#011 まるでGのようにしぶとく。
結界が張られた放課後の教室。
すぐ近くにやって来た怪しい女教師エレノア。彼女以外、他に人影はない。
だとすれば、結界を展開したのはこいつか? 目的はなんだ?
おれが身を隠している学生用カバン。そのすぐ隣に立ち、手には小さめの魔術杖を持っている。
「こいつ、何が目的なんだ……」
基本、おれは人前で目に着くような派手な動きは控えている。
それがアリシアの為であると思っているからだ。だが、明らかな危機的状況下であれば、話は別だ。おれ自身の安全を守るためならば、いかような非常手段にも訴える。
「眠りの精よ。安寧に身を委ねる春の日の安らぎを示せ。其はまどろみの調べ。夜の帳に砂を撒く、鐘の音の聖人。誘うは赤子の揺りかご。炎を興し、温もりに血を巡らせ、心の枷を解き放て……」
エレノアがおれの側で呪文の詠唱を始めた。この魔法は……!
「【睡眠導入】!」
精神魔法だと? やばい、対抗魔法を!
「【精神覚醒】!」
眠りの魔法を覚醒魔法で打ち破る。
だが、こいつは危ない。狙いは間違いなくおれだろう。他には誰もいないからな。
問題は、敵が精神魔法でこちらを捕縛しようとしたことだ。
なぜ、おれのことを知っている? 精神に作用する魔法が有効であるという結論。それを導き出すには、おれが単なる『魔導書』ではなく、転生者としての精神を有していると判断しなければ出てこない。
――さて、どうするか?
魔法の打ち合いであれば自信はある。人間とは発動時間が違うからな。
だが機動性は勝負にならない。つかまって封印の護符でも貼られたら、もうおしまいだ。向こうもそれを狙って結界の中におれを閉じ込めたのだろう。
なので、まずは無事に逃げ出すことを第一に考える。この中で敵と戦うのは危険だ。
「じっとしているのは、まずい……【空中浮揚】!」
魔法の台座に乗ってカバンの内側から飛び出す。
おれの行動にあせったエレノアが、うしろにのけぞるような姿勢で大きく身をかわした。
いまがチャンス。なんとしてでもここから脱出しなければ。
「くっ! 意外と器用に動き回る……」
悔しそうな敵の声。反応がまるっきり、部屋でゴキ○リを見つけたときの女性である。それにしては口調がやけに男前だな……。
――どうする? 【電撃麻痺】でも撃ち込むか。
「……いや、おれの魔法の威力だと気絶だけでは済まない」
いまさらながらに甘いことを考えてしまった。それでも、この場所を汚したくないという思いが行動をためらわせる。なぜなら、ここはアリシアが日常を過ごしている教室なのだから。
「水の精霊よ。空にたゆたう霞を集め、清流と成せ。夜露を掠め、朝霧を搾り、滴と変えろ。生み出すは命の糧。波濤の飛沫。ほとばしれ! 【水流飛沫】!」
エレノアの杖の先端から勢いよく水しぶきが溢れ出た。水流はおれの体に直撃し、内側のページを濡らす。途端に体が重くなった。紙の本だからな、水分を吸収してふやけてしまったのだ。
――やられた……。こちらの弱点を的確に攻めてくる。相手は本当に人間なのか?
恐ろしさよりも手際の見事さについ感心してしまう。
徹底的におれを研究して挑んできているのだ。このままでは逃げ回るより先につかまってしまいそうだ。
「やばいな。このままだと……」
【空中浮揚】で天井付近まで浮き上がる。
敵の手が及ばない場所であれば、とにかく逃げられると考えたからだ。
だが、それは間違いだとすぐわかる。
エレノアが手にした魔術杖を鈍器のように振り回し、おれを叩いた。
太い柄頭でぶん殴られ、抵抗むなしく床の上に落とされてしまう。
――仕留め方まで”G”扱いかよ……。
やばい。倒されたショックで平衡感覚がおかしくなっている。
意外に精神ってのは、痛みとは関係なく脆いものなんだな……。
なんとか動き出そうと試みる。しかし、もはやどちらが上下なのかも定かではない。
「これが本当に伝説の魔導書なのか……」
近づいてきたエレノアが、やけに男っぽい口調で感想を漏らした。
どういうことだ? 人格がちがう……。いや、こいつは!
「これでお前はわたしのものだ」
ローブの内側から相手が細長い紙を取り出した。表面にびっしりと魔法のルーンが呪刻されている。あれは”封印”の護符か?
もはや身動きの取れないおれに、エレノアが本の口を閉じる形で封印を施した。
同時に意識が深い闇の中へと落とされていく。
最悪だ! 考えている中で最悪の展開が起こってしまった!
◇◇◇
エレノアは片手で本を持ち上げ、軽くホコリを払うような仕草を見せた。
それから片手に握った杖を小さく持ち上げ、短く呪文を唱える。
声を合図に教室に張られていた結界が解かれていく。それから、女教師は出入り口の扉を開けて部屋を出ていった。
「行ったか……」
相手の動向にまずは安堵する。抜かりなくカバンを探って、中を覗かれたりしたら本当にお手上げだからな。
開け放たれたカバンの内側から抜け出そうと、しばらくもがく。四辺の角を手足のように使って、ようやく机の上にたどり着いた。
ここにいるのは、間違いなく『魔導書』のマドーだ。ただし、体はペラペラの紙切れ一枚。
飛び出す瞬間、ページのひとつをカバンの内側に引っ掛け、その部分だけが千切れるようにしておいた。万が一にも敵に本体を奪われた場合、一縷の望みをつなぐために……。
「まさか、本当にこの策が必要となるなんてなあ……」
生き残ったとは言え、この姿はあまりにも心細い。そもそも、ページ一枚で自身の存在が維持できるのかどうかもわからなかった。
「エレノアとかいう女教師……。いや、あれはひょっとして誰かに操られているだけか?」
いま現在は本体とまるで連絡が取れない。どうやら完全に沈黙させられているようだ。
敵の正体がなんであれ、目的は明白だ。おれを通じて”知識の雲”にアクセスし、そこにある数多の叡智を手にすることだろう。
やばいな。そうなると冗談抜きで世界の危機だ。さて、どうする?
まずはアリシアと連絡を取るのが最善か……。少女を事件に巻き込むのは気が引ける。だが、それ以外に局面を打開する方法が他に思いつかない。
「取りあえず、【遠隔伝導】と……」
結界が解かれたので再度、魔法を展開する。が……。
「あ、あれ……。いつまで経っても完了しないな?」
遅々として発動しない術式。”知識の雲”へのアクセスは問題なく出来ている。
遅いのはおれの処理速度の方か……。
――なるほど、本体が『書物』という形になっている理由がこれか!
必要な魔法を展開するには、術式を自身にまるごとダウンロードしてしまう必要がある。本の姿なら一瞬で記述を写し終えるが、紙切れ一枚ではそうもいかない。書き込む余白がなくなる都度、すでに記述済みの部分を消去してスペースを確保しなければならないのだ。
「この状態では、おれの最大の利点である”術式発動までの早さ”が生かされないのか……。まいったな」
思わぬ弱体化につい不満を漏らした。
かと言って、この場ではどうすることも出来ない。
まずは頑張って、【遠隔伝導】の魔法を発動させなければ……。
――それにしても遅いな……。
視界の片隅に、『現在のDL状況』という文字とグラフ化した進捗度合がパーセンテージで表示されている。
気持ちとは裏腹になかなか進まないカウント。
脳内に、「ピィィィィッ! ガァァァァァッ!」というノイズのような高音が響き渡った。
あれ? もしかして、おれってアナログ接続なのか……。
やきもきしながら完走を待ち構えていると、今度は教室のうしろ側の扉が開けられた。
――ちょ! なんだ? エレノアが戻ってきたのか? だとしたらやばい!
慌てて全身の力を抜き、机の上でただの紙切れに成り済ます。
室内に入ってきたのは初老の男性だった。
「なんだ? 水浸しではないか! まったく、最近の子は神聖な学び舎を遊び場と勘違いしておるのか!」
男は教室のひどい有様に憤慨しつつ、窓という窓を次々に開け放った。おそらくは換気のためだろう。と、そこに一陣の疾風が巻き起こる。吹き込んだ風に煽られ、おれの体は簡単に浮き上がった。
「うわっ! ちょっとまて!」
為すすべもなく風に飛ばされたおれの体。抵抗むなしく、窓の外へと流されていく。しばらくは上昇気流によって高く舞い上げられたが、すぐに空気の流れは失われた。校舎近くの地面に力なく落下してしまう。こいつはやばい!
「こ、ここ、どこだよ?」
いまのおれには自分の現在地すらよくわからない。文明の利器に慣らされた現代人の悲しい定めである。
とにかく、この場所から離れるのが先だ。
土の上を這いずり回るように建物の影へと移動していく。風の影響を出来るだけ受けないよう、慎重に進んでいった。
ようやくと小さな木造建築の影に隠れた。平屋根に両開きの扉。物置かなにかだろうか? まあなんだっていい。ようやくおれは風に飛ばされる心配のない場所へ到着した。
「やれやれ。やっと、一安心だな……」
ほっと息を抜いた瞬間。建物の角から現れた謎の影が強い力でおれを上から押さえつけた。