chapter 1-4 幼馴染み
「それでは、乾杯ー」
多くの客で混雑する店内の喧噪を、陽気な女の澄んだ声が打ち抜いた。
ロッシュ国境ナバラの町は騒々(そうぞう)しい。
闇が空を支配して随分と涼しくなった盛り場を、汗で汚れた半袖の胴衣を着た職人たちが野太い声で笑いあい、防護服を着込んだ認定者集団の一団は通行人を威嚇するように歩き、大胆に肌が露出した薄着の女は腕を組む男の耳元で囁いている――様々(さまざま)な人達が石畳の上を通り過ぎてゆく。
そんな短いながらも活気のある、大通りからちょっと脇に入った場所にある一軒の店。思い思いに酒を飲んだり大声で談笑する客でごった返す庶民的な酒場だ。その店の二階部分を吹き抜けにした広間の一番奥の四角い卓に、陽気な赤毛と仏頂面の金髪の女性二人と、妙に落ち着きがなくおろおろする黒い髪の男、の三人が座っている。
既に卓の上には注文した料理が重なりあって並び、食欲をそそる良い匂いと、もうもうとした湯気が、立ち込めている。
『浮かぶ国』では、蒼石から精製された有機材料で食事が作られている。ナバラへも月に二回の頻度で補給される精製食材は見た目も変わらず美味であり、二、三回高級な自然食材の料理を食べた事がある位では食材の差が感じられない。
それ故に、『自然食材を使った新米料理人の晩餐より、蒼石食材を使う母親の晩ご飯』の言葉は昔から『浮かぶ国』全土での常識だった。
だが、ご馳走を前に目が死んでいるファンのしょっぱい顔を見れば、久しぶりに幼馴染みとご馳走を楽しむ雰囲気ではなかった。
(どうして、こうなったんだろ・・・)
ファンはつい二時間ほど前の出来事を思い起す。
ファンにとって悲劇の幕開けは路線馬車の駅舎だった。
オーデン行きの馬車乗り場に目立つように掲げられていたのは『掃討中につき運行停止中』の札。係員に確認したところ、「経路の近くに落ちた島の掃討を行っているので、今から四時間ばかし待って欲しい」と説明された。グエンダをすぐに馬車に乗せて送りだそうと考えていた、ファンの計画は脆くも狂いだした。
予想外の状況に慌てるファンは、四時間もする事が無いとむくれるグレンダに押し切られてしまい、結局はグエンダの希望に従い、エレナの家へと歩き始めるしかなかった。
第二幕は、エレナと母親のラリが切り盛りする自宅兼宿屋であった。
ラリの宿は、懐には優しくないが価格に見合った持て成しで知られており、それなりに繁盛していた。
グエンダを伴って宿の扉を開いたファンは、一瞬にして暖かい宿の空気が凍りつくのを感じた。見た目だけなら文句の付けようがないグエンダを連れたファンに対して、以前から折り合いの悪い母と、不満が貯まっていた娘の二人が好意的である筈がなかった。左と右に分かれて捲し立てる二人に対して、ファンは頭を低くして釈明に徹するしかなく、言い訳もそこそこにエレナを食事に連れ出したのであった。
(不運が重なっただけだよ……、僕は悪くない!)
華やかな席の中で、辛気くさい表情のファンは地味な服装と併せて浮いている。
そんなファンの目の前に座る、何時にもまして陽気にはしゃぐグエンダは、馬車で着ていた上着を脱ぎ、すらりとした体の線が明け透けになる袖のない胴着に、切れ上がった太股を丈の短い穿袴から見せつけるように晒し、燃えるような深紅の髪がうなじに掛かる姿は何時にもまして妖しく見える。
一方、隣の席には再会して以来、ぷぅと頬を膨らませているエレナも、わざわざ大胆な意匠の上着に着替え、大きく開いた胸元から零れ見える形の良い胸の谷間に、櫛の通ったさらりとした金髪が流れ込み、幼い顔立ちとは裏腹に女を感じさせる。
二人の魅力を証明するように周囲の男性客からは、数え切れないほどみだらな眼差しを突き刺してくる。
(エレナの格好は……、一体どうしたんだろ? )
細やかな乙女心にも気が付かないファンは、折角のエレナの姿に戸惑いばかりを感じてしまう。
困惑するファンに関係なく、酒席は動き出す。
グエンダは汁の滴る肉料理を手に取り、がぶりと囓りながらエレナに確かめるように尋ねた。
「エレナちゃん、もう怒ってない?」
グエンダは自分が同行したことで、エレナがむくれていることに触れた。
エレナは慌てて手のひらを振って否定する。
「いえ……グエンダさんには(・・)何も怒ってません。私こそ、さっきは変に騒いじゃって、ごめんなさい……。最近、ちょっといらいらすることが多くて――って、ファン! 誰のせいでこうなったのよ? あなたも謝りなさいよ!」
エレナの目は素知らぬ顔のファンを睨んだまま、がしっと皿を割らんばかりに箸を料理に突き立てた。
「え? は、はい……すいませんでした」
ファンの視線はエレナに吸い付けられたままで、グエンダに謝った。
(なんで僕が謝らないといけないんだ!)
悪者にされたファンは口をへの字する。
「ふふ、気にしなくていいわよー。あたしもいきなり来ちゃったんだし。まー今日は飲みましょう! ファン、ついでついで!」
「ファン、私にもちょうだい」
「……」
差し出された二人の杯に酒を入れながら、ファンは小さくため息をつく。
(逃げ出したいよ……)
一人盛り下がるファンを放って、二人は大いに盛り上がる。
グエンダは陶器製の杯に並々と注がれた蒸留酒を次々と空にし、エレナは湯気が残る料理を片っ端から片付けていく。
杯を傾るのが止まらないグエンダは、目を輝かせて質問を始める。
「ねーねー、ところで二人は幼なじみっていうけど、くわしくはどういう関係なの?」
エレナが少し恥じるように俯きながら答える。
「私、昔から読み書きがダメで……。それで近所に住んでたファンが教えてくれて、それから仲良くなって……、私それで読む方はかなり出来るようになったんですよ! でもファンったら、手紙に『書く練習はしてますか?』って、いっつも書いてくるんですよ? グエンダさん、もっと他に書くことあると思いませんか?」
『浮かぶ国』の初等教育において最低限の文字の教育は行っている。しかし学校に行くことは義務ではないので学校に全く行かない子供も多くいた。それは、ある文章が読めて、自分の名前が書ければ『浮かぶ国』で生活するのにそれほど困らないので、家の手伝いを優先させる親が多いからだ。
ましてや手紙を自力で書ける者は成人の半分も居なかった。
「そんなこと気にしないでいいわよー。だけど、ほんとファンらしい話よね。頭良いけど、馬鹿だからね。もっと大事なことを書かないと駄目よね、あはは!」
グエンダは卓をばしばし叩きながら大笑いする。
「馬鹿とはなんですか! じゃあ何て書けばいいんですか? 笑ってないで教えて下さいさい!」
「なによファン、あんた逆ギレ? それくらい自分で考えなさいよ!」
「ほんとよねー、エレナちゃん。少しは『愛する君の直筆の手紙が読みたい』くらい書けば格好が良いのにね」
自分が切れている事を棚に上げて文句を言うエレナと、気の利いた台詞を言えないファンの性格を知っているのに指摘するグエンダ。
顔を見合わせて笑う女二人に為す術もなく蹂躙されるファンであった。
場が騒がしくなるのと同時に、杯に注がれる酒の量も加速度的に増えてゆく。
「ふうー、追加で同じ酒三杯もってきてー。でもファンが自慢するだけはあるわよねー」
一気に酒を飲み干して、忘れずに追加の注文を入れる。
「えっ? グエンさん、何がですか?」
「エレナちゃんが思ったよりかわいい子で、お姉さんもビックリよ!」
満面の笑みの中にわざとらしく見開いたエレナの瞳も、横目でファンを伺っている。
「えー? グエンダさんこそ、すらっとして女の私から見ても羨ましいですよー」
グエンダはしらじらしく視線をエレナの胸元に落としてから言う。
「おっぱいもこんなに大っきし、うらやましいわ」
エレナは思わせぶりに口元を両手で覆い、
「ファンもそう思う?」
とファンに尋ねながらファンに向けて、ぐぐぐと自慢げに胸を突き出す。
肩に尖った先端が触れた瞬間、ファンは背筋にぞくぞくとするものが走るのを感じた。
(あわわわ――)
よく知るはずの幼馴染みの意外な行動にファンは慌ててしまう。
「――エレナ! 弱いのに飲み過ぎでしょう……」
エレナはつーんと澄ました顔でわざとらしく顔を背けると、金髪がぱさりとファンの顔の前で揺れた。
「あはははー、ファンはほんと女の扱いがなってない」
「痛っ!」
ファンは頭をがしがしと小突かれた。
(早く馬車動いてくれないかな……)
ファンは引きつった笑みを見せるしかなかった。
宴が進むにつれ、ファンには抵抗する気力がなくなり、これ以上騒ぎが大きくならないように大人しくすると決めていた。
「そういえば、さっき少し気になったんだけど、もしかしてお母さんとファンって仲悪い?」
エレナは困ったように狭い眉間にしわを寄せて答えた。
「ファンがうちの仕事を手伝わないので、母さんはファンのことを良く思ってないんです……。うちの宿は母さんが死んだお父さんと頑張ってやってきて、凄く思い入れのある場所だから……。私と私の旦那さんにも手伝って欲しいっていつも言ってるんで……」
グレンダは頬杖をつきながら、ふむふむと相づちを打つ。
「なるほど……、それはキツイはね……。ファンもエレナちゃんのためにちょっとは手伝ってあげればいいのにね。ほんとに肉体労働きらいだね」
(見え透いた媚びを売りたくないだけです。変に期待持たせるよりはいいじゃないですか!)
ファンは酔っぱらい相手に説明するのを既に放棄している。
「――見た目だけはいいだけに、始末が悪いわよね」
「あはは、本当ですよね! あっ、そうだ! ファンはお城でちゃんと仕事してますか? 私が聞いても少しもお姫様のことは教えてくれないんですよ」
「いやー、それがね聞いてよ――」
意気投合した女二人の会話は途切れること無く続いていく。
二人の間に入れないファンのもどかしさがとうとう溢れてしまう。
(もー耐えられない、限界だ!)
何回目かの暴露話にファンが耐えきれずに立ち上がろうとした瞬間。
グエンダがぽつりと漏らした。
「島のエレナか……。二人を見てると、ほんと実感出来るわね」
何時の間にか真面目な表情に戻っていた。
「え?」
「あっ!」
エレナとファンの驚きと疑問の言葉が重なる。
「いやね今朝、ファンが言っていた言葉よ」
エレナを見つめながらグエンダは穏やかな口調で続ける。
「手に届かないお嬢様よりも、もっと大事な者があるって言ってたのよね。それで気になってナバラまで付いて来ちゃったのよね。でも会えて良かったわ!」
「グエンダさん……」
ファンは顔を赤くしてそっぽを向き、エレナは嬉しそうであり申し訳なさそうな、本人にもはっきりしない表情を浮かべた。
二人を見るグエンダの顔に浮かぶのは、子供を見つめる母親のように穏やか笑顔であった。
「今日は二人っきりになれる時間を邪魔してごめんね。あたしもこの男と落ち着いて話せる時間って、あまりないから……。今日は無理矢理ついてきたけど、あなたと話せて良かったわ。頼りない奴だけどあたしも応援するから頑張ってね!」
言いたいことは全部言ったとばかりにグエンダは立ち上がる。
「グエンさん……」
「それじゃ、そろそろ馬車も動くだろうしこの辺で邪魔者は消えるね。おわびに今日はあたしのおごりにしとくわね」
グエンダは、すっきりとした晴れやかな笑顔を浮かべて給仕呼んだ。
勘定を済ませると、そのまま足早に店を出ていった。
立ち上がってグエンダを見送った二人は、顔を見合わせて座り直した。
「はあーーー。いい人なんだけど、疲れるよ」
しみじみと溜息をついた。
「えー、ひどいー。今度グエンダさんにあったら絶対言ってやるからね」
「――っぐ。いいから、気を取り直して飲み直そうか!」
「そうね私も、さっきの月と島の話をくわしく聞いてみたいしね?」
朗らかに談笑する二人は仲むつまじい恋人以外には見えなかった。
(やっと落ち着ける……)
肩の力が抜けたファンは、今更に何も食べていないのに気がついた。
新たに注文をするために、給仕を捜して店内を見渡たす。
(ん?)
その視界の端に卓に近づいてくる長身の男が居た。
「悪いが邪魔するぜ」
男は全く悪いと思っていないように、どすんとグエンダが座っていた席に腰掛ける。
二人からは年上、三十歳前の掛け値なしに認定者に違いない、がっしりした男だ。
「ム、ムント!」
驚愕にエレナの目と口がまん丸に見開く。
エレナの声がファンが幼いときの記憶を呼び起こす。
「えっ? ムント? ……ムント・イバニェス!? 認定者になってたんですか……」
男の顔をじっくりと見返せば、同じ地区に住んでいた六歳年上の子供の面影があるのにファンは気が付いた。
ムントは金属で補強された赤い防弾防護服に、腰には凝集した蒼石武器を四つも吊し、白い物が混じる黒い短髪は今までの苦労の大きさを感じさせる。鍛えられてごつごつとした体格に、四角い顔は交渉相手としては厄介だと感じさせる。
ファンの疑問には答えずに、エレナに顔を向けて話し出した。
「用があって家に行ったら、ラリさんに多分ここだろうと言われたんでな」
事情を説明すると、さも面白くないと鼻を鳴らして厳しい視線をファンに浴びせた。
「さっきから見させて貰っていたけど、女二人も連れていい気なモンだな、ファンよ! 俺はてっきり、ガリシアの新しい恋人でも連れてきて、エレナと別れ話でもするのかと思って黙ってたんだが、どうやら違ったようだな」
ファンは嫌みなほどに自信過剰なムントの性格を思い出し、眉をひそめた。
「あなたには関係ないことです」
きっぱりと吐き捨てた。
「何? そう思ってんのはお前だけじゃないのか? なあ、エレナ?」
その眼はファンこそ関係がないと嗤っている。
「あのね……」
エレナは怒るというよりは、心配そうな表情を浮かべている。
(ど、どういうこと?)
ファンの視線が二人の表情を確かめるようにさまよう。
「お前が瑠璃の城のお姫様と遊んでいる間に、世の中は動いてるってことだ」
「ムント、いい加減にしてよ……、私の気持ちはもう話したわよ?」
卓に視線を落としたまま話すエレナの声に力がない。
三人の周囲は酒の摘みとばかりに成り行きを見守っているが、どちらかと言えば美女二人を連れていたファンに冷たい雰囲気だ。
「エレナ、俺は言った通り認定者集団を立ち上げた。これからは認定者集団の長として、このナバラでやっていくんだ。それをラリさんは認めてくれている。ここまで言えばわかるよな?」
「ムント……、今は考えられないとその話は断ったわよ」
たった一人の肉親の名を出されて語気がさらに弱くなる。
(な、なんでラリおばさんの名前が出てくるんだ? どいうことなんだ?)
招かざる幼馴染みに面食らうファンの思考は堂々巡りから抜け出せない。
エレナのいらいらの原因の一つはファンのはっきりしない態度だった。
だが、一番の原因はムントからの強引とも言える口説きであった。
一度はエレナに振られたムントだが、諦めずにファンに不満を持っている母のラリを味方につけて、再び猛烈に迫ってきているのだ。
ムントはここぞとばかりたたみ掛ける。
「『今』はだろ? 俺も今すぐとは言って――」
話が見えずに苛立つファンの叫びがムントの言葉を堰き止めた。
「そんな事を言いたいがために、貴方はきたんですか?」
怒りのあまりファンは拳を握り締め、思わず腰が浮きかかる。
しかし、命のやり取りを繰り返して来た認定者に教師の威嚇が効くはずもない。
「そう凄むなよ先生、挨拶だけだ。今日は部下達と俺の認定者集団結成の祝いの日だ。一般人殴るようなけちくさいことはしたくない、縁起でもないからな」
ファンを軽く鼻であしらって、後ろを振り向いたムントは店の入り口の辺りを顎で指す。
視線の先には、店の入り口の辺りで各々真新しい防護服を着込んだ若者達がファン達の様子を伺っていた。
「それはそうとエレナに聞いたが、お前、管理局の役人を目指してるそうだな?」
「それが何か? 認定者集団担当になったら、えこ贔屓でもして欲しいんですか?」
「はあっ――十七の小娘のご機嫌取りしてる、お前に言われたくないぜ! しかも、管理局のミスで親を亡くしたおまえが管理局の役人だと?」
「何だと!」
ファンは席を蹴ってムントに掴み掛かる。
行商人だったファンの両親は四年前に牽引中に軌道を外れて落下した島の衝撃波に馬車ごと巻き込まれて亡くなっている。事故の原因については『連絡の行き違い』とだけで、はっきりとしたことは解明されていない。だがロッシュだけで年間何千と落ちる島がある中で、ファンの両親の様に島に関する事故に巻き込まれる事はとりわけて珍しいことではなかった。
珍しいことではないと言っても、馬鹿にされてまで聞き流せる内容でもない。
「やめてよ! 二人とも」
エレナも我慢できずに立ち上がり、今にも殴り合いを始めそうな二人の間に必死で割って入いろうとする。
「ふん、助けられたな」
余裕のムントは肩をすくめてから、立ち上がった。
「今日の所は帰る」
ムントは「今日」という言葉を強調した。
そして今一度ファンに顔を向ける。
百八十センタを越える巨漢は目の前に居るだけで、ファンは重圧感に襲われる。
「俺には命を賭けて守るべき物がある。エレナもその内の一つだと思っている。そのためにナバラで、大事なものを、大切なものの傍にいる。遠くガリシアに居るお前は、エレナの横に立つ資格が有ると思っているのか?」
ムントはファンの答えを待たずに背を向けた。
「俺は仕事でガリシアに行くことも多い。次に会った時は容赦はしないぜ」
向こうを向いたまま軽く片手を上げ別れを告げると、入り口に待たせた部下を連れ店を出ていった。
卓の周りの緊迫した空気が、朝日に当たる霧のように消えてゆく。
ファンとエレナ、毒気を抜かれたように、どちらからでもなく無言のまま店を出た。
人通りが少なくなった店の外で空を見上げれば、遮るものが何一つない中を幾つもの蒼い筋が蠢いている。
昇っていくもの、迷うに円を描くもの、地上に真っ直ぐ落ちるもの――
目の良いファンには落とされる島を肉眼で捉えることができた。
(あの先でも今から認定者集団が掃討を始めるんだよな……)
今日一日の出来事が強烈すぎて、取り留めないことを考えてしまう。
(エレナ、グエンダさん、ラリおばさん、ムント……、資格とか言われても……一体僕にどうしろって――)
突然、横からファンの脇腹に肘が食い込んできた。
隣に並んで歩くエレナは出会ったときと同じように頬を膨らせている。
「ちょっと、何考えてるの? 言いたいことがあるなら言えばいいでしょう……」
エレナの態度は乱暴だが先程の勢いがなく、目線は前を向いてファンを見ていない。
「色々と多すぎて、頭の中が整理できないよ……」
ファンは正直な感想を述べた。
「少しは私の大変さがわかったの?」
前を向いたままのエレナの声は疲れたように掠れている。
それでも元気を絞り出すように続けた。
「さあ、帰りましょう。今日はうちの宿に泊っていくんでしょ?」
ファンは家と呼べる物は持っていなかった。
両親が死んだ時にファンは既にガリシアの大学に通っていたので、住む者が居ないナバラの生家は処分されていた。今では城に住んでいるので特に不自由は感じていなかった。
「お客と言うことは……。今日も家の方には泊めてもらえないんだ……」
「あんた、ムントの話を聞いてなかったの? 母さんはムントの味方よ? ファンを家に泊める訳ないじゃない!」
かっとするエレナを落ち着かせるように、穏やかにファンは口を開いた。
「ムントなんか関係ないよ。それより僕は僕のやり方でラリおばさんに認めてもらえるように頑張る。もう暫く時間は掛かるけど、実際に管理局で働けば、おばさんの考え方も変わってくれるだろうし……その時はナバラで働けるように希望も出してみる。それ迄、出来ることは努力する、僕はエレナの側に居たいから」
ファンの少し赤く染まった顔は前を向いたままだ。
不器用だが精一杯のファンの言葉にエレナの瞳に明るい色が戻ってくる。
たっ、とファンの前に回り込んで悪戯っぽく笑う。
「じゃあ今から家に戻って空き部屋の掃除でもして貰おうかな」
「えっ? 今から?」
もう日付が変ろうとかいう時間であり、仕事で泊まる客の多いラリの宿に週末の泊まり客は少なくなかった。
「なに言ってるの? あんたこのままじゃムントに勝てないわよ? 今日と明日くらいはしっかりと働いてもらうわよ! いいわね?」
覗き込むエレナの顔は、ふんっ、とばかりにことさら拗ねた顔を見せていた。
「……なんでもないです。うう……、頑張ります」
「うだうだとうるさい! ちゃんと掃除終わらしたら、ファンの好きなお菓子を作ってあげるから、今日は頑張りなさい!」
ファンを睨むエレナのその目は笑っていた。
ファンはちょっとほっとして、恐る恐るエレナの手を取った。
捕まれた手をエレナはしっかりと握りかえした。
手をつないで静かになった夜の町を歩く二人の足並みは、ぎこちないながらも、しっかりと揃って石畳を踏みしめていた。