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『八咫の楔(やたのくさび)』ーー風に揺れる  作者: fudo_akira


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第10話:静かな脈動 ── 久保田と梶原の感知

日常の綻びは、常に数字の端数と配線の隙間から始まる。 物流のPOSデータに潜む微細な欠落と、変電所の壁を這う身に覚えのないコード。 それは、感情を持たない外資の論理が、この国の「呼吸」を止めようとしている予兆だった。 現場で戦う名もなきプロフェッショナルたちが、理知的な違和感を武器に巨大な影へと立ち向かう。 沈黙する街の体温を、守り抜こうとする者たちの静かな反逆の物語である。

港湾の倉庫街は、冬の早朝でも湿った空気に満ちていた。青灰色の空が低く垂れ込め、冷たさを帯びた潮風がコンテナの間を通り抜ける。久保田はジャケットの襟を立てながら歩き、手首につけた小さな生活脈拍計の表示をちらりと確認した。いつもは静かな数字が、今朝に限って微かに脈打ち、微妙に上下しているのがわかる。


「おかしい…」


久保田は呟き、倉庫の自動ドアを押し開けた。内部は規律正しく整列された棚と、淡い蛍光灯の光に満たされていた。物流企画の仕事も、かれこれ15年になる。POSデータの解析も日常業務の一部で、各倉庫の在庫状況や入出庫の動きは、数字として淡々と目に入ってくる。しかし、今日のデータは違った。


棚に並ぶ保存食の数も無線機の個数も、平常時の変動幅を超えて静かに減少している。しかもそれは、個人購買に見せかけたような微細な操作で、数字だけを追っていると見過ごしてしまう程度の変化だ。


久保田は頭を抱えながら、机に置かれた端末の画面をじっと見つめる。画面の明かりに照らされた自分の顔は疲れていて、目の下にうっすらと影が落ちていた。家族のこと、週末の買い物、子どもの塾代のやりくり……日常の細々とした責任が頭をよぎる。そんな中で、データの異変が静かに不安を呼び覚ます。


「不動さん、特定エリアで保存食と小型無線機の在庫が、個人の購買を装って間引かれている。街の体温が下がっているよ」


声に出すと、なぜか少しほっとした。誰かに言葉にすることで、自分の直感が確認されたような気がしたのだ。久保田の感覚は、長年の経験と生活の中で磨かれていた。数字の異常だけではない。倉庫に漂う空気、冷蔵棚の機械音、社員たちの何気ない動き――それらが無意識に「沈黙」を奏でていた。


一方、港湾地区の少し離れた変電所では、梶原が手袋をはめ直して光回線の配線を確認していた。外注技術者として働く彼にとって、現場での細かい変化は日常の中の一部だ。だが、今朝の配線には違和感があった。仕様書にはないコードの分岐が、冷たいコンクリートの壁に沿って不自然に走っている。


「誰にも言われてない…でも、この這わせ方は…」


梶原は自分の胸の奥で、薄い苛立ちと背筋に冷たい感覚を覚えた。小さな身体反応だ。心拍がわずかに早まり、指先がかすかに震える。彼は瞬時に理解した。これはただの手違いではない。意図的だ。誰かが、この国の呼吸を止めようとしている。


梶原の頭の中で過去の経験が無意識に呼応する。前職で遭遇した、些細な手順の違反が引き起こした大規模停電の記憶。現場では見えない危険が、ほんの少しの異変から始まることを知っている。だからこそ、彼の身体は反応しているのだ。


倉庫の久保田と変電所の梶原は、距離にして数百メートルしか離れていない。しかし彼らの感じ取る世界は、数字と配線という記号の向こう側で、見えない脈動として重なっていた。互いの目には映らないが、共通する「沈黙」と「不穏な温度」が流れている。


久保田は窓越しに外の倉庫を見つめ、息を吐いた。倉庫の外で、通勤する人々の足音や、遠くで貨物船の汽笛がかすかに響いている。日常の一部に埋もれた危機。それはまるで、街全体が無意識に身を縮めているような感覚だった。


彼女は心の中で、自問する。

「私、どうすればいいんだろう…?」


迷いはあった。上司に報告すべきか、黙って数字を監視し続けるべきか。長年、彼女は判断力を磨いてきた。キャリアの中で、無数の選択と折衝を経験してきた。だが、この感覚は、単なる数字では解決できない。目に見えない世界に手を伸ばすしかないのだ。


そのとき、スマホの小さな振動が手元に届く。深根会の通知――不動の存在を知らせる連絡だった。久保田の胸の奥で、小さな安心が生まれる。誰かが、同じ静かな違和感を共有している。


同時に梶原も、配線の先端を目で追いながら、頭の中で整理を始めた。彼の目には、制度や手順の隙間に潜む脅威が明確に浮かぶ。理性的に分析し、次の動きを決める準備を整える。その瞬間、彼は不思議な静けさを感じる。危機を察知した直後の、冷静で知的な安堵。


「間違いなく、これは…止める必要がある」


久保田と梶原、二人の異なる現場の感覚が、まだ見ぬ“根”に向かって交差する。その交点は、街のどこかで微かに揺れる人々の生活、運ばれる物資、点灯する灯り――日常の隅々まで影響を及ぼす危機の始まりだった。


倉庫の静けさの中で、久保田は椅子に腰を下ろす。指先でマウスを軽く弾き、POSデータの変動をもう一度確認する。データの微かな波紋が、胸の中で色として見える――青の濁り、灰色の陰影。心の中に、理性と感覚が同時に響く。


梶原も、変電所の冷たい空気を吸い込み、指先で光回線をなぞりながら深く息をつく。彼の目には、理論と経験の積み重ねが“形”として現れる。危機を感知する自分の感覚に、ほんの少し誇りを覚える。


二人とも、まだ具体的な答えは出せない。だが、同じ街の異なる場所で、生活の血流のような微細な揺れを読み取った。

それだけで、十分だった。守るべきものが何か、はっきりと見えた瞬間だった。


窓の外では、朝の光が薄く差し込む。通勤する人々は、何も知らずに歩き、港湾の機械は淡々と動く。誰もが日常に潜む小さな脈動を感じることなく、今日も街は息をしている。


久保田は小さく息を吐き、梶原も軽く肩の力を抜く。危機はまだ形を持たないが、この街を守るための最初の静かな一歩は、すでに踏み出されていた。

記号化された世界において、最後に頼れるのは人間の「臨床的直観」に他ならない。 久保田と梶原、交わることのない二人が同じ「不穏」を共有した瞬間、物語の楔は打ち込まれた。 危機は劇的な悲劇としてではなく、ありふれた日常の一部として忍び寄るからこそ、恐ろしい。 守るべきものは大層な理念ではなく、朝の光の中を歩く人々の、何の変哲もない日常である。 この静かな脈動の先に何が待ち受けるのか、その根源を求めて彼らの歩みは続いていく。

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