玉庵の大蛇退治伝説異聞
1
長袖のシャツ姿では暑すぎる季節となった。
梶原がハンドタオルで首筋を伝う汗を拭きながら右手の車窓を見ていると、やがて白い漁船がずらりと並ぶ漁港が迫ってきた。
左の内陸部は古い民家がひしめく住宅街となっているが、虚脱したように閑散たる趣を呈していた。
どうやらこのバスは岡山と兵庫の県境にある鄙びた港町に停まるようだ。
このあたりに実家があるという未央の行方を追って、ずいぶん遠くまで来てしまった。
梶原はリュックを背負い、いつでも降りられるよう準備をした。
バスが停車し、梶原だけが吐き出された。
漁港には急ごしらえの出店が軒をつらね、なにやら賑々しい雰囲気が町内にあふれていた。
笛太鼓とともに浴衣姿の男女が通りを練り歩いていく。が、どの顔もあくまで退屈しのぎの一環にすぎないのか、うつろな表情をぶらさげているので華やかさに欠けた。
いずれにせよ梶原にとっては、場ちがいなところに来てしまったというバツの悪い思いだけがした。
時間帯は正午直前だったので、とりあえず避暑がてら入った喫茶店で軽食をたいらげ、ことのついでに祭りの内容を髭のマスターに聞いてみることにした。店内は梶原の貸し切り状態であった。
「あれね。てっきりお客さんも観光でいらっしゃったのかと思ってました」と、マスターは人のよさそうな相好を崩して言った。「いやなに、この地方の沖合に無人島がありましてね。島から大蛇が渡ってきては悪さするっていう話があるんです。そこへ通りかかった偉いお坊さんに大蛇退治を依頼するわけです。その功徳を後世に伝えるっていう祭りを、毎年六月十三日に開催するってわけですよ。まあ、役場も正式には『玉庵の大蛇退治祭』って銘打って観光客誘致にPRしてますが、なかなか世間の認知度は芳しくないようでして」
「大蛇って……しょせんは伝説にすぎないんでしょ? 現にアオダイショウだって、せいぜい二メートルもあれば大きい方だし」
梶原はコーヒーを口に運びながら言った。
「まあ、そう言うなかれ、ですよ。伝説でも多少の史実は含んでいましょう。ちょっとした比喩でしょうな」髭のマスターは腕組みし、ガラス窓の向こうでパントマイムよろしくさんざめく浴衣姿のカップルや親子づれを見ながら言った。「なんでしたら、私が知ってる範囲で、その伝説の経緯を語って聞かせましょうか? 町の郷土史家なみの知識や、横尾さんっていう語り部のじいさんほどじゃないにせよ、それなりに興味をひくトークができると思いますよ。なんてったって、観光パンフレットには描かれていない、じっさいの古文書に載ってる『異聞』に目を通したことがあるんですから。もっとも、長話になるんで、お客さんが先を急がなければの話ですが」
「……けっこうな自信があると見えるね。お手並み拝見といこうじゃないの。こちとら、午後五時まで旅館にチェックインしないといけないほど、忙しい身分じゃない」
「よしきた」マスターは背後のオーディオから流れるジャズの音量を絞りった。くるりと向き直り、神妙な口調で語りはじめた。「これが不思議なお話でしてね」
2
はるか昔の話である。
この吉舎名町の前身である吉舎名集落に、どこからともなくひとりの坊さんが流れてきた。村人はひと目見るなり、徳の高い偉い人物だとわかった。
坊さんはみずからを玉庵と名乗り、旅の途中だと言った。年のころは三十をすぎていたが、気高い老翁のような貫禄があった。
当時から、村から沖合一七〇間(約三〇六メートル)のところに、小さな名もなき無人島が浮かんでいた。
藪が自生し、いくら伐採しても農地にはならず、また無数のマムシが潜んでいることから、開拓はとうの昔に放棄されていた。
そんな島から、いつしか夜ごと大蛇が渡ってきては、村の若い娘をさらっていくようになったため、村人はこの狼藉を働く大蛇に困り果てていた。
藁にもすがる思いで、高僧に向かって、
「願わくばこの大蛇をなんとかしてもらえないでしょうか」
と、頼み込んだ。
わけても先日から網元である伍助の一人娘、草祢が執拗に狙われており、親、親族、近隣住人が総出で撃退してきたが、いつまで守りきれるか、いささか心もとない。
寝ずの番をして大蛇を待ちかまえているとはいえ、せいぜい追い返すのが関の山。男たちは現在、疲弊しきっているという。
玉庵はその娘と面会したいと言うと、長は草祢を呼んだ。
草祢が屋敷に入ってくるなり、欝々と沈んでいた空気が華やいだように見えた。
なんと美しい娘であろう……。
長くてつややかな黒髪は秋の夜で、白い面貌は雲間から現れた月のよう。
はっとするような涼しげな目もとで、唇は桜の花弁と同じ色をし、しっとりと濡れていた。
とりわけ青磁のごとき輝きを放つ白い肌!
きっとその腕に触れれば、陶器のような冷たさと、その内側にしなやかな生命が躍動しているにちがいないと玉庵は思った。
その腕に抱かれ、そして抱きしめたい。
玉庵は身体の芯を貫く烈しい疼きを憶えた。
僧たる者があろうことか、娘に欲情してしまったのだ。彼はそれを恥じるどころか、むしろ淫らな邪心を抱く。
――大蛇にくれてやるぐらいなら、いっそ私がいただきたい。
玉庵は平静を装いながら、
「それほど難儀されているならば見すごすわけにはいきますまい。わかりました。やれる限りのことはやってみましょう」
と、言った。
◆◆◆◆◆
たそがれ時、現代でいうトンボロ(ふだんは海によって隔てられている陸地と島が、干潮時につながる現象)が起きる時間帯だという。
潮が引いているときを利用して島に渡ることにした玉庵は、とるものもとりあえず、島でめぼしい場所を探した。
その結果、村から見て正面にあたる東側の海岸線は磯になっており、島の頂上へ向かってなだらかな丘が続き、木々などの遮蔽物がないため見通しが利きやすい。
そこで見張りするべく石くれを積み上げて、急ごしらえの祠を作った。ちょうど石でできたカマクラのようなものだ。
そのくぼみに膝を抱えてしゃがむと、玉庵の身体はすっぽりとおさまった。
祠で大蛇を待ち伏せすることに決めた玉庵は、もうひとつ案を思い立った。
――いっそのこと、あの娘を囮として使うべきではないか?
危険な賭けであったが、同時にこの島で娘と二人きりになれる口実となる。
その考えを実践すべく、いったん村へ帰ることにした。
島と内地へと続く砂州はまだつながったままだったので、足を濡らさずに済んだ。
◆◆◆◆◆
「囮、ですか……。しかし私たちの庇護があったからこそ、いままで持ちこたえてきたのです。いくらあなたさまとは言えども大蛇と相対するとなると、同時に草祢をも守らねばならず、その負担たるや小さくないはず」
と、長は言ったが、なかには玉庵の意見に賛同する者もいた。
大蛇は気まぐれで、出没する日もあれば、なかなか姿を見せない日も続くことがあり、せっかく寝ずの番をしても無駄骨になることもめずらしくないからだという。
「だったら、囮に使った方が奴が現れる可能性が高くなる。草祢も危険を伴うだろうが、さっさと片をつけてもらいたい」
と、年かさの漁師が言った。
「そろそろ終わらせなきゃ、早晩みんな疲れで共倒れになっちまう」
草祢の兄が玉庵のかたわらに膝をついて言った。
「そうおいそれとはいくまい。もし草祢の身になにかあれば、複数の護衛がいた方が助けやすいではないか」
と、長は反対した。
決断を渋る長に対し、玉庵は急かした。冷静に考えれば明らかに草祢は内地にとどめておいた方が安全にはちがいないのだ。
「是が非でも草祢さんの命は預かるつもりです。勝算はあります。魔性と化した畜生に効く法力を知っております。ただしこれを使うとなると、我が命も削られていくのですが、そうも言っていられますまい。いずれにせよ急がないと、潮が満ちてきますぞ。砂州がなくなれば島へ渡るのも難しくなりましょう」
と言い、胸中でグズグズする長を叱咤した。
「致し方あるまい。もはや私たちは託すしか術はないのだ。玉庵さまの功徳に期待しましょう」
と、長はようやく折れた。
「必ずや朗報を持ち帰ります」
玉庵は殊勝な面持ちで言った。
3
玉庵と草祢は干上がった砂州を渡る途中、これといった会話は交わさなかったものの、島に着いてから待ち伏せすべき東側の丘に待機しているあいだ、まずは身の上話から入り、たがいの人生観について意見を交換し、徐々にだが打ち解けていった。
それにしてもこの草祢という女、一村娘にしては気品ある佇まいであることよ。
齢は二十四だといい、学問らしい教育は受けていないにもかかわらず、聡明な考えの持ち主であることに驚く玉庵であった。思慮深さに富んでおり、やんごとなき家系の出ではないかとさえ思った。
玉庵は石のカマクラのなかでしゃがんだまの姿勢でおさまり、草祢は二間(約三.六メートル)先の薄暮のなかで、卒塔婆のように立ち尽くしたまま話をした。
「ときに聞くが」と、玉庵は言った。「なぜ大蛇は娘ばかり襲うのであろうか。そして今度はおまえさんが執拗に狙われている。なにか心当たりはないか」
「大蛇がこの島に住み着いたのは、かれこれ一年前からです。はじめは内地の、妙景山という女人禁制の聖地から島へ渡ってきたという噂を聞きました。それ以来、大蛇はまるで無聊を慰めるかのように村へ攻めてきては、娘をかっさらっていくのです」と、草祢はしきりに山の方を見ながら言った。標的にされたうえ囮の身とはいえ、大蛇を恐れることすれ、どこか己の立場を客観視してるかのような冷静さを娘は持っていた。「さらわれたら最後、ほかの娘は戻ってくることはありませんでした。やはり人身御供のように食べられてしまったのでしょうか」
「……わからん。どんな理由があるにせよ、そのような悪行はやめさせねばならない。ご安心なさい。なんとか私が終わらせましょう」
「玉庵さまを信じております。どうかお力添えを」
やけに毒々しい赤い太陽が海のかなたに落ち、月明かりだけが頼りの暗闇が島を取り巻いた。
元来、玉庵も饒舌な人間ではないので、じきに話の接ぎ穂を失い、黙りがちになったとたん、寄せては返す波の音だけが耳障りになるほどこだますようになった。
草祢は立ちっぱなしの姿勢に疲れ、海側を向いて膝の裏に手をはさみこんでしゃがんでしまった。
玉庵はカマクラのなかでうずくまったまま、そんな娘の尻を見つめ、ひそかに欲情していた。
食事は摂らなかった。草祢はとてものどを通る心境ではないし、玉庵とて日ごろの精進の賜物か、泰然と膝を抱え、念仏を唱えていれば空腹を無視することができた。
夜半にさしかかったころ、丘の上から巨大ななにかが身体を引きずり、石くれが次々と転がるのを耳にした。
カマクラから身を乗り出し、丘を見あげた。
月明かりのもと、夜目に慣れていても、その巨体は判然としない。ただとてつもない長物であることはたしかだ。
「来たようです。起きてください、玉庵さま」
草祢は鋭く囁いた。さすがに怯え、思わず浜の方へ逃げ出しそうになるのを必死でこらえている。
「起きていますとも。大丈夫、どうかそのまま動かずにおきなさい。私から離れないように」
いったん外の様子を窺っていた玉庵はふたたびカマクラにおさまり、闇と同化した。
ようやく長物の正体があらわになった。
大蛇は太さが樹齢百年の杉の大木なみで、長さが五間(約九メートル)を誇る大物であった。
夜目にもあざやかな褐色の体表で、硬そうなうろこに覆われ、月光のもとテラテラと淫靡な光を放っていた。マムシよろしく、ひときわ細い尻尾を細かく振動させ、威嚇音を出していた。もっとも、この不吉な音は獲物を威嚇するというよりも、獲物に会えて昂奮している体であった。
囮である草祢のそばまで這いずってくるや否や、玉庵はすかさずカマクラから飛び出し、錫杖をかかげ、霊験あらたかな念仏を口にした。
大蛇は念仏の効果よりも、草祢以外に狼藉者がいたことにいたく動揺したらしく、もたげていた鎌首をピタリととめた。その頭は草祢の方を向いており、どんなふてぶてしい面構えをしているのか、計り知れない。
玉庵の渾身の叫びが静寂を破ると、同時に錫杖を蛇の胴体に打ちつけた。
大蛇の体表がたちまち稲光のごとき閃光がほとばしり、その巨体は単なる杖に打たれた以上に烈しく身悶えした。
「血迷うたか、邪悪なるものめが。娘を食うなかれ!」
と、玉庵の通った声が響き渡った。
苦悶に身をよじる大蛇の鎌首が、憎々しげに玉庵の方に向けられた。
てっきり三角形の形をした頭部をしているのかと思いきや、なんとその頭は人の顔をしていた。
それは玉庵そのものの顔をしていた。
4
「大蛇の顔が坊さん自身だったとは、なんとも身につまされるオチだな」と、梶原はカウンターに肩肘をついたまま言った。「たしかに伝説だけにとどめておくのはもったいないほど、迫真に満ちた話だ。因果律を知らしめる寓話として、もっと広く知れ渡るべきかもしれないね」
「ところがどっこい」髭のマスターは身を乗り出し、にんまりと唇を吊り上げた。「この話は玉庵神社に保管されてあった古文書『備中郷土奇談物語』に、ざっくりとした表現で記されていたのを、私がリアリティを加えただけの話なんですけどね。多少の脚色こそせよ、大筋はこんな内容なのですが」
「なんだ、マスターのアレンジが混じってたの。ぼくはてっきり……」
「それというもの、大正十一年に玉庵神社が放火にあい――当時、漁場をめぐって、漁師同士の派閥争いというか、内輪もめがあったらしく、その腹いせに誰かが火をつけたってもっぱらの見解です――神社を含め、周辺の漁師小屋は全焼。火は裏山の妙景山まで延焼し、三日三晩燃えたと記録にありますから、いかにこの争いが深刻だったか、推測できるというもの。で、神社が燃えた際、伝説を記した古文書と絵巻を含む、吉舎名町の郷土資料は地元の篤志家がどうにか運び出したのですが、一部焼失し、欠損した形になってしまったわけでして」
「本来ならばこの伝説には、まだ続きがあったってことか」
「ご名答。役場は観光客誘致にあたり――この伝説を前面に打ち出して祭りに仕立て上げたのは、実のところ平成元年あたりからでして――横尾じいさんら語り部を監修に、創作でもいいから結末の部分を補完できないものか依頼したのですが、さすがの横尾じいさんも地元愛からボランティアで語り部をしているとはいえ、畏れ多くも勝手に手を加えるのはいかがなものかと難色を示しましてね。まあ無理もありませんや。それでこんな形で締めくくらざるを得なくなったわけです」
「観光客にPRする名目に、時としてお上はえげつないことも考えるからな。もっとも、せっかくの食いつきいい話も、やや消化不良なのが玉に瑕だな」
「返す言葉もありません。なんとかこの不思議な話を完結できないものでしょうかね。なんでしたら、せっかくお客さんがこの町にいらしたのですから、ご自身の足で見てまわったらいかがです。なにかヒントになることがつかめるかもしれませんよ」
「おやおや……。どこの誰ともわからん人間に丸投げするってか。こいつは重責を押しつけられたな」
「そこをなんとかお願いしますよ」と、マスターは悪戯っぽい顔で懇願したが、すぐに、「……な、わけないですよね。好き好んで島の伝説を完成させるだなんて」
と、肩をすくめた。
二人のあいだにしばし沈黙が落ちたことを潮に、梶原は時計を見て、
「……ああ、残念だけど、そろそろ行かなきゃ。勘定よろしく」
「長居させてしまいましたね。こんなにしゃべったのは久しぶりです。大抵のお客さんはウンザリしてしまいますからね、この手の話は。とにかくご清聴ありがとうございます。お代は日替わり定食の八〇〇円だけでけっこうです。コーヒーはサービスってことで」
「お世辞抜きに興味深い話だったよ。こちらこそ礼を言う。ごちそうさん」
「どういたしまして。それでは、またのお越しを」
梶原はリュックを肩にかけると、店外へ出た。
むせ返るような湿気が全身にしなだれかかり、たちまち汗がふき出る。
五分と歩かないうちに、シャツの背中に丸い地図がにじんだ。
漁港に立ち並ぶ出店には浴衣姿があふれている。
それを尻目に、梶原は我関せずといった様子で離れて歩き、じきに繁華街をはずれ、裏道へとそれた。
マスターの話を思い出す。
そして舌の上で、残り味を転がすようにふたたび賞味する。
……高僧ともあろう者が、若い娘をひと目見るなり、いままで積み上げてきたものを瓦解させるほど欲情してしまうとは、まんざらあり得ない話でもあるまい。
なまじ禁欲生活を強いられていただけにその反動は大きく、たやすくタガをはずして肉欲を抱き、身分を考えて煩悶するどころか、己が色欲のおもむくまま突き抜けてしまった。
その淫らな邪念こそ大蛇そのものに、鏡面のごとく自身の姿を重ねた形でいったんは打ち切られたとはいえ、これには明らかに続きがあったはずであり、真の結末が隠されているはずである。
はたして玉庵は己の心の具現と対面し、どんな態度をとったのか、その後が気になる。
マスターに冗談半分持ちかけられたとおり、ここはひとつ、その続きをプロファイリングするのも悪くあるまい。
あいにく梶原の立場も、玉庵その人とよく似た境遇なのだから、これもなにかの縁であろう。もっとも、梶原自身は卑しい身分であったが。
奇しくもその土地で玉庵の精神に同調し、別れた妻、未央を追ってみるのだ。あらゆる手を尽くして未央の身元を調べ上げ、はるばるここまで追ってきたのだから。
5
そうと決まれば、梶原はその足で問題の無人島へ行ってみることにした。
吉舎名町の郊外まで来ると、集落と呼ぶのもおこがましいような数戸の民家と、うらぶれた墓地があり、簡素そのものの玉庵神社があった。
髭のマスター直伝の大蛇伝説の内容を、ざっくり説明した看板が手前にあるのが目を惹くだけで、神社自体からとりたてて得られるものはありそうになかった。
観光客の姿がちらほら見受けられたが、出店をつらねた漁港の賑わいには程遠い。
なぜ祭りのモチーフである英雄、玉庵を祀る神社が閑散としているのか、梶原には理解しかねた。
そこから沖合に扁平な形の、樹木がこんもりと生い茂った小島が侘しげに存在を示しているのが目にとまった。
折しも潮のあんばいがいいらしく、トンボロが起き、砂州を歩いて渡ることができるようだ。
おかしなものでこれも神社同様、大蛇退治の伝説を掲げて祭りを開催しているにもかかわらず、当の島には祭りの熱気が感じられなかった。
それでも当時の大蛇の受難時代に思いを馳せようと砂州を練り歩き、島へ渡っている数組のカップルがまばらにいた。
もっとも、男女たちは二人っきりの世界に浸りたいがために、あえて閑散とした場所を選んでいるにすぎないような風情であった。
あまりにも伝説と大人の事情の乖離ぐあいに、首を傾げずにはいられない。梶原は神社をあとにして、浜に向かった。
◆◆◆◆◆
トンボロでできた砂の回廊の感触を靴の裏で感じながら、梶原はひとり歩いた。
道の両側から穏やかな波が迫るが、道の方が盛り上がっているせいで圧迫感は感じられない。まさか満潮時には海で沈むとはにわかに信じ難い。これも自然が織りなす神秘か。
梶原は砂州を渡りきり、玉庵と草祢が大蛇を待ち伏せしたという海岸近くの磯を見てまわった。
これといった伝説を後世に伝える遺構のひとつとて見当たらなかった。
なだらかな丘をのぼり、山の頂を見た。
山といっても標高三〇メートルほど。
山頂まではこぎれいに整備された遊歩道がつづら折りになりながら続いており、観光客が先行している。
山頂に着くと、そこは芝生を敷きつめた広場となっており、海に眼を向ければ内地ではお目にかかれないパノラマが茫漠と広がっているとはいえ、いかんせん退屈な眺望にすぎず、十分もい続けていれば飽きがきた。
広場の北東側はブナの林で見通しが利かなかった。
踏み込んでみると、実は奥まっており、細い道が縷々と続いているようであった。
二分ばかり分け入ると、こじんまりとした白い鳥居が見えてきた。
またぞろ神社があるのかと思い鳥居をくぐると、その先は行き止まりで、石で囲まれた粗末な祠が鎮座しているのが見つかった。
その石の囲みには、風化浸食で荒削りに摩耗した小さな石仏が眼を閉じ、穏やかな笑みをたたえ、おさまっていた。
石仏には『玉庵』の文字は刻まれていないが、伝説のとおり、石のカマクラで待ち伏せした玉庵そのものにちがいあるまい。
あるいは玉庵による大蛇退治伝説は、はじめから神仏の化身として描かれたものが、人づてに伝播していくうちにこのような形で変遷したのかもしれない。
どうりでマスターの話を聞くにつけ、奇妙な違和感を憶えたはずだ。なぜ石のカマクラにすっぽりおさまったまま草祢と会話し、大蛇を待ちかまえていたか、これで合点がいく。
とはいえ、玉庵は海岸近くの磯で待ち伏せしていたはずなのに、山頂に祀るのはいかがなものか。
しかしながらしょせんは伝説は伝説にすぎず、多少の史実を含んでいたにせよ、観光地の事情により祠が設置されたのかもしれない。
梶原は祠の背後にまわってみた。
すると、藪に遮られてはいるものの、かろうじて下におりられる小道が見つかった。
木々の隙間から吉舎名町がぼんやりと見えた。依然トンボロが続いており、白い砂州がうねった形で内地までつながっているのが確認できた。
なにか閃くものがあり、梶原は下り道をたどってみることにした。
ひとたび藪のなかに足を踏み入れると、泳ぐようにかきわけ進軍した。
途中、巨大な二本の石柱が倒れかかり、まるで『人』の字のようにたがいにもたれ合って立ちふさがっているところに出くわした。
不安定な自然の造形美であり、なにやらシンボリックめいた佇まいだ。
梶原はとっさに思い出した。
この構図によく似た名所を写真で見たことがある。これはまさに沖縄県南城市の史跡・斎場御嶽のミニチュア版だ。
石柱の隙間はなんとかくぐり抜けられなくもない。
身体を横にし、すべり込ませ、じりじりと進んだ。
もっとも一メートルと行かないうちに隙間は狭まり、立ったまま進むのは困難になったので、仕方なくうずくまる姿勢で歩き、それでも頭がつかえるようになると、服が汚れるのをためらったが、匍匐前進よろしく腹這いになって進んだ。
ようやく石柱の間隙をくぐり抜けることができ、安堵したのもつかの間、乗り越えた先にまさか段差があったとは知らず、頭から滑落してしまった。
幸いにして滑った先がやわらかな雑草の茂みだったので、腰を痛め、肘とあごにかすり傷をつけただけで済んだ。
こんなところで頭を打ちつけ流血したぐらいなら、恐ろしいというより、他人に見られたら恥という思いが先に立つ。
傷みがひくまで這いながら丘をくだった。
腰を強打したせいで、両腕しか力が入らないうえ、体力の消耗が烈しく、何度も小休止を挟まねばならなかった。
そのうちコツをつかみ、身体をくねらせ、斜面を滑るにまかせて進むのが合理的であることがわかった。
木々が茂った斜面をくだりきると、鋭利な角が目立つ磯になったので、なんとか痛みもひいてきたことだし、梶原はようよう立ち上がった。
意識がかすみ、眼の前がぼやける思いがした。
怪我はまぬがれたものの、やはり頭を打ったせいもあるのかもしれない。
彼はその海岸近くに、ありし日の草祢の姿を見たような気がして眼をこらした。
同時に別れた妻、未央の幻影を重ねた。
見える。
まぎれもない、草祢と未央が佇む姿がダブって見えた。
……未央は梶原にとってもったいないぐらい、よくできた女であり、玉庵が草祢に一目惚れしたのと同様、見目麗しい美貌と肢体の持ち主であった。
結婚生活は天にも昇る気分だった。
しだいに梶原の束縛が過激になり、未央は辟易しはじめた。
梶原の地金が顔を見せると、彼女も奔放な面を覗かせるようになった。
仕事と称して出かけても帰りは深夜すぎになるのが増え、一週間家に寄りつかなくなるまで時間はかからなかった。
そうなると、加速度的に離婚への考えが傾いていくのも無理はなかったことだが、梶原は頑として首を縦にふらなかった。
行く先々に尾行し、待ち伏せし、執拗につきまとった。
未央は実家に帰り、裁判の初審理で接近禁止処分の警告をつきつけられた。
今後、彼女には半径一〇〇〇メートル以内に近づかないよう通達を受け、今日に至ったわけだ。
もしいま、あの磯に未央が佇んでいれば、力づくでも奪い返してみせる。
拒否しようがしまいが、丸呑みにしてやろうと思う。
未央がいたとしても、梶原の姿を認めるなり、まるで化け物に出くわしたかのような驚愕の表情を浮かべて逃げ出すにちがいない。
きっと未央ならまず島から逃げ出すはずだ。
隠れるには島はあまりに小さすぎた。
とすればあのトンボロを利用し、砂州を渡るにちがいない。
梶原はトンボロによって生じた砂の回廊を見た。
心なしか、島に上陸したときよりか、潮が満ちてきている。じきにこの神秘の回廊も封鎖される時間なのだろう。波さえも穏やかではなくなっている。白い波頭が砂州のへりに挑んで白く砕け、泡が覆いかぶさり、砂州そのものの形状が溶けつつある。
それでも未央なら危険を承知で逃げずにはいられないはず。
梶原も負けず、それを追うだろう。
と、そのとき、ひときわ高い波が南の沖からせり上がって向かってきたかと思うと、まるで巨人の掌のように逆巻きながら、砂州のなかほどを必死で走る女を押し包んでしまった。
波が砕け、砂州が壊され、あたり一面が潮が織りなす奇妙な紋様が広がったあと、ゆっくり波が凪いでいくと、女の姿はどこにも見当たらなかった。
――まさに大蛇の正体はこれだ、と梶原は確信した。
このトンボロ現象によって生じた長く蛇行する砂州こそが、大蛇に見立てられたにちがいない。
そして潮が満ちてきて高波が襲いかかり、人をさらっていったのは命を奪っていったのと同義ではないか。
これこそが大蛇の正体だ。
梶原は自身の導いた答えに、心胆寒からしめる思いにかられてうめき、同時に妻に執着しすぎた己の業の深さに、今さらながら気づき、吐き気を憶えるのであった。
了