アルーシャ・シャーロットの前世
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小さい頃から、夕葵には嫌いなものが多くあった。中でも一番嫌な顔をするのは、プールの時間だった。
「お姉ちゃん、またプール入らないの?」
彼女の妹である絵里が、水着道具を軽く振りながら言うのが耳に入る。
「今日暑いから気持ちいいと思うよ?」
「なんでわざわざ好き好んで、他人の汗汁に入らないといけないのよ」
玄関が開き、そこに呼び出し音を鳴らそうとする俺が立っているのを見て、嫌な顔をするこの幼馴染。俺の横をスタスタと通り過ぎ、通学路を歩くこいつを絵里ちゃんへの挨拶もそこそこに俺は慌てて追いかけた。
「なんでプール入らねぇの?」
「盗み聞きなんていい趣味ね」
俺の問いには答えてくれず、そして絵里ちゃんから渡されたプール道具もいつものように無駄になるのだった。俺はこのとき、彼女は極度の潔癖症なだけなのだと思っていた。近くの湖で発狂した彼女を見つけるまでは。
「いやああああああ!!」
彼女の傍らには今朝から行方知らずとなっていた絵里ちゃんが倒れていた。俺は無理やり夕葵を引きずる彼女の父親に、思いっきり体当たりをした。
「もうすぐ大人がここに来る! お前、夕葵たちに会うこと禁じられてるんだろ! 警察呼ぶぞ!」
俺のでまかせに慌てて逃げ出す父親を一瞥し、俺は慌てて水に尻もちをついている夕葵を立ち上がらせようとした。しかし、
「いや!? 触らないで!!」
俺に怯える夕葵に、出した手を思わず引いてしまう。見れば、顔は真っ青で体中が震えていた。俺は戸惑いながらも声をかけようとした。しかし、
「いや…いや…苦しい…息ができない……水はいや……痛い……怖いよ……助けて……」
ガタガタと奥歯を鳴らし、彼女はそう何度も呟く。俺は不意に、彼女が今の祖父母に住むようになったことを思い出した。警察が乗り込んだとき、彼女は浴室で父親に髪を掴まれ、溺れる手前だった。絵里ちゃんは浴室の手前で頭から血を流して倒れており、その身体からは高い熱を発していたのだと。その時、父親は取り乱した様子で警察にわけの分からないことを叫んでいたそうだ。
「もう少しで母親に会わせてあげられた。絵里を救えたのに」
と。不意に夕葵が身体を震わせ、取り乱したように湖の奥へと走り出した。俺は慌ててそれを追う。だが、何度も掴もうとするその手は夕葵には届かない。
「苦しい…息ができない……お母さん」
夕葵の母親は、突然行方知らずになった。絵里ちゃんが生まれて1年後の話だ。絵里ちゃんは体調を崩すことが多く、寝られない日が続いたようだ。育児ストレスだと周りは言った。父親がおかしなったのもそのときからだ。昔は凄い人だったのにと母さんは俺に漏らしていたのを覚えている。
「……夕葵!!」
俺はやっと掴んだ彼女の腕を思いっきりこちらへ引き寄せた。ようやく夕葵の足が止まった頃には、水が俺の腹まであった。夕葵は最後に一言お母さんと呟いた。
「夕葵、戻ろう。絵里ちゃんが心配だ」
絵里ちゃんの名を出すと、ピクッと反応する夕葵。ゆっくり振り向くその目には落ち着きが戻りつつあった。彼女は俺の名を呟き、そして頷いた。
「……ごめん」
手を引きながら岸へと戻ると、弱弱しい声が聞こえる。それはいつもの彼女からは考えられないような声で、俺は唇を噛んだ。
「…なんでお前が謝るんだよ」
「だって…困るでしょ? 明日からどうしようか考えてるんでしょ? …別にいいよ。あんたはやけにこだわってるけど、あんなの別に子供の口約束…だし…」
約束。それは<嘘をつかない>という針2千本の約束。俺は必死でそれを守ってきたが、こいつは俺の気持ちなんて考えずに簡単に言えるのだ。俺はそんなことを言う夕葵に腹がたち、振り返った。
「ふざけんな!! 俺は嘘はつかねぇよ! 大体お前は……」
そこまで言いかけ俺は言葉を失った。振り返って怒鳴る俺をこいつは驚いたように見つめ、そしてその両目からポロポロと涙が零れたのだ。俺は慌てて弁明した。よく考えれば、今まで取り乱していた相手に、大声で自分の感情をぶつけてしまうのはあまりにも良くない。ただでさえ、トラウマがフラッシュバックした後だというのに…。ごめんと何度も頭を下げる俺に、クスッと笑う声が頭上で聞こえた。
「…そうね。あんたは…昔からもうどうしようもない馬鹿だった」
顔を上げると、泣きながら笑う夕葵の姿があった。俺は思わず彼女の両手を握りしめた。あまりにも儚い彼女が、両の目から零れる涙のせいで湖に溶けてしまう…そんな気がした。そして、俺はこのときから分かっていたのかもしれない。
俺が夕葵の隣にいられるのはあと僅かだということに。
☆☆
「いやああああああ!!」
私は突然聞こえた悲鳴に飛び起きた。近くに人のいる部屋で、思い浮かぶのはアルの部屋だった。私がここに来てから、アルの悲鳴で起きるのはこれでもう三度目のこと。私はそっとその部屋の様子を窺った。アルの使用人たちが慌しい動きをし始めるのが分かり、私はたまらず部屋を飛び出した。
「お嬢様! …お嬢様! 私の声が聞こえますか!?」
アルの部屋の扉は開いており、彼女の母親と祖母がすでにいた。エリと呼ばれる使用人が取り乱すアルの肩を掴み、軽く揺らす。アルは虚ろな目でエリを見て、そしてさらに取り乱した。
「絵里…ごめん、ごめんなさい! …私が…私のせいで……絵里ぃ…」
涙が頬を伝い、何度も謝るアル。普段の彼女からは考えられないほどの取り乱し振り。やはりあのとき何かあったのだ。私はアルの今にも死んでしまいそうな顔色に血の気が引いていくのが分かった。
「アントワーヌ様。夜更けに起こしてしまい、誠に申し訳ありません」
私に気づいたアルの母親が私に頭を下げた。綺麗な青色の髪がサラッと彼女の憂う顔にかかり、私は思わず言葉を返した。
「いえ。私が部屋を近くにしてくださいと頼んだのですから、お気になさらないで。それよりも…アルーシャ様のご様子はいかがなのですか?」
私のうろたえた様子に、大丈夫だといわんばかりに笑みを浮かべるアルのお母さん。だけど、それは無理やり作った笑顔のように思え、私の心はさらに不安で陰った。
「アントワーヌ様のお心遣い、感謝いたします。しかし、もう夜も更けておりますので、お休みくださいませ。お部屋までお送りいたしますわ」
アルから目を離せない私だったが、彼女の笑みに負け部屋を後にした。部屋を出て、角の影に入ったとき、誰かがアルの部屋に入るのが分かった。それはつい先日会ったばかりの人物であり、ここにいるはずない人物だった。
「…ルドルフ・シャーロット様?」
私は隣にいるアルのお母さんを見た。確か、アルの両親は喧嘩中のはず。彼に会わないように、私を連れ部屋を出たのか。しかし、アルのお母さんの顔はキュッと唇を結び、心配そうな目線を向けている。
「アルーシャ」
ルドルフの姿を見ると、エリとアルの祖母は脇へと避ける。抑える二人がいなくなり、顔に爪を立て始めるアル。ルドルフはベッドの端に腰掛け、アルにそっと声をかける。
「アルーシャ・シャーロット。お前の名だ。分かるか?」
ピタッと動きが止まるアル。ゆっくりと顔を上げ、ルドルフを見た。震える唇が動く。
「……私は…アルーシャ…」
「そうだ、アルーシャ。お前の名だ。私は誰か分かるか?」
淡々と…しかし優しく彼はアルに尋ねた。
「…私の……お父さん…?」
「ああ、そうだ。私はお前の父、ルドルフ・シャーロットだ。ほら、もう安心だ」
乱れている髪を整えるように、彼はそっと彼女の頭を撫でる。アルの荒げる息が少しずつ落ち着いていく。
「…本当に…私の…お父さん?」
まだ混乱しているのだろう。そう尋ねるアルに、ルドルフは頷いた。
「ああ。お前の父親だ」
「私の…お父さん……私を叩くよ?」
「私はお前を叩いたことなんてないだろう?」
「私の髪を掴んで、無理やりお風呂に入らせたりもしたよ?」
「お前は溜めた水が苦手だから、うちでは浴槽自体ないだろう?」
私はそのやり取りを聞いて、胸が締め付けられる思いがした。これは、アルの前世の記憶がそう言わせているのだろう。あの気丈な彼女からは考えられないことだった。二人のやり取りはまだ続いていく。
「だって、お母さんに会えるからって、私を浴槽に沈めたでしょ?」
「そんなことせずとも、お前は会いたいときに会えるだろう?」
視界の端でアルのお母さんが不意に自分の腕を掴んだ。唇が真一文字に結ばれ、二人の様子を見守る様子に私は心が痛んだ。
「お母さん、私たちを置いて出て行ったよ?」
「お前の母親は、お前を置いて行ったりなどしないさ。お前がどこにいても、いつもお前のそばに来るだろう?」
「…絵里だって、私を置いて行ったよ?」
「エリもここにいるだろう? 誰もお前を置き去りになんてしないさ」
エリの方を向いて、やっと安堵する顔を見せるアル。そして、ルドルフの顔を見て、聞き慣れない名前を口にした。
「……修平も? あいつも…そばにいてくれるかな?」
「ああ。今まで約束を守ってくれたのだろう? お前を見捨てたりなんてしないさ。その子に会ったら一緒にお礼を言おう」
「……うん…」
泣きはらした目で笑う彼女の顔にそっと手を添えるルドルフ。すると、彼女が爪を立て血が滲んでいた傷が次々に消えていった。
「…いつも…素直になれないから…。本当はね…すごく感謝してるんだよ…」
「ああ、彼もきっと分かっているよ。さぁ、もう眠りなさい。疲れただろう? アル」
「うん……疲れた」
目を閉じ始めるアルに彼は笑いかけ、そして彼女をベッドに寝かせた。彼女をそっと撫で、まるで幼い少女にするように額にキスを落とすと、すぅっと寝息を立て始めるアル。
「……遠いところ、ご足労頂き有難うございます。旦那様」
エリが深々とお辞儀する。その顔を見る限り、彼女も不安だったに違いない。あの状態が3日続いたのだ。不安にならない方が無理だ。大抵は気絶して、次起きたときは普通のアルとして昼間は何ら変わった様子はなく、夜の間の記憶は彼女にはないようだった。
「いや、中々来れずにすまなかったな。…こちらも立て込んでいてな」
「…承知しております。お体にはお気をつけてくださいませ」
「お前がいてくれて助かる。…また何かあれば、連絡をしてくれ」
「はい」
そして、ルドルフは急に現れた黒い穴の中へと入って行った。あれは、私がここに来たのと同じものだろう。
「…アントワーヌ様」
すっかり見入ってしまい、私は不意に呼ばれハッとした。顔を向けると、アルのお母さんが私の方を見て、悲しそうに微笑んでいた。
「どうかあの子と、これからも親しくしてあげてください」
アルのあの様子を見て、私が離れていくと思ったのだろうか。私は思いっきり頷いた。
「もちろんです。アルーシャ様のような方とお友達になれて、私は幸せ者ですわ」
私の答えに、彼女は嬉しそうにし、そして今度こそ私は自分の部屋へと送り届けられるのだった。