chapter 1-3 瑠璃の城
ファン達が出発したのとほぼ同時刻――ガリシア郊外の森でも心地よい風に若葉が舞い、午後の光が樹々に降り注いでいた。
その森の中央から、突き出す険峻な丘の上にロッシュ領主の居城は建てられていた。
城の姿はガリシアの街からも屋根に塗られた瑠璃色がはっきりとわかるほどで、その素晴らしい眺めは街の名物でもあった。
城は乳白色を基調とし、見上げるような城壁に四方を囲まれ、居住部分は巨大な直方体と円柱が前後に幾つにも組み合わさった造りをしている。
城の見晴らしの良い最上階に城主の執務室が置かれていた。
今、執務室へ流れ込む快適な風とは裏腹に、わずかに開いた窓から漏れ聞こえてくるのは言い争う男女の声であった。
「ふう……」
執務室の中でも一際目立つ磨き上げられた、巨大な机を挟んで目の前に立つ娘の態度に、ロッシュ領主ロサーノ・ドン・ロッシュは、椅子に腰を掛けたまま深いため息をついた。
民家が一軒入りそうなほど広い部屋には『浮かぶ国』では滅多に見ることの出来ない天然木材で作られた、椅子や机が趣味良く配置されている。部屋の奥には据え付けられた暖炉を中心にして、左右の壁に掛けられた歴代領主の肖像画の枚数がロッシュという国の歴史を感じさせた。
しかし、優雅な部屋を支配するのは物々しい空気であり、それは二人の間の緊張がただごとではないことを物語っている。
ロサーノは、老人と呼ばれるにはまだ早い五十五歳。見る者を威圧する射るような眼光に、低い背丈ながらも壮健な体つきだ。時には娘に甘いと言われるが、国を治めるに相応しい威厳を持った男である。
だが、ロッシュ最高権力者の顔には、困惑と焦りと苛立ちの三つが一つとなって、何とも言えない苦い顔つきである。
父の前に立つ、娘のミリアム・ドナ・ロッシュは、清楚な顔を曇らせ、目線を床に落としている。彼女の細い指は色が変わるほどきつく握りしめられ、ふっくらと柔らかい唇をきつく噛みしめ、床を凝視する瞳には苦しみの色が見える。
普段はあどけない微笑みを絶やさず、活発な愛くるしい少女の面影は、その姿からは思い描くことはできなかった。
娘に向かってロサーノは再び同じ内容を口にした。
「急な話ではあるが何が気に入らん? 皇都の大学へ進学するというのは、滅多に叶えられない幸運だぞ? そなた、以前から皇都に行きたがっていたではないか?」
『浮かぶ国』の支配者、皇王家が治める街、皇都。
皇都は機能性と快適さを徹底的に追求するために蒼石をふんだんに使って造られた都である。その都市は、人工頭脳により制御され運行される蒼石輸送機関や、内科医術と蒼石外科治療の融合知識を教える皇立医術大学など数えきれず、人体に適切なように気象まで管理されている。
皇都は『浮かぶ国』に生きる者にとっては貴族、民衆に関わりなく憧れの都市である。
しかし少女は、父の甘言に眉をつり上げ、面を上げて睨み付ける。
「……なにが進学ですか、そのような戯言を信じるほど子供ではありません! 様々(さまざま)な制約を付けられていては、体の良い人質ではありませんか? 何故、わたくしがその様な仕打ちを受けないといけないのですか? 元はと言えば、お父様達の行いが原因なのではありませんか? それに…………」
激情に駆られてて言葉を発するも次第に力を失って行き、きつく閉じられた唇には痛々しく血がにじんでいる。
ロサーノは敢えて口を閉ざしたまま顎で続きを促した。
「昔からお父様も、お兄様も、女を道具のように見ておられます……」
心の底にある濃くて苦い想いを吐露した。
娘が喋り終わるを待って、ロサーノは言い付けを守らない幼い子供を諭すように、ゆっくりと、しかし重々しく断言する。
「ミリアム、お前の考えはわかった。だが儂はそなたの希望を聞いているのではないのだよ。これはロッシュ家当主として、決まった話として伝えておるのだ。わかる――」
「お話はお伺いしました。でも納得した訳ではありません!」
もはや会話でさえ厭わしいと言うように父の言葉を制止した。
ばんっ、と手のひらで机を叩きつけ、ロサーノが大きな声を上げる。
「ミリアム!」
「お父様、わたくし気分が優れないので部屋に下がらせていただきます。」
はっきりと態度を表明し、きびすを返して背中を向けると足早に扉に向かった。
「待たんか!」
「失礼いたします」
がたっと、立ち上がった父を豪奢な栗毛の束が振り返ることはなく、扉の向こうに消えて見えなくなる。
部屋には装飾を施された厚みのある二枚扉が乱暴に閉まる響きだけが残された。
「全く、子供だの……」
ミリアムが消えた扉を見つめながら、ロサーノは呆というよりも失望の言葉をため息に交ぜて椅子に深く腰掛けた。
ロサーノはやれやれと頭を振ると、視線を部屋の奥に向けた。
待っていたかのように暖炉の側の肘掛けいすに座っていた男が、のっそりと立ち上がる。
ダニ・ドン・ロッシュは華奢というよりは病的に痩せていた。ダニの不気味に淀んだ瑠璃色の眼を、三十の男にしては不健康にくすんだ白い肌と妹とよく似た癖のない栗毛がさらに浮き彫りにしている。
もったいを付けるように歩を進め、先ほどまでミリアムが立っていた場所に椅子を引き寄せると、ことのほか面倒臭そうに腰を下ろした。
細めた眼を父に向けると、ダニは次期領主とは思えぬ乱暴な口ぶりで話し出した。
「俺としては、はっきり『人質として皇都に行き、皇王家の何れの馬鹿息子でもかまわないから誑し込め! 出来るのは女の貴様だけだ期待しているぞ』位は言って欲しかったですな」
突拍子もない内容だが、ダニのべとつく瞳には戯れの色は一欠片も見られなかった。
「儂はそんな事までは望んではおらん」
息子の言葉に、ロサーノは眉間を押さえずには居られなかった。
ダニは唇を釣り上げたまま、嘲りの感情を隠しもせず続ける。
「親父殿はわかってませんな。そう言ってやった方があいつも喜ぶと思いますがね。どちらにせよ親父殿はミリアムに甘い。そんな事だから、皇王家にも目を付けられる。どちらも十分に予想できた事態ですな」
ダニとミリアム、同じ父と母から生まれながらも、年の差以上に兄妹は本質的に全てが違っていた。ミリアムの楚々として凛とした雰囲気とは正反対に、ダニからは猥雑で全てを見下したような意地の悪さが感じられた。
さすがに腹に据えかねたロサーノは鋭い眼光でダニを見据えた。
「その様な事など、どうでもよいわ! 今回の皇王家からの要求は絶対に飲まねばならん。断ればロッシュは破滅――」
「何もそこまで焦るこたぁ無いでしょうが……」
ダニは大袈裟に顔をしかめて、唾を飛ばして激高する父を遮った。
大国のロッシュといえど、食糧供給を支配し、無尽蔵に蒼石を使える皇王家との戦に勝てる可能性は殆ど無い。しかし、皇王家が実際に行動を起こすのは最終局面であり、今はその時では無いことをダニは理解していた。
「そのふざけた話し方、なんとかならんのか? 猟色の件といい、城下で物笑いのネタになるなど、ロッシュのの品格を貶めおって!」
ロサーノの顔面は赤みを増し、声もさらに大きくなった。
「品格? そんな下らんものより、今は重要な話があるはずですが?」
父親の非難をダニは冷静に軽く肩を竦めて受け流す。
つかの間、二人の間を見えない緊張の糸が幾本も走る。
「――っ」
先に糸を断ち切ったのは、冷静に現状を分析する息子より事態に動揺する父親であった。
「ふん、上手く言い逃れよって。で、どのようにするつもりじゃ?」
ロサーノは感情を押し殺して、忌々(いまいま)しそうに続きを促した。
ダニはわざとらしく鼻を鳴らし、やれやれと両手を大きく広げた。
「それでは皇都での顛末とやらを、もう一度整理するとしますか、親父殿。皇王家は、我らがロッシュのきな臭い行いに気がつき始めた。しかし、全てを把握しているわけでもない。と言うことですな?」、
「ああ、それは確かだ。もし諸島統括庁が全てを知っておったらこの様な回りくどい真似はせんだろう」
ロサーノは鷹揚に頷いた。
諸島統括庁は皇王家の直属の機関であり、『浮かぶ国』全土の島の動きを観測し、予測する事を主な職務としている。一方で、統括庁は島に関する法に従わない貴族を見つけ出し、保有する蒼石武器で処罰する仕事も担当している。
ゆえに、不正を行う貴族にとって統括庁の名は恐れと憎しみを意味する。
軽く頷き、ダニは言葉を続ける。
「我らへの揺さぶりのために、ミリアムを皇都へ招待という名目で差し出せと要求してきた。あってますかな?」
「そうだ、後ろ暗い所がなければ問題ないだろうと言外に匂わせおったわ」
ロサーノは皇都での会談の内容を思い出し、憮然とした表情で答える。
「そして、ミリアムが皇都に行けば、取りあえずは時間稼ぎが出来る。どうです?」
「ああ、忌々しいが、お前の言う通りだ」
ダニは、まるで熟練した遊戯の駒の動かし方を教えるように解説する。
「それなら話は簡単でしょうが。向こうのお膳立て通りに話が進むのは癪ですが、時間が必要なのは此方も同じですからな……。この後の皇王家への対応の方はもう少し情報を集めてから対応するとして、ミリアムには早々に納得して貰いますか。それに、親父殿は大袈裟に考えすぎですな。所詮は二十歳にも届かん小娘の扱い、なんとでも出来るでしょうが?」
酷薄な笑いを瞳に浮かべながら、実の妹を平然と駒として扱う。
「何か考えがありそうだが、今回は向こうの耳に入るような派手な事では困るぞ?」
一度、遠く皇都の方角を見やってから、ロサーノは視線をダニに戻した。
「こんな細かいこと、俺が直接動かずとも良いでしょうが……。そうそう、例の家庭教師に一度説得させてみればどうですか? ミリアムは奴に恋心とやらを抱いているそうですから、案外と上手くいくやもしれませんな」
買い物で余った硬貨で籤を買うような気軽さである。
妹の純粋な思慕の情も、この男に掛かれば嘲りと計略の対象でしかない。
「あのような頼りない奴に任せて上手くいと思うのか?」
「駄目で元々、奴がへまをしても俺に何の痛みもありませんな」
ロサーノはひととき思案する表情を浮かべた後、ためらいがちに口を開く。
「……そうだな、それでは、お前の言うとおりにするか……、手筈は任せる」
「承知しました。では、侍従長にでも指示をだしておきますか」
これでは話は終わりとばかりに、ダニはそそくさと立ち上がった。
「なら、次の手を考えるまで時間もあることだし、俺は新しい護衛候補にでも会ってくるとしますか」
「護衛官なら既におるだろうが?」
またかと、ロサーノの顔に侮蔑の表情が浮かぶ。
「あいつは靡かんのでもう解雇ですな。今度の赤毛は少し顔は落ちるが、如何にも好きそうな体つきだと聞いてるので期待できますな。なんなら、憂さ晴らし親父殿も一緒に味見しにいきますか?」
「馬鹿者!」
「へへへ、冗談の解らん人ですな。では失礼」
ダニはふざけた調子で、役者のお辞儀のように、手を胸にあて大げさに頭を下げる。
そして足早に外へ向かって歩き出し、扉を閉めることなく部屋を出ていった。その顔には先程の話などすっかり忘れさり、歪めた口元には下卑た期待感を浮かばせている。
扉が開け放たれたことで、執務室の窓からは爽やかな風がより強く流れ込む。
部屋の外では、先ほどと変わらず瑠璃色の屋根に心地よい午後の光りが降り注いでいた。