七章
時を同じくして、現国王アルバート・フォン・アイゼンルートも進軍を開始していた。彼と同じように騎乗した精鋭が、周囲に目を光らせている。特に伏兵に警戒するようにと、アルバートが言ってあるからだが、その知恵は横にいるへインズからもたらされたものだった。
『あの少人数では、まっとうな方法で我らと戦うことなどできますまい。ならば警戒すべきは、総指揮官たる陛下を狙った奇襲かと。無論、それ以外の可能性も十分考慮しなければなりませんが』
斥候の情報によると、ルクラインの本隊はわずかに三百程度。ゴルディア・ハースロッドの支援があるとはいえ、それでも数千。万を超える王国軍の相手ができるとは、到底思えなかった。ならば、考えられるのは本陣強襲で大将首を取りに行く博打的な戦法。確かにその手ならば戦力差など関係なしに、勝利を収めることができる。
けれどそれによって得られるのは、あくまで局地的な勝利でしかない。アルバートにはルクラインを除いて二人の息子が残っており、長男は今も城に留まって隣国へ目を光らせているはずだ。
なので、仮にここでアルバートを奇襲で討ち取ったとして、この場では勝利を収めることができたとしても、必ず息子のどちらかに討ち取られることになるだろう。
奇襲がそう何度も成功する訳がなく、彼らの戦力では王国軍とまともに戦うのも難しい。
つまり、ルクラインが宣戦布告した時点で、彼らは進退窮まっていると言っても過言ではない。
ルクラインが愚かで、そのようなことまで頭が回らないというのなら、まだ理解できる。しかし、彼に学問を教えていたへインズは稀代の神童だと評している。
ならば、あの戦力で王国軍を打倒す算段があるということなのだろう。
その可能性としてアルバートがもっとも高いと見積もっているのが、他国へ協力を取り付けていることだった。
ルクラインが王になるという条件での戦争協力。その他国にとって、成功すればアイゼンルートに対して強い影響力を持つことになり、失敗してもアイゼンルート国内の動乱に付け込んでこの国を落としにいけばいい。
ルクラインの裏にいる国として考えられるのはダルーニアか、はたまた南部連合か。魔術師というつながりで考えればダルーニアの可能性が高いように思えるが、今までそうした搦め手を打ってこなかった彼らが、果たして裏で糸を引いているのか疑問が残る。
いずれにせよ、彼らが彼らだけで戦いを挑んできているとは考えにくいので、アルバートは周囲に敵国の影がないか、普段より多めに斥候を動員して警戒していた。
何しろ圧倒的な戦力差だ。多少王国軍側の戦力を本体から割いたところで、戦況が覆るようなものではない。ならばできる限り安全に、なおかつ迅速に、その物量と機動力をもって叩き潰すまでだ。
「先ほど帰ってきた物見によると、敵軍に動きは無いようですな」
アルバートの隣で馬に跨っているへインズが口を開いた。もうすでにかなりの高齢のはずだが、その姿には未だ老いは感じられない。若いころから騎士として数多の戦場を駆け抜けてきたへインズは、未だに現役として戦場に在った。
肉体的には低下した部分はあるが、剣捌きと、何よりその戦術眼は若かりし頃よりも磨きがかかっていると評するものもいる。
そんな彼をしても、今回の戦は不透明なものだった。
敵の大将であるルクライン。彼のことは、王国軍陣営では一番理解していると自負していた。
へインズの知る彼は、少なくとも無策でこのような戦を起こすような少年ではなかった。ならば、何がしかの勝機を見出しているということだろう。
へインズが警戒している内容も、アルバートのものとほぼ同じだった。
彼が提言した奇襲の可能性の他には、他国の介入の可能性。少なくともへインズの知識の中には、これだけの物量差を覆す方法は他に存在しなかった。
このハネット峠は地形的にあまりに平凡すぎて、地形を活用した特殊な攻撃、たとえば地すべりを引き起こすだとか近くの川を堰き止めて氾濫させるだとか、そういった方法には適さない。峠の頂上と裾野の高低差を利用した戦い方が精々だった。
だからこそ、この戦場では極端な戦力差は覆しようがない。戦力が多い方が勝つという当然の理から、誰も逃れることができないのだ。
へインズはだからといって、油断するような人物ではない。念のために部下に敵の陣地の様子を窺わせていたのだが、未だに敵陣には動きがないようだった。
「ならば、こちらから仕掛けるぞ」
「地の利を考えればこちらが不利ですが、よろしいのですか?」
一般的に、高低差のある地形では上の位置を取った方が有利だとされる。アイゼンルート建国の礎となった戦いを引くまでもなく、上から下へは攻撃しやすいがその逆は難しいという単純な理由からだ。
いくら戦力で勝っているからといって、わざわざ不利な戦を仕掛け、みだりに被害を増やす必要はない。
だが、アルバート側には早期に決着をつけなければならない理由があった。それは、他国の侵入に対する警戒だった。
数万の戦力をこの場所に投入したことで、アイゼンルートの防衛能力は大きく低下している。ルクラインだけならばここまでの戦力を持ち出す必要はなかったのだが、仮にも貴族の筆頭、ハースロッド家の当主がバックにいるとなれば油断などできない。
「問題ない。戦力ではこちらが上だ。スタリオン率いる騎兵隊を先鋒とし、敵の防御をこじ開けたうえで一気に殲滅する」
当然、有利な立ち位置にいる側が攻めてくる必要はない。ルクラインたちは防御を固め、大将首を落とせる隙を窺うものだと考えられた。
だが、大陸最強の騎兵の前では生半可な防御などは役に立たない。その騎兵の攻撃力を生かした短期決戦。それこそがアルバートの作戦であり、単純ゆえに効率的な方法だった。
「全軍突撃!我らが二人の王子の仇を取るのだ!」
「「「応!!」」」
アルバートの怒号にも似た掛け声に、兵たちも心から絞り出した声で答えた。末端の兵士に至るまでもが、あの二人の王子を尊敬し敬愛していたし、その仇を討ちたいという気持ちは皆同じだった。
ゆえに彼らはそのまま突き進んでしまったのだ。自分たちが何を相手にしようとしているのかも、理解しないままに。
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僕のいる場所からは、木々の隙間にこちらに突撃してきている騎兵隊の姿が、はっきりと見えていた。彼らはどうやら、地形の不利を承知で速やかにこちらを倒す算段らしい。
「それが可能と思っている時点で、能天気と言う他ないんだけどね。さて、僕らもそろそろ行こうか」
「りょーかいっすー」
「……了解」
対照的なナタリアとエミリアの姉妹を連れて、僕は歩き出した。行き先はもちろん敵陣の方……ではなく、先ほど僕が演説をした小高い場所だ。
他の部下達は、すでにこの峠のそこらじゅうに散開して待機している。ああ、もちろんアルは今も僕の傍に控えているよ。
今も背後では僕のことを仇として、殺そうとする万の害虫の群れが蠢いていることだろう。だが僕も、僕の部下たちの足取りもゆっくりとしたものだった。
今更焦る必要はない。もうすでに僕らの勝利は確定しているのだから。
「そういえば、ボスは戦いにいかないの?いっつもなら、喜んで敵陣に突っ込んでいきそうなのに」
そんな言葉を吐いたのは、ナタリアだった。相変わらず礼儀の欠片もない言葉づかいだが、それは今更のことだったし、彼女にはそうした言動を許していた。それは彼女に、いや“彼女たちに”それだけの価値があるからだった。これからの戦場をより楽しくしてくれるだろう価値が。もちろん、他の人間ならすぐさま八つ裂きにしている。
「ああ、僕も最初はそうしようかと思ったんだけど、ここから戦況の推移を眺めるのもなかなか風流じゃないかと思ってね。数万の軍勢が死滅していく様を、特等席から眺められるんだ。それだけの数だったら、血の匂いもここまで流れてくるだろうしね」
戦場の楽しみ方は一つじゃない。単純な刺激としては前線で殺しあうのが一番大きいだろうけど、離れた位置から俯瞰する戦場というのにも興味があった。それに、飽きたら前線に赴けばいい。そこらじゅうに敵がいるのだから、多少遅れて参加したところで、僕の分が残っていないということは無いだろう。
「それじゃあ、始めてくれ」
「りょーかい!」
「……はい」
同時に返事をして、瓜二つの姉妹は互いに向かい合った。こうしているとまるで鏡に映った像の様だ。そのまままったく同じ動作で、二人が懐から取り出したのは、鋭い短刀だった。黒塗りの柄の、極めてシンプルなデザイン。それを右手で握り、相手の左手へとゆっくりと突き刺した。
「痛っ!」
「……っ!」
そこまで深くはない傷口から、少しずつ流れる血を見て、僕は自分が興奮するのがわかった。けれど、今この感情を解き放つわけにはいかない。彼女たちは、これからも僕に素晴らしい戦場を提供してくれることになるんだ。こんなところで殺してしまうのは勿体ない。
その血が噴き出た左手で、短刀を握ると、同じように右手にも傷をつける。
両手から血を滴らせた彼女たちは、両手を合わせると、しがみつくかのように硬く結び合った。ちょうど傷口が合わさる形だ。
「さーいくよー!」
「……ええ」
「奴らの自慢が鋭い剣と」
「……優れた馬だと、いうのなら」
「まずはそれから奪ってあげよう!」
「……奴らの武器を、その誇りとともに奪い、貶めてやろう」
それは一種の誓いだった。今まで自分たちを迫害し続けてきた騎士たちを、今度は自分たちが蹂躙してやるという誓い。彼女たちの全てを奪いながら、高潔だのとのたまい、魔術師の犠牲を見て見ぬふりをしておきながら、この国の守護者を気取っている。
そんな奴らを這いつくばらせ、どちらが上かを思い知らせる。そのための言葉を、二人は紡ぎ始めた。
「「我ら魔力と祭壇に捧げられし贄を以て、第八の禁を侵す者なり!」」
「「表裏を覆し、理を冒涜し、この地に反転の法を敷かん!」」
放たれる言葉と、それに伴って上昇していく周囲の魔力の密度。それは、本来ならば人間が出しうる魔力の量を超えていたが、事前に行われていたある儀式が、その超人的な術式の発動を可能にする。
周囲の三つの小村の村人、老若男女あわせて百人近くの命を絶って行った、邪道の儀式が。
いや、邪道というのはあくまでそういう表現がなされているということでしかない。たとえ魔術師の世界で禁止されていることだとしても、僕らにとってそれを使わない理由になりはしない。
「「第八階層反転魔術、リバース・ワールド!!」」
そして、反転の呪文は唱え終わった。本来は彼女たちの周囲にしか効果を及ぼさないそれは儀式によって増幅され、このハネット峠を、そしてその裾野へと広がっていく。
それでも、人間の体に影響を及ぼすことはできない。それほどに、人間の体を魔術でいじるのは骨が折れる作業だということだ。けれど、人間ほど魔術に耐性を持たない動物たちは別だ。僕の視界のなかでも、“あるもの”が反転したことによって死んだ動物が、ばたばたと倒れ始めていた。木々もすぐに彩りを失い、死へと至っていく。
「これで、馬も剣も意味を失い、鎧すらその身を守る役割を果たせなくなった。騎士とは名ばかりの、ただの虫けらがたくさんでき上がったわけだ」
木々が傾き、ある程度開けた視界から、困惑している様子の敵兵が見えた。
彼らが取りうる選択肢は二つ。引くか、進むかだ。
「けれど、君たちは引けないんだろう?一合も打ち合わずに引くのは騎士の名誉に反するし、何よりこれは王族の敵討ちだ。僕の首を取らずにおめおめ逃げ帰るなんてことはできないよねぇ」
本来ならば、この魔術の影響範囲から逃れてしまえばいい話だ。そうして、こちらの魔力が切れるのを待てばいい。
だが、彼らは自分で作り上げた枷によって、逃げることなどできはしない。
彼らの生態は、ちゃんと観察していた。何しろ生まれてこの方、僕の傍にいたのは騎士の連中ばかりだ。
「さあ、楽しみだ。どれほど無様に、どれだけの虫が死に至るかな」
魔術の維持に集中する双子を尻目に、僕は高らかと笑い声をあげた。ああ、楽しみだ。
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ハネット峠の中腹、まだ若い将校が騎士たちを率いていた。彼は貧しい家の出だったが、その分他者より努力を重ね、こうして騎士に、それも数人の騎士を率いる立場にまでなっていた。彼をそこまで取り立ててくれたのが、今は亡きギルバート・アイゼンルートだった。
だから、彼の指揮にも気合が入っていた。卑怯な手段で殺された両王子は、下の者からの信頼も非常に厚い人物だった。一方で、ルクラインはまだ幼いこともあり、人望を集めるような行為をほとんどしていない。それ故に、復讐を望む感情は、階級の低い騎士や、末端の兵士にも共有されていた。
王と、スタリオン王子から先陣を任された彼は、峠の傾斜をものともせずに、進軍していた。木々の影響で視界は悪いが、目標はしっかり見えていた。
高低差で相手が有利な位置にあるというのなら、まずは全力でそれを奪い取る。そうすれば、あとは古の戦の再現だ。高所を取った騎兵の突進力を前にしては、いかなる兵士といえども無事では済まない。
ルクラインたちがどんなことをたくらんでいようと、それを真正面から打ち破れるだけの力があると、彼らは信じていた。
ゆえに、今この瞬間は多少の不利を背負ってでも、峠の頂上を目指していた。
「全員、注意を怠るなよ」
「「はっ!」」
すでに峠の中腹まで侵入している。どこに敵の罠があるかわからなかった。しかし、彼らは奇襲や、地形を利用したトラップに対しては最大限警戒していたが、この峠に入った時点で、自分たちがすでに死地にいるなどとは想像もしていなかっただろう。
「・・・・・・・・・」
無言のまま、騎士たちは馬を操り歩を進める。
「……待て」
青年将校が部隊を止めさせていた。彼の部下たちは、突然の命令にも瞬時に従い、その場で停止する。
青年の背筋には悪寒が走っていた。
まだ若いとはいえ、主に対ダルーニアにおいて数多の修羅場をくぐってきた歴戦の猛者だ。そんな彼が、思わず恐怖に立ちすくむような何かが、すぐそこまで迫っていた。
例えば、多数の伏兵に待ち構えられているような。あるいは、敵の魔術師の師団と距離がある状態で対峙した時のような。一歩間違えればそのまま死に至るような緊張感。
部下の中には、怪訝な表情で青年を見るものもいたが、戦場での経験が豊富な者ほど額に汗を浮かべ、周囲を警戒していた。
近くの茂みが、木陰が、敵の姿に見えて仕方がない。
それでも、冷静に周囲の敵を探していた彼らは、それでもその変化が下からくることには気づけなかった。
「な、いったいどうしたんだ!」
馬が鳴き声を上げる。慌てて手綱を引き締め、その場を離れようとするが、一頭も動こうとする馬はいなかった。
否、すでに動くことができなかったのだ。さっきまでその蹄鉄で踏みしめていた地面が、まるで溶けたかのように硬さを失い、液状化している。
動揺する馬をなだめようと、その体に手を伸ばした兵士は、さらなる違和感に気が付いた。
馬の皮膚が、鋼のように硬化していた。生物的な弾力性は一切なく。岩でも触っているかのような感触だ。さらに、その下からは血流が感じられず、熱も急速に失われつつあった。
彼らが何か手を尽くす間もなく、彼らの相棒である騎馬たちは全滅していた。
「くそ!一体どうなっている!?とにかく一旦下りて……」
その場でオブジェのようになってしまった馬から降りる兵士たち。とにかく後方の部隊に異常を連絡するために、後退しようとするが、液体化した地面に足を取られてまともに進むことができない。
「木に、木につかまって進むんだ!」
青年が指示を出し、部下たちがそれに答えた。各々近くの木につかまり、何とか進もうとする。だが、まるで朽ちているかのように、つかまった木はボロボロと崩れていく。
「あ、あれを!」
部下の一人が空を指差した。思わずその場の全員が、その方向を見上げ、視界に入ってきた光景に絶句した。
「人が……空を歩いてる?」
そうとしか表現しようがない光景だった。滑るように空中を歩いているのは、赤いローブ姿の集団。数はおよそ百人程度。手に大きな器のようなものを抱えている。
方々に散って行った彼らは、ほぼ同時に、上空でその器をひっくり返した。
中からは、何やら液体のようなものがこぼれ、地上へと降り注ぐ。
「っ!総員、木の陰に隠れろ――――」
我に返った青年将校は慌てて退避を命じるが、すべては遅すぎた。
その液体は、まるで鋭い刃物であるかのようにあっさりと木々を切り裂くと、そのまま無数の刃として兵士たちに襲いかかった。刃を通さないように、鍛え上げられた頑丈な鎧が、バターのようにあっさりと切り裂かれ、兵士たちの体に無数の穴を開けていく。
そんな光景が峠の一体で繰り広げられ、先鋒の騎兵隊は壊滅した。
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「反転の魔術をこれだけ大規模に展開すると、これほど一方的に蹂躙できるとはね」
眼下に広がる光景を眺めながら、僕はそう呟いた。反転魔術とは、文字通り事象を反転させる魔術だ。今回反転させたのは、“物の硬さ”。
硬いものは柔らかく、柔らかいものは硬く。ただそれだけの、単純と言えば単純な力だ。
けれど、ここまで広範囲に渡れば、その影響は計り知れない。
彼らの剣は、僕らの布製の服を切り裂くことすらできず。その鎧は、上から降らせた水すら防げない。ここ数日雨の降っていない地面は、まるで底なし沼のように沼化し、まともに歩くことができない。
人の体には影響は出てないけど、動物や植物はその影響を受けている。皮膚も肉も血管も石のように硬くなり、骨だけまるで液体であるかのようにどろどろに溶けている。
上空から液体を撒いていたのはシモンの率いる部隊だ。空間を操るシモンは、その力で宙に道を作って歩いていた。この地に敷かれた儀式の影響は、天高くまで届くからシモンは普段よりはるかに強力に魔術を行使できるが、双子の魔術の影響はそこまでは届かない。
彼らの持っている器から出た水は、普段通り落下し、双子の魔術の範囲内に入った瞬間に、その影響を受けてどんなものより硬い物質へと変わる。彼女らの魔術の影響下では、水より柔らかいものでないと防ぐことができないけど、そんなものは存在しないのだから、何を以てしても防ぐことはできない。
もっとも、それは物理的な手段に限った話で、魔術を用いれば回避する手段はいくらか存在する。
するんだけど、魔術を使うことを否定した彼らには、そんな手段はないも同然。
結果、なすすべもなく死んでいく騎士たちの姿が、僕の視界いっぱいに広がっていた。
この魔術の影響範囲は峠一帯で、王国軍は早くも半壊している。流石に影響範囲の外にいる兵はその場にとどまっているようだけど、僕ら魔術師と違って、騎士はこんなに離れた場所から攻撃する手段を持たない。
復讐だなんだと言ってた彼らも、流石にこの状況で突っ込んでは来ないだろう。魔術の発動を止めるもっとも簡単な方法は術者を殺すことだけど、そのためにはナタリアたちに近づく必要があるわけで、それはつまりこの魔境の深くまで進軍しないといけないということだ。
まあ、未だに突撃を提案してそうな馬鹿は一人思い浮かぶけれど、僕の父親はそこまで馬鹿ではないだろう。
「そんなわけで、そろそろ二手目を打つとしようかな」
一手目にしてすでにキングに手がかかっているけど、ここで手を緩める理由もない。
剣だけじゃ劇的な逆転なんてできないだろうけど、馬鹿は何をやるかわからないから馬鹿なんだ。
「さあ、お披露目だよ。僕の下僕にして右腕。最強の魔術師。アルフシュテインの名を存分に世界に刻んでくるといい」
もっとも、今回の相手は彼女にとってあまりに格下だ。
精々血の数滴しか、流すことにはならないだろうけれど。
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「イエス、マイマスター」
そう口にして跪くのは、一人の少女だった。
彼女の行動にぎょっとした様子で、ローブ姿の少年少女が立ち止まった。全員彼女の仲間であり、同じ主に仕える者たちだった。そんな少年たちの目にも、彼女の行動は突飛に映った。
彼女が口にした彼女のマスターは、そもそもこの場に居らず、今の状況も状況だった。
アルの率いる部隊は、峠の頂に留まる双子や宙を闊歩するシモンの部隊とは違って、地上を歩いて進軍していた。
シモンのように騎士の攻撃できない位置にいるわけでもなく、双子の作り出す逆転した法理の守護を受けるわけでもなく。
たったの百人前後で、王国軍の本隊と対峙していた。
正気の沙汰ではない。いくら魔術師の部隊と言えども、よほどのことがなければこの戦力差を覆すことなど敵わない。そして、この位置取りは、奇襲や罠その他の搦め手を一切放棄しており、その“よほどのこと”すら起こりそうになかった。
一切の遮蔽物なしに、峠を降りた平地に対峙する騎士と魔術師。その光景を見た誰もが、一瞬ののちに蹂躙されている魔術師たちの姿を想像するだろう。
それは魔術師の少年たちにとっても同じことだった。安全な位置から一歩的に攻撃している他の部隊と違って、その場にいる彼らは、唯一命を危険に晒している。その上、彼らに任せられた役割はあくまで護衛。アルフシュテインという一人の少女の身を守ることだけを任されていた。
それでどうにかなるような戦場とは到底思えない。先制して、今から攻撃を仕掛ければまだ勝機はあるのかもしれないが、それすら許可されていない。
彼らは魔術の強大さを理解しているが、それと同じぐらいそれが万能の力ではないことを理解していた。空を飛ぶことができるかもしれない。世界を少し捻じ曲げることができるかもしれない。自分の体を作り変えることも、魔術であれば可能だ。だが、目の前のあまりに大きな戦力差を、それもたった一人の魔法で覆すようなことは、どうあがいても不可能なのだ。
それが可能なのは、神だとか悪魔だとか呼ばれる連中だけであり、人の身には可能性の欠片もない。
だが、彼らにそもそも選択肢などなかった。彼らの主、ルクラインと言う名の幼き王は、味方である時はこの上なく頼もしいが、敵対してしまえばあまりにも恐ろしい。
あの人物の機嫌を損ねるぐらいなら、死地に飛び込んだ方がまだマシだ。なぜなら、そこでは死ぬだけで済む。ルクラインの機嫌を損ねてしまえば、それより遥かに苦しい思いをすることになる。
痛みと恐怖と絶望にもがきながら、早く殺してくれと懇願し、それすら許されずにおもちゃにされる人間を、何度も見てきていた。
そんな暴君が、唯一信頼らしきものを寄せているのが、この部隊を率いるアルフシュテイン、通称アルという少女だった。
だからその部隊の少年たちも、彼女の力を疑っている訳ではない。ルクラインが無能に関心を寄せるとは思えないからだ。
だが、彼ら彼女らは、人の身を超えた力というものを今まで見たことがなかった。
魔術の扱えない者から見たら、彼らの魔術も人外の技に思えるだろう。だがそれは、他人よりほんの少し大きな力でしかない。こうして集まらなければ、剣術の腕を磨いた騎士に虐げられるような代物だ。
逃げることは許されず、彼らの常識ではこの戦況を覆す術は存在せず。
間違いなく、この戦場で最も絶望的な思いをしているのは彼らだっただろう。その筆頭だった先発隊の騎士たちはすでに息絶えているのだから。
(とはいえ、私もそんなに余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)、という訳にはいきませんが)
そんな中、比較的冷静なのは当のアルだった。沈んだ表情の仲間たちを尻目に、そんな思考をする余裕が存在している。
彼女の懸念はただ一つ、実際に魔術を行使した経験がほとんどないということだけだった。彼女の魔術はあまりに強大で、練習のためであろうと容易く行使する訳にはいかない。それは、刹那主義的な彼女の主ですら魔術の行使を許可しなかった、というところからもうかがえるだろう。その主は、
『とはいえ、いつかは使わなければいけないからね。練習には絶好の機会だろう?もし失敗しても、対処できるようにしてあるから心配しないでいいよ。まあ、いくらか犠牲は出るだろうけど、それは君が気にすることじゃないさ』
と言っていた。一部の者を除いて、あの暴君がそのような優しい言葉をかけることは無いだろう。
それだけ、彼女がルクラインに気に入られているということだろう。いや、正しい意味で気に入られているのは、今のところアルだけと言っても過言ではない。
エミリアとナタリアの姉妹や、シモンですら、あくまでも玩具として気に入られている状態に過ぎない。見捨てなければいけない場面ならば一切のためらいなく見捨てるだろうし、もがき苦しむさまを笑顔で鑑賞すらするだろう。そもそも、そこまで含めて、“破滅する姿を近くで見たい”ということまで含めて気に入っているのだ。
だが、アルだけは事情が異なる。ルクラインにとって最初の手駒であり、最大の手駒だ。
流石に自分の命を懸けてまで守るようなことはありえないが、多少の傷ぐらいなら許容するだろう。
普通の人間ならば、大切な者を守るのに、傷ぐらい簡単に許容するだろう。あるいは自分の命を懸ける人間もいるかもしれない。
だが、ルクラインに限っては、それは本来ありえないのだ。
肥大化した自己愛の塊。自分の嗜虐的な感情を満たす為ならば、平然と何千何万という人間を殺してみせる。彼にとっては他人の命など路傍の石以下の価値しか持たない。あるいは、そんな自分と同じような価値観の人間に出会うために、彼は戦場を好むのかもしれない。
そこでは人間はただの数字だ。何人殺した、何人死んだ。それだけがすべてであり、絶対の価値観だ。もっとも、大半の人間にとっては、そうならざるを得ないというだけであり、自分からその価値観に向かって突き進んでいるルクラインの同類などそう簡単にいるわけがないのだが。
もっと倫理観の進んだ未来ならばともかく、今の戦場とはそんな場所だ。
その地獄に嬉々として飛び込み、辺りを赤く染め上げる血の暴君。
そんな彼に、心からの忠誠を誓っている、奇特な少女こそがアルだった。
命を救われ、人生を救われ。アルフシュテインという存在そのものを救われた。そもそも、名前すらなかった彼女にその名を与えたのもルクラインだ。
(だから私は、私の全霊を以て主の期待に応えるのみ)
彼にすべてを救われたのだから、私の全ては彼のものだ。そう、心の中でつぶやく。
たとえ周りの者がなんと言おうと、彼女にとってそれがすべてなのだ。ルクラインの価値観が自分がすべてと言うものだというのなら、アルの価値観はルクラインがすべてだ。
彼が白と言えば黒いものだろうが青いものだろうが白であり、そこに疑問を挟む余地など存在しない。
故に。
アルフシュテインは、自分の懐から小ぶりな短刀を取り出すと、一切の躊躇なく自分の手の甲に突き立てた。
「な、なにをなさっているんですか!?」
「突然何を・・・?」
唐突な自傷行為に、周囲の魔術師たちが止めにかかる。
止めているものの中に、彼女のことを純粋に心配している者は皆無だろう。
この傷の責任を、一切関係ないにも関わらず取らされることになるのを恐れる感情と、もしも彼女が狂ってしまったのならば、今まさに動き出した騎士の群れに対する術がないことへの心配。
要するに、“死にたくない”という単純にして生き物にとって最も強い感情だった。
だが、それは当然の感情だ。彼らに限らず、また魔術師に限らず、多くの人は自分の命こそが一番大事だ。赤の他人などこの世に何億といるが、自分はたったの一人しかいないのだから。命を危険に晒してでも自分の快楽を優先するルクラインや、他人のために平然と命を投げ出せるアル。そして名誉のためならば命を投げ出すことも厭わな騎士たちの方が少数派なのだ。
アルは外野の声に一切耳を貸さず、自分の傷跡に意識を集中させる。
そこから流れ出る血に、そしてそれのもとの姿を深く思い描く。
魔力はほんの一握りの人間しか認識できず、それ故に魔術師の数は少ない。魔力を認識できなければ魔術を行使することなどできないからだ。
だが、その認識はひどく曖昧で、はっきりとした何かが見えているわけではない。
そこからさらに一握り。ごく限られたものだけが、魔力のなんたるかを認識することができる。色がついているように見えるものもいれば、形を持っているように見えるものもいる。その見え方は様々だが、より深く魔術を理解し、より大きな魔術を行使できるのは確かだ。俗に大魔術師、あるいは魔導師などと呼ばれる者たちだが、彼らですら世界の深淵を覗くにはあまりに程度が低い。
おおよそすべての魔術師は魔術を行使する際に、体から漏れ出た魔力と、空気中に拡散する濃度の薄い魔力を混合して使用している。それでも十分すぎるほどの出力を持つ力だが、果たしてその魔力はどこからきているのだろうか?
答えは簡単だ。そもそも人の体は魔力でできている。いや、人体だけでなく、木も石も。水も、空気でさえ魔力という根源たる存在が、固定化されたものでしかない。
そこからわずかに漏れ出た魔力こそ、すべての魔術師が魔術を使う際に利用しているものなのだ。
ならば、もし仮に固定化された状態の魔力を認識できるものがいるとすれば?魔術とは意思によって魔力をコントロールする技だ。認識できるのならば意思を向けることもできる。そして、意思を向けることができるのならば、その魔力を使うこともできるだろう。
だが、どんなものでも魔力にできるわけではなく、一番意思を通しやすい自分の体しか使うことはできないのだが。
それ故にその魔術は代償魔術と呼ばれる。
儀式魔術とはまた別物だ。あれは人の命を犠牲に、その命から漏れ出たわずかな魔力を利用しているに過ぎない。
だが、代償魔術は、自分の肉体の一部を失う代わりに、それを丸ごと魔力に変換できる。発動方法が異なるだけで、魔術は魔術だ。それによって引き起こされる事象は、一般的な魔術のそれと変わりない。
だが、規模と出力が段違いだ。たとえば、歴史上に存在した炎を操る代償魔術の使い手は、自身の体を丸ごと魔力に変換することで、国三つを跡形もなく消し去って見せた。
それだけ規格外の存在であり、それだけ希少な存在でもある。
だから、多くの者はその存在を見たことがなく、おとぎ話と断じるものすらいるほどだ。先の国三つを消し飛ばした話など、まさしくその筆頭。
故に、敵はおろか味方ですらその可能性など微塵も頭に浮かばず。
ただでさえ魔術を見下している王国軍の者たちに、想定などできるはずがなく。
いや、そもそも。想定していたところでどうにかなるようなものですらなく。
「我は――――――」
押し寄せる敵の群れを遠くに見ながら、アルフシュテインという名の代償魔術師が産声を上げた。
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「そん、な。一体、一体何が・・・・?」
遠くに広がる想定外の光景に、呆然と立ちすくむのは、アイゼンルート王国の重鎮へインズ・ハイマン。
その隣にいる国王アルバートも、へインズと同様の感情を抱いていた。
動揺、驚愕。そして恐怖。
時はアルフシュテインの自傷行為よりも少し前。峠へ先発隊を派遣してしばらく経ったときのことだった。
高低差があり、木々の生い茂る地形は騎兵にとってはむしろ不利な場面だった。だが、彼らには時間がない。他国の介入を許す前に、一刻も早く決着をつけねばならない。
この騒乱を最小限の被害で鎮圧する。それがアルバートたちにとっての目標であり、そのためには騎兵隊の出撃もやむなしという判断だった。
最悪犠牲になるかも知れない。だが、敵情を知らないまま突撃するのは危険が大きすぎる。だからと言って、歩兵では索敵に時間がかかりすぎる。
派遣される兵たちも、自分たちが死地に飛び込まされることはわかっていた。わかっていて肯定した。
仲間たちと、何より愛する国民の命を守るためならば、捨てても惜しくはないと、そう考えていた。
それこそが騎士の道。民衆を守る盾となることこそが彼らの本懐。
だからと言って、捨て駒扱いという訳ではない。いざという時にはアルバートたちが救出に当たれるようになっていたし、その後ろにはスタリオンが控えている。それに、そもそもが大陸最強の騎兵隊。彼らだけで決着がつく可能性も十分にあった。
彼らが峠に入った直後、アルバートと先発隊のちょうど中間地点に、何の予兆もなく敵方の魔術師の集団が存在していた。おそらくは先ほどルクラインが見せた転移魔術の類。
その正体を見破る必要はない。辺りは遮蔽物一つない平地なのだ。騎兵の突撃力をもって粉砕すればいい。そう判断して、アルバートは先発隊に反転の指示を出そうとした。
いくら数は少なく、こちらに有利なフィールドにおびき出しているとはいえ、魔術師は魔術師だ。
彼はその価値を認めてはいないが、敵にしたときにどれほどめんどくさい存在かは理解していた。なぜなら、今まで何百年と敵対関係のダルーニアが、魔術の国であるからだ。
ルクラインならば『戦場で“めんどくさい存在”というのが、どれほど戦況に影響するかわかっていないからその程度なんだ』と酷評しているだろうが、このアイゼンルートという国においては、魔術の脅威を比較的正しく認識している方だった。
だからこそ最速で、叩き潰そうとしたのだが。
次の瞬間、突如として動かなくなる騎兵隊の姿が木々の隙間から見えた。直後空を闊歩するローブの軍団。彼らが振りまいた液体は、樹木ごと騎士たちを串刺しにしていく。
「そん、な」
誰もが息をのみ、それしかできなかった。撤退を指示する暇すらなく、気が付いた時には先発隊は全滅していた。
そして現在に至る。
「―――総員、戦闘準備!呆けている場合ではないっ!今すぐに眼前の魔術師を内倒し、そのまま峠を制圧するぞ!」
いち早く立ち直ったのは、国王アルバートだった。一体どんな魔術か皆目見当はつかないが、奴らに時間を与えては、二発目の用意を許すことになる。幸い先ほどの魔術はこちらまで届いていないようだったが、次の攻撃もそうとは限らない。
王の声に我に返った兵士、騎士たちはすぐさま体制を建て直し、進軍を開始した。
その瞳に宿るのは、怒りと憎悪。大地を踏みしめ、仲間の仇討に燃えた万の軍勢が、最強と謳われた精強な騎兵隊が、土煙とともに疾走した。