#012 白猫と少女の白いパンツ。
「な、なんだ?」
おれを踏みつけにした相手の正体。それを確かめようと視界を上に向けた。
見えたのは、もふもふとした白い毛が特徴的な一匹の猫。アイスブルーの瞳をこちらに向け、好奇心を露わにしている。
「こ、ここをナワバリにしている野良猫か?」
いぶかしんでみるが、どうもおかしい。
野良にしては毛並みがキレイすぎた。首にはピンク色の首輪まで付けている。
やっぱり、誰かの飼い猫か。
「くっ! 放せよ……」
なんとか抜け出そうとして、その場でもがく。
バタバタと動いたのが却って悪かった。猫は興奮してさらに激しく前足でおれを叩く。
「ぎゃふん!」
みっともない声を上げ、おれは抵抗を諦めた。
静かになった獲物を前にして、猫はおもむろに紙の端を口に咥える。
それからいそいそと移動を開始した。
――こいつ、どこに行く気だ?
辺りをしきりに警戒しながら、いずこかへ向かい歩き続ける。
これは……。ペット特有の捕まえた獲物を主人に見せつける行為だろうな。
「いまの状況はむしろチャンスか……」
相手が接触している状況であれば、この姿でも容易に魔法を叩き込める。
おれはそのための術式を急ぎ用意した!
「用意……………………早く、終われよ」
相変わらずのモタモタとしたダウンロードである。
蝸牛の歩みで進んでいく数字をイライラと眺めながら、おれは目まぐるしく変わる景色に驚いていた。
猫ってのは本当にとんでもない場所を進んでいくものだな。
明るい場所に戻った時、ようやくと準備が整った。
「いくぞ! 【神経占拠】!」
噛みつかれた場所から一気に相手の肉体をコントロール下に置く。
まずはおとなしくさせ、その場で『伏せ』の姿勢を取った。
それから紙の体を猫の首につけられたピンクの首輪へ挟み込ませる。驚異の運動能力で紙をねじり、首輪に強く絡みついた。
「よし、完了っと」
体勢を整え、猫を立ち上がらせる。支配した視神経を通じて視界を自分に同調させた。
「急いで教室に戻らないとな……」
自在に動く体を得て、やけに心地よい開放感を味わう。よく考えれば、生まれ変わって三百年、初めて自分自身の意思で移動可能となったのだ。まるで生まれたばかりの仔馬が即座に立ち上がり、生の意味を知るように、おれもいま自由の尊さを知った。
「おれは自由だーーーー!」
大声で叫んだ。多分、猫の声帯を通してだと、単にニャーニャー鳴いているだけだろう。まあいいさ。『魔導書』のような人工声帯で音声をモンタージュしているのではない。生きて喉を震わせる。むしろ、こちらこそがおれの生声だ。
「探しましたわよ、アレキサンダーちゃん!」
後方から猫の体をガシッと抑え込む強い力。
自由はまたたく間に奪われた。
にゃ、にゃんだ?
首をうしろに傾けて、謎の存在を確かめる。
見えたのは、左右に別れた人肌と間に挟まれた白い布……。
はて、なんだろう?
慣れぬ視界からの景色である。映ったものがなんであるのか、すぐには判別できない。
「もう、また勝手にお散歩を始めちゃって……。他の人に見つかったら大変ですわよ」
頭上から可愛らしい声が聞こえてくる。
視線を仰ぐと、こちらを覗き込んでいる女の子の顔が見えた。
幼い表情と肩口で切りそろえた黒髪。身につけているのはアリシアたちと似たような赤い制服。あれ、どっかで見覚えがあるな……。
思い出した! アリシアとマリアベルが廊下でもみ合っていた時、外からやってきた女の子だ! 名前はカティアとかいったか……。
「もうお散歩はおしまいです。早く、お部屋に戻りましょう」
カティアはそうつぶやいて、猫の体を持ち上げようとする。
――こ、こら! やめろ! いまのおれには一刻も早く、果たさねばならない使命が!
女の子の手を振りほどき、体の向きを変えて頭を向けた。
姿勢を低くした格好で耳を伏せる。敵であれば、口を大きく開けて威嚇行為をしてみせるところだが、なぜかそこまではいかない。おそらくは猫の精神が彼女を敵と見なしていないからだろう。あくまでもまだ家に帰りたくないという意識の現れだ。
「こら! ワガママ言っちゃダメでしょ! アレキサンダー!」
そう叫んで、カティアが腰を落とした格好で腕を伸ばし、首元を抑える。
力づくで猫を従わせようとしていた。
そんな緊迫した状態のさなか、おれはひとつの問題に困惑している。
――いま、女子のパンツがまる見えなんだわ……。
いやいやいや! べ、別におれが好きで少女の股間をガン見しているわけじゃないぞ!
カティアは首元をつかんだ腕に力を込めようとして、無意識に重心を低くする。そうなるとバランスを安定させるため、だんだんと腰を落として両足が開いていく。猫の方はおれの命令とは裏腹に、緊張からか瞳を目一杯に見開いていた。
必然、おれの視界には大きく足を開いた女の子の股間がワイド画面で映し出されてしまうわけだ。
これは不可抗力である。おれのスケベ心がそうさせたわけではない。
興奮しているせいで命令しても猫はまぶたを閉じないし、かと言って魔法を解除するわけにもいかない。
この姿でいる以上、少女に「お前、パンツ見えてるぞ」と忠告するわけにもいかなかった。
――それにしても猫ってすごいアングルから覗いてるよな。あっちも動物相手だと、まったく警戒心がなくなってる……。
なぜだか、冷静に目の前の出来事を分析している自分がいた。
まあ、おれ子供には興味ないし……。
「もう! おとなしくしなさい!」
いよいよ本気になって猫の首を持ち上げようとするカティア。こらえきれずにアレキサンダーの前足が浮いた。こうなるともう為すすべなしだ。本気で抗うなら爪を立てて逃れるしかないが、猫の方にはまったくその気がない。
「よーしよし、いい子ですねー」
もう片方の手でアレキサンダーのお尻を下から支え、両腕で抱き上げる。
その状態になると、おれがどんなに命令を出しても猫はピクリとも反応しなくなった。少女の胸の中にやさしく抱かれているという安心感。これに勝る魔法などこの世には存在しないというわけか……。
おかしな理屈で自分を無理矢理に納得させた。
「それでは、お部屋に帰りましょう」
カティアが嬉しそうにつぶやいて歩き始める。
――え? お部屋! 部屋ってどこだよ? まさか宿舎……。
進行方向に首を曲げると、視界に見覚えのある建物が見えた。女の子は人目を避けるような足取りで学生寮の裏口を目指していく。
あ。やっぱり、そうなるんだな……。
願いむなしく、おれは校舎からドンドン離れていった。
◇◇◇
宿舎に入り、中央の談話室を抜けて、二階に上がる階段を登った。
同じ階にはアリシアの部屋もある。慎重に廊下を中程まで進み、カティアが目の前の扉をそっと開いた。
隙間から忍び込むように音もなく入室し、ドアを閉める。
「カティア。どうしましたの?」
部屋の奥側から女性の声が上がった。
「お嬢さま、ただいま戻りました……」
猫を胸に抱いたまま、女の子が中にいる人影にあいさつをする。
見えたのは、金色の長い髪と良く育った女性らしい肢体を赤の制服に包んでいる少女。名前はおれも知っていた。マリアベルだ。
「あら? アレキサンダーを見つけたのね。よかったわ……」
「はい。講堂の軒下から出てきたところを捕まえました。誰にも見つかっていないようです」
「そう、これでひと安心ね」
カティアの報告にたわわな胸をそっとなでおろす。
この距離でも、ひときわ大きいのがよくわかった。
「他の子は内緒にしてくれていますけど、寮監さまに知られましては一大事ですもの」
「これからはもっと出入りに注意いたします……」
そうか。こいつら内緒でこの猫を飼っているのか。
他の生徒たちも知っていて、大人たちには黙っていると……。
そのへんはマリアベルの威光が効いているわけだな。まあ、それ以前に猫かわいいものな。
スキを見て部屋から逃げ出し、中庭でおれは偶然こいつに見つかったという顛末か。つくづく運が悪い……。
「でも、アレキサンダー。なんだか、ちょっとくさいです」
カティアが猫の頭に鼻を近づけ、スンスンと匂いを嗅ぐ。
やめて! 女の子に真顔で「くさい」とか言われると、心にグサッと来るから!
微妙なお年頃だから!
「外を出歩いて、なにか変なものでも触ったのかしら?」
「このままじゃ、お休みするときに匂いが気になります」
だからやめて! 枕の匂いとか、自分でも気づいてるから!
気になってシャンプーを変えても無意味だったから!
刹那的な気分に浸っているとマリアベルが立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。
そして、カティアに抱かれたままのアレキサンダーに鼻を寄せ、匂いを確かめた。
「……これは、お洗濯が必要ですわね。お魚が腐ったような香りがいたしますわ」
なにその、イノシン酸が多そうな表現……。
自分の体じゃなくても、美女から受ける冷たい視線に心がポッキリと折れる音が聞こえた。
これからどうなるの、おれ?