第15.5話:断章 ── 恒一たちの聖域
完璧な勝利も、華々しい称賛もここにはない。 あるのは「国家」という制度の檻の外で、自らの持ち場を守り抜こうとする民間人たちの静かな矜持だ。 救えなかった悔恨を地層のように積み上げながら、彼らは「数秒」の時間を稼ぎ出すために指を伸ばす。 本作は、無力感に打ちひしがれながらも、明日への意思を繋ぐ「深根会」の精神的な深淵を描く。 名もなき一般人(恒一)たちが織りなす、不完全で、ゆえに美しい抵抗の記録である。
夜更けのリビング。
不動明は、照明を落とした部屋で一人、バカラのグラスに注いだ水を見つめていた。氷さえ入れない、常温の水。その無機質な表面に、天井のダウンライトが細い糸のように映り込み、不動の微かな呼吸に合わせて震えている。
彼の共感覚は、その揺らぎを「白に近い、痩せた灰色」として捉えていた。
警戒を解いた後の、泥のような静寂。安心というにはあまりに重く、絶望というにはあまりに淡い。 それは、一人のビジネスパーソンとして、そして深根会の「根」として、今日という一日を使い果たした者だけが辿り着く、疲労の色だった。
今日も、守れなかった案件がひとつある。
北海道の原野、わずか数ヘクタールの土地。登記上の不備を突き、着工を遅らせるはずだったが、相手側の法務が動くスピードが想定を上回った。物流の「枝」である玲奈が目詰まりを指摘し、行政書士の鴻上が是正を試みたが、半日の遅れが致命傷となった。
結果、表向きは「合法的に」、しかし確実に、この国の静脈の一部が他者の手に渡った。
不動は、重い瞼を閉じる。 ――万能じゃない。最初から、分かっていたことだ。
深根会は、国家ではない。予算も、強制力も、守ってくれるはずの組織防衛機能も存在しない。あるのは、個々人が職場で磨き上げた判断力と、孤独な良心、そして睡眠時間を削って捻出した僅かな時間だけだ。
それでも。それでもこの「非効率な連鎖」が続いている理由を、彼は身体の奥底で知っている。
◆ 公務員が選ばれない理由 ── 制度の檻、民間の翼
深根会の成り立ちを回想する時、不動の脳裏にはいつも、高専時代の恩師の枯れた声が蘇る。
「不動、国家の中にいる人間は、国家を疑えないんだよ」
それは、公務員や政治家を軽蔑する言葉ではなかった。むしろ、彼らが背負う「制度」という名の巨大な宿命への同情だった。 公務員は、制度そのものだ。彼らがその内側にいる限り、制度が内部から腐食し、壊れかけていることを“仕事として”疑うことは許されない。 疑えば、それは組織への叛逆になる。独断で動けば、それは越権行為として排除される。
「だからこそ、我々民間人が必要なんだ」
深根会には、国家に雇われていないという「自由」がある。 誰からの命令も受けない。守る対象は、組織図の頂点に座る「上司」でも、数字上の「国益」でもない。 ただ、自分が愛し、現にそこで営まれている「生活」そのものだ。
誰にも強制されないからこそ、その行動は「自発的な祈り」になる。民間人であることは、誇りなどではなく、泥を啜りながら歩き続けるための、過酷な制約だった。
◆ 完璧でないからこそ、失敗を刻む
深根会の歴史は、華々しい勝利の記録ではない。むしろ、救えなかったものたちの断片的な記憶の集積だ。
土地を守れなかった夜。通信網の一部を静かに奪われた朝。制度改正が間に合わなかった国会会期。 そんな時、ROOT-LINE(高専同窓会グループ)には会議も招集されず、ただ短い報告が流れる。
「未完遂」
それだけだ。誰かが怒鳴ることも、責任を追及されることもない。 その代わり、その夜、メンバーたちはそれぞれの場所で、鏡に映る自分と対峙することになる。
(自分が、もう少し早ければ) (自分の判断が、あの時甘かった) (自分には、ここまでしか届かなかった)
深根会のメンバーは、いつの時代も、同じ場所でつまずく。「自分は国家ではない」という、圧倒的で冷酷な無力感の前に。
◆ 継承される「不完全な誇り」
かつて、優秀な若手が一人、静かに去ったことがある。 数字も、現場の勘も、判断の速さも一級品だった。だが、彼は耐えられなかった。 結果が目に見えないこと。勝敗が誰にも審判されないこと。そして何より、誰からも感謝されないこと。
不動は、彼を引き止めなかった。 深根会は、誘わず、追わず、辞める自由だけは神聖なものとして扱う。 彼が去った数年後、別の若手が全く同じ理由で苦悩を吐露した。さらにその数年後も、時代が、技術がどれほど進歩しようとも、悩みは驚くほどに同じだった。
それが、不動には唯一の救いだった。 悩みは変わらない。人間という生き物の、どうしようもない弱さと誠実さは変わらない。 だからこそ、深根会という「意思の循環」も、形を変えながら続いていくのだ。
◆ 存続の理由 ── 稼ぎ出された「数秒」の価値
不動は、グラスの水を一口飲んだ。体温に近い、ぬるい現実が喉を通り抜ける。
深根会は、世界を救わない。この国を完璧なユートピアにすることもできない。 だが、彼らが職務権限の余白を使い、全力で指を伸ばした痕跡は、必ずこの国の地層に残る。
完全に奪われるはずだったものが、半分だけ残る。 一週間で崩壊するはずだった制度が、数年の時間を稼ぐ。 その「稼ぎ出した時間」の中で、次の世代が考え、備え、新しい手を打つ。
それでいい。それしか、できない。 英雄はいらない。全知全能の神もいらない。 必要なのは、今日もまた、自分の限界と不全感に打ちひしがれながら、それでもなお「自分の持ち場」で手を伸ばし続ける、一人の恒一(一般人)だ。
不動は、枕元のスマホを手に取る。 画面に浮かび上がるROOT-LINEの通知。
「次の案件、共有可能」
送信者は、今日、敗北の苦渋をともに舐めたはずの鴻上だった。 不動は、小さく笑った。
完璧じゃない。負けることもある。だから、続くのだ。 深根会は、今日もまた、国家になれなかった、しかし国家を見捨てなかった人間たちの手で、静かに、そしてしなやかに動き続けていた。
深根会の物語は、英雄譚ではなく「諦めなかった敗北者たち」の系譜である。 制度に縛られず、個人の良心と職能だけを武器に戦うことの孤独と、その崇高さを描き切った。 誰にも知られず、感謝もされない。それでも続くのは、それが「自発的な祈り」だからに他ならない。 読者の皆様の日常の中にも、きっと誰かが繋ぎ止めた「数秒」の恩恵が潜んでいるはずだ。 国家になれなかった彼らのしなやかな強さが、あなたの明日を照らす一助となることを願って。




