自称悪魔を殴りたい
明日と希望は同義ではない。
なのに人はどうして、明日に希望を見るのか。
目の前に突如あらわれた男が尋ねてきた。
そんなの分からないよ、と咄嗟に返したら、その男はニヤニヤと笑って
「へぇ、そう」
と意地悪な声音で言った。
空中にふわふわと浮きながら胡坐をかいているんだから、まぁ、人ではないのだろう。
幽霊かと訊いたら
「悪魔だよ」
と言うので、自己申告のとおり、悪魔だという事にしておく。
「じゃあ、その悪魔さんは私に何の用なの?」
特に召喚した覚えもないんだけど。
「うん。ちょっと見かけたから遊ぼうと思って」
災難だと思って諦めて? なんて言いつつ可愛らしく小首を傾げるけど、全然可愛くない。なまじっか顔立ちが整っているのがさらに可愛くない。むしろこ憎たらしい。
「さっきの質問に見事答えられなかったら、あなたの魂を頂きまーす!」
「……はっ!?」
ちょっと待て。その唐突な宣言は何だ!?
「だーかーらー! 災難だと思って、って言ったでしょ?」
あっけらかんと答える男。あのニヤニヤ笑う顔面に拳を食らわせたい。
拳をぎゅっと握ったら、何を察知したのか男は二メートルぐらい上へ上昇してしまった。これでは手が届かない。
「さ、答えてよ。あと一分で答えなかったら魂もらうね?」
なんだこの横暴さは!
なんて考えてるヒマはない。魂とられるなんてまっぴらだ。
何かいい手は……
「明日は……明日は……」
何かいい答えは見つからないかと視線を彷徨わせる。
「ほらぁ。早く言わないと時間なくなっちゃうよぉ。あとさんじゅーびょー!」
急かすな、この意地悪野郎が! ああ、悪魔だから意地悪で正しいのか。なんて思うのも時間の無駄!!
どうしよう、どうしよう、何て答えよう?
「明日は……えーっと」
「ねぇ、まだー?」
男は牙をむき出しにして、ニヤニヤと笑っている。ああ、腹が立つ。
「はい、ごー、よん、さん……」
「明日は……むきだしだからよ!!」
「にー……えっ?」
楽しそうにカウントダウンしていた男は、びっくりしたようにぽかんと口を開けて私を見下ろした。
「え? なに? 明日はむきだし? それが答え?? ってかそれどういう意味??」
意味なんて聞かれても困る。私だって分かんないんだから!
そこにむきだしの牙があったから、とっさに口を突いちゃっただけなんだし。
「わ、分かんないの? 悪魔のクセにあなたバカなのね! やだ、バカな悪魔と喋っちゃったー! バカが伝染っっちゃう~~!」
「なっ!? 誰がバカだ、誰が! ああもう! もういいよ、興が殺がれたからボクはもう帰る!」
言うなり、男の姿が煙のように消えた。
ああ、あの自称悪魔、本当にバカだったの!? まさかあんな苦し紛れの言い訳で帰っちゃうなんて……。
とりあえず死ななくて済んだみたいだ。良かった。
ほ~~っと長いため息をついた途端、目の前わずか十センチぐらいの距離に男の顔があらわれた。
「ぎゃー!!」
慌てて飛び退いた。慌てすぎてテーブルの角に足をぶつけてめちゃくちゃ痛い。
「あのさぁ、今日は勘弁しておいてやるけど、また来るからなっ! その時はもっと真面目に答えろよ! いいな!?」
悪魔だと名乗った男は、足の痛みに悶絶する私を無視して言いたいことだけ言い、唐突に消えた。
また急に出てくるんじゃないかと思って、しばらく身構えていたんだけど、それっきり出てこない。
安堵するのと一緒に沸々と怒りが湧いてきた。
いったい何なの、あの自称悪魔。
よし、次に現れたらもっと意味不明なこと答えてやる。
そして『そんなことも分からないのか』って高笑いしてやる。
決意した私は、自称悪魔の来襲が少しだけ待ち遠しくなった。
あいつを返り討ちしようと決めたその日から、私はボクシングジムにも通い始めた。
そう、隙あらばあのにやけた顔に一発お見舞いするためだ。
毎日熱心に通っているおかげで、重さは足りないけど、かなり素早いパンチが繰り出せるようになっている。
これならやれるかも知れない!
首を洗って待ってろよ~。
胸の前でぐっと拳を握った私の背後に、忘れられない独特の気配が現れた。
「来た来た~」
私はにやける顔を抑えられず、小さくつぶやいた。
振り向きざま、不意打ちで一発いってみよう。
「せいっ!!!!!」
渾身の一撃は残念ながら、ヤツの服の裾をかすっただけだった。チッ!
「おわっ!? あっぶねー! 何すんだよ、当たったら痛いだろうが!」
「うるさい! 黙って一発殴られろー!」
「なんで!?」
「人の魂取りに来ておいて良く言うわ」
呆れて殴る気が失せた。
「だって、それが悪魔の仕事だしー」
なんてあっけらかんと言う。
やっぱ腹立つ。殴ろう。
「だから! その妙に鋭いパンチやめてってば! 何でキミ、いたいけな悪魔をいじめるの!?」
いたいけな悪魔なんているか!
こんな攻防を続けることおよそ百回。
なぜか告白まがいの宣言をされて鼻で笑い飛ばし。
二百回目くらいの攻防でようやく自称悪魔の頬にストレートを食らわせ。
三百回目くらいでヤツは私の部屋に住み着いた。
自分の城より居心地がいい。それが押しかけの理由。まったく不可解。
「おはよう! さぁ、朝イチの質問いくよ。用意はいい?」
目玉焼きを焼く私に背後から抱き付き、ヤツが言う。
ああ、もう。
火を使ってる時は危ないから抱き付くなとあれほど言ってるのに。このアツアツのフライパンでぶん殴ろうかと思った次の瞬間、目玉焼きの身を案じてやめた。食べ物は大事に。
代わりに足を思い切り踏んづけてやった。
慌てて飛びすさるのを横目で見ながら、ふんっと鼻を鳴らす。
ヤツと出会ってからもうすぐ三年になるけれど、とりあえず魂はまだとられていない。
■□■おまけ■□■
「ねぇ、私、いちおう恋人だよね? なのに、なんでまだ質問してくるの? 恋人の魂をとるなんて最低じゃない?」
ふつう恋人って大事にするもので、間違っても獲物にするもんじゃないと思うんだ!
「んー? ああ、それはね~」
ヤツは目玉焼きの黄身をおいしそうに頬張った。
ゆっくり噛んで、嚥下して、美味いと呟いてから、続きを口にした。
「悪魔ってさ、自分で手に入れた魂は自由自在に使役できるわけ。だーかーら、君の魂を手に入れたら、僕はキミをを思いのままに出来るってわけ。いいでしょー?」
「ぜんっぜん良くない!」
即座に斬り捨てると、ヤツはつまらなそうに唇を尖らせつつ、サラダのミニトマトをフォークでぐっさりと刺した。
「なんでー? キミにあーんなこととか、こーんなこととかして貰いたいんだけどな~。僕がお願いしても絶対やってくれないでしょ?」
「当然」
『あーんなこと』と『こーんなこと』が何を指すのか分からないけど、どうせ良からぬことに違いない。絶対やってやるもんか。
「だから君の魂が欲しいわけ。分かった?」
ええ。
ええ。
すごーくよく分かりましたとも。
絶対に!
こいつにだけは!
魂とられたくない!!
──ということが。