「知識があるに越したことはないだろうに。 可笑しな事を言う人がいるんだね 」
心底不思議そうな男の声に彼女は力無く笑う。
【セルキー】
アザラシの毛皮を被った妖精
陸に上がるときは毛皮を脱いで人間になる
男のセルキーは女性を口説き、女のセルキーは生活に満足していて人間を口説くことはないと言われている