思い出
都心から離れたのどかな地にて、幸子は結婚10年目になる夫の一郎と共に穏やかに暮らしていた。
ある日、そんな夫婦のもとに一郎の弟の次郎が訪ねてきた。
久しぶりの再会に一郎は喜び、二人は酒を飲みながら昔話に花を咲かせて楽しんだ。だが一郎は、次郎と父の話をしている時に不思議な感じがしていた。
それは自分と弟で父の印象が全く違うようだったからだ。
「父さんが今刑務所に入っているのだって必然の結果さ。」
「確かに父さんは罪を犯したけれども、俺たちには家族思いの優しい父さんだったじゃないか。」
一郎と次郎の父親である太郎は、横領と文書偽造の罪で懲役15年の刑に服していた。
「父さんが会社の金を横領してしまったのも、生活が苦しかった俺たち家族の為を思ってじゃないか。」
「兄さん何を言ってるんだよ。あいつは自分の遊ぶ金欲しさでやったんだよ!」
一郎の記憶の中では、父は子煩悩で家族思いのいつでも優しい父だった。それが次郎の記憶の中では、気性が激しく散々悪い事をするひどい父親だった。どうして兄弟でこんなにも記憶が食い違うのか、一郎は不思議に思った。
次郎と話をしてから三日ほど経った時、一郎は激しい頭痛で会社を早退する事になった。
一応病院に行き、痛み止めの薬を出してもらって家で休んでいたが、薬が効く様子はないようだった。
心配した幸子は明日も会社を休んだ方がいいと言ったが、翌日には一郎の頭痛も良くなりいつも通り出社した。
その日は頭痛は治ったが、痛みで夜あまり眠れなかったせいか怠く重い体で日中を過ごした。
その夜、幸子は隣に眠る夫のうめき声で目が覚めた。一郎は額に脂汗をかいて苦しげにうめき声をあげていた。幸子はすぐに一郎に声をかけ肩をゆすって起こした。
「大丈夫?随分苦しんでいたようだけど。」
「ああ。首を圧迫されているような感じで、とても息苦しくて死んでしまうかと思ったよ…。」
「首に毛布でも巻き付いていたのかしら?私が起きた時は何もなかったけど…。」
その翌日も寝不足のせいか日中は体調が優れなかった。そして、一郎はその日のお風呂上りに体に違和感を感じた。首を回して後ろ側を見てみると、肩から背中にかけて赤い湿疹が出来ていたのだ。
「まあ!それどうしたの?」
「いや、全く心当たりがないんだ。でも、そういえば今日何度か背中が痒いなと思っていたかもしれない…。それよりも体調が悪くて気づかなかったな。」
「明日お休みして病院に行った方がいいんじゃないかしら?最近の体調の事もあるし。」
「そうだな…。なんだかさっきから頭も痛くなってきたみたいだし。明日病院に行ってこよう。」
一郎は三日前にもらった頭痛薬を飲んで眠った。
朝になって重い体を起こしたが、結局頭痛は一晩中収まることがなく、一郎はほとんど眠る事が出来なかった。
その日は、病院に行き医者から数種類の薬をもらって一日休んでいたが、湿疹は治らず断続的に頭痛がしていた。
翌日は土曜日で会社が休みだった。
朝、日課のコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたが、どうも目が霞んで字が読めない。老眼かと思い眼科に行ったら、検査の結果は老眼ではなく急激な視力の低下だという。そういえば、手元だけでなく遠くもよく見えないようだった。一郎は簡単な問診を受けたが、原因は不明と言われた。
翌日の日曜日になっても体調は悪いままだった。一郎は本格的に自分が何か重い病気にかかっているんじゃないかと不安になった。
月曜日も体調が悪かったため、休みをとって今まで診てもらった病院とは違う病院で診察を受けた。診察の結果は、どの症状に対しても原因不明で、精神的なものによるのではないかというものだった。
一郎は精神的なものについて原因を考えてみたが、特に思い当たることはなかった。
それから数日たち、症状が段々悪化してきて体がとても辛い状態になったので、一郎はついに心療内科に行った。
そこで精神的な原因による緊張性筋炎症候群の可能性がある、と診断された一郎は、医者から原因を突き止めるために記憶を整理してみるように言われた。
一郎は幼少の頃から記憶を遡り、思い出したものをノートに書き留めるようになった。
(あの頃はまだ小学生で、家には母さんもいて、家族みんな笑顔にあふれ幸せだったなぁ。)
一郎の両親は父が刑務所に入る直前に離婚していた。
一郎は頭痛や湿疹、吐き気や目のかすみなどの症状と戦いながら、日々昔の様々な記憶を思い出してはノートに書き留めていった。
そんな生活を続けて数日経った頃、いつものように朝コーヒーを飲みながら新聞を読もうと手にした時、一郎の脳裏にある記憶が蘇った。それは今までに感じた事のない衝撃で一郎を襲った。
———17年前、
一郎は上機嫌な父に誘われて、普段は行かない高そうなバーに行っていた。しかし常に金がなかった父を心配して一郎は聞いた。
「父さん、ここ随分高そうだけど、支払いは大丈夫なの?」
「ああ、金の事なら心配するな!ほら、今夜は好きなもん飲んで食え!」
そう言って父太郎は鞄の中の札束を一郎に見せた。
「父さん!そんな大金どうしたのさ?」
「へへっ大金だろぉ?こいつは麻薬の取引っつって嘘ついてさ、引っかかった男二人から奪ってやったんだよ!」
太郎は上機嫌で得意げになって話し始めた。
「少しの薬じゃ大金を稼げねぇからな、ちょっとずつ他のシマから手に入れた薬で取引して信用させてよ、そんでもっと大量に買えば他んとこよりちょっと安くしとくっつったら簡単に大金用意してきてよぉ!っへへ!そんでそいつら殺して金奪ってきてやったんだよ。」
父は殺人犯だった。
一郎はあまりの衝撃にとっさに言葉が出なかった。そんな一郎を気にせず太郎は男二人をどうやって殺したのか、どこに遺体を始末したのか、詳細に一郎に話して聞かせた。
店内はBGMが流れていて、二人は奥まった席に居たため近くに他の客はなく、太郎の話が聞えるものはいなかった。
一郎は話を続ける父を見ながら恐怖に震え、どうしていいかわからずただ混乱していた。
—————
父との衝撃的な記憶を思い出した一郎は、恐怖に震えながらもまず警察に向かった。そして思い出してしまった事実を警察に話した。
警察は最初17年も前の事件について語る一郎に懐疑的だったが、犯人しか知りえない詳細な説明を聞き、一郎の話しは嘘ではないと判断した。
警察は一郎に盗聴器をしかけ、太郎と当時の事件の事について話をさせる事にした。
服役中の太郎を通常の面会室と異なる部屋に連れて行き、一郎と二人きりで話をさせるように計画した。
太郎は現在12年服役しており、あと3年で出所というところだった。
面会室に現れた太郎を見た一郎は、当時の記憶をより鮮明に思い出していた。
そして久しぶりに息子と再会した父は、何の疑いもなく当時の事件について話しだした。
「ああ、前にも教えてやっただろぉ?スタンガンで動きを封じてから殺ってやったんだよ!」
太郎は17年前の残酷な殺人事件の詳細を当時と同じように得意げに一郎に語った。
一郎は覚悟を決めていたが、父の口から決定的な事実が語られ苦悶の表情で頭を抱えた。
この時の自供が証拠となり、太郎は終身刑を言い渡された。
その後、一郎を苦しめていた様々な症状は全て回復したが、念のため病院に行く事にした。
一連の流れを聞いた後医者は、当時一郎があまりに衝撃的な話を聞かされたため、記憶を封印してしまい、家族思いの優しい良い父親だったと記憶を塗り替えてしまったんだろう、そして時が経ち、弟と会話する事で封印した記憶を刺激し、それが激しいストレスとなって体に不調をきたしたのだろう、と語った。
一郎は、全てが終わり自分の体調も元に戻ったが、たった一人の実の父親を終身刑にしてしまったというやり切れない苦しみを抱えていた。
そんな一郎を心配した幸子は、一郎にそっと寄り添い穏やかな日常を与えた。
この17年という歳月が、一郎が事実を受け止め正しい判断を下す事が出来るようになる心を育てるのに、必要な期間だったんだろう。そう考えた一郎は、自分の心の成長のためこの苦しみを抱えて生きていく事を決意した。