5
青年は目が覚めた。視界は明るく、辺りは静かだった。天井が目の前に見えた。
横を向くと窓があり、のどかな景色がそこから薄いカーテン越しに見えた。どこかの部屋の中に寝かされているようだった。体の上に布団がかけられており、清潔なベッドの上に青年は横たわっていた。
青年が逆方向を向くと、少女が椅子に座って、うつらうつらと目を閉じて、微かに寝息を立てているのが目に入った。両手をしっかりと膝の上に乗せ、背筋を立てながら静かな表情で眠っていた。
青年はそれをしばらく眺めていた。
視線に気付いたのか、少女がゆっくりと目を開いた。寝起きでいきなり青年と視線がかち合い、少女は少しだけ目をしばたたかせた。
ぼんやりとした少女の頭が覚醒するにつれて、あたふたと少女は慌て始めて、ぎこちなく取り繕うような笑顔を青年に向けた。
「……ええと、気が付かれましたか?」
「……ええ」
青年が上体を起こそうとすると、体が少し固かった。青年は首を傾げて、体をほぐそうと、それぞれの部位をぎこちなく動かした。
少女は青年の様子を心配そうに見ていた。
「……どこか痛みますか?」
「……いえ。どこも、痛まないようです」
青年は自分の手を見つめながら、何度も何度も開閉して手の感触を確かめた。ふと少女に視線を移した。青年から視線を受けて少女は、少しばつの悪そうにしていた。
青年が不思議そうに少女を見ていると、少女は遠慮がちに口を開いた。
「……あの、今の状況はわかりますか?」
「……まったくわからないです」
「……そうですか」
あっさりとした青年の答えに、少女はしばらく逡巡して、なにかを言いにくそうにしてから、やがて真剣な表情になった。
そして、強く言葉を発した。
「信じられないでしょうが……あなたは一度、死んでしまったのです」
「……はぁ」
青年は露骨に怪訝そうな顔をした。少女は気にせず続けた。
「あなたは航空機と一緒に墜落してしまったのです。おそらく、操縦中に事故が起きたのでしょう」
「……」
黙っている青年を、少女は気遣うように窺っていた。
「私が見たのは、墜落した後の現場だけですが……そこで、大けがをして、横たわっているあなたを見つけました」
次第に青年は表情を引き締めて、じっと少女を見返すようになった。
「……大けが?」
「……ええ。その、酷い状態でした」
その光景を思い浮かべたのか、少女は辛そうに目を伏せた。
青年は、真っ直ぐに少女を見据えていた。
「それで、僕は死んでいたと?」
「……ええ。出血がひどく、心臓も呼吸も止まっていて……確かに、死んでいるようでした」
「……」
青年はじっと黙りこんだ。ある考え事に囚われて、頭の中がぐるぐると渦巻いているようだった。真剣な表情で虚空の一点をじっと見つめていた。
「あの……」
おずおずと少女に声をかけられて、青年は我に返った。
「……ああ、すみません」
一息ついて、青年は少女に手の平を差し出した。
「どうぞ、続きを。それで、死んでいる僕をどうしたんですか?」
「あ、はい。ええと、そうですね……」
少女は青年に促されて、続きを話そうとするが、どこか申し訳なさそうに見えた。
「その話の前に……」
少女はまた少し逡巡してから、自分の身の上、家族と一緒に暮らしていたこと、その後、この魔女の家で魔法を修得していることを青年にきかせた。
「魔女って、あの?」
「……たぶん、そうです」
「……へえ、あの魔女から」
魔女の話を聞いて、青年は複雑そうに表情をしかめた。少女は気まずそうに青年の視線を避けた。
「それで……」
少女は言い淀んで、服の裾を掴んだ。
「その……私は、この家で魔法を修得し始めてから、人を生き返らせる魔法を探していました」
少女はある本を見つけた。一頁ごとに魔法の名前が題されて、下にその考察とメモ書きが殴り書かれていた。恐らく研究日誌のようなものなのだろうが、内容は支離滅裂で、少女には一見して意味のわからない言葉が敷き詰められているだけだった。
少女がその本をめくって流し見ていると、ある頁に目がとまった。
その頁には、少女の名前が書かれていた。
少女は驚いて、その頁をもっと注意深く読んだ。しかし、何が書かれているのか、少女にはわからなかった。魔女の思考をさしおいても、専門的であることから、文字を読めても内容の把握をするのは、魔法に対する深い造詣がなければ難しかった。
短絡的ではあるが、延々と探し続けてきた少女には、その魔法が自分の求めるものに思えて仕方なかった。これこそが、魔女の使った、自分を生き返らせた魔法だろうと。
「……どうして魔女があなたの名前を知りえるんです?」
「……わかりませんが、魔女なら不思議でもないでしょう。何であるにしろ、試せば効果はわかります」
「……なるほど」
青年は、静かに空気を吸って、ゆっくりと言葉を発した。
「……それで、僕に試したわけですね?」
少女は、唇を噛んで俯きながら、微かに頷いた。
「……本当に、申し訳ありません」
「……」
「……回復魔法を先にかけたんです。できるだけ念入りに体を治しました。しかし、息を吹き返さなかった。完全に、死んでいたんです……でも……」
魔女の魔法は度の過ぎた物が多く、少女もそのことは重々承知だった。だから、家族の墓を漁って、その魔法をかけようとは思わなかった。でも、青年にはその魔法をかけた。少女は、深く俯いて、今にも消え入りそうな声をしていた。
青年はまた深く黙り込んで、何かを熱心に考え込んでいた。少女は俯いたままだった。
しばらく沈黙が続いた。
「……」
「……」
突然、青年は手を打った。
そして、口を開いた。
「いや、運が良かったですよ」
「……え?」
少女はぽかんと口を開けて、青年を見た。青年は、人差し指をくるくる回して、何でもないように続けた。
「だって、墜落したところに、たまたま蘇生魔法を持っている人がいたんですから。こんなこと、中々ないですよ」
「え、と……」
「大丈夫ですよ。死ぬより悪い事なんてないんですから」
青年は穏やかに笑った。少女はその顔をしばらく見つめて、少しだけ顔を安らげた。
「……ありがとうございます。そう言っていただけると、救われます」
「救われたのはこちらですよ」
「そんな……」
「ははは……」
一陣の風が部屋に吹き込んだ。暖かい風だった。カーテンが流れて、隙間から日射しが瞬いて紛れ込んだ。青年の顔にカーテンがかかりそうになった。
青年は、自分の顔にかかってくるカーテンを手で防ぎながら呟いた。
「……ここは、穏やかですね」
「……そうですね」
「とても、いい場所だ」
青年はしみじみとそう言った。
少女は、改めて青年の顔をじっと見詰めた。
「……あの」
「はい、なんでしょう?」
「……あなたのことを聞いてもいいですか?」
青年が視線を少女に戻した。すると少女はすぐに視線を落として、指を落ち着きなく擦り合わせていた。
「いえ、もしかして、お困りなんじゃと思って……」
少女はもじもじとさせている手を見つめながら、ためらいがちに、早口で喋った。
「あんなことになってしまっているわけですし……航空機も壊れて、元に帰る手段もないでしょう? ……航空機、でいいですよね。名前。私が見たのは残がいだけですが、立派そうでしたね……初めて見ました……ここら付近は、滅多に人は近づきませんから……そういえば、どうして、この島の近くに?」
「……」
「……もしかしてなにか、事情がおありなんでしょうか? そういえば、あの事故現場も、少し変でしたが……それなら、私にも、あなたの力になれるかもしれない、ですけど……私、失礼なことをしてしまいましたし……いやあの、恩に着せる訳では決してないですし、もちろん、無理にとは言いませんが……あの、よろしければ手助けを……」
「いや、それには及びません」
「あ、そ、そうですか……そうですよね……私なんか……こんなこと訊いてしまって……」
卑屈に顔を赤くする少女に、青年は慌てた。
「ああ、いやいや、そうではなくてですね。なんというか……」
「……」
「……それがどうにも、僕は記憶喪失のようなんですね……あはは」
「……」
「……」
「……え?」
青年の発言に間をおいて、少女はぽかんとした。
「……いや、え?」
青年はあっけらかんとして目の前で手のひらをパタパタと揺らした。
「自分に関するとこだけ記憶が無いんです。なにか、墜落時の衝撃でしょうかね?」
「え、そんな……」
少女の顔から血の気が失せた。
「も、もしかして、私の魔法のせいなんじゃ……」
「関係ないと思いますよ」
「え、ど、どの程度、記憶がないのですか?」
「いろんな知識はあるんですけど……自分にまつわることは、名前くらいしか」
「ええ……? そんな……ど、どうして、そんなに、冷静なのですか?」
少女の言葉に青年はにやりと笑って見せた。少女はただうろたえていた。
「はっはっはっ。他にどうしようもありませんからね。せめて冷静にならないと、うまくいくものもいきませんよ」
「はあ……あ、いや……まあ……それも、そうですね……?」
少女はぎゅっと目をつぶって、何度も深呼吸をした。そして、青年にならって冷静に事態を考えようとした。少女は物事を順序立てようとした。
「……あの魔法は、きっと私に使われた物と同じです。魔女の魔法は、同じ効果を常に発揮します。そして、私に記憶の混乱はありません……でも、絶対に魔法の副作用でないとは、言い切れません。その記憶の失い方には、少し恣意的なものを感じますから」
「そうでしょうか? まあ、現状なんとも言えませんね……」
青年はひょいと肩をすくめた。
「ところで、折り入ってお願いがあるのですが」
「え? な、なんでしょうか……」
「……よければ、僕をここに置いて頂けないでしょうか」
「……あ」
青年はわざとらしく陰のあるように笑った。
「行き場がどこにもないんです。勝手に空から落ちてきて、世話をしてもらって、この上何かを頼むのは非常に心苦しいのですが……」
「いえ、いえ! そんな、私の方こそ、蘇生が不完全になってしまって、本当に申し訳ありません!」
「いや、あなたは何も悪くありません。それなのに、こんな面倒を言って本当に申し訳ないのですが……」
「面倒なんて……是非、こちらからも。この家でよければ」
青年はほっとしたように、晴れやかに笑った。そして、深々と少女に向かって頭を下げた。
「ああ、良かった。ありがとうございます。お世話になる分の労働は、きちんとしますから」
「労働なんて……いいですよ。病人なんですから……」
少女は恐縮したように、慌てた声を出している。
「記憶を取り戻すまで、私が責任を持って治療しますから……」
「あはは、どうもお世話になります」
「こちらこそ……」
青年は、にこにこと笑っている。少女も、つられてつい頬が緩む。
「……治るまで、お好きに暮らしてください。この家は結構広いし快適なので、暮らすうえで不自由はないと思いますよ」
「……ああ。あの」
「……? どうしたんですか?」
「いや一応の確認なんですけど……この家には、あなた一人しか住んでいないんですよね?」
「そうですけど……?」
「僕が一緒に暮らしてもいいんですか?」
「え? 勿論いいですけど……」
少女は少し首を傾げて、
「ああ、大丈夫ですよ」
安心させるように笑って言った。
「部屋もいくつかありますし。プライバシーはちゃんと守ります」
「……まあ、そうですかね? 助かりますけど」
青年は、曖昧に笑い返した。
「あはは」
「ふふふ」
よくわからないが、少女は一緒になってころころと笑った。少女は楽しげだった。
「後で、この家の中を案内しましょう。その中で気に入った部屋がありましたら、そこに移っていただいても構いませんよ」
「ここで十分ですけどね」
「ならここでもいいですよ。家事全般は私がやりますので、ゆっくり療養しててくださいね」
「ああ、そういえばさっきも言いましたけど、僕も手伝えることは手伝いますよ」
「いえ、病人の方に手伝ってもらうわけには……」
「病人って……」
青年は不服そうに口をすぼめて、ベットから降りて立ちあがった。そしてその場で大袈裟に足踏みをした。
「この通り、体は問題なく動けますよ。大体、何もしないでいるのは嫌ですね。そんなの逆に落ち着かないですよ……」
「まあ、確かにその気持ちはわかります」
足踏みをしたままの青年を見て、少女は少し微笑んだ。
「ではいろいろ分担しましょうか……」
「いや、僕が全部やりますよ。第一その方が合理的だと思います。記憶を取り戻すためには、あなたの魔法の力を借りるのが手っ取り早いでしょうから、調査に専念して欲しいんです」
「まあ、治療に専念するのは勿論ですけど、でも……」
言いかけた少女の顔に、一瞬だけ物憂げな表情がよぎった。
そして、少女はしみじみと口を開いた。
「……いえ、やっぱり私に家事をやらせてくれませんか? 私、家事とかそういうの好きなんです。料理とか、繕い物も……昔から、好きなんです」
青年は足踏みを止めてベッドに座りなおし、そこでまた肩をすくめた。
「ああ、別に無理強いするわけじゃないですから……繕いものとかするんですか?」
「……ええ、まあ。昔は」
そう言いつつ少女は自分のスカートを少しつまんでみせた。
「この服も実は、自分で」
スカートは淡い色合いの上下一体の服で、造りもしっかりしていた。
「へえ、お手製だったんですか。可愛らしい服ですね」
「そ、そうでしょう?」
「ええ、良くお似合いです」
少女は手をもじもじとさせていた。
「……よければ、あなたの服もお作りしましょうか……? あなたに似合ういい感じの服を」
「いいんですか? じゃあ、喜んで」
なんとなく少女は咳払いをして少し恥ずかしそうにしつつ、気を取り直して話を続けた。
「ええと、その他分担については、まあ、それを決めるのは、今じゃなくてもいいですね。そうですね。おいおい話しあいながら、決めることにしましょうか」
そう話す少女は和やかに笑っていて、どこか少しだけはしゃいでいる様子だった。
「いろいろ用意しなくてはいけないものがありますね。あっと、そういえば、そろそろご飯の時間ですね。お腹空いていますか? ご飯食べられますか? 消化のいい物がいいですかね」
「そうですね。結構、お腹は減っています。僕に手伝えられることは、手伝いますけど」
「今日くらいは寝ててください。じゃあ、私用意してきますね。この部屋に持ってきましょうか。私も食べられるようにテーブルかなにかを持ってこないと」
「それくらい僕が運びますよ。というか、僕動けますから。この部屋じゃなくても」
「いいですよ。病人なんですから」
「病人じゃないです。一人では運ぶのが大変でしょう」
「私、魔法使いなので。テーブルくらい、簡単に運べるんです」
少女はにやりと笑った。
「いや、まあ、はい」
少女がいそいそと部屋から出ていくのを見送って、青年はベッドに寝転んだ。そのままの状態で、部屋をぼんやりと眺めてみた。
改めて見ると、かなり広い部屋だった。多少大きめのテーブルであろうと置き場所に困らないだろうと思えた。
少女がくるまで、青年はそのままぼんやりと考え事をしていた。彼女との会話を頭の中で取りとめもなく浮かばせていた。彼女は、家族を失っているらしい。家族を生き返らせることを目的に、今まで一人で頑張ってきたという。彼女は今まで、どんな気持ちでいたのだろうか?
青年はじっと壁の一点を見つめていた。しばらくそのままでいてから、青年は、うつ伏せに寝転がって、目を閉じた。そして、先ほどのやり取りを、もう一回思い出していた。
しばらくして、少女が少し多めのご飯を用意してこの部屋にやってきた。テーブルは青年の気付かぬ間に用意されていた。
「……おいしい」
青年はスプーンをくわえながら、感心げに唸った。
それを見て、少女は嬉しそうにした。
「へへへ、教えてくれたお母さんが料理上手だったんですよ。好き嫌いの多い弟も、お母さんの料理だけは絶対に残さなかったなぁ」
「いいお母さんだったんですね」
少女はスープの中の野菜をつついて、転がした。
「……とても、優しい人でした……そういえば、今更なのですが」
少女がふと気付いた。
「私たち、お互いに名前を知りませんね」
「……そういえば」
しばらく沈黙した後、改めて二人は自己紹介をした。
「私の名前は、セリアといいます」
「僕の名前は、アークです。どうぞ、よろしく」
今度はお互いの名前を呼びながら、二人はまた会話を続けた。少女は楽しげに自身のことなどを語り、それを青年が穏やかに受けた。
二人の談笑は、夜が更けるまで続けられた。