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とある魔女がいた。
とても有名な魔女だった。世界中の誰もが知っていた。魔女は数千年を生き、そして寿命によって死んだ。
当時の世界は発展途上で、未開的だった。世界地図は未完で、冒険家がそれを埋めるべく命がけで船を出した。挑戦と挫折の繰り返しで、人々が安定して遠方の国と交流するには、もうしばらく時間がかかるだろうと思われた。
海に隔てられた遠くの国同士に交流はなかった。近くの行き帰りが簡単にできる国たちだけが交流していた。つまり、情報を交換できるような国同士のネットワークは、局所的なものに限られていた。
しかし、魔女は有名だった。そうした時代においても、魔女の名は世界のいたる所に知れ渡っていた。国ごとで名の意味と形は違っても、その対象は全ての国において同じ魔女のことだけを指し示していた。
魔女は、多くの魔法を扱った。空を飛ぶでもなく、海を潜るでもなく、歩くように魔女は世界を移動した。魔女は各地をまわり、気軽に世界のいたる所を旅した。清廉な山の頂上から、地下深くの闇の中まで、魔女が意識すると景色は移り変わり、辺りを少し見渡すだけで、周辺の隅々までを魔女は詳細に見透かした。
魔女の扱う魔法は、特別なものだった。
腕の裂傷を塞いだり、生物を殺傷するような、そういう類ではなく、筆舌に尽くしがたい、常識の延長線上からかけ離れた、たいそう空想じみたことが、魔女の魔法によって実現される。魔女は、そんな自分の魔法が大好きだった。
魔女は、よく魔法の実験をした。
気まぐれに世界を歩いて、思いついた魔法を場所に構わず周辺に撒き散らし、魔法の結果を確認して、納得がいかなかったら何回も何回も繰り返し、何回も何回も飽きるまで、魔法をしつこく放ち続けた。
何よりも先立つ魔女の魔法の大きな特徴として、魔法の副次的に発現するおぞましい色をした靄がある。魔法の種類に関係なくそれは発生し、周囲を汚染する。
靄に触れた箇所はどこであろうと必ず汚れる。生物、非生物問わず汚染箇所は、手触りも臭気も色覚も意思も全てがおぞましく変貌し、生物に酷い嫌悪感を引き起こす気色悪い汚物となってしまう。
汚物は、その汚らしい要素を数百年経とうとも劣化せずにその身に保持し続ける。
例えばとある地域で、運悪く魔法の靄に全身を巻き込まれ動けなくなった人間が、数ヶ月放置されても死なずに、その場をただただ蠢いて酷い悪臭を絶えず撒き散らす汚物になった。汚物はしばらくして他の人間の手によって海に投げ込まれて、それからずっと海にその汚らわしい体液を流し続けている。その汚物の嫌悪感を押し固めたような感触は、触れる人間の神経をおかしくした。
魔女は靄を魔法と共に撒き散らし、巻き込まれる人々は当然魔女を恐れた。勇敢な人間が魔女に立ち向かい、無残にされるのを見ながら、人々は魔女へ対抗する気力を失くしていき、そして世界のいたる所に次々と魔女の痕跡が増えていった。魔女は世界を旅して、あらゆるところを脅かした。魔法を使い、人と動物を殺して、狂わせて、土地を汚して、また破壊してまわった。そうしたことが、絶え間なく千年以上も続けられた。人々は例外なく魔女を恐れた。
魔女は世界を旅している間、次々と魔法を考案した。種類は豊富で、いずれの魔法の効果も劇的で、とても恐ろしいものだった。
あるところの土地一帯は、ぐずぐずに腐り果てて、そこに住んでいた人々と動物は巻き込まれて、ずっと腐った沼の底で異形の物としてもがいている。
あるところの国の王の頭が、ある日突然肥大化して、非人間的な知謀で他国を侵略するようになった。王は数年で小国から大国を築き上げて、素晴らしい統治をしばらく行っていたが、最期は理解不能なうわ言を喚きながら、頭から中身を勢いよく噴き出して死んだ。
あるところの集落で酷い病気が蔓延した。その病気に肉体的な症状は一切生じず、精神的にのみ異常をもたらした。記憶喪失、性癖の変化、幻覚症状、感情の欠落、妄執、知性の欠落や異常発達、価値観の急激な変化、性格と記憶の変化、食欲と性欲の異常障害など数えきれない症状が集落を満たした。集落はしばらく存在し続け、ある日理由もなく忽然と消えた。
暴虐に耐えかねて、魔女を討伐しようとする大きな動きは何度か繰り返された。しかし、その度にあっさりと、すぐに滅ぼされた。
魔女は、目を輝かせて、足しげく世界の各地を旅した。魔女の興味は気まぐれで幅広かった。偏執的に人々の暮らしを覗き込んで、意図的に無視して、キチガイのように突然怒り狂ったり、際限なく笑いだしたりした。
魔女の行動には限りがあるから、それぞれの土地で、触れられない一定の期間は平和に暮らせる。人々は顔の前で固く両手を握りしめて、魔女に運悪く遭遇しないようにと、つかの間の平和が長く続きますようにと、どこかの神に祈って生きた。何世代にもわたってそうした祈りは続けられ、それが叶えられることもなく、人々は唐突に災禍に見舞われてきた。理不尽に怯え続けなければならない抑圧された空気の中で、人々はずっと迫害され続けてきた。中には、魔女を崇拝する人間すらでてきた。
魔女は数千年を生きた。しかし、ある日魔女の寿命が尽きた。
魔女は寿命が尽きる百年くらい前に、自分の寿命を悟った。そして、しばらく自分の寿命を引き延ばすような魔法の研究に没頭した。
しかし、どれほど研究を重ねても、自分の寿命を引き延ばすことはできなかった。いかなる方法を用いても魔法には限界が存在し、それを超えることがどうしてもできなかった。人間を人間としてずっと生き永らえさせることは、魔女にすらできないことだった。
しばらくして魔女は、研究を止めて、とある島でひっそりと暮らすようになった。最期の八十年間をその島で過ごした。この間、島から出ることは全くなかった。
長い虐待の果てに、突然人々は魔女から解放された。
それから人々は、次第に普通の生活をするようになった。魔女を気にして恐る恐る生活を続けながらも、徐々にその幅は広がり、数千年も失くしていた活気ある生活を取り戻すようになった。一年が過ぎて、それぞれ国々は大きな足枷なく集団を広げ、人の数を着実に増やしていった。
更に数十年が経って、人々の活動がどんどんと活発になっていき、停滞していた発展は盛んになった。魔女に関することよりも、人々の交流に関することに力は割かれていくようになった。魔女とは別の問題が次々と沸いて出て、人々はその対応に追われることになった。
とある国の人間が、魔女の棲む島を見つけた。広く有志を募って、どうにか魔女を殺そうとしてみせた。そして、大勢の人間が島に上陸したところ、それらは団子のようにひとまとめて癒着され、国にあっさりと送り返された。その後は、どの国もその島を放っておくようになった。
魔女の残した痕跡を見る度に、人々は魔女のことを否応なしに意識した。忌まわしいその痕跡は、今後も、長らく残り続けていく。
魔女は自分が死ぬことは許容できても、自分の魔法がこのまま朽ち果てることがどうしても許容できなかった。魔女にとっては自分の魔法こそが何よりも大切なことであり、自分が死んで、今までに創り上げた魔法が無かったことになるのが、何よりも我慢ならなかった。
魔女は、死ぬ直前まで自分の魔法の体系を整理し続けた。自分の魔法がこの先消えず、ずっと生き続けていくように。