世界は盲目に
もやもやしてください。
「世界が滅亡するなら、僕はその前に死にたい」
薄い携帯の画面を見つめながら呟いた。声はいつもみたいに何でもないような、少し皮肉を孕んだ声で。ならばその瞳だって微かに微笑って、何処か厭世家みたいなそれだろうと視線を投げたけれど、生憎切るのを面倒がって、すっかり散らかった癖のある前髪と、陽光の眩しさに隠されてしまった。煤けた赤のハードカバーの本に目を戻す。内容は少しも頭に入りはしないのにページを捲る。白い部屋に、午後の光が差し込んでいる。柔い白に満たされた部屋で、はじまりの時を思った。彼が頭の中で滅亡させている、その世界の始まりは、こんなに綺麗でやさしくて、あたたかかったのだろうか。はじまり。さっきの言葉とは、まるで正反対だ。「なあに、また終末の予言論?」ノストラダムスの予言は外れた。数年前に滅ぶはずだった世界も、まだ当たり前のように回り続けている。彼の真意はわからない。わからないから、当たり障りの無い言葉を投げる。いつだって少し遠い世界を、彼は生きているようだ。身体はここに、あるのに。いいや、と彼は曖昧に首を振る。当分世界は、回り続けるらしい。ならばこれは、“もしも”の話だ。掴めない話の中に紛れた温い皮肉の1つでも、退屈凌ぎに探してみようと、淡い色合いのカップにコーヒーを淹れる。ふたつ並んだ円に、褐色の液体が揺れて、静かに湯気を吐いた。彼はまだ淡々とした表情で、画面を見つめている、ように見えた。
「なら、また随分唐突な話だね」陶器と木材の触れ合う軽い音がして、また褐色の水面が小さく波紋を立てた。「確証も理論もないんでしょう?珍しいね、君にしては」言いながら関心の低さを装っている。
「けど、存外ありえなくもないだろ」低いトーンのままの声をコーヒーで濡らして言う。「たとえば。明日世界が滅亡するって言われたら、僕はその前に死ぬよ」
「どうせ数時間で皆死ぬのに、ひとりで?」
「全地球民が泣き喚き祈り乞いながら死んでいくのを黙って見てるほど悪趣味じゃない」たぶん無意識に、左の耳に触れている。考えている時の彼の癖だ。「それに、そんなありえない不条理に巻き込まれて死にたくないだろ」らしくないな、と僅かに笑ってやる。理想主義か、或いはロマンチストなのか。さみしい、そんなのは。
「やだな、私はその明日を待つよ。終末を素直に信じて死ねるほど往生際のいい人間じゃない」カップに口を付ける。いつもより少し甘ったるいような気がした。「第一、それで明後日が何食わぬ顔でやって来たとして、そうしたら唯の無駄死にだよ」そんなの、やだろ。せめてその瞬間まで、夜明けを信じようとするのは、甘いのだろうか。「ひとりで死ぬのは寂しいでしょう、ひとりじゃないなら、皆等しく、誰ひとり残らないなら諦めはつくけれど」
「私はひとりで死ぬのだけは、やだよ」
「ひとりでも、寂しくてもいいよ、僕はそれでも構わない。ただ、」
「ただ、壊されてなす術もなく死ぬよりは。幸せな世界を最後に焼き付けて死にたいだけ。幸せだと思ってるうちに、さ」カップは空になっていた。
長い静寂を噛んで、そのうちに本は最後を迎えていた。文字を唯辿っていただけだから、当然内容は覚えてなんかいない。本を閉じて視線を泳がせると、まだ彼は薄い携帯の画面を見つめている。何を考えて何を見ているのか、わかるわけもない。戯言と静寂に食いつぶされた時間を示すように、白い部屋に斜陽が満ちていた。息を飲むほどの赤が、部屋を染めていた。ああ、まるで。世界が終わるときは、こんな色を見るのだろうか。 奪われたように目を離せないのは、その色を形容する言葉が見つからなかったからだ。「こわいんだよ」と彼は言った。小さな声に、知らない彼を見た。戯言に紛れていたのは、中途半端に温い皮肉じゃなくて、確かに彼の本心だったのだ。彼はちゃんと、同じ世界に生きている。それでも掌が完全に触れ合うには、少し遠いけれど。
空になって、熱も失ったカップをふたつ、持って彼は不意に立ち上がった。流しに向かう背中が、影みたいに黒く滲んで見えた。赤と黒。あの柔い白とは、まるで違う。少しだけ、少しだけその色に惹かれてしまって、ーそんな、気がして、後ろ姿に声を投げた。重たい言葉。なぜか微かに、背伸びをした気分になった。
「じゃあ、もし、」たとえば。たとえばの話、君に、
「死にたいって言ったら?」
「世界を壊してやる」
水を流す音に紛れるように、振り向きもしないで平然と言い放ってみせた。こみ上げてくる笑いをどうすることもできないから、そのまま吐き出す。ああなんて、なんて勝手なんだろう。もし自惚れることが許されるなら、なんて盲目的なんだろう。或いはいっそ、馬鹿だと思う。これじゃあ、まるで、
――しんじゅう、だ。
ひとりで死にたくない[私]のために、彼は世界を壊す。世界が終わる前に、彼は死ぬと言う。=?
お久しぶりです。樫居です。クサい話を書きました。書きたかったものを殴り書きました。誤字脱字、超展開、雰囲気文については、どうかご容赦ください。Twitterは@KK_pxs