#007 カゴの中で鳥はさざめく。
そそくさと後片付けを済まし、宿舎に引き上げる。
部屋に帰ってからもアリシアはひとり自主鍛錬に励み続けた。
魔術杖の代わりに木製の定規を構え、間違わないように呪文を繰り返し唱える。
シミュレーションに余念がない。
「頑張るのもいいが、そろそろ休んだらどうだ?」
「う、うん……。でも、もう少しだけ」
日が落ちて、夜がふけてからも彼女は練習を重ねた。
――きっと怖いのだろうな。
女の子の表情を確認して、おれはそう考える。
これまではいくら魔法を試しても、うまくいかなかった。最後の希望を託し、おれの元へとやって来る。努力のかいもあり、少女は初めて魔法を成功させた。
まあ、内緒でおれが手を貸したからだが……。
魔法が成功した。
この事実が、いまは逆にアリシアの心を不安に駆り立てているのだろう。
一度、うまくいったのだから今度は失敗しても言い訳が効かない。
出来て当然となってしまうと、次は失敗が怖くなる。怖いから何度も練習を繰り返す。
うーむ、良くないな……。
「大丈夫だ。おれがついてる」
とにかく安心させようとして声をかける。いまのままでは却ってプレッシャーに押しつぶされてしまいそうだったからだ。
「それは……。確かにマドーさんのおかげで魔法を使えるようになったけど」
「だったら、信じて言うことを聞け。しっかり休むのも大切だぞ」
「う……うん。わかった、そうするよ」
おれの魂を込めた説得にさすがのアリシアも手の動きを止めた。
まあ実際、いざとなればこちらは試験の本番にも介入するつもりでいる。
良いか悪いか他者の評価は関係ない。おれはそれでもこの子を助けたいと思っているからだ。
「あれ? もうこんな時間なんだね……」
置き時計を見たアリシアが驚いたようにつぶやいた。
「だろう? 夢中になるのはいいが、やりすぎると逆効果だ」
「そうだね……。明日に備えて休むことにするよ」
ようやくと木製の定規を机の上に置いた少女。続けて、身につけた制服のボタンを外し、上着に手をかける。
「おい」
「ん? どうしたのマドーさん」
「おれの視界の中で着替えるんじゃない」
チラリと見えたおヘソまわりに、慌てて釘を差す。
「えー、面倒だなあ。別にぼくは気にしないのに」
思うに、この子の態度からおれは男として見られていないのだろう。いやまあ、『魔導書』だけどさ……。
それでも、もしおれが男の格好をしていたら……。こいつの場合、それでも下着姿のままでウロウロしそうだな。言動からも自分が”女の子”という自覚がうかがえない。
「いいから、さっさとバスルームにいけ。そこで着替えるんだ」
「はいはい、わかったよ……」
不満顔を隠そうともせず、パジャマを抱えて扉の向こうに姿を消す。
やれやれ。これじゃあ、すっかり保護者だな……。
しばらくして、寝間着に着替えたアリシアが部屋に戻ってきた。
こうして普通に女の子らしい格好をしていれば、十分に可愛い存在なのだがな……。
「それじゃあ、おやすみ。マドーさん」
「うん。ゆっくりな……」
おれに就寝のあいさつを済ませ、部屋の照明を落とす。閉めたカーテンの隙間から、かすかに外の光が感じられた。きっと外では煌々とした月が浮かんでいるのだろう。正直、初めての外泊だった昨晩は緊張してよく眠れなかった。そのためか、今夜はぐっすりと睡眠を取れそうだ。おれは視界を閉じて、まどろみに意識を委ねた。
◇◇◇
まぶしい光にウトウトとしていた意識がようやく目覚める。
視界を開くと、窓から明るい日差しが部屋の中に飛び込んでいた。
――もう朝か。
ひさしぶりにすごく熟睡していた。こんなに深く眠っていたのは、前に生きていた頃だろう。これが心地のよい睡眠と言うやつか。さて、アリシアを起こしてと……。
「あれ?」
ベットを見ると、すでにそこはもぬけの殻だった。
洗面所にいるのかと思ったが、なんの物音も聞こえてこない。
と言うか部屋のどこにも少女の気配がなかった。
おい、まてまて……。
差し込む日差しのまぶしさに嫌な予感を覚える。
置き時計の盤面に視線を向けた。時刻はすでに朝どころか、間もなく昼を迎えようとしている。途端に押し寄せる絶望感。
やっちまったー!
「って言うか、どうしておれを置いていったアリシア!」
ついつい女の子に責任転嫁してしまう。
よく考えてみれば、あの子は自分の力で魔法が発現したと信じているのだ。
おれを試験会場まで連れて行く理由はない。たとえ、コーチとしてもだ。
出処の怪しい魔導書なんて、持ち込むだけでも問題だからな。
さあどうする?
【瞬間移動】を発動するにも、おれはこの施設についてよく知らない。それでは転移事故を起こしてしまう。
「取りあえず、【周辺検索】だ!」
指定距離を約一キロメートル四方に設定し、その範囲の地図を空間に表示する。
「え? なんだこれ……」
地図に示されたのは、小さな室内と膨大な余白。
「結界の外に魔法の効果が及ばない?」
どういうことだよ。おれの魔法よりも結界の方が強力ということか……。
まあ、こちらの魔法は三百年前の古い技術が元になっているから、この世界の洗練された現代魔法には効率で及ばないのもしょうがないが……。
「でもパワーに関しちゃ、さすがにおれの方が上だろ……。それでもダメなのか?」
頭の中ではグルグルと疑問が駆け巡るが、いまはどうしようもない。
とにかく、この部屋を出るのが先だと思い、【空中浮揚】に乗って入り口の扉を目指した。
ドン。
むなしい衝突音とともに行く手が阻まられる。
ドアが開かない……。
くそ、自由に動けないこの体がいまいましい。
持ち手にのしかかり、ラッチを引き込む。それでも扉はびくともしない。
施錠済みかよ。まあ、当たり前か。だが、その程度は想定済みだ。
「【開封】!」
シーン……。
ま、まあ、いまどきこんな初級魔法で開くようでは却って心配。
本番はここからだ。
「【施錠解除】!」
物理鍵なら大抵、これでいけるはずだ。が……。
ダメかよおおお! なんで? シリンダー錠じゃないのかよ?
あ、でも確かにサムターンがないや。
「【機構解析】!」
とにかく、おれの魔法が通じない原因を探る。
目の前に展開された魔法式と組み込まれた回路を紐解くが……。
「なんだ、これ? 解除に暗号鍵が必要な形式だと……」
そして、最初にここへ着いた時、アリシアが持っていた細い水晶の棒を思い出す。
「あれか? あの中に暗号用の解読魔法が埋め込まれているのか」
むむむ。こうなると面倒だな。結界を解除するには、外部から鍵を持ってきて暗号を符牒する必要がある。問題なのは、結界の内側だとおれの探知魔法がまったく効かないことだ。思うにこの世界は不思議なほど、”情報制御”に関する技術が発達しているような気がする。なんでだろう?
「まあ考察は後回しだ。いまはとにかくここを出なくては……」
出入り口がダメとなれば、あとはなんとかして結界の隙間か弱い部分を探して、そこから突破するしかない。おれは魔法の土台に乗ったまま、廊下につながる壁を手当たり次第に調べた。願いもむなしく、行く手を遮られた全自動掃除機のようにゴツンゴツンと壁に跳ね返される音が室内に響く。
「なんで、たかだか女の子の部屋ひとつに、ここまで厳重なシールドを施しているんだよ!」
一分のスキもない完璧な仕上がり。驚くよりも呆れて、腹立ちまぎれの声を出した。いやまあ、貴族の子女がいるのだから当たり前と言えばそうなのだが……。
「試験は午前中だと言っていた。やばいな。もう始まっているか、あるいはすでに終わってしまって……」
最悪の結果が頭をよぎり、暗澹とした気持ちになる。
いまのアリシアがひとりで魔法を成功させられるだろうか?
無理だとは言わないが、きっと難しいだろう。
本番の緊張と追い込まれた状況。それらがプレッシャーとなって試験を受ける女の子を苛むはずだ。
「こうなるのだったら、下手に成功させるんじゃなかったな……」
いまさらながらに自身の判断を悔やむ。
そのとき、不意に厳重だった結界が消失した。
「なんだ?」
予想外の出来事につい身構える。
そうしているうちに外から鍵が開けられた。
重々しく扉が開かれ、影から制服姿のアリシアが姿を現す。
「ア、アリシア……。どうした、こんな時間に戻ってきて?」
問いかけた声に相手は答えない。
ただ押し黙って室内に足を踏み入れるのみだ。
顔をうつむかせ、重い足取りでさらに進んでいく。
バスルームの前で立ち止まると、何も言わないでおもむろに制服を脱ぎ始めた。
「また、このパターンかよ……。お、おい!」
呼びかけたが、聞こえている様子はない。
上着を脱ぎ捨て、下着に手をかけた瞬間、おれはあせって視覚をオフにする。
『SOUND ONLY』
黒い画面に白文字が浮かぶ。
しばらくして、バスルームのドアが開閉する小さな音が耳に届いた。
視覚をつなげると床の上には乱暴に脱ぎ捨てられた衣類の数々。
おれは扉に近づき、聞き耳を立てて中の様子をうかがった。
聞こえてきたのは勢いよく流れるシャワーの音と、こらえきれずに漏れてくる少女の嗚咽……。
アリシア本人に問いかけるよりも早く、おれは試験の結果を悟った。