第9話 痕
マトリカリアは言葉を失い、ロレスを見据えた。
「!?」
ロレスはガラスが割れた音で我に返った。瞑っていた目を大きく見開くと、視線を彷徨わせる。
「何……? ガラス……?」
ロレスの目に最初に映った物は、地面に落ちたランタンのガラスの破片だった。溶けた蝋の匂いが鼻に付く。その横には、マトリカリアが右手を庇うように撫でながら立っていた。
「カリア!? どうしてここに……ぁ!!」
そこで、ようやく自分がしてしまった事を理解する。目を凝らすと、彼女の右手が赤くなっていた事に気付く。顔を真っ青にしたまま、慌てて腰を少し上げ、震える腕を彼女へと伸ばした。
「ご、ごめん!! カリアを傷つけるつもりなんてなかったんだ……」
しかし、彼の手は途中で止まり空気を虚しく握る。彼女の手を傷つけた事実は変わらない。その手に触れる資格なんて無い。後悔がロレスを包んだ。
俯き、唇を噛みしめると、伸ばしかけていた右手が何かに包まれる感覚を感じる。驚き顔を上げると、そこには心配そうにロレスの顔を覗き込んでいるマトリカリアが。彼女は小さな両手で優しくロレスの手を握り、彼の前にしゃがむと、顔を覗き込んだ。
「……ロレス、大丈夫……?」
「!!」
思いがけない言葉に、ロレスは口を半開きにし言葉を失う。思い切り叩かれ手を痛めても、彼女は自身よりロレスの心配をした。ロレスは目を強く閉じ、再び唇を噛んだ。
「……っ……」
「……ごめん。私のせい、だよね」
「違う!! 違うんだ!! ……俺が弱いから……」
そこでロレスはマトリカリアから目を反らし、言いにくそうに口を開いた。
「……あの……さ……。……俺、やっぱり誰かと旅をすることは出来ない…………」
「……」
「さっきみたいに、またカリアを傷つける……。……ごめん……」
「……」
静寂が二人を迎える。
マトリカリアはロレスの手を握ったまま、彼の言葉を聞くと押し黙った。優しく包み込む様に握っていた手が僅かに震えたのを、ロレスは手袋越しに感じた。
「ロレス…………」
マトリカリアは握っていた手に少し力を入れた。その僅かな力に、ロレスは思わず顔を上げ、目の前にいるマトリカリアに視線を移す。
「…………?」
彼女のエメラルドグリーンの瞳が、月明りにより更に美しく輝く。その瞳に迷いは一切見受けられなかった。思わず見とれてしまう程、美しく輝く彼女の瞳に、ロレスは目を反らす事が出来ずにいた。
「……私はロレスがいないと抗えない。抗って、抗い続けたい。……ロレスが居てくれるなら、……希望を見つけられる気がするの」
「……」
「……ロレスが何に恐怖を感じてしまうのか分からないけど……私はそんな貴方を否定しない。私を助けた、真っ直ぐ前を向くロレスも、今みたいに、何かに怯えるロレスも受け入れる。……人は完璧なんかじゃない。いつか、話してくれるまで待ってるから。……どんなに過酷な旅でも良い。…………私には君の力が必要」
「…………カリア……」
「……」
マトリカリアの言葉を聞くと、無意識に彼女の名を呼んだ。そして、小さな彼女の手から、自分の手をゆっくり引き抜くと、今度はロレスが両手で彼女の赤く腫れてしまった手を優しく包み込んだ。
「……ありがとう……カリア……それから、ごめん」
「?」
「俺、カリアの事少し誤解してた。無口だし、無表情だし、どこか冷たい人なのかなって正直思ってた」
「……」
「でも違った。君は優しい心を持ってる。……見捨てられると思ってたから……。カリアの優しさに、凄い安心した……。ありがとう」
「……」
ロレスの柔らかく優しい笑顔に、マトリカリアは少し照れくさそうに無言で顔を反らした。
「手、傷つけて本当にごめん。もう二度と、同じ事しない様にするから」
「気にしてない。これくらいなら直ぐに治る………でも……」
「……」
そう言いながら、再びマトリカリアはロレスへ顔を向ける。
「……もし、話せるのなら、理由を教えて欲しい。さっきみたいに錯乱させないように、私に出来る事があるなら教えて? ロレスの負担にならないようにするから」
「……」
「やっぱり、話すのは怖い?」
「あ、いや……。怖いとかそういうんじゃなくて……」
「……」
目線を反らし、言いにくそうに何度か口を開いては直ぐ閉じるを繰り返すロレス。幾度かそれを繰り返した後、ため息交じりに口を開いた。
「…………この先、一緒に旅を続けるんだもんな。こんな行動してたら迷惑だよな……」
「迷惑とは思わない。……この首も、さっきの行動と何か関係してるの?」
「え?」
マトリカリアはそう言いながら、ロレスの首に巻かれていた薄紫色のマフラーに手を伸ばし、マフラーを巻き直した。ロレスは取り乱した時に、マフラーを緩くしてしまっていた事に気付く。
「これ……は……」
「…………」
心配そうにロレスを見つめるマトリカリア。暫くして、ロレスは意を決したように頷き、マトリカリアを見ると口を開いた。
「話……聞いてくれる……?」
「うん」
マトリカリアは優しく頷くと、ロレスの隣に腰かける。
何度目だろうか。ロレスは己を落ち着かせる様に深呼吸をし、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「……八年前、俺は町を廃墟にさせた火災に巻き込まれたんだ。その時、一緒にいたお父さんは、身を呈して俺を逃がしてくれて……二度と帰って来なかった……」
「……!」
その言葉を聞いたマトリカリアは、目を見開き思わず息を飲んだ。
「……それって……ルマス大規模火災の事……?」
「あ、知ってた?」
「うん……知らない人はいないんじゃないかな。……凄く騒がれてたから……」
「そっか……。……あの日の事は今でも鮮明に覚えてる……。炎に包まれる町と人。鳴り響く警報の中、お父さんは瓦礫と炎に埋もれた…………。……奇跡的に生き延びた俺は、それ以来、火を恐れるようになった」
「……じゃあ、さっきのは……私がランタンを持っていたから……?」
「……うん……」
小さく頷くロレス。
「……山小屋から離れたのは……私が焚火をするって言ったから……」
「……そう、だね。……本当、情けないよな」
「そんな事ない……私……酷い事をしたんだね……」
「それは違う。俺がちゃんと話していなかったから。だから、気にしないで」
自分の軽率な行動を悔いるマトリカリアに、ロレスは首を横に振った。
「この首も同じ日に……。火災から逃げていたら、殺人鬼に首を絞め上げられて殺されそうになったんだ」
「!!」
「この殺人鬼、火が付く特殊な手袋をしてたらしくてさ。首から燃やされそうになった。その時の火傷の痕が残って、綺麗なもんじゃないからマフラーで隠す事にしたんだ」
「……」
「そんな寒くもないのにマフラーなんか巻いてて、不思議だったろ?」
「……」
苦笑いするロレスの顔は、どこか痛々しい。そして、ロレスは徐に両手を夜空へと伸ばし、悲しそうに眉を下げた。
「この両手には、あの時の火傷の痕が今でもしっかり残ってる……。お母さんは、この手はお父さんの命を救おうとした立派な手、って言うけど、俺はそんな風には思えなくて……ただ、恐怖を蘇らせる傷痕でしかないんだ」
「……」
その両手はまるで月を掴むかのように夜空を彷徨い、何も掴む事無くロレスの膝に戻ってくる。そして、両手を強く握りしめた。黒い手袋がミシミシと鳴る。その音は、まるでロレスの心を現している様に、悔しさと切なさを感じさせる様な音だった。
「この手袋がないと、あの日の恐怖が蘇って手が震える。八年経っても火への恐怖は消えなくて……一瞬でも火を見たものなら……さっきみたいに我を忘れて…………」
「……」
そこで言葉を詰まらせ、再び深く息を吸い込んだ。ゆっくりと息を吐くと、静かに俯き唇を噛みしめる。
「……こんな事になるなんて、思ってもみなかった……。自分が信じられないよ……。……火を克服することも、過去の自分と決別することも出来ない……弱い人間なんだ」
「……私に生きろと強く言ったのは、その過去があったから……」
「……ああ」
「…………」
マトリカリアは眉を下げると、どこか悲しそうにロレスを見据える。彼は再度、空を見上げると話を続けた。
「こんな俺だけど、本当はもっと早くに旅をしたかったんだ。でも、お母さんとの約束があってさ」
「約束?」
「うん。七つ離れた妹がいるんだ。妹……、モナが10歳になるまで、村にいる事。それが約束だった。俺は妹から大好だったお父さんを奪い、寂しい思いをさせた。お母さんに、せめて10歳になるまでは家族の時間を共に過ごしてほしいって言われて。どうしようもない俺に出来ることはそれくらいしかないから。モナの誕生日を迎えて約一ヶ月。今日やっと旅立ちをした」
「え、今日?」
「ああ。今日、旅を始めたばかりなんだよ。まさか、カリアと出会うなんて思ってなかったけど」
「……」
ロレスはそこまで話すと、目線をマトリカリアへと移した。
「俺はさ、さっきも言ったと思うけど、誰かが死ぬのを見たくないんだ。命は何にも代える事なんて出来ない。そして、残された人達の思いって、とても深い悲しみしかないんだ。カリアにもいるはずだろ。悲しんでくれる人が」
「……いない、そんな人」
「じゃあ、俺がなるよ」
「……え?」
ロレスの迷いのない言葉に耳を疑い、エメラルドグリーンの大きな瞳で彼を見据えた。
「カリアは生きなきゃいけない。もし、カリアが死ぬなんて事があったら、俺が悲しむ。カリアは、俺の旅の仲間だ」
「なか……ま」
「そう、仲間。これで少しは生きる意味出来ただろ? 俺を悲しませない為に生きるって」
「……ロレスを……」
優しい笑顔を向けられたマトリカリアは、口元が少し緩んだのを感じた。気付かれない様にと、慌ててロレスから目を反らし俯く。
心のどこかで、今まで感じた事の無い何かがゆっくりと動いた気がした。
「……」
そう、先ほども似たような感情を感じた気がする。
(……名前を呼ばれた時だ……。……私、嬉しかったんだ……)
「……」
「ごめんな、こんな暗い話して」
「……ううん。聞けて良かった」
ロレスの言葉に首を横に振ると、優しく微笑んだ。彼女の反応を見て、心底安心したようにロレスは肩の力を抜く。そして、マトリカリアに笑顔を向けた。
「喋れるんじゃん。しっかりとした意志を持って」
「え?」
「話すの苦手?」
「……うん」
俯き気味にマトリカリアは静かに頷く。
「そっか。まぁ、ゆっくり時間をかけて慣れていけば良いよ。俺も、頑張るから」
「……うん……!」
優しい笑顔を向けるロレスに、マトリカリアは驚きつつも微笑み頷いた。ロレスはその場でゆっくりと立ち上がると、隣に座っていたマトリカリアへと手を差し伸べる。
「じゃあ、猛獣とか出る前にそろそろ戻ろうか。さっきの山小屋に」
「猛獣? この山にそんなのはいない。そもそも、ここに人は来ない」
差し伸べられた手に触れようとしたマトリカリアは、ロレスの言葉に動きを止めた。
「え!? そういや、そんな事言ってたな。冗談かと思ってた」
「猛獣は出ないけど、足場が凄く悪いから、基本的にはここを通る人はいない」
そう言いながら、マトリカリアはロレスの手を握り立ち上がる。淡い赤系の長い髪がフワリと動く。
「じゃあ、皆どうやってこの山を越えてるんだよ?」
「迂回。この山に足を踏み入れる人はいない」
「迂回って、……そんな……じゃあ、何でカリアはこの山にいたんだ?」
「……昔から、一人になりたい時はここに来ていた。誰もいないから」
「……」
「ロレスは運が良かったみたいだね。生きてる」
「……」
「私も、ロレスに出会えたから……生きてる」
「…………カリア……」
マトリカリアはロレスを見上げると、優しく微笑んだ。月明りのせいもあるのか。その顔は、ロレスに向けた笑顔の中で、一番暖かく輝き、優しい笑顔だった。
彼女の口から生きるという言葉を聞いたロレスは、心底安心したように彼女の名を呼び、同じ様に微笑んだ。
夜空の下に佇む二人の髪が、星々の光に当てられ、まるで宝石の様に柔らかく輝いた。




