標本
学校への足取りを軽やかに、自分の表情など意識せず。
「おい、兄貴!俺の評価を下げるような、ゆるんだ顔をするなよ。」
あきれたように、ため息まじりで。
成哉が言葉を吐き出した。
「え、ゆるんでる?へへっ。自分の表情なんか、分かるかよ。成哉、俺……くふふっ。」
嬉しさが込み上げ、幸せの絶頂。
「けっ。悠長なもんだぜ。ふう……あのさ、星から連絡があった。」
成哉は、いつもと違った表情。
困惑と、悲しみの伴ったような複雑な。それは、相手との関係を表していた。
それも気になるが、星からの連絡?
「向こうから連絡が?俺達の報告を、待っていたんじゃないのか?」
嫌な予感がする。
「帰還命令が出た。」
この星から帰る?ここでの生活が終わる?朱莉沙との生活は。
俺の不安が、一気に思考を覆う。
「兄貴。俺達の観察対象は、帰還に同行しても良いと許可が出た。相手の承諾さえ、あれば。」
相手の承諾?
朱莉沙が、俺と共にこの星を出ることを望んでくれれば。
愛情は、育ち始めたばかり。
「俺の恋人は、俺の愛情を疑う。キスを拒み、触れる事さえ嫌う。俺は、この星から逃げるんだろうか?星からは、一定期間の猶予を与えられた。兄貴は、話し合えばいい。」
成哉は言いたい事だけを告げ、移動装置を発動させた。
俺が経験したように、成哉も……
星の違い。
想いは複雑で、すれ違い。近くにいるのに、距離は縮まらない。
星が違う。環境も。この星で、やっと近づけた想い。
呆気なく崩れる。朱莉沙は、俺を選んでくれないかもしれない。
きっと選ばない。この生まれた星に、二度と戻れないだろう。
成哉の反応から、君の妹はこの星に留まるのだろう。
父親である教授も、この地球にいる。
君の望んだ未来は、この星でのこと。夢や将来の目標。
通った想い。得た温もりや愛情。すべてを失って、俺だけが星に帰る?
元の生活に戻ることなど、出来ない。
得てしまったものの大きさに、喪失感はどれほど俺を苦しめるだろうか?
朱莉沙……俺達の時間は、何だった?注いだ愛情は消えるの?
君から得た愛情は。俺は観察対象を捨てる?手放せる?
無理だ。
成哉と同じように、移動の装置を作動する。
きっと同じ使用法目的、観察対象のそばに行くため。
朱莉沙のいる大学。講義を受けている様子の見える木の上。
じっと観察する。俺に向ける視線とは違う、真剣な表情。
今、彼女の思考を占めるのは俺じゃない。
俺の中は、こんなに君だけで占められているのに。
木や草の匂い。風を感じ、見つめるのは部屋の中。
君は、俺の感じる物を共感しない場所にいる。
違うんだ。観察対象じゃ、満足なんて出来ない。
君は俺に尋ねた。観察対象なのかと。
同じ場所や、共感する同じ立場を意識したのは君の方だった。
涙が零れる。悲しさと、寂しさと情けなさ。
違いを味わい。孤独……
教授の与えた愛の巣に移動した。
共に住んで、同じ物を共感するスペース。
恵まれた環境を与えられた。それも覆る。
「朱莉沙、もう遅いのかな?」
自分の小さな声が、独りの部屋には響くようで。
いつもより広く感じる。
教授の準備した分厚い取説を手に、開いて読んでいく。
すべて目を通した。
理解したと思っていた文字の並び。
自分の学んだ感情が、視点を変化させる。
新たな理解。
君は、俺の花嫁。観察対象だった。
解放してあげる。
君は選んでくれた。
俺の語った知識に対する好奇心が、ほんの少しの愛情を育てたのなら。
それを壊すのも簡単だろう。
君も、俺を観察していたんだ。
俺への関心が薄れる様に、愛情も消えるだろう。
きっと、俺の中の愛情も。
育った愛情は、枯れて消える。
取説には、絶対にしてはいけない禁止事項も記載されている。
それをすれば、嫌われる。愛情は育たない。
育った愛情は、すべて消える。
朱莉沙の中で、俺への愛情が嫌悪に変わるだろう。
傷つけて、君の中に俺は最低な奴として記憶に残る。
それも、いつか忘れ。共有する幸せを永続させる相手を見つけるだろう。
今日で最後になる愛の巣。
玄関で靴を脱ぐのも慣れ、共有した部屋も生活の香りが染み込んでいるのがわかる。
リビングや台所。ほんの数日で、ここには二人の生活の思い出が詰まっていた。
朱莉沙の部屋と、俺の部屋。
教授は、最初から俺達を夫婦として扱わなかった。
俺の花嫁だと、与えたのに。
それは観察対象……
暗くした自分の部屋で、いつの間にか寝ていた。
「調子悪いの?いつも帰る時間より早いのに、孝彬の靴があるから。」
優しい声で、何の警戒心もなく朱莉沙は俺に近づいた。
その手を、強引に引き寄せてベッドに導く。
「きゃっ……何、急に。孝彬?」
薄暗い部屋。ベッドに転がった朱莉沙を覆い、抱きしめる。
少しの抵抗でも、本気じゃない。
それが嬉しくて。心をえぐるような痛みが後追いで。
自分の行動を、止めようとする感情が苦しめる。
けれどそれしか、選択肢が無いのだと急かされた矛盾する想い。
すべてを奪うように、君に触れれば……
「朱莉沙、無理にでも抱きたい。どうせ、俺のものにならないなら奪うしかない。恨んでも良い。」
手は、触れたいと願った柔らかい部分に。
遠慮も戸惑いもなく触れる。
優しさも、味わうことも無視して必死で求めた。
きっと、朱莉沙の愛情を覆すに違いない。
なのに強引な俺の欲望のまま触れる手に、君の抵抗はなかった。
震えも、泣き崩れることもなく。
静かな時間。
どこか冷静な心は、逃げていたものに気づく。
乱れた服。触れた身体が、俺の加えた力を受け入れたように柔らかさを露わにする。
白く、細い腕は上方に。手は布団を掴んで、握り締めていた。
視線を向けた俺に、涙を浮かべているのに笑顔。
【きゅんっ】
愛しい。望まなかった。自分から、捨てようとした愛情。
乱暴で、自己防衛の俺の行動に。示されたのは愛。
「ふふっ……やっと目が合った。恥ずかしい。初めてに、どうしていいのか分からない。孝彬。私は、あなたの求めに応えられているかな?」
自分の注いできた愛情。
その欠如を判断したのは自分。
キスは、愛情を増やす?
嘘だ、違う。愛情を育てたのは、キスじゃない。
「朱莉沙、キスをしてもいい?」
「ん。愛情を頂戴。私も、愛情を返すから。受けて、離さないで。私は、あなたの花嫁。」
「頂戴。離さない。すべてを奪う。君から。俺のものだ。俺の標本。閉じ込めて、俺だけの世界に連れて行く。着いて来てくれる?」
朱莉沙の両手が、俺の頬を撫でる。
俺は顔を近づけ、優しくキスを落とした。
甘い。愛しさに包まれ。
俺は手に入れた。花嫁の標本。
君は、俺のキスで愛情を増やす?
俺は、君へのキスで愛情を増やすよ。
君を観察し、君に触れ。想いを重ねて、積み上げ。
これからも君は、俺の花嫁の標本。
「地球人は愛情を、キスで増やすと聞いた。俺のキスで落ちればいい。俺の花嫁。研究対象の標本。俺の子を産んで?」
取説:『強引に、身体に触れてはいけません。奪われると感じたら、愛情は拒絶します。しかし、時には強引に行かないと手に入りませんよ♪愛情は、受け取る側の感情も関係しますからね。二人の培った愛情を信じれば、道は開かれるのかも?それは取説に書けない未知数。二人の幸せを、ただ願い』
END




