第11話:流出の避雷針 ── 矢野の報告
都市の崩壊は、爆音と共に訪れるのではない。 一級の現場リーダー20名が、音もなく日常の職場から「引き抜かれる」ことから始まる。 リクルーターとして人の決断を見守ってきた矢野は、リストに並ぶ名前に都市の死相を読み取った。 家族の日常と国家の危機、その天秤の前で揺れる40代女性の等身大の葛藤。 静かなオフィスから放たれる、一通の緊急報告が街の命脈を繋ぎ止める。
朝の光が柔らかく差し込むオフィス。
窓越しには、まだ冬の気配を帯びた街路樹が並び、通勤する人々の足音や自転車のベルが遠くから響く。矢野はデスクに座り、黒いコーヒーカップを両手で包み込むように握った。熱がじんわりと指先まで伝わる感覚に、少しだけ安心を覚えた。
リクルーターとして長年、人のキャリアと決断を見つめてきた。採用・面談・転職――選択の重さと、人生のささやかな後悔を目の当たりにしてきたからこそ、今朝感じるこの沈黙の意味も、直感で理解できた。
矢野の視線は、手元の資料に向かう。外資が動かしているのは、単なる技術ではない。その技術を「運用できる現場リーダー」を一斉に引き抜く計画だ。20人──それは街全体の物流と電力の維持に不可欠な人数。もし明日、彼らが同時に辞表を出せば、都市の脈は静かに止まる。
彼女は胸の奥で、小さな不安を感じた。
「本当に、こんなことを私が伝えるべきなのだろうか…」
矢野は自分に問いかけながら、カレンダーに目を落とす。週末に予定していた友人とのランチ、子どもの学習塾の送迎、家族との時間──日常の小さな責任が頭をよぎる。しかし、目の前の情報は、単なる仕事のタスクではない。人々の生活を守るための選択だ。
資料を手で撫でながら、矢野は思い出す。かつて自分が転職を迷った夜、ベッドで天井を見つめながら涙をこぼした夜。あのときの無力感。決断の重み。あの感覚が、今、自分の胸に蘇る。
深呼吸をひとつ。
指先で資料を整え、スマホの画面を覗く。深根会からの通知が届いている。彼女の心臓はわずかに高鳴る。誰かが、同じ危機を認識している。孤独ではないという小さな安心が、静かな力に変わる。
オフィスの空気は、外の街のざわめきと対照的に静かだ。パソコンのファンの低い音、キーボードを叩く軽いタッチ、向かいの同僚の咳払い。日常の音が、矢野の感覚をより鮮明にする。都市の危機は、派手な警報ではなく、この静かな音の中に潜むのだ。
矢野は椅子の背もたれに体を預け、頭の中でシミュレーションを始める。
「もしこの情報が間違っていたら…」「もし私が早く動かなければ…」
キャリアの中で、数えきれないほど判断の岐路に立った。上司の期待と部下の成長、自分のプライベートと生活のバランス。誰も責任を押し付けられない状況で、結局、決断は自分に帰ってくる。
矢野は資料を指でなぞりながら、過去の経験が無意識に彼女を導くのを感じた。長年の観察力と、人間の心理に対する洞察力。それらが、ただの数字や名前の羅列ではなく、街全体の命脈に関わる「危機」を透かし見る力となる。
やがて、彼女は深く息を吸い込み、スマホの画面に向かって指を置く。通話ボタンを押す手はわずかに震えたが、迷いはなかった。
「深根会、本部ですか。…はい、緊急報告です」
声は静かだが確信に満ちていた。
外資の狙い、現場リーダーの引き抜き計画、影響の範囲、起こりうる最悪のシナリオ――矢野はひとつひとつ、言葉を選びながら伝える。冷静に、理性的に。しかし、同時に胸の奥で微細な警鐘が鳴り続ける。日常の些細な揺れが、心の底から危機を知らせていた。
通話を切ったあと、矢野は椅子に深く腰を下ろす。息を吐き、窓の外の街並みを見つめる。通勤する人々は、まだスマホに夢中で、冬の光を浴びながら歩いている。誰も、この瞬間に都市の未来を左右する決断が、静かに始まったことに気づかない。
矢野はカップのコーヒーをひと口飲む。苦味が舌先に残り、日常の現実に引き戻される。しかし、同時にその苦味は、責任を背負う者の覚悟と静かな充実感をもたらす。
心の中で小さな笑みが浮かぶ。
「やれることは、やった」
それだけで、今日の一歩は十分だった。
そして、都市の見えない脈を守るために、彼女は再び机の前で資料を整え、次の行動を思案する。街の安全を守るのは、誰かのヒーローではない。日常を生きる人々の目に触れない努力と、静かに揺れる心の感覚。それが、深根会の本質だった。
午後になり、オフィスに柔らかい陽が差し込む。紙の匂い、キーボードの微かな音、向かいの同僚の微笑み。すべてが、街の命脈を守る日常の一部として、矢野の胸に刻まれる。
彼女は心の中で、静かに決意した。
「誰も気づかなくても、私はこの街の小さな避雷針でいよう」
窓の外では、人々の足音と風が交錯し、街は今日も生きている。
矢野の微かな胸の脈動は、その都市の鼓動と同期していた。静かだが確かに、守るべき未来に繋がる脈動だった。
ヒーローではない、日常を生きる一人の女性が「避雷針」となる道を選んだ。 キャリアの中で培った洞察力こそが、外資の巧妙な略奪を暴く唯一の鍵となる。 自分の選択が正しいのかという不安を抱えながらも、彼女はコーヒーの苦みと共に覚悟を飲み込んだ。 誰も気づかない場所で守られた平和こそが、深根会が目指す究極の勝利である。 静まり返ったデスクで整えられた資料には、名もなき守護者たちの矜持が宿っている。




